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2010年1月

TRUE BLUE

「TRUE BLUE」MADONNA/1986

Image5861986年。MADONNAの3枚目のアルバムだったろうか。確か、「バーニング・アップ」「ライク・ア・ヴァージン」に続いての3枚目だったと思う。

話によると、どの曲もシングルカットできるように、そしてアルバム自体もメガヒットするように、「売れる曲」だけで構成するというコンセプトでつくられたらしい。確かに「売れる曲」だけでつくられている感がある。

セミナー準備のために数十冊の本をぱらぱらめくりながら、BGMとして流し続けていた。このアルバムを流していると、書斎が心地よい空間になる。仕事も進む。気分もいい。

たいしたものである。

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WONDERFUL LIFE

「WONDERFUL LIFE」BLACK/1987

Image5851987年。このコーナーで何度も紹介しているが、名盤である。

いかにもイギリスっぽいボーカルとサウンド。スパンダー・バレエをもうちょっとソフトにした感じ。

No need to run and hide. It's a wonderful wonderful life.

タイトル曲はこんなシンプルな歌詞。たまらなくいい曲です。

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初公判

加藤智大被告の初公判関連の報道について、ネット上にある目についたものをすべて読んでみた。加藤智大を宅間守と類比的に論じるものが多く見られるが、どうやら宅間守とは一線を画すようである。この裁判は追っていかなければなあ……と思っている。

判決後、多くの裁判記録が出版されるであろうが、リアルタイムでの報道をストックしておき、おそらくは1年後くらいに出版されるであろう幾冊かの裁判記録を読むときに、報道と比較対照しながら読みたい。そう思っている。

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起承転結9

「起承転結9」松山千春/2002

Image58490年代末から21世紀へ。この頃の松山千春はいろいろと実験しながら、ドラマに出たりインスト曲をつくったり、おもしろいことをやっていた時期だなあと思う。

「起承転結」も9作目。ああ、次は二桁になるのだなあと感慨深く感じた記憶がある。それとともに、6曲目の「soupir」を聴いて、松山千春がこんなことをするのかと驚いた記憶もある。アレンジの夏目一朗のセンスを感じさせる曲でもあった。

お勧め。

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DESERT MOON

「DESERT MOON」DENNICE DeYOUNG/1984

Image5831984年。STYXのDENNICE DeYOUNGの初のソロ。「DESERT MOON」が大ヒットして、谷山浩子がカヴァーしていたっけ。

この年、STYXからはTOMMY SHAWもソロをリリースしていた。きっと、「KILROY WAS HERE」がいまいちで、ちょっとメンバー間にすきま風が吹いていた時期なのだろう。

それにしても、激しいロックからバラードまで、デニスがやりたかったことはこういうことだったのか……と思わせるような、出来のいいアルバムである。「DESERT MOON」はいま聴いてもまったく古びれていない、名曲です。あのPVも良かったなあ。

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AFTERMATH

「AFTERMATH」沢田研二/1996

Image5821996年。80年代後半から90年代前半のバラードの名曲を集めたベスト盤。

沢田研二にしか歌えない、沢田研二だからこそ歌いこなせた、というタイプの名曲ぞろい。アルバムとしての統一性もあり、完成度の高い、完璧なバラードベストである。

現在、アマゾンの中古品が15,300円で一枚だけ出ていた。この値段を出す価値があるアルバムだと思う。そもそも出品している人間の気持ちがぼくにはわからない。

沢田研二が40代になって、テレビへの露出は少なくなったけれど、いよいよ歌には円熟味を増してきてバラードがよく似合ってきた……そんな時期の名曲を集めているので、本当に聴きごたえがある。

これでもこの時期のアルバムには、このアルバムに収録しきれなかったバラードの名曲がたくさんあるほどに、この時期の沢田研二のアルバムは充実していた。「Co-Colo」の活動がずいぶんと彼の歌う姿勢を変えたのではないか、そんな気がする。

繰り返しになるが、80年代半ばから90年代半ば頃までの沢田研二のアルバムは、ほんとうに充実していた。そのほとんどを、いまでも繰り返し聴き続けている。

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植木早百合先生

訃報がはいった。

植木早百合先生が亡くなったのだ。

中学校1年次の国語の教科担任である。

ああ。

なぜ、逝ってしまったのですか。

あなたに出逢わなければ、私はいま、国語教師などという職には就いていなかったでしょう。

28歳。あなたは若く、美しく、母親のようなふくよかさと、ケラケラと笑う無邪気さとをあわせもった、理想の女教師であった。あなたに褒められたくて、私は国語を頑張ったのではなかったか。あなたに褒められるためだけに、私は国語の点数を欲したのではなかったか。

ああ、早百合先生!

