聴く価値
力量の高い教師をどのようにはかるか。
「ことのは」でよく話題になる基準は、学年集会で生徒にじっくりと話を聴かせられる教師は間違いなく力量が高い、ということである。
これは「学年集会」というのがミソである。
全校集会では、総合的な力量がなくなても話がうまい人間の方が評価される傾向があるからだ。生徒たちがその先生の人となりを知らず、話題の内容的起伏や惹きつける話術によって、ある程度の評価を得ることができる。
しかし、学年集会は異なる。
生徒たちがその教師をよく知っている。学年集会で話を聞かされるにしても、その先生という存在が話を聴くに値する教師であるか否かを生徒たちは間違いなく判断している。そうした判断のもとにその話を聴く姿勢が決まる。つまり、話題の起伏や話術では対応しきれない部分が大きいのである。
これまで、いろいろな教師が学年集会で話すのを見てきた。
学年集会だから、さすがに生徒たちが騒ぎ立てるということはない。しかし、生徒たちがただおとなしく聴いているだけ……ということもあれば、ちゃんと耳を傾けて理解しようとしている場合もある。反応が真っ二つに分かれるといっても過言ではない。
それを分けるのは、話題とか話術とか、要するに「その場の論理」ではない。その教師が日常的に生徒たちにどう接しているか、一貫性をもった対応をしているか、自分のためではなく生徒のためを思って指導しているか、等々、そうした評価に基づいて分けられている。
私から見ても、日常的にその場しのぎの指導しかしていないタイプの教員の話には生徒たちも「気」が入っていないし、長期的見通しをもって一貫した指導をしている教師の話には「気」を入れて聴くものである。一目見ればわかる。おそらく、だれが見ても一瞬でわかる。そのくらい雰囲気が違う。
要するに、生徒たちが「聴く価値あり」と感じているか、「聴く価値なし」と感じているか、学年集会での話しぶりに教師の総合的力量が顕著にあらわれるというのは、そういうことである。
学年集会でしっかりと話を聴かせられる教師が学年団の3割を占めれば、その学年はまず荒れることはない。
現在、旅行的行事に向けて週に1回ペースで学年集会がある。大規模校故に学年生徒は300人近い。学年教師も15人である。いろんな教師がいろんな話をするのを見て感じたことは、こんなことである。
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