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教育と平等

「教育と平等 大衆教育社会はいかにして生成したか」苅谷剛彦/中公新書/2009.06.25

Image581私より11歳年長のこの著者に対して、最大限の尊敬を禁じ得ない。見事である。見事な研究者である。我が国の教育界が誇る頭脳である。他を圧倒する頭脳である。そして、他を圧倒する研究態度である。

私はこれまで、1万冊をゆうに超える書物を読んできたけれど、いかなる感動的な小説よりも、いかなる感動的な評論よりも、この書の論理の完璧さに感動した。「二十四の瞳」よりも、「おおきな木」よりも、「監獄の誕生」よりも、「太陽と鐵」よりも、いや、自分の処女作を上梓したときよりも、今日、この書を読み終わった瞬間の感動のほうが大きかった。まったく見事な研究であり、まったく見事な分析であり、まったく見事な論理であり、まさに「完璧な仕事」である。

世に教育を語る二項対立は多々ある。

経験主義か系統主義かはもとより、学力向上かゆとり教育か、個人主義か全体主義か、中央集権か地方分権か、文科省か日教組か、理論か実践か、理想主義か現場主義か、なんでもいい。とにかく、この書は、我が国が陥ってきた教育界の種々の二項対立をすべて超え、解消して見せた。それも詳細にして誠実なデータ分析と、苅谷自身がもつ日本の教育に対するロマンティシズム、もっといえば苅谷自身の日本人に対する愛との融合によって。もう教育社会学というよりは、民俗学といったほうがしっくりくるような書である。それでいて、データ収集とその分析、見事な構造的把握の仕方は紛れもなく教育社会学である。

なんという感動……。

15年前、「大衆教育社会のゆくえ」によって苅谷剛彦と出逢ったとき、私は苅谷の仕事を、いかにも教育社会学的な知見によって一般大衆に見えない構造をあばくことを核とした研究者だと捉えていた。こういう捉えをしたのは、私がまだ二十代だったということもあったかもしれない。しかし、苅谷の仕事の意味はまったく違っていた。いや、私がこの15年で成長したのと同様、苅谷も四十代から五十代へという中で成長したのかもしれない。それは私ごときにはわからない。

少なくともこの書において、苅谷の動機は日本の教育に携わる者への応援歌となっている。それも、文部行政からとか、日教組からとか、中央行政からとか、地方行政からとか、研究者からとか、教育現場からとか、地教委からとか、労働者としての教員からとか、都市の学校現場からとか、僻地の学校現場からとか、そういう立場には一切関係なく、すべての教育に携わる者への、ただ教育に携わる者という共通項に対してへの、完璧なる応援歌となっている。しかもそこには、日本人への「愛」を基盤にもっている。苅谷自身が日本という国を愛しており、日本の教育を純粋に憂いて書いているという、そうしたロマンティシズムに貫かれている。

素晴らしい。私は我が国が苅谷剛彦という研究者を生んだことを誇りに思う。それほどに素晴らしい。

苅谷が東大からオックスフォードに移ったとき、私は哀しく思ったものである。ああ、苅谷も名声を選んで海外に移ったかと。しかし、この書を読んで、おそらく苅谷はあくまで日本の教育制度に対して提案するために、欧米の教育制度のデータを集めに行ったのだと確信した。たぶん10年の後に、再び日本に戻ってくる。そのときには、我が国の教育制度を根本から変えつつ、これまでのすべての教育課題を解決するような提案を手みやげに戻るに違いない。そうも確信した。

さあ、この書が世に出てしまった以上、もうすべての教育を語る者は、少なくとも大小にかかわらず教育を〈システム〉として考えざるを得ない者は、この書を読まずして、この書の分析を踏まえずして語ることは許されないと思う。文科省はもちろん、日教組も、マスコミ人も、教育研究者も、教育実践家も、教育長も、校長も教頭も、学級経営をする一介の教師でさえ、もうこの書の論旨を無視して教育活動を展開することは許されないと思う。

