たまたま崩壊していない学級
たまたま崩壊していない学級っていうのが、全国いたるところに存在しているような気がします。それもものすごい数で。いまは運良く崩壊していない学級ということです。崩壊しないための手立てを何も講じていないのに、たまたま子供の質がよくて、たまたま地域の教育力がいまだに残っていて、たまたま学校の教育力がいまだに残っていて、それに気づくことなく、その状態を当然と思いながら、運営されている学級。そんな学級がたくさんあるような気がしています。
特にそういう学級は中学校に多いように思います。ある学級が落ち着かなくなってくると、学年のベテラン陣はその担任を傷つけないようにと、裏で手を回して幾人かの先生によってその学級の落ち着きのなさを指導します。それも授業中に指導します。授業という密室の中で指導されるわけです。自分の学級に来ている幾人かの教科担任が一斉に同じことを言い出した。それを察知した生徒たちは気をつけて生活するようになります。学年の中心を担っている先生方に一斉ににらまれては大変だというわけです。
多くの場合、そうした動きに担任は気がつきません。先生方もその担任を傷つけないようにと気を遣い、生徒たちも複数の先生方にそんな指導を受けたということを自分たちの担任に気を遣って言わない……そんな状況になります。
多くの小学校が学級崩壊に見舞われています。いまや崩壊した学級が一つもないという小学校は希少価値になってきました。有名国立、有名私立においても、そうした現象が起こりつつあるようです。中学校の立場からすると、中学校のように上のような組織的な動きが行われれば、おそらく6割~7割の学級崩壊は防げるだろうと思われます。
3割~4割の崩壊がなぜ防げないかというと、そうした学級の先生方は他の先生方の側面からの指導では効かないほどに、キャラの濃い「崩壊触媒性」を放っているからです。つまり、「他の先生が言うとおりだ」と自分たちも思うけれど、それでもその先生の具体的な一つ一つの指導の在り方に接したときに、我慢ならないほどに理不尽なことを言われてしまう、そう子どもたちが思っている場合です。
〈スキル〉とか〈システム〉とかを学べばいいと若者は思っています。しかし、外で学んできた〈スキル〉や〈システム〉が多いほど、教師としての力量が上がるわけではありません。外で学んできた〈スキル〉や〈システム〉を自分の学級に合わせて修正し、それらの〈スキル〉が一貫性をもって機能するような〈システム〉を構築してこそ学級は安定するのです。そしてまた、子どもたちに合わせてそうした〈スキル〉を機能させる〈システム〉を構築する志向の確実性こそが、教師としての力量なのです。
OSが不完全なままにいくらソフトをインストールしても機能しません。かえってフリーズするだけです。ソフトをインストールすること以上に大切なことは、OSをヴァージョン・アップさせることなのですが、年に数回の研究会参加や研究授業といった研修の場程度では、なかなかOSのヴァージョン・アップはできません。やはり職場の中に、先輩教師から後輩教師へという伝達の仕組みがあり、ダメ出し指導が適切になされる雰囲気がある、それ以外には道はないように思います。逆に言えば、そういう仕組みと雰囲気とをもった職場では、若者が著しいのびを示すものです。
ぼくの経験から、これだけは確信をもって言えます。
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