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オリジナリティ

実践研究をしていてよく思うことは、「オリジナリティのある提案が評価されるのはなぜか」ということである。他人の提案を拝聴していても、これはオリジナリティがある、これはオリジナリティがないと判断している。そして、オリジナリティありと判断した提案を価値ある提案と考える自分がいる。

若い頃、自分が何夜も徹夜してつくった提案が、2年後にある先輩教師に全国大会の提言にパクられて激怒したことがある。ぼくと付き合いの長い研究仲間も、ある研究会で提案した文書が徹底的に批判され、後にその批判した張本人が授業でその提案どおりに授業をしていたことがわかり激怒していた。以来、ぼくらはなんとなく官製の研究団体や半官半民の研究団体に距離感を抱くようになったという経緯がある。言ってみれば、このときわいてきたエネルギーが「研究集団ことのは」の現在をつくったという側面がある。

しかし、考えてみれば、「研究」とはもともとオリジナリティを出発とするものではない。まったくのオリジナルな研究などというものは、「実践」ではあり得ても「研究」ではない。「研究」というものが「科学」だとすれば、それは先人の成果を細かく記録し分析したうえで、ぐちゃぐちゃとかき混ぜてみたり、時間をかけて煮込んでみたり、或いはもともと違う世界にあったものを具材にサンドウィッチをつくってみたり、そんな活動である。

ここまで書いてみて合点がいった。

そう。「研究」にはまったくのオリジナリティはないけれども、そこには一度ぐちゃぐちゃにしたり、時間をかけたり、違う世界観を外挿的にもちこんだりという営みがあるべきなのである。ところが現場の実践研究は、官製研究ならふりかけをまぶしたり梅干しをのせたりした程度のものが「研究」としてまかりとおってしまい、組合教研なら古米・古々米・古々々米を加工もせずにそのまま食わせようとするものがいまだに「研究」としてまかりとおっている傾向がある。

おそらく、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたそのかき混ぜ方とか、時間をかけて煮込んだその煮込み方とか、外挿的にもちこんだきた別世界のかけ離れ方とか、そうした発想に驚きを感じたとき、人はその「研究」にオリジナリティを見るのに違いない。

そう考えると、一つの研究に10年とか20年とかかかるというのも肯けるというものである。ぐちゃぐちゃにかき混ぜたものを再整理したり、煮込み方に納得がいかなくて何度もやり直したり、別世界の世界観を一生懸命に勉強したり、そうしたことに時間と労力を惜しまない者だけがその「研究」にオリジナリティを感じさせることができるのである。

そう考えると、ぼくはまだ何一つオリジナリティある提案などしていないな、と反省する。

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