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2010年6月

真駒内

土曜日にブラッシュアップセミナーで函館往復、日曜日に札幌ドームで日ハムvsロッテを観戦。疲れの残ったまま突入した今週も3日目。まずは1学期の成績を出し、学校祭の職員会議用プリントを作成し、更に開校40周年事業関係の提案準備も完了した。この間、揉め事の多かった職員会議の司会をしたり、ちょっとした生徒指導があったり、日本vsパラグアイで寝不足になったり、それなりに疲れを増幅させる出来事も続いた。おまけに月・火と気温は30度超、今日はやけに湿度の高い一日と、体力を消耗する条件までそろう。こうして書いてみると、なんともすさまじい月末を過ごしているものだと感心する。

そんな最近の動向なのだが、日曜日にちょっとショックな出来事があった。

札幌ドームから帰宅したあと、犬を連れてかつて小中学校時代を過ごした真駒内に赴いた。犬の散歩に真駒内中央公園(エドウィン・ダン記念公園)まで足を伸ばしたのである。本音を言えば、犬の散歩にかこつけてかつてのノスタルジーに浸りに行ったのである。

ところが、ぼくが小学校時代を過ごした真駒内南町の道職員公宅が壊されていた。いつ壊されたのか、既にさらちになっている。しかも分譲地として売り出されているではないか。一瞬、自分も買おうかと思ったほどである。この地にはそれほどに思い入れがある。

おそらくこの日、ぼくが真駒内にいたのはほんの30分ほどである。

思えば、ぼくがこの地を去ってから、30年以上がたつ。時間というものは不思議なものであり、哀しいものである。それを実感した30分だった。

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第4回国語科授業塾/大谷和明編

Img_2413 国語科授業塾も第4回目を迎え、今回は大谷和明先生である。「ごんぎつね」の模擬授業、ストップモーション授業検討、昼食をはさんでライフヒストリー・アプローチ、更には振り返りのファシリテーョンという一日。

「ごんぎつね」の模擬授業は最終場面への伏線を追っていく授業。教材本文の表現に即すのはもちろん、科学的な根拠に基づいた読み取りを促した。ストップモーション授業検討では、学習者の経験と読み取りとの相関、科学的根拠の打ち出しと読みのリアリティとの相関等が話題となる。ライフヒストリー・アプローチでは「法則化運動」への参加や野口芳宏先生との出会いが現在の実践にどのように影響を与えているかについてみっちりと検討。ファシリテーションでは参加者が4人グループになって授業づくりに必要な要素を検討し発表した。

1ヶ月振りの研究会。有意義な一日。

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第12回国語科授業改革セミナーin札幌

第12回国語科授業改革セミナーin札幌
本当に国語の授業がうまくなりたい人へ
新学習指導要領に基づいた学習活動のつくり方・国語科授業塾
~活用力を高める国語科授業編~

私たちは毎日授業をしています。うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあれます。しかし、それは印象として曖昧に評価しているだけで、実は子供たちに力がついたのかどうかはわからない、子供たちが意欲を抱いたかどうかはわからない、というのが実態ではないでしょうか。実は、授業というものはその授業の〈目的〉つまり〈指導事項〉に対して、授業の〈方法〉つまり〈学習活動〉がどれだけ機能したかで測られるのです。教師の授業行為(説明・指示・発問)の一つ一つにも意図があります。今回の国語科授業改革セミナーは2本の模擬授業を題材に、教師の授業行為の意図を徹底的に解明します。

講師 堀 裕嗣・高橋裕章・大野睦仁
大谷和明・南山潤司・山口淳一・山下 幸

日 時:2010年8月28日(土) 9:10~16:50
会 場:札幌市白石区民センター1F多目的室(予定)/参加費:3,000円/定員:30人

【 日 程 】
9:00~ 9:10 受 付/9:10~ 9:15 開会セレモニー

講座1 授業づくりの基本的な発想
〈習得〉〈活用〉〈探究〉の構造/〈指導事項〉と〈学習活動〉の関連

9:15~10:15/堀 裕嗣
授業づくりを方法論で捉えていませんか。絶対的に良い方法、絶対的に良い授業技術などないのです。
「方法」は「目的」に応じて選ばれる。「学習活動」は「指導事項」に応じて組織される。
授業づくりは、この当然の原理をあらためて確認することから始まります。

