本をもってゴミステーションへ出よう
3年振りに部屋を片付けたら、いよいよ限界を感じた。
書棚がどうにも窮屈なのである。かつては宝のように思われた本たちがずいぶんと遠くに行ってしまった気がする。例えば、言語技術教育関連の本とか、授業技術・教育技術関係の本とか、教育問題関係の本とか、心理学関係の本とか、社会学関係の本とか、こういったこれまでのぼくの仕事を支えてくれた本たちがどうにも鬱陶しくおもえてくるのだ。
おまけに、どうにもこうにも整理のしようのない文庫とか新書とかがごまんとある。文庫全集関係はとっておくにしても、東野圭吾とか盛田隆二とか由良三郎とかどう考えてももう二度と読まないだろう大衆小説(もう死語ですね)の嵐。これはもう捨ててもいいのではないか。松本清張や森村誠一や横溝正史はどうしようか。江戸川乱歩はとっておいたほうがいいな。何かに使えそうだから。いやいや、清張だってせっかく生誕100年だったしな。そんなこと言ったら森村だって横溝だって再び読むこともあるかもしれない……。こうして本は捨てられなくなる。
それに比べれば、新書の整理はしやすい。テーマ別に整理して必要なテーマの本はとっておき、不必要なテーマの本は捨てればよろしい。捨てたテーマが必要になることもあるかもしれない……と考える必要もない。そうなったらまた買えばいいからである。これだけ新刊があふれ、100円で手に入る古本屋もあふれている世の中である。さらにはネット書店も充実している世の中である。ふと思い出したとき、この新書が手に入らないのではないかなどと心配する必要はまったくない。
問題は時間である。大衆小説関係の文庫は「よし、捨てる!」と思い切れば捨てられるのだが、新書はテーマ別に整理する時間が必要になる。これをほんとうにやるとなったら膨大な時間がかかる。なぜなら、新書のテーマ別整理が新書だけで終わるはずがないからである。新書のテーマと単行本のテーマとは明らかにつながっている。それぞれをリンクさせているうちにこれまた作業が膨大になっていく。そのうちその作業は文庫にも派生していくはずだ。
例えば、山本七平の「空気の研究」は文庫といっても捨てるはずがない。そうすると、こんな文庫が出てきたところで、それまでの整理が一気にパラダイムシフトを起こしてしまう。そうか。「空気の研究」を整理の観点としたらこうこうこういう観点での整理も可能になる。その観点で整理し直してみよう。
あっ。諸葛孔明の兵法関係の本が出てきちゃった。この本たちと横山光輝の『三国志』60巻はいっしょに置くべきなのか否か。いっしょに置いたら、『項羽と劉邦』全21巻だっていっしょに置くことになるじゃないか。それじゃあ、司馬遼太郎もこの棚か?陽明学関係の本は? 論語の解説書は?
こんなことを考えているうちに、書庫の床は次々に平積みされた「整理を志向した本たち」によって占領されていったのが3年前。数ヶ月もたつと、誰一人、妻さえも踏み込むことのない部屋ができあがってしまったのである。いや、正確に言えば、二匹の犬たちだけはぼくの部屋に入りたくて仕方ないようだったが、あいつらを入れると別の大変さが出てくるので丁重にお断りしたのであった。
さあ、同じ轍を踏まないために、今度はどういう手でいこうか。まずは「捨てる技術」関係の本を10冊くらい買ってきて考えてみることにしようか。
こうしてまた価値のない、どうでもいい本が増えていくのである。
でも、今回は大衆小説だけは捨てよう。文庫はすべて。単行本も内海隆一郎や長野まゆみは捨てることにしよう(笑)。そう決意した。
本をもってゴミステーションへ出よう!
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