別世界にいきたい
今頃は、「授業づくりネットワーク」の函館大会も終わった頃だろう。
家に閉じこもったままの冬休み。3日に学生時代の友人と飲んだ以外は、外出は年賀状を出しに行く程度。もう6日だというのに一度も車の運転をしていない。部屋を片付け、本を読み、資料を整理し、原稿を書く。それだけである。
こういう長期休業は久し振りである。
民間の研究会に登壇するようになって十数年、冬休みには必ず幾つかの研究会が重なっていた。少なくとも授業づくりネットワーク、札幌・冬の陣と題された国語科授業研究会、そして研究集団ことのは合宿などなど。こうした研究会が2~3日置きにあると、その合間はすべて提案準備に追われてしまう。ぼくは時間をかけずに要領よく講座をまとめるタイプではなく、時間をかけてじっくりと新たなものを生み出したときにだけそれを伝えたくなる、そういうタイプである。数年に一度はやはりこういう時間をつくりたいものだと思う。
先日の教師力BRUSH-UPセミナー合宿でも話題になったのだが、講座には「レクチャー型」と「研究型」がある。研究会にも「レクチャー型」と「研究型」とがある。「レクチャー型」とは講師が提案内容をもっていて、それを参加者にレクチャーする。これは説明の必要がないだろう。
問題は「研究型」である。
「研究型」とは、複数の提案者が対話を重ね、その場で何か新しいものを生み出そうというタイプの講座である。
例えば、模擬授業者二人から三人が同一教材同一場面の模擬授業をおこなう。それも10分とか15分とかではなく、少なくとも30分、できれば45分程度の模擬授業である。その後、90分~120分、みっちり三者比較の協議をおこなう。最初は協議内容が授業技術に偏るが、次第にその授業技術が選択された背景がそれぞれの授業者の学習者観・教材観・授業観・指導観・教育観・人生観の違いであることが見えてくる。
だいたいそこまでに60分~90分かかってしまう。それが見えてくると短時間ではあるが、それぞれの授業者が自らの教育観とか授業観を語り出す。そこに必ず対立が生まれる。短時間でもその対立的やりとりを参加者が聞くことによって、「そうか。この授業はそのような教育観から発祥しているのか」とか「自分はBさんよりもAさんの授業観に近いな」とか、そういうレベルでやりとりを見るようになる。講座はこのレベルまで達すると、参加者にも、そして実は提案者にも「別世界」を見せるものとなる。
ただし、協議司会者に並々ならぬ力量が必要となるのに加えて、いくら力量があっても会の趣旨を深く理解していない外部の人に頼むと失敗しやすいこともあり、この協議を捌ききれる主催者の力量が必要となる。
もう少し簡単なのは、ストップモーション授業検討である。一人の模擬授業者の授業を、これも90分~120分かけてじっくりと検討する。その際、毛色の異なる指定討論者が3~5人いることが必要である。力量のない指定討論者を立てたり参加者だけに発言を求めたりすると、授業技術論議だけに終始するか、堂々巡りの教材論に終始することになりがちである。
そこで、例えば物語の模擬授業であれば、授業技術に深い知識・技能のある人、文学教育に深い知識・技能のある人、言語技術教育や単元学習といった学習形態に深い知識・技能のある人、思想的な背景に深い知識・技能のある人、場合によっては前四者が確実にいるのを前提で、新卒や他教科専門といった素人的な人を招いて現実なバイアスや外の視点を語ってもらう、こういった多角的に検討できる構成が必要である。
いずれにせよ、ストップモーション授業検討も、参加者に「別世界」を見せる講座となる。提案者は自分の授業が多角的に、しかも徹底的に斬られるわけであるから、「別世界」を見るのは当然の手法である。
いま、ぼくが注目している「研究型講座」の手法は、ライフヒストリー・アプローチと呼ばれる、提案者の歴史性に注目した協議方法である。一人が模擬授業や提案をおこなう。たぶん、1時間の授業よりは、学級経営論とか特別活動実践報告とか生徒指導論とかがいい。これまでの教師としての経験を踏まえた全人格的な要素をもつ提案になりやすいからである。授業についてであれば、おそらく「国語科授業づくり・5つのポイント」のような、実質的には授業論を語ってもらう形態の講座がいい。
これを最低でも180分、できれば300分くらいかけて、みっちりと検討することが必要である。昨年の「授業づくりネットワーク東京大会」はこのライフヒストリー・アプローチを旗印とした研究会だった。ぼくはこの手法に興味があって参加したわけだが、どうにも検討時間が短すぎて何一つ深まらなかったという印象を受けた。
もう一つ、これは大きな研究大会には向かないな、とも感じた。対話者が提案者に一つ一つ質問していくわけだが、どうしても対話者が参加者に有益になるように本質的な質問をしようと急ぎすぎてしまうのだ。おそらくライフヒストリー型検討は、いくつかの本質的な質問のまわりに、その何倍もの膨大な退屈な質問、経緯の説明、四方山話、といったものを必要とする手法である。そうした退屈な時間をともに共有できるような人間たちで行わなければ、なかなか機能しない。
しかしおそらく、これが機能したときには、参加者にはもちろん、提案者にも自分で気づいていなかった自己発見が見られる。そういう手法である。参加者にとっては、「なるほど、そういう経験が一見まるっきり異なった○○という場面に活きているのか。」「授業だけで授業を考えてもいけないし、教育だけで教育を考えてもだめだなあ。」「そうか、同僚との出会いって大切なんだなあ。反面教師でさえ大切なんだ。」といった学びが生まれる。提案者にとっては、「そうか。無意識にあのことへのこだわりがあったんだな」とか、「ああ。結局、オレはあの手法を避けていたのだな」とかいった学びが生まれるはずである。
これを「別世界」といわずになんと言おう。ライフヒストリー・アプローチは、おそらくここまでいかないと意味がない。
しかし、これは机上の空論。数日後、「研究集団ことのは」合宿で初めて試してみる。その成果と課題によって、もしかしたら一般の公開研究会でも可能な手法が開発できるかもしれない。それを楽しみにしているところである。
さて、最後に、これらの「研究型講座」が「ワークショップ型」として見事に機能しているのがおわかりだろうか。世に言われる「ワークショップ型授業」や「ワークショップ型研究会」は、その場のちょっとした気づきを交流しているだけで、それを徹底して深めるということをしない傾向がある。対立や理解し合えない立場を前提とした「対話」も成立していない。ぼくにはチャットのおしゃべりやツイッターのつぶやきあい程度にしか見えない。
もちろん、これを1年間かけて教室でおこなうのであれば、話は別である。一つのことを長く続ければ、学習者は必ず「自分なりの学びの視点」「自分なりの学びの観点」を編み出す。それは数ヶ月すれば、間違いなく機能するようになる。ぼくが言っているのは、あくまで単発の研究会の話である。
ここ数年、ワークショップやファシリテーションといったものを学んできて、ぼくはいまのところ、こんなことを考えている。
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