講座2 「文学的文章」の授業づくり~学習活動の意図と原理
10:30~11:00/授業者:大野睦仁(札幌市立厚別通小学校)
11:00~12:30/ストップモーション授業検討・代案提示型授業検討/司会:山口淳一
指定討論者:堀 裕嗣・大谷和明・南山潤司・山下 幸
 一つの模擬授業を題材に、指導目的・指導事項・指導意図に基づいて、ストップモーション授業検討でその機能度を分析し、4人の講師が適宜代案模擬授業をしながら解説していきます。参加者にも意見をもらいながら、具体的に検討します。

12:30~13:30 昼食・休憩

講座3 「説明的文章」の授業づくり~学習活動の意図と原理
13:30~14:00/授業者:高橋裕章(札幌市立藻岩小学校)
14:00~15:30/代案提示型授業検討/司会:山下 幸
指定討論者:堀 裕嗣・大谷和明・南山潤司・山口淳一
 一つの模擬授業を題材に、指導目的・指導事項・指導意図に基づいて、ストップモーション授業検討でその機能度を分析し、4人の講師が適宜代案模擬授業をしながら解説していきます。参加者にも意見をもらいながら、具体的に検討します。

講座4 シンポジウム「新学習指導要領に基づく国語科授業づくり」
〈習得〉〈活用〉〈探究〉を結ぶ原理

15:45~16:45/司会:山下 幸・山口淳一
シンポジスト:大野睦仁・高橋裕章・堀 裕嗣・大谷和明・南山潤司

16:45~16:50 閉会セレモニー

お申し込み方法

以下の7点をお書きの上,葉書かFAXがEメールにて下記まで御連絡ください。

1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)

〒005-0005 札幌市南区澄川5条5丁目14-12

FAX (011)812-4563

E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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明日からはちゃんと仕事しようっと

期末テスト2日目。

14時前に採点が終了したので、昨日に引き続いて14時過ぎに年休。帰宅後、レンタルしていた「さまよう刃」「サロゲイト」をみる。日曜日に「ゼロの焦点」といっしょに借りてきたもの。明日が返却日ではみなければならない。まあ、新作・準新作5本で1000円という金額なので、見ないで返してもそれほど惜しくもないのだが……。

「さまよう刃」はまずまず。でも、原作のほうがずっといい。寺尾聰に伊東四朗、竹野内豊というキャストでこの程度にしかならないのかなあ……と、生意気なことを考える。「サロゲイト」は最低である。単線的なあらすじでいかにもアメリカのエンターテイメント映画といった感じ。

明日からはちゃんと仕事しようっと(笑)

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「告白」

期末テスト1日目。採点業務もそこそこに、午後から年休をとって話題の映画「告白」をみてきました。メンズデーとやらで1000円でみられました。

「告白」

噂に違わぬいい映画でした。なにせ構成が見事。映像美もすばらしい。さすが中島哲也。時代の才能です。

キャスティングも見事ですべてがはまっていました。子役たちもすばらしく、リアリティを高めていました。あのくらい象徴的に描ききると、逆にリアリティが高まるものです。

隠れたテーマは「時間」。フィルムの逆回転や高感度カメラを駆使して、見事な演出が施されていました。時間とともに情報がはいる。後付けの自己解釈がリアリティを産み、やがて自分の内部で確立していく。そんな現代人の本質が見事に描かれていました。

おすすめ。

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教養

本を読むには暑い。出かけるのも億劫だ。たいして見たくもないテレビで休日を過ごすのも惜しい。そんな思いでTSUTAYAに向かった。

借りてきたのは「ゼロの焦点」。昨年末、広末涼子・中谷美紀・木村多江の3女優の競演が話題となった、松本清張生誕100年記念と冠された映画である。

実は私は中谷美紀が嫌いである。中谷美紀の出演するものはほとんど見ない。演技がうまいとまったく思わない。ルックスもよくない。美人か不美人かという問題ではなく、顔立ちが派手すぎて役が限られる。なのに役の限られない演技派の扱いを受けている。結果、3本に2本ははずれ……そんな印象をもっている。かの「嫌われ松子」でさえ、私の中で中谷美紀はまったくの大はずれだった。テレビ版の内山理名のほうがはまっていた。そう感じている。

逆に広末涼子にはファンというほどではないが、かつて好感を抱いていた。十代で華々しくデビューした頃、彼女には確かに神が宿っていた。彼女が微笑みながら振り返るだけで、そこをカメラが少しだけハイアングルからズームアップしていくだけで、それは清純を象徴できていた。演技のうまいへたはまず措いて、かつての彼女にはそうした霊気があった。しかし、その霊気の潜在も「鉄道員」を最後に見られなくなった。私にとって広末涼子は、酒井美紀と並んで〈もう終わった女優〉に見える。

