本を読むには暑い。出かけるのも億劫だ。たいして見たくもないテレビで休日を過ごすのも惜しい。そんな思いでTSUTAYAに向かった。
借りてきたのは「ゼロの焦点」。昨年末、広末涼子・中谷美紀・木村多江の3女優の競演が話題となった、松本清張生誕100年記念と冠された映画である。
実は私は中谷美紀が嫌いである。中谷美紀の出演するものはほとんど見ない。演技がうまいとまったく思わない。ルックスもよくない。美人か不美人かという問題ではなく、顔立ちが派手すぎて役が限られる。なのに役の限られない演技派の扱いを受けている。結果、3本に2本ははずれ……そんな印象をもっている。かの「嫌われ松子」でさえ、私の中で中谷美紀はまったくの大はずれだった。テレビ版の内山理名のほうがはまっていた。そう感じている。
逆に広末涼子にはファンというほどではないが、かつて好感を抱いていた。十代で華々しくデビューした頃、彼女には確かに神が宿っていた。彼女が微笑みながら振り返るだけで、そこをカメラが少しだけハイアングルからズームアップしていくだけで、それは清純を象徴できていた。演技のうまいへたはまず措いて、かつての彼女にはそうした霊気があった。しかし、その霊気の潜在も「鉄道員」を最後に見られなくなった。私にとって広末涼子は、酒井美紀と並んで〈もう終わった女優〉に見える。
この二人に比して木村多江は一昨年の「ぐるりのこと。」以来、旬である。しかし、話題の競演と謳われる3女優のうち2人が気に入らないのでは、いくら清張ファンの私でも劇場まで足を運ぶ気にはなれなかった。昨今のすぐにDVD化される風潮に加え、我が家に大型液晶テレビが来て以来、よほどでないと劇場に足を運ぶということがなくなった。良いことなのか悪いことなのかはわからない。
さて、「ゼロの焦点」である。
結論からいえば、脚本が悪い。そんな印象である。
テーマや主題がどうこうとか構成や展開がどうこうとか、そういう意味ではない。ひと言でいうなら、台詞が多い。叙述的な台詞というか説明的な台詞というか、そうしたナレーション的要素をもった台詞が多すぎるのである。
例えば、物語冒頭に広末涼子が列車に乗る夫西島秀俊を見送る場面がある。それまで、静かな決意をにじませる西島の演技と白を基調とした淡色に彩られた広末が非常に印象的なシーンを構成していたのだが、この場面で広末の陳腐なナレーションが入る。
「このときが、私が夫を見た最後だった」
舌足らずの甘ったるい声がシーンにそぐわないのは措くにしても、ここで「このとき」はないだろう……ということである。遠のく窓に西島が手を振る絵が映されているのである。「このとき」などと説明的に語る必要などないではないか。「これが」で充分ではないか。なぜ「このとき」などと、音韻論的にも意味論的にも語用論的にも冗漫になるような言葉遣いをするのか。私はこのひと言で「この脚本は絶対に必要な、ギリギリの言葉だけに削ぎ落とす」という作業を経ていないのではないか」と感じてしまった。結果、そればかりを気にしながら最後まで見通すことになる。
自分の面前で妊娠している木村多江に笑みを浮かべながら死を選ばれ、狂気した中谷美紀が夫の鹿賀丈史や弟の崎本大海に取り押さえられる場面。「私が二人を殺すわけないじゃない」とか「友達だったのに」とかいう台詞を中谷美紀が吐く必要があったのだろうか。雪の中で母子手帳を見つけたシーンだけで充分な説得力があったのではないか。台詞が中谷美紀の狂気を文字通り芝居じみたものにしてはいないか。
まあ、こんなことばかりを気にしながら見続けたわけだ。映画の見方としては最低である。
もう一つ、脚本が悪いと感じたポイントがある。初の女性市長の誕生とか、女が政治参加する新しい時代とか、最後の現代の銀座の風景とか、やろうとしていることはわかるのだが、そのどれもこれもに説得力がないのである。これは脚本家(=監督)に、どうも「教養」が欠けているせいではないかと思えてきた。犬童一心は私よりも6つ年長の監督なのだが、どうやら戦後世代の教養のなさが、どうしても「新しい時代」とか「未来」とかいった大文字の言葉を語らせてしまい、どうしても「史上初の女市長誕生」などといういかにもという設定を採用してしまう、そういうことなのだろうと思う。
もちろん私も他人のことをいえる立場にはない。物心ついてから戦後の豊かな時代しか記憶にない世代は、どうしてもこの構造から抜けることができない。こんなことを言ってしまうと、そもそも犬童が昭和32年の日本を描くこと自体に無理があったという結論になってしまいかねないのだが、そういうデメリットがどうしても見えてしまう。このことは言うまでもなく、どうしても説明的になり、台詞が多くなってしまうのと同じ問題である。
かつて映画というものは、ものを知らない私などが見ても、市井の人々のささやかな日常を描く際にさえ圧倒的な教養を感じさせるものだった。もうそういう見方をしてはいけない時代になったのだろうか。
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