この勘違いを払拭せよ
叱り方の原則として、生徒に人格否定ととられるような心主義を排し、「事実を叱れ」「行為を叱れ」というようなことが言われて久しい。或いは真正面から対峙せずに「ずらすこと」を旨とする注意の仕方が有効であるというようなことが主張されてからも久しい月日が流れている。注意をするならば、個人名を挙げて説教するよりも、常に全体に対して……などということも言われる。私も日常的には「いじりながらの生徒指導」をおこなっている。
こうしたことが主張されるようになった背景には、消費社会がこの国の隅々にまで浸透し、人生の目的、生きることの目的が「アイデンティティ」の獲得から個人的な「自己実現」へと変容した社会において、「人格否定・存在否定だけはするまい」或いは「人格否定・存在否定と受け取られるような説諭は問題を大きくしかねない」との、教育界におけるスキルとも逃避ともつかない時代認識があったように思う。
さて、生徒指導論を展開したいわけではない。
最近、特に21世紀になってから、いわゆる「心の病」で休職する教師が増えているのを見るにつけ、どうもこの問題が生徒指導の在り方の変容と通底しているように思えてきたのである。
簡単に言うと、精神を病んで休職するような教師たちは、自らの学級経営がうまく行かず、或いは保護者クレームにいたく傷つけられて、或いは管理職に強い指導を受けたり、仕事をこなし続けている周りの同僚たちがえらく優秀に見えたりして、自らの存在が否定されているかのように思えたのではないだろうか。そこで、その鬱憤を生徒に向かっても保護者に向かっても同僚に向かっても発散することができないとき、彼らはその刃を自らに向けるとともに、少しずつ壊れていかざるを得なかったのではなかったか。
こういう現象が起きるのは、おそらく、「自己実現」を目指して教師になったことに起因する。時代の転換期において、役割意識的な「職業的アイデンティティ」と個人主義的な「自己実現」との融合した、どっちつかずの感覚のまま教職を選んだ者たちにとって、学級崩壊や授業崩壊、保護者クレームや同僚との力量差というものが、「人格否定」「存在否定」のベクトルとして、彼らに機能するのである。
私たちは「よい教師のモデル」というものを感覚的に身につけている。古くは中村雅俊や村野武範に見られたような、部活動と生徒指導を融合させる教師モデル。或いは、武田鉄矢や水谷豊、西田敏行が演じたような、自らの人格すべてで体当たりすることによって、一生懸命にさえやれば必ず生徒や保護者にその思いが伝わり、最終的には生徒・保護者の側も教師の側も納得する結果に至るという教師モデル。この時代には、鶴見辰吾と杉田かおるの中学生の妊娠が世の中の学校という常識を覆してまで命は尊重されるべきという観念まで現れた。その延長線上には田原俊彦が演じた「びんびんモデル」や、かの教え子との恋愛を肯定する「高校教師」というモデルまで登場した。最近の「ごくせん」などは、これらの過去のドラマにあったエピソードのデータベースをもとに、「教師らしさ」が形づくられているように思う。
どれもこれも、教師の「自己実現」と「教職という仕事上の役割」とが見事に一致していた。そして彼らは、自らの影響力によって生徒が変わるということによって「自己実現」を果たしていた。
しかし、ひとたび、現実の学校教育に目を向けると、私はこうした教師の描き方に大いなる疑問を抱いてしまう。
果たして、生徒たちは教師の自己実現のためにいるのだろうか……。
私が声を大にして言いたいのは、生徒は教師の自己実現のためにいるのではない、ということである。誤解を怖れずに言えば、教師とは一般の教師が考えているよりも、もっと事務的で、冷めた、子どもを自立へと誘い、社会の構成員へと誘う、社会の役割を担った職業であるに過ぎない。
おそらく、この国がひとつの共同幻想で括られていた時代、教師はその共同幻想を大人の代表として熱く語っているだけでも機能することができた。その構造が、自らの存在が生徒を変えたと教師を勘違いさせる方向に機能した。いわゆる「大きな物語」の力というやつである。
しかし、Aの利益が必ずしもBの利益とならず、Bの利益はCの不利益となるという時代にはいったとき、こうした教師の勘違いの基盤は、すべて崩れたのである。
確か東弘紀だったと思うが、「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への移行が主張されて久しい。教育界もご多分に漏れず、その流れの中にある。カウンセリング・マインドの生徒指導、ワークショップ型授業の流行、社会システム理論に基づいた学級経営論等々である。実は、ゼロ・トレランスさえ環境整備を目的とした流行である。
もう一度言う。
生徒は教師の自己実現のためにいるのではない。
教師は自己実現を目的とした職業ではない。
この勘違いを払拭せよ。
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