この二人に比して木村多江は一昨年の「ぐるりのこと。」以来、旬である。しかし、話題の競演と謳われる3女優のうち2人が気に入らないのでは、いくら清張ファンの私でも劇場まで足を運ぶ気にはなれなかった。昨今のすぐにDVD化される風潮に加え、我が家に大型液晶テレビが来て以来、よほどでないと劇場に足を運ぶということがなくなった。良いことなのか悪いことなのかはわからない。

さて、「ゼロの焦点」である。

結論からいえば、脚本が悪い。そんな印象である。

テーマや主題がどうこうとか構成や展開がどうこうとか、そういう意味ではない。ひと言でいうなら、台詞が多い。叙述的な台詞というか説明的な台詞というか、そうしたナレーション的要素をもった台詞が多すぎるのである。

例えば、物語冒頭に広末涼子が列車に乗る夫西島秀俊を見送る場面がある。それまで、静かな決意をにじませる西島の演技と白を基調とした淡色に彩られた広末が非常に印象的なシーンを構成していたのだが、この場面で広末の陳腐なナレーションが入る。

「このときが、私が夫を見た最後だった」

舌足らずの甘ったるい声がシーンにそぐわないのは措くにしても、ここで「このとき」はないだろう……ということである。遠のく窓に西島が手を振る絵が映されているのである。「このとき」などと説明的に語る必要などないではないか。「これが」で充分ではないか。なぜ「このとき」などと、音韻論的にも意味論的にも語用論的にも冗漫になるような言葉遣いをするのか。私はこのひと言で「この脚本は絶対に必要な、ギリギリの言葉だけに削ぎ落とす」という作業を経ていないのではないか」と感じてしまった。結果、そればかりを気にしながら最後まで見通すことになる。

自分の面前で妊娠している木村多江に笑みを浮かべながら死を選ばれ、狂気した中谷美紀が夫の鹿賀丈史や弟の崎本大海に取り押さえられる場面。「私が二人を殺すわけないじゃない」とか「友達だったのに」とかいう台詞を中谷美紀が吐く必要があったのだろうか。雪の中で母子手帳を見つけたシーンだけで充分な説得力があったのではないか。台詞が中谷美紀の狂気を文字通り芝居じみたものにしてはいないか。

まあ、こんなことばかりを気にしながら見続けたわけだ。映画の見方としては最低である。

もう一つ、脚本が悪いと感じたポイントがある。初の女性市長の誕生とか、女が政治参加する新しい時代とか、最後の現代の銀座の風景とか、やろうとしていることはわかるのだが、そのどれもこれもに説得力がないのである。これは脚本家(=監督)に、どうも「教養」が欠けているせいではないかと思えてきた。犬童一心は私よりも6つ年長の監督なのだが、どうやら戦後世代の教養のなさが、どうしても「新しい時代」とか「未来」とかいった大文字の言葉を語らせてしまい、どうしても「史上初の女市長誕生」などといういかにもという設定を採用してしまう、そういうことなのだろうと思う。

もちろん私も他人のことをいえる立場にはない。物心ついてから戦後の豊かな時代しか記憶にない世代は、どうしてもこの構造から抜けることができない。こんなことを言ってしまうと、そもそも犬童が昭和32年の日本を描くこと自体に無理があったという結論になってしまいかねないのだが、そういうデメリットがどうしても見えてしまう。このことは言うまでもなく、どうしても説明的になり、台詞が多くなってしまうのと同じ問題である。

かつて映画というものは、ものを知らない私などが見ても、市井の人々のささやかな日常を描く際にさえ圧倒的な教養を感じさせるものだった。もうそういう見方をしてはいけない時代になったのだろうか。

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お父さんはダメねえ…

またまた月寒公園に行った。おじさんたちのソフトボール大会の真っ最中らしく、駐車場はいつにもまして満車。少し待ってなんとか車をとめる。坂本珈琲でフレンチをテイクアウトし、ソフトクリームを食べようと思ったが売り切れ。刺さるような陽射しの中で30分ほど散歩。

いつものように池の傍らを歩く。「壺をもつ女」は素通り。カモの親子をさがすと……いたいImg_2357 た。親子で涼しそうに浮かんでいる。今日も元気である。心なしか子どもたちも大きくなったように見え、なんとなく嬉しくなる。何はともあれ元気が一番。

