回帰熱/中島みゆき
先日、久し振りにブックオフに行って、何枚かのCDを買った。いま、その中から、中島みゆきの「回帰熱」を聴いている。PCに向かいながら、気持ちよく聴いていたのだが、アルバムを締めるラスト曲まで来て、PCの手が止まってしまった。
あの80年代に柏原よしえが大ヒットさせた「春なのに」なのである。
このアルバムは、かつての「おかえりなさい」「御色なおし」同様、中島みゆきが他人に提供した楽曲をセルフカヴァーして構成したアルバムである。「春なのに」は中島みゆきの作詞・作曲であるから、紛れもなく中島みゆきの曲であり、このアルバムに収録されることには何の違和感もない。
しかし、聴いていて、どうにも違和感があるのである。
簡単に言えば、かつての柏原よしえの歌声の方がしっくり来るのだ。もっといえば、柏原よしえの「春なのに」の方がいいのだ。これはどうしたことか。
言っておくが、ぼくは中島みゆきのファンである。彼女はぼくの高校の先輩でもあり、思い入れが強い。ぼくが小学校5年生のときにデビューして以来、ずっとファンである。ふきのとうや松山千春、蓑谷雅彦らとともに、北海道でしか売れていなかった時代も含めて、ずっと30年以上聴き続けてきた。
それに比べて、柏原よしえなど、80年代前半のぽっと出アイドルであり、思い入れもなく、没にどうということはない。「春なのに」を特にいい歌だと思ったことさえない。
そんなぼくがこの二者の歌声を比較して、中島みゆきよりも柏原よしえの歌声の方がいい、と思うのである。これはどういうことか。そもそもこの9曲の中で、アルバムのラスト曲としてこの曲を選ぶべきなのか……そう批判さえしたくなるのである。それに比して、かつて松本典子が歌ったという「儀式(セレモニー)」のなんと素晴らしいことか。
言うまでもない。自分の人生において、人生においてが大袈裟なら時間軸において、柏原よしえの歌を中島みゆきの歌よりも先に聴いたからだ。先に聴いた柏原よしえという歌手の歌声が耳に残っているからだ。
ぼくは別に、柏原よしえと中島みゆきの比較をしたいのではない。この例を引いて、人間にとって、最初のイメージというものがいかに大きいかということを実感した……ということを言いたいのである。よく聴いてみれば、中島みゆきの「春なのに」は、それなりに中島みゆきらしいねっとりした情感が込められており、それほど完成度が低いわけではない。しかし、頭ではそうわかっていても、やはり違和感は払拭できない。ぼくの「春なのに」観と齟齬を来しているのである。ぼくの最初の「春なのに」観を形成したのが柏原よしえであることはいうを待たない。この感覚は、かつて竹内まりやの「元気を出して」を初めて聴いたときにも観じたものである。ぼくはいまでも、あの曲はどうしても薬師丸ひろ子の歌声で聴きたい(笑)。
教員世界を見ていると、初任の赴任校が教師人生をほとんど決定的に決めてしまうという感を抱く。ダメな教師はダメな学校からスタートしている。もちろん、個人の責任もあり、すべてがそうだと言い切れるわけではないのはわかっている。しかし、その影響力の大きさは計り知れないものがある。
自分の勤務校に新卒教師が入ってきたら、このことを肝に銘じて接したいものである。
1. 黄砂に吹かれて | |
2. 肩幅の未来 | |
3. あり,か | |
4. 群衆 | |
5. ロンリー カナリア | |
6. くらやみ乙女 | |
7. 儀式(セレモニー) | |
8. 未完成 | |
9. 春なのに |
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