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札幌の教育

先日読んだ「社会は存在しない セカイ系文化論」がどうも引っかかっている。「セカイ系」とはきみとぼく、あなたと私といった近景(私世界)が、世界の終末、最終戦争、地球防衛といった遠景と直接的に結びついた世界観のことを言い、要するに「中景」がないという、社会学者がよく言う最近の若者に特徴的な世界観の在り方のことである。

よく、彼女・彼氏との直接的な近親世界と政治家・芸能人・国際社会といったテレビで見る世界とが直接的に結びついてしまい、町内会や地方公共団体、世間・社会といった概念が意識されなくなっている……というような論述を何度も読んだことがある。自分が住んでいる町内会長や市長、知事よりも、小泉総理の方にずっと親近感を抱いてしまう社会……なんていう言い方で喧伝されていた。

かつてぼくの勤めていた学校の校長は、「札幌の教育」という言葉をよく使っていた。「堀先生、きみはこれから札幌の教育を背負って立つ人だ」なんていう言い方である。ぼくはそのたびに、自分は「札幌の教育」なんて考えたこともないな……、自分は「札幌の教育」のために仕事はしていないな……、この人とは違うな……と感じたものである。

かつてぼくの勤めていた学校の教頭は、ぼくが「総合的な学習の時間」において旭山動物園と連携して学習を組んだときに、札幌市の学校なんだから円山動物園と提携すべきだと言っていたと聞く。そういうことを考えられるようにならないとダメだ、とも……。これもまた、ぼくにとってはどうでもいいことだな、と思った記憶がある。

ぼくにとっては、「札幌の教育」も「那覇の教育」も同じである。札幌の教師だから、北海道の教師だからという理由で、「札幌の教育」や「北海道の教育」を特別視するという感覚がない。おそらくこのあたりには世代論の問題がある。

ぼくより10歳上の世代は、間違いなく「札幌の教育」を考えている者が多い。そしてぼくより10歳下の世代は、おそらく先輩教師から「札幌の教育」などという言葉を聞いたこともないのだと思う。おもしろいものだな、と思う。

こんなふうに考えてくると、ぼくの中の教育は「目の前の子供たち」と、「文部科学行政」や書籍として提案されている各種教育論のみで形作られていることに気づく。おもしろいものだな、と思う。

そういやぼくは、「厚別の教育」という言葉も、「向陵の教育」という言葉も、「上篠路の教育」という言葉も、「北白石の教育」という言葉も、どれも一度も使ったことがない。そんなものはあるはずがないとさえ思っている。いや、正確に言えば、そんな用語を思いついたためしさえない。「○○の教育」という理念があって、そこから演繹的に実践が生まれることなんてあり得ない。そこに所属する人々(教師も生徒も保護者も地域も)が様々なバランスの中でからみあって、偶然なんらかの実践が生まれるだけである。人間のやることである。常にそういうことに過ぎない。そんな気がする。

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