もう少し歩を進めたところにオスガモの群れ。日陰に陣取って、ただ寝ている。何もしていない。それぞれが一定の距離を保ちながら、ただおとなしく寝ているだけ。

「お父さんってダメねえ。子育てもしないで……」

Img_2360傍らで妻の声。確かに子育てに参加せず、日陰に涼んでいる。

彼らにも言い訳はありそうだが、言い訳なんかしても誰にも聴いてもらえないのは人間といっしょ。だいいち、カモのお母さんは人間のお母さんと違って、自分だけが子育てするのに疑問を抱いている様子が見られない。カモの世界には分業はあっても哲学はない模様。ましてやフェミニズムなど……(笑)。

Img_2369 Img_2380歩を進めれば進めるだけ、さぼり癖のお父さんばかりが気になる。あそこにもいる、ここにもいるで、写真も撮りまくりである。みんなさぼるのが当然のようにさぼっている。みんな涼むのが当然のように涼んでいる。おそらくああだこうだと言われることもなく、ただ自然の摂理としてさぼり、涼んでいる。カモになりたいとは思わないが、休日はカモがいい。

空と木々と木陰と藤と、そしてたんぽぽと……。

いい時間が流れた。

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今週の本/6月第2週

宿泊学習も終わり、研究会もない、割と本の読めた1週間だった。

コンテキスト思考 論理を超える問題解決の技術」杉野幹人・内藤純/東洋経済新報社/2009.07

41l45yuo7l__bo2204203200_pisitbstic★★★

タイトルと帯の文言にずいぶんと期待して読んだのだが、期待はずれだった。いや、もちろん言っていることはよくわかるし、ぼくも同じような思考法で毎日を過ごしている。職場の若手にもよくこういうことを語って聞かせ、講演・講座でもよくこういうことを語る。しかし、行動の変容には至らない。要するに、頭でわかっても行動できないタイプの提案が並んでいるのである。ぼくの問題意識は、どうすればこの手の思考法ができるようになるのかというプログラムの方である。著者たちもそのことがよくわかっているようで、丁寧な物言いをしたり、これは難しいことなんだということを但し書きしたり……そういう情意表現が散見される。読む価値はあるとは思う。事例にもおもしろいものが少なくない。

教育の職業的意義 若者、学校、社会をつなぐ」本田由紀/ちくま新書/2009.12

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本田由紀の本はこれまでにも何冊も読んできた。優秀な社会学者であることはよくわかるのだが、驚くような深い洞察というのが見られない。一般的に、潜在的に浸透しているようなバランス感覚に言葉を与えているという程度に見える。彼女の想定している超えるべき論客が、いまだ左翼と極右しか念頭に置かれていないことが要因と思う。1990年代の議論という感じがしてしまう。加えて文体がどうしても好きになれない。よく整理されているはいるから、読む価値はある。

中島みゆきの精神世界-あなたに問いかけるもの-」三好章人/たま出版/2005.10

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これまで知らない著者だったが、民俗学や宗教学なんかをうまくミックスしながら、中島みゆきの歌を聴いて自身が想起した古今東西の物語を軽妙に語る……好感のもてるエッセイだった。ぼくが中島みゆきのほとんどの曲を聴いているということが大きいのだろうが、最初から最後まで一気に読めた。 決して一般にお勧めするような本ではないが、中島みゆきファンにはそれなりに楽しめる本ではある。

アホの壁」筒井康隆/新潮新書/2010.02

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率直に言って、筒井康隆も年をとったな…という印象。全編を通じてとにかく説教くさい。筒井康隆特有のユーモア溢れる文体は健在といえば健在なのだが、そこにも行間に説教くささがにじみ出る。昔のちょっと「トンでるな」という展開が演技に感じられる。物書きにこういうにおいが出てくると、そろそろ終焉を迎えつつあることを意味している。これまでにも多くの作家がたどってきた道である。ちょっと野坂昭如に似てきた感じがある。

本番に強い人、弱い人」本田有明/PHP新書/2007.05

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今週、積ん読から一冊引き抜いて、 トイレで読んだ本。つまらないといえばつまらないし、あたりまえといえばあたりまえなのだが、心当たりのある事例ばかりでけっこう楽しめた。特にちょっと軽めのエピソードが豊富で、それなりに読み進める原動力にはなる。トイレで読んだりちょっとした休憩に読んだりというのに最適か。じっくりと腰を落ち着けて読む本ではない。

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活きている時間

昨日の1学級に続き、今日は3学級で試験範囲を終わらせる。いっしょに学年を組んでいる先生から試験問題の半分も上がってきたので、早速解答用紙をつくり、ところどころミスを修正して印刷までしてしまう。試験袋に試験監督者名も入れてほっとひと息。