苅谷が自らのロマンティシズムを出来うる限り表に出さずに、出来うる限り冷静に、誠実に、歴史的なデータと言説とを追って辿り着いたこの結論を踏まえることなく、もう教育を語ってはいけないと思う。

なんとこの書は昨年の6月に刊行されている。私は今年度、実践型の教育セミナーにかまけて苅谷を読む気分には至らず、この書を買ったまま積ん読しておいたことを後悔した。なぜもっと早く読まなかったか。自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。

この国の教育に携わる者たちよ。私たちは同志である。戦前からの共同幻想的トラウマを、私たちは無意識につながり合うことによって解消してきたのだ。つまらない表層に自己批判をするんじゃない。自らの国の教育に誇りを失うんじゃない。私たちは自信をもって良いのだよ。

この書は、私たちにそう投げかけている。

私はいま、苅谷剛彦と同時代を生きることのできる幸せを噛み締めている。そして、オックスフォードで集めたデータを、これまた冷静に誠実に分析した結果として、この国の教育を動かすための提案がなされる日を待ち望んでいる。

ああ、森田に読ませたかった……。

【追記】

このブログを読んでいる教育関係者に堀からのメッセージである。まだこの書が未読であるならば、すぐに買いなさい。そしてすぐに読みなさい。仕事なんて一日くらい休んでもかまわない。そんなことはこの書を読むことに比べたら、価値などないに等しい。そしてこの書を読んで感動できたか否か、これが、あなたが我が国の教育課題について本気で考えてきたかどうかの試金石になる。それほどの書である。

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コメント

堀先生ともあろう方が…読むのが遅いよ(笑)

投稿: 桑原憂太郎 | 2010年1月29日 (金) 21時15分

すまん。
オレは去年の後半は完全に90年代~00年代の文化論ばかり読んでたんだ。そっちの方を整理したくて。エヴァンゲリオン以降の文化論ばっかし。
その代わりといっちゃあなんだが、東弘紀とか宇野常寛とかにはえらい詳しくなったぞ。「バトルロワイヤル」論とか「リアル鬼ごっこ」論とか「デス・ノート」論とかも書けそうだぞ(笑)。

投稿: 堀裕嗣 | 2010年1月29日 (金) 22時07分

ご無沙汰しております。
辛口の堀さんの一押しの一冊。読まないわけにはいかないと思い、進路指導の隙間時間を使って読了しました。

「単純な二項対立図式に安じる教育批判の様式」による教育言説に振り回されてきた教育現場・・・教育県と呼ばれる我が県(大した教育実践は行われていないのですが)でさえも、最近は学力向上を重視する雰囲気が漂っています。振りすぎた振り子はまた元に戻る。みんな分かっているとは思うのですが・・・。

京都のネットワークでお会いできれば嬉しいですね。楽しみにしています。

投稿: こだわり国語教師 | 2010年3月 7日 (日) 09時10分

本当にご無沙汰ですね。もう何年お会いしていないでしょうか。たぶん最後にお会いしたのは、まだ20世紀だったのではないでしょうか。ぼくもいまのところ、京都のネットワークに参加する予定でいます。11月の19日(土)~24日(水)には新潟にも行くことになっています。新潟でも会えませんか? 一度、二人でじっくりと飲みたいと思っています。中学校のゆるやかな研究ネットワークをつくりたいとも思っています。

投稿: 堀裕嗣 | 2010年3月 7日 (日) 21時25分

返信が遅くなりました。
第12回日本教育技術学会(函館大会)の時以来ですね。1998年(平成10年)10月ですから、間違いなく20世紀末でした。寺崎先生と一緒に、二日連続同じスナックに行きましたね。懐かしいですね。

11月ですね。新潟までは高速道路で3時間足らずです。来年度の学年や分掌が全く分からない状況ですが、何とか合流できるようにしてみます。

ところで、私の方は5月末の全国大学国語教育学会(東京)に参加します。私も来年度の楽しみが一つ増えました。

投稿: こだわり国語教師 | 2010年3月13日 (土) 21時11分

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