知ることが必ずしも絶対善ではない
知ることが必ずしも絶対善とは限らない。
最近よく思うことである。それは自分の実感3割、他人の話から6割、書籍の情報1割、そのくらいの比率でぐちゃぐちゃとこねまわし、半年くらいコトコト煮込んだ結果として、たどりついた結論である。
まず自分の実感の話からすると、20代から30代半ばくらいまでは、とにかく知ることがおもしろくて仕方がなかった。ひたすら本を読み、ひたすら研究会に参加し、ひたすら自他の実践を分析していた。
自分で語りながら、「おお、これは受けた」「あら、これは受けなかった」「おや、意外なところで受けたなあ」とか、「あっ、やっぱりこの言い方でストンと落ちたようだ」「ああ、やっぱりこの言い方では駄目だったか」「おや、意外にこんな説明がおもしろがられている」とか、授業中、生徒の反応を見ながらよく考えていたものである。
しかもそれをメモしておいて、自宅であれこれ分析する始末。確かに授業にも学級経営にも手応えを感じるようにはなった。それがおもしろくて仕方がなかった。
でも30代後半になって、自分が学年主任とか教育課程検討委員とか生徒指導を仕切る立場とかになって、状況が変わってきた。知っていることが非常にストレスフルになってきたのである。
「えっ、その年になってなってそんなことも知らないの?」
「そんなやり方で動くわけないじゃんか」
「いまなんだよ、いま! ここで様子見なんて、後にかける時間と労力を膨大にするだけじゃん」
なんてことを、他人との調整でしきりに思うようになった。もちろん、自分より若い人間に対してではない。自分より年上の教師に対してである。自分が知れば知るほど、自分より年上の人間を見る基準、ハードルが高くなっていく。
たとえば、ぼくはいま43歳だが、43歳ならぼくくらいのことは知っていなければならないし、ぼくくらいの技能はもっていなければならない。無意識的にそういう機制が働くのである。これはやっかいだ。
もちろん、普通の人が普通に仕事をしているだけ知ることなど、そうそう多くはない。しかし、そんなことは頭ではわかっていても、だれもが自分を基準をするように、どうしてもぼくもまた自分を基準にしてしまうのである。
知るということは、具体的な事象から見えてくるものが多くなることを意味している。見えるものが多くなるということは、普通の人には見えない細かなつまずきや細かなミス、細かな怠惰も見えてくるということだ。
見えれば見えるほど、それを解消したい欲望にとらわれる。普通の人なら気づきもせずに見過ごしてしまうことが、実に大きな問題のように感じてしまう。
しかし、あまりがあがあ言い過ぎると職場の和を乱してしまう。しかも、自分にできることなど時間的にも労力的にも限りがある。その結果、自分に見えるまずさのうち、6割、7割には目をつぶらざるを得ない。これがストレスなのである。
こんなことを考え始めて既に5年が経つ。
最近は割とストレスを感じることなく、目をつぶれるようになってきた。なぜ、目をつぶれるようになったかと言えば、一つ一つの見えるものに自分の中で優先順位をつけたから。それに尽きる。
次に、他人の話から考えたこと。サークル仲間とか同僚とか友人とかの中で、よく勉強している人と飲んでいると、校内でちょっとあり得ないような仕事量を抱えているという話を聞く。興味があるので具体的に聞いてみると、確かにそんな仕事量を一人でかぶるのは変だなと思う仕事量である。
できる人に仕事は集まるとは言うけれど、それにしてもひどい。
ぼくもある年、3年担任をしながら部活を主でもち、時間割をつくりながら学校便りをつくり、学年では生活係と学習係と道徳・学活係と進路サブと学年協と学年便り、おまけに教科代表に体育文化振興会の会計、PTA広報までもたされた年がある。年齢は三十そこそこだった。
しかも学年教師は20人近く、学校全体では60人以上の職員がいる学校でである。この規模の学校の時間割作成がどれだけ大変か、中学校で時間割係をやったことがある者なら想像できるはずである。43歳のいま考えてみても、ちょっと考えられない人事だ。
勉強して知ってしまうと、こんなことが起こってしまうのである。
さて、話を戻そう。若い頃から勉強を怠らず、スキルを身につけてきたある40代のある教師が、ふともらしたことがある。
「こんなことになるなら、向上心なんかもつんじゃなかった。もっと楽してる人がたくさんいるのに……。」
自分もそう思うかどうかは別として、ぼくには少なくともこの心象がよくわかる。この教師は、明らかに向上心をもったことがこのストレスにつながっている。勉強したことが仇になっている。勉強してきたことによって、いまは勉強する時間を奪われている。そういう構図がある。
この教師に対して、「それは中途半端な勉強だったからだ」と批判するのはたやすい。しかし、この世に中途半端でない勉強など決してない。それは程度問題であり、レベルの違いの程度のものに過ぎない。
おそらく多くの人にとって、知ることは必ずしも絶対善ではない。それに無意識的に気づいている人たちが、勉強しないことを選択しているのかもしれない。そんな不謹慎なことまで考えてしまう、今日この頃である(笑)。
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