これで月曜日の1時間目の期末テストに向けての準備はすべて完了。

あとは明日の授業で、試験範囲のこまかな質問に答えながら、ゆったりとした一日を過ごすのみ。試験前で放課後活動も停止になるから、割と余裕のある一日になる。

それにしても忙しい一日だった。まずは1時間目に2年4組で授業。2時間目は解答用紙を作成してプリントアウト。もう一人の先生は3時間目だけが空き時間だから、この時間勝負。この時間内に解答用紙を完成させなければ、印刷が明日にずれ込む。なんとか間に合わせて、3・4時間目の3組と5組の授業へ。昼休みに廊下巡視をしたあと、5時間目は1年1組の書写の授業へ。6時間目は問題用紙と解答用紙の細かなミスを訂正して印刷。封筒に試験監督名を書き、金庫に保管。放課後は明日の宿泊学習解団式のリハーサル。更に生徒のスピーチ原稿の最終チェック。それが終わったのが16時50分。珈琲を飲みながら同僚と談笑して、17時10分の勤務時間終了とともにきっちりと退勤。こういう一日である。

もちろん、この他にも水飲み場掃除の指導とか、生徒会役員との打ち合わせとか、ちょっとした生徒指導とか、ワークの解答の印刷とか、小テストの検印押しとか、支出伺い簿の記入しか、細かな仕事はいっぱいあったわけで、まったく隙間のない一日だった。

でも、今日を過ごしたことで、明日は間違いなく(よほどの生徒指導でも入らない限り)、隙間だらけの一日になる。明日は一日、雑誌連載のネタを考えるか、学校祭の企画を考えるか、何を考えるかはわからないけれど、いずれにしてもアイディア創出を第一義とする一日を過ごすことができる。

効率優先の「現実的な現実とただただ現実的に格闘する一日」を過ごすと、その後何日かは「創出中心に使える活きている時間」を過ごすことができる。ぼくがよく言う、「時間とはつくるもの」「活きている時間こそをつくらねばならない」というのはこういうことを言う。

今日、テスト問題を金庫にしまうとき、金庫の中に試験問題は一教科も入っていなかった。ぼくがテスト完成の第一号だったということだ。つまり、「時間をつくろう」なんていう意識は他の教師たちはなかなかもてないということを意味している。

今回のぼくのテストも、いっしょに組んでいる先生のテストができるのを待っていたから今日になっただけで、自分一人でテストをつくるのなら間違いなく、先週の月曜日にできていた。ぼくは一学期末テストを必ず旅行的行事の前につくることにしている。

去年、今年と担任をもっていないが、担任をもっていれば、いまは通知表の所見を一日3~5人ずつ記入し始めている時期である。もちろん、評定資料も既に確定している。あとはテストの点数を入力してワンプッシュという状態になっている。

「時間をつくる」という意識をもてば、時間はつくれる。時間をつくれば、時間が活きてくる。活きている時間は、必ず何かを産み出す。こういうサイクルを身に付けて、そろそろ10年が過ぎようとしている。

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COVER BOOK 1 1978-2008

大瀧詠一「COVER BOOK 1  1978-2008」を買った。

それほど期待していたわけではなかった。

大瀧詠一「COVER BOOK 1  1978-2008」を聴いた。

51i6hhefgl__sl500_aa300_それほど期待していたわけではなかったのだが、圧倒された。何に?と問われれば、小林旭と植木等にである。一流のベテランの力量といおうか、キャラクターの力といおうか、この二人のオリジナリティにはすごいものがある。決して本業ではない領域において、大瀧詠一の名曲をまったく別のものにしてしまう。と同時に、完全に自分のものにしてしまっている。この凄味……いやはや見事というほかない。

1. ナイアガラ・CM BOX
2. 風立ちぬ (CM Version)
3. カナリア諸島
4. 恋はメレンゲ
5. 夢で逢えたら
6. あなただけI LOVE YOU
7. 指切り
8. VELVET MOTEL
9. 夏のリビエラ
10. アキラのさらばシベリア鉄道
11. FUN×4
12. 大阪ストラット
13. 座 読書
14. Tシャツに口紅
15. 恋するカレン
16. バチェラー・ガール
17. 探偵物語 (インスト)

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講師がいない

新学習指導要領の焦点ボケといおうか、学校教育の流動性といおうか、いずれにせよ教育界の混沌を象徴するかのように、最近、私のところにオファーがたくさん舞い込んでくる。ここ5年は本も出していないし、これといって大きな仕事をしていない、むしろ意識的に小さな仕事を少しずつ積み重ねることを主としている私のような者のところにまでオファーが舞い込んでくる現実に、それも海を越えて舞い込んでくる現実に、現在の教育界の混沌が改めて実感される。

