準備は大切だが計画には入れない方が良い
失敗した研究授業をたくさん見てきた。失敗した模擬授業をたくさん見てきた。失敗した講演・講座をたくさん見てきた。
他人事ではない。失敗した研究授業をたくさんやってきた。失敗した模擬授業もたくさんやってきた。失敗した講演・講座もたくさんやってきた。
共通点は「詰め込みすぎ」に尽きる。
言い換えるなら、準備が万端に過ぎるのだ。
例えば研究授業。教材研究も指導法研究もせずに本番に臨み、時間が来れば終わるさとばかりに失敗もやむなしと取り組むのは論外にしても、猛烈に教材研究をし、練りに練った指導案を立てながらも大失敗に陥る人がいる。これだけ教材研究をして一生懸命に取り組んだのだから必ず後に生きるよと慰める先輩教師もいる。おそらくどちらも、授業とか、教育とか、教材研究とかの意味を取り違えはき違えている。
こうした場合の失敗の要因は、教師の教材研究の結果として到達した地点を、そのまま授業の到達点にしようとしたことにある。教材研究とは確かに深い教材解釈に到達することにその要諦がある。しかし、その到達点がそのまま授業の到達点、つまりは子どもたちの到達点として良いわけではない。経験則でいえば、教師が教材研究の成果として到達した地点の六掛けくらいのポイントが授業の到達点とするのがよい。
深い教材研究とは、その六掛け地点を越えるような論理性や感受性をもつごく一部の子どもたちが、授業の中で雑音と化したときに、或いは予想外の大活躍をして他を巻き込むような展開を示したときに、二の矢、三の矢としてもたなければならない、いわば「次善の策」を準備することに過ぎないのである。教師が苦肉の末に到達した地点に子どもたちをも到達させようなどと考えるのは、あまりにも授業の本質からも教育の本質からもかけ離れた夢物語である。
それは確かに正論を伴った理想論ではあるが、神話の域を出ない、あくまでフィクションとしての教育である。先輩教師も「必ず後に生きるよ」と慰めているようではダメで、彼に必要なのは、授業者がいかにも陥りそうなこの構造を事前に把握しておいて、六掛け構造を教えてあげることなのである。
教材研究は大切である。深ければ深いほどよい。しかし授業は六掛けを到達点とする。あとの四割は次善の策としてため込んでおく。決して指導案上には明記しない。これが「準備は大切だが計画には入れない方が良い」ということの意味である。もちろん模擬授業にも同様のことがいえる。
同じことが講演・講座でもいえる。情報量の多すぎる講演・講座は聴衆がついてこられない。聞き手の情報処理能力を超えた講演・講座はやる意味がない。その講演・講座がゼロとなるばかりか、ときにはマイナスにさえなる。私はこの構造になかなか気がつかなかった。人前に立つ経験を重ねて十年が過ぎた頃、やっと気がついたというほどのていたらくである。研究会の参加者は実力があるから参加するのではない。実力がないという自覚をもち、困っているという現状を打開するために参加するのである。
講演・講座は三掛けが良い。三掛けを確実に保障するためのエピソードをたくさんそろえておくのが良い。あとの七割は質問されたら応えるくらいのスタンスでいい。エピソードなら時間が足りなくなればカットすればいい。時間が余れば質問コーナーをもてばいい。これが一番うまくいく。準備しすぎる講演・講座が失敗する所以である。
何事も準備は大切だが計画には入れない方が良い。
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