ぼくの絶望感は深い
「頑張れば頑張るほど損をするシステム」
ことのは合宿の中でこのフレーズが出た。討議のさなか、何気ない発言として出たものだ。教員世界は頑張れば頑張るほど損するようにできている、と。
確かにそうである。少なくとも、時間・労力といった費やすものと成果・実入りといった得られるものとを比較した場合、時間・労力を費やして努力すればするほど、どんどん仕事が増えていく。できる人と思われると際限なく仕事が増えていく。あの人にまかせておけば大丈夫。あの人にお願いすれば大丈夫。あの人に任せよう、あの人にお願いしよう、そうなっていく。
経済効率の観点で考えてみると、確かにこれが現実のようである。もちろん、子ども相手の学級経営や授業への取り組みの話ではない。校務分掌上の事務仕事や外部団体の運営業務のことである。
校務分掌上の事務仕事や外部団体の運営業務というものは、一般に実入りの少ない仕事である。もちろん、例えば昇進を目指しているとか、ステイタスを高めることを目指しているとか、外発的な動機があれば別である。実力者と呼ばれる校長などは「昇進」や「よい転勤先」なんかをちらつかせながらこうした仕事を依頼する場合が多い。官製研や半官半民研の運営などにもこの構図があてはまることが多い。要するに、その仕事の外に目的がある場合には頑張る必然性が生まれる。
ぼくなどはいかなる仕事であっても、楽しむことができるタイプだが、それは教師の仕事のすべてにおいて原理・原則をまとめて理論化してみたい……なんていうことを趣味としている珍しい人間だからである。例えば、事務仕事が怒濤のように押し寄せてきているときには「仕事の優先順位」と「効率化の仕事術」に関する原理・原則をまとめられないかと考え、研究会の運営を頼まれれば「研究会運営マネジメント」に関する原理・原則をまとめられないかと考えながら仕事をするタイプである。つまり、その仕事の中に目的を生み出すわけだ。しかし、こんな考え方をする人間は超少数派だと思う。でも、こんな感じでいろいろなことに取り組んできたぼくのような人間も、最近は、仕事の中心が他人の面倒を見ることになってしまってまで、依頼を受け続ける必要もない……なんていうエゴイスティックな動き方をするようになってしまっている。
結局、頑張れば頑張るほど仕事が集中するというシステムは、職員室のように、管理職昇進しか対価がないような鍋ぶた組織には向かないのである。教職を労働として考えている人には頑張れば休みが増える、研究をしたいと考えている人には頑張れば大学院派遣が許される、教職が心底好きな人には頑張れば3年間学級経営と授業だけに専念させてもらえる、お金が欲しいという人には頑張れば給料が3号俸上がる、こんなふうに少し多様な外発動機を認めなければ、なかなか頑張る人は増えないだろうと思う。
教員評価、つまり教員に対する人事考課が収入アップだけという単線的な対価でおこなわれていることが、どうも教職員の意欲減退につながっているように見える。「もっと金を」「もっと地位を」「もっと名誉を」という、一般的にポジティヴと考えられている対価では、動かない者が多い。それが職員室の大きな特徴なのである。
ぼくはここ2年ほどで、これまでそれなりに頑張ってきた公的な研究団体や半官半民的な研究団体から次々に離脱している。
例えばある国語研究組織。新卒2年目からずーっと所属する部署の三役として仕事を続けてきた。研究主題をつくり、研究仮説をつくり、研究構造図をつくり、研究計画を立て、他人の研究授業を一生懸命につくってきた。ぼくが一生懸命につくれば、ぼくが転勤したとき、それを元にして新しい担当者がそれを発展させてくれ、ぼくもそれを見て勉強することができる。そういう構造が生まれると信じていた。
でも、そうはならなかった。ぼくがその区から転勤しても、ぼくが国語部会から抜けてしまってさえ、ぼくがつくった研究計画はそのまま使われ続けることが多い。他者によって発展するなんてことはまずない。いや、まずないなんてことではなく、正直に言えば、一度も見たことがない。結局、その研究は自分が発展させていくしかないのである。頑張っても結局発展なんかせず、自分の研究にしかならないのなら、共同研究なんて必要ないではないか。ぼくの絶望感は深い。
ぼくがかつて入っていた半官半民の研究団体もそうである。なあなあの研究で、下からだれかが出てくるのを待つ。後進を育てるなんていうシステムはまったくない。学生時代の恩師といっしょに現場に出てからも研究を重ね、後輩が教職に就くたびに入会させ、ダメ出しに次ぐダメ出しでなんとしても育てる……共同研究をする中で、こんなことを目的的に、しかも日常的におこなうことを当然として教員生活を送ってきたぼくから見ると、どう考えてもその研究団体はぬるかった。しかも人間関係のしがらみとか、好き嫌いとか、そういうことで人事が動きすぎる。ぼくの絶望感は深い。
ぼくは1年前、自由を得ることにした。こういう研究会からすべて抜けてしまい、国語の研究関係の管理職のいない、しがらみのないところに転勤させて欲しいということを筆頭理由にして転勤した。2009年度、ぼくは自由を謳歌できるようになった。校長には早々に管理職試験を受けるつもりがないことを宣言し、ふつうに働くことを選んだ。まわりもぼくのことを外でいろいろやっているようだが、どうやら上を目指しているのではないようだという認識だけはもってくれている。これほど精神的に楽なことはない。
校内でももちろんしがらみは生まれる。しかし、ごく近しい距離で、いっしょに仕事をしている人たちとしがらむのは普通のことであり当然のことである。ぼくはそういうのはまったくいやではない。むしろ歓迎である。むしろそういうしがらみを乗り越えて自分の力を発揮しようと思っている。もしもどうしようもなくなったときには、転勤によって、職場からは逃げることもできる。そういう期間限定的な気楽さがある。
しかし、先ほどのような研究団体は転勤しようが何をしようが、いつまでもついてまわる。自分自身が退職するまでついてまわる。しかも利用されることも多い。ある研究会で自分の役割は終えたなと休んでいたところ、突如、10分後の研究協議に研究担当として登壇しろと言われたことがある。仕方がないから、数百人の前でその日の研究授業に対する質問に対して答弁した。何分くらいだったろうか。たぶん1時間くらいだろう。ある人が紀要原稿に穴を開けたから、「堀さん、書いてくれないか」と言われて、次の日までに穴を埋めたこともある。締め切りが次の日だったのだから仕方がない。しかし、ぼくは大きく疑問だ。こういうことのある共同研究は共同研究の名に値するのだろうか。
研究協議の答弁は下の者に頼まないで、責任ある立場の者がやるべきではないか。下の者が原稿に穴を開けたら、それを埋めるのはその直接の上司ではないのか。それが通常の組織ではないのか。できる人間にあてる、できる人間に頼む。そのできる人間が逃げたら、逃げたと責める。もう組織の体をなしていない。結局、研究を純粋に目的とした研究団体ではなく、あくまでも外発的な目的と連動した研究団体だからこういうことになるのだ。地位が上に行けば行くほど研究に深い造詣を持つ。それが研究団体のあるべき姿なのである。研究について詳しくない者は上に立ってはいけないのだ。それが研究団体なのだ。
ぼくの絶望は深い。
まあ、もうやめたのだから、もういい。最初で最後の愚痴だ。
さようなら、かつて愛した研究団体たちよ。私はしょせん、あなたたたちとは無縁の存在であった。
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