どうも文科省は新たな学習指導要領の広報活動に成功していないように思われる。広報に成功していないというよりは、派手な広報活動を継続させるには内容が薄いというべきか。もう既に教科調査官の話や指導主事の話、審議会委員の話はネタが尽きてきているように見える。ある程度勢いを保っているのは小学校英語くらいで、その他は各教科・道徳・特別活動ともに停滞気味、今日的課題として掲げられた食育・消費者教育・法教育その他の大文字の教育課題もいまひとつ流行の兆しを見せない。

自分でいうのも何だが、私も札幌を中心にかなり盛んに研究会活動をおこなっているが、関東に私のような実践者がいたとしても、私なら呼ばない。道内の実践家に代わりをお願いするだろうと思う。関東から一人呼ぶとなると、どう少なく見積もっても10~15万はかかる。謝礼をいくら少なくお願いしたとしても、交通費に宿泊費、懇親会費でそのくらいはかかってしまう。かなり懐具合が豊かな研究会でない限り、私ごときの実践者など海を越えてまで呼ぶに値するとはとうてい思えないのである。

しかし、私も最近研究会運営をしていてわかるのだが、現在、いま現場に求められている講師がなかなかいないという現実がある。国語科教育であれば、PISAはわかった、新学習指導要領の理念もわかった、ではいったいどうするのか、どういう授業像なのか、善し悪しは自分たちで判断するからまずはあなたの考えを述べてくれ、こういうスタンスで頼める講師がいない。学級経営・生徒指導であれば、学級崩壊状況はわかった、チームで取り組むべき時代性の認識もある、ではいったいどうすればいいのか、どういう学級運営システム、生徒指導システム、職員体制システムを敷けばいいのか、善し悪しは自分たちで判断するからまずはあなたの考えを述べてくれ、こういうスタンスで頼める講師がいない。本当にいないのである。

まあ、どこも事情は同じなのだなあ……と思った次第。できる限りのことはしてこようと思う。

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準備は大切だが計画には入れない方が良い

失敗した研究授業をたくさん見てきた。失敗した模擬授業をたくさん見てきた。失敗した講演・講座をたくさん見てきた。

他人事ではない。失敗した研究授業をたくさんやってきた。失敗した模擬授業もたくさんやってきた。失敗した講演・講座もたくさんやってきた。

共通点は「詰め込みすぎ」に尽きる。

言い換えるなら、準備が万端に過ぎるのだ。

例えば研究授業。教材研究も指導法研究もせずに本番に臨み、時間が来れば終わるさとばかりに失敗もやむなしと取り組むのは論外にしても、猛烈に教材研究をし、練りに練った指導案を立てながらも大失敗に陥る人がいる。これだけ教材研究をして一生懸命に取り組んだのだから必ず後に生きるよと慰める先輩教師もいる。おそらくどちらも、授業とか、教育とか、教材研究とかの意味を取り違えはき違えている。

こうした場合の失敗の要因は、教師の教材研究の結果として到達した地点を、そのまま授業の到達点にしようとしたことにある。教材研究とは確かに深い教材解釈に到達することにその要諦がある。しかし、その到達点がそのまま授業の到達点、つまりは子どもたちの到達点として良いわけではない。経験則でいえば、教師が教材研究の成果として到達した地点の六掛けくらいのポイントが授業の到達点とするのがよい。

深い教材研究とは、その六掛け地点を越えるような論理性や感受性をもつごく一部の子どもたちが、授業の中で雑音と化したときに、或いは予想外の大活躍をして他を巻き込むような展開を示したときに、二の矢、三の矢としてもたなければならない、いわば「次善の策」を準備することに過ぎないのである。教師が苦肉の末に到達した地点に子どもたちをも到達させようなどと考えるのは、あまりにも授業の本質からも教育の本質からもかけ離れた夢物語である。

それは確かに正論を伴った理想論ではあるが、神話の域を出ない、あくまでフィクションとしての教育である。先輩教師も「必ず後に生きるよ」と慰めているようではダメで、彼に必要なのは、授業者がいかにも陥りそうなこの構造を事前に把握しておいて、六掛け構造を教えてあげることなのである。

教材研究は大切である。深ければ深いほどよい。しかし授業は六掛けを到達点とする。あとの四割は次善の策としてため込んでおく。決して指導案上には明記しない。これが「準備は大切だが計画には入れない方が良い」ということの意味である。もちろん模擬授業にも同様のことがいえる。

同じことが講演・講座でもいえる。情報量の多すぎる講演・講座は聴衆がついてこられない。聞き手の情報処理能力を超えた講演・講座はやる意味がない。その講演・講座がゼロとなるばかりか、ときにはマイナスにさえなる。私はこの構造になかなか気がつかなかった。人前に立つ経験を重ねて十年が過ぎた頃、やっと気がついたというほどのていたらくである。研究会の参加者は実力があるから参加するのではない。実力がないという自覚をもち、困っているという現状を打開するために参加するのである。

講演・講座は三掛けが良い。三掛けを確実に保障するためのエピソードをたくさんそろえておくのが良い。あとの七割は質問されたら応えるくらいのスタンスでいい。エピソードなら時間が足りなくなればカットすればいい。時間が余れば質問コーナーをもてばいい。これが一番うまくいく。準備しすぎる講演・講座が失敗する所以である。

何事も準備は大切だが計画には入れない方が良い。

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「俺たちの旅」

「NTV-TV『俺たちの旅』オリジナル・サウンドトラック」トランザム

94a3ef4634ed54d4何はともあれ、このアルバムが大好きである。かつては2枚のサウンドトラックとして発売されていたものを1枚のCDにまとめたものである。ぼくにとって、原稿のBGMには欠かせない1枚になっている。

今日も、夜22時過ぎから雑誌原稿を書くのにこのアルバムをかけ始めて、1時間ちょっとで書き上げてしまった。なんとなく筆が進む。そんなアルバムである。

「俺たちの旅」は1975年のドラマだったろうか。ぼくは小学校の3年生くらいだったと思う。リアルタイムではほとんど見ていない。両親が見ていた「俺たちの朝」はなんとなく見た記憶があるのだが、きっと「俺たちの旅」は我が家では見ていなかったのだろう。ぼくが見たのは、小学校高学年から中学生にかけて。帰宅後、16:55からやっていた再放送である。それも「ベストテン北海道」を聴きながらの「ながら視聴」である。それでもすべての曲に聞き覚えがある。

1. 俺たちの旅
2. 浩介のテーマ
3. 伸六のテーマ
4. 隆夫のテーマ
5. 洋子のテーマ
6. 真弓のテーマ
7. ただお前がいい
8. 男達のテーマ
9. 友情のテーマ
10. 隆夫のテーマ2
11. 公園
12. 浩介のテーマ2
13. 夕方
14. ただお前がいい2
15. 街
16. 朝
17. 母親のテーマ
18. 静かな朝
19. 猫背のテーマ
20. 夕陽のテーマ〈俺たちの旅2〉
21. 俺たちの旅
22. 男達のテーマ
23. また会える時まで2
24. ピエロのように
25. ひとり歩いていると
26. 別離
27. 若者たちは今・・・・・・
28. また会える時まで
29. 幸福な世界
30. 君と二人で
31. 若者たちは今・・・・・・2
32. 男達のテーマ2
33. 別離2
34. 俺たちの旅2

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いい顔、いい表情

金曜の夜から宿泊学習のビデオをつくりはじめ、少しずつ進めて日曜の夜に完成。疲れが抜けていなくて、考えるのもおっくうで、その辺にあるCDを使って適当に編集してみる。完成してみればまずまずの出来といえなくもない。

映像の中から生徒の「いい表情」を拾ってはストップモーションをかける。それを音楽に合わせて編集するだけだから、それほど手間も時間もかからない。時間がかかるのは膨大な映像のすべてに目を通すことである。これが手間取る。

生徒たちも田植え体験は楽しかったようで、あちらこちらでいい顔、いい表情が写っている。それを眺める先生方の表情もいい。

結局、行事ビデオづくりは、いい顔・いい表情をいかに撮るかという撮影の問題に帰結する。編集の力量など些末な問題でしかない。

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なんだかんだ

「なんだかんだ」が先週で店を閉めたらしい。「6年間のご愛顧ありがとうございました」という張り紙が哀しい。

「なんだかんだ」とは私の家から徒歩1分の居酒屋。開店当初から通い始め、白石区民センターで研究会があるときにはずいぶんと懇親会の会場としてもお世話になった。野口先生も野中先生も須貝先生もこの店で泥酔した。つい先日は勤務校国語科の送別会でもお世話になった。

住んでいる場所も連絡先もわからないのだから、もうマスターともお会いする機会はないのかもしれない。ぼくが行くたびに日本酒を2杯も3杯もサービスしてくれたっけ。「先生、いい酒がはいったんですよ」と……。

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「流れ」というもの

実に残念なことながら、仕事の遅い若者がいる。段取りが悪いとか、落ち着きがないとか、或いは謙虚さが足りないとか理由はいろいろあるのだが、何はともあれ頭が悪い。こう言っては見も蓋もないことは百も承知。しかし、他に言いようがないのだから致し方ない。

頭が悪いにも様々ある。このことは若者に知識がないことを意味しない。知識はあってもそれがつながらない。つながらないから活かせない。活かせないから評価されない。結局、思った通りに仕事が進まないから段取りが悪いと見られ、ちょっとした仕事にもばたばたするから落ち着きがないと言われ、助言しても助言通りにできないから謙虚さがないと思われる。あっちにふらふらこっちにふらふら、端からはそう見えるが故に、しまいには「頭が悪い」と片付けられる。

こういう烙印を押されるには1年と数ヶ月かかる。最初は新卒だから仕方がないと期待され、次第に周りをいらつかせるようになり、小さな期待はずれが二桁を超えた頃に見切られる。特に1年の経験を経て2年目にはいると、周りの眼差しは一気に厳しくなる。「おまえは去年何を学んだのか」と声なき声があびせられ、嘲笑が冷笑となっていく。それに本人が気づかないから始末が悪い。1年と2ヶ月もすればニベもなく、鼻にも歯牙にもかけられずけんもホロロ……。そういう若者を何人も見てきた。

さて、私が問題視するのはこうした若者たちが見切られたまま、放っておかれることである。先輩教師は若者を見切った時点でその若者に対する期待を捨て、あきれ、愚痴り、陰口を叩く方に時間と労力を費やし始める。若者はそのまま数年を過ごし、失敗を重ねてフォローを受け続け、次第に、周りに迷惑をかけることに慣れていく。転勤しても新卒教師よろしく、担任をもっただけで、或いはちょっとした仕事をこなしただけで、自分は何かしら価値ある教師だと自負するようになる。こうして、周りに迷惑をかけ続ける教師が完成していく。もう迷惑をかけてもそれはありうべきこと、お互いにフォローし合うのは当然の名のもとに一方的に周りのフォローを享受し続ける、そんな元若者のなんと多いことか。

私は学年主任として、四人の若者を指導した……というより、指導させられたことがある。そんなに遠い話ではない。つい3、4年前のことである。いま、うち二人は採用試験に合格してそれなりに実績を積み、二人はいまだ採用されずに臨採経験を重ねている。この合格した二人と合格せざる二人を比べてみると、その差はほんの小さなことに過ぎない。大差があるわけではない。ましてや本人たちの能力の差や努力の差などでは決してない。

合格した二人は仕事のできない新卒1年目から運よく2年目も同一の学校に勤務して少しだけ去年の自分を内省させられ、合格せざる二人は運悪く2年目に別の勤務校に赴任させられ、学校の体制、学校のシステムの違いに戸惑う1年を再び過ごさねばならなかった、それだけの話である。一度「根無し草」の教員生活に足を踏み入れてしまうと、そこから脱出するのがなかなか難しいのがこの世界。二人もなかなかその流れから逃れられないでいる。

おそらく彼らも、あと1年か2年早く生まれ、合格した二人の流れ同様に教員生活を送っていたならば、いまとは比べるべくもない充実を得ていたことだろう。彼らに実力がないわけではない。近くで彼らの1年間を見てきた私にはそれなりにわかるつもりでいる。自分ではどうすることもできない、「流れ」というもの。おそろしいものである。

彼ら二人が早くこの悪しき流れを脱して、その実力をいかんなく発揮する日が来ることを切に望んでいる。

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宿泊学習、終わる

3時間半も寝ることができた。どちらかというと、楽な宿泊学習だった。

一日目が小樽で自主研修、二日目が余市で農業体験。簡単に言えば、教師は二日間とも巡視しているだけである。確かにホテルは巡視しづらい構造だったが、まあそこは大規模校である。教師の人数がいるから、各階に二人ずつ配置することくらいは簡単なこと。

戻ってきてからも、学年団で17時過ぎから飲み始め、ほとんどが参加して二次会へ。更に5人で三次会へ。帰宅したのは1時過ぎ。みんな元気だった証拠である。何をするにも教師の人数が多いということは楽なことである。

今回の学びは、農業体験というものがぼくの思っていた以上に楽しく、有意義なものである、ということだ。多くの学校が実施しているにもかかわらず、これまでなぜか機会を逸していたのだが、一度体験してみるとなるほど生徒にとっては有意義な学びが成立する。体験を楽しむということのみならず、様々なことに発展していける可能性をもっている。いわゆる職業体験よりもその発展可能性は高い。ぼくにはそう見えた。

さすがに今日は一日中寝ていた。雨が降ったこともあって、行こうと思っていた犬の散歩にさえ行けなかった。

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