もう一度、私に「オッベルと象」を授業せよ。

もう一度、私に文節を教え、体言と用言の見分けを教えよ。

もう一度、私に「保昌と袴垂」の暗唱を強要せよ。

ああ。

みな逝ってしまう。

私の愛する師は、みな若くして逝ってしまう。

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教育と平等

「教育と平等 大衆教育社会はいかにして生成したか」苅谷剛彦/中公新書/2009.06.25

Image581私より11歳年長のこの著者に対して、最大限の尊敬を禁じ得ない。見事である。見事な研究者である。我が国の教育界が誇る頭脳である。他を圧倒する頭脳である。そして、他を圧倒する研究態度である。

私はこれまで、1万冊をゆうに超える書物を読んできたけれど、いかなる感動的な小説よりも、いかなる感動的な評論よりも、この書の論理の完璧さに感動した。「二十四の瞳」よりも、「おおきな木」よりも、「監獄の誕生」よりも、「太陽と鐵」よりも、いや、自分の処女作を上梓したときよりも、今日、この書を読み終わった瞬間の感動のほうが大きかった。まったく見事な研究であり、まったく見事な分析であり、まったく見事な論理であり、まさに「完璧な仕事」である。

世に教育を語る二項対立は多々ある。

経験主義か系統主義かはもとより、学力向上かゆとり教育か、個人主義か全体主義か、中央集権か地方分権か、文科省か日教組か、理論か実践か、理想主義か現場主義か、なんでもいい。とにかく、この書は、我が国が陥ってきた教育界の種々の二項対立をすべて超え、解消して見せた。それも詳細にして誠実なデータ分析と、苅谷自身がもつ日本の教育に対するロマンティシズム、もっといえば苅谷自身の日本人に対する愛との融合によって。もう教育社会学というよりは、民俗学といったほうがしっくりくるような書である。それでいて、データ収集とその分析、見事な構造的把握の仕方は紛れもなく教育社会学である。

なんという感動……。

15年前、「大衆教育社会のゆくえ」によって苅谷剛彦と出逢ったとき、私は苅谷の仕事を、いかにも教育社会学的な知見によって一般大衆に見えない構造をあばくことを核とした研究者だと捉えていた。こういう捉えをしたのは、私がまだ二十代だったということもあったかもしれない。しかし、苅谷の仕事の意味はまったく違っていた。いや、私がこの15年で成長したのと同様、苅谷も四十代から五十代へという中で成長したのかもしれない。それは私ごときにはわからない。

少なくともこの書において、苅谷の動機は日本の教育に携わる者への応援歌となっている。それも、文部行政からとか、日教組からとか、中央行政からとか、地方行政からとか、研究者からとか、教育現場からとか、地教委からとか、労働者としての教員からとか、都市の学校現場からとか、僻地の学校現場からとか、そういう立場には一切関係なく、すべての教育に携わる者への、ただ教育に携わる者という共通項に対してへの、完璧なる応援歌となっている。しかもそこには、日本人への「愛」を基盤にもっている。苅谷自身が日本という国を愛しており、日本の教育を純粋に憂いて書いているという、そうしたロマンティシズムに貫かれている。

素晴らしい。私は我が国が苅谷剛彦という研究者を生んだことを誇りに思う。それほどに素晴らしい。

苅谷が東大からオックスフォードに移ったとき、私は哀しく思ったものである。ああ、苅谷も名声を選んで海外に移ったかと。しかし、この書を読んで、おそらく苅谷はあくまで日本の教育制度に対して提案するために、欧米の教育制度のデータを集めに行ったのだと確信した。たぶん10年の後に、再び日本に戻ってくる。そのときには、我が国の教育制度を根本から変えつつ、これまでのすべての教育課題を解決するような提案を手みやげに戻るに違いない。そうも確信した。

さあ、この書が世に出てしまった以上、もうすべての教育を語る者は、少なくとも大小にかかわらず教育を〈システム〉として考えざるを得ない者は、この書を読まずして、この書の分析を踏まえずして語ることは許されないと思う。文科省はもちろん、日教組も、マスコミ人も、教育研究者も、教育実践家も、教育長も、校長も教頭も、学級経営をする一介の教師でさえ、もうこの書の論旨を無視して教育活動を展開することは許されないと思う。

苅谷が自らのロマンティシズムを出来うる限り表に出さずに、出来うる限り冷静に、誠実に、歴史的なデータと言説とを追って辿り着いたこの結論を踏まえることなく、もう教育を語ってはいけないと思う。

なんとこの書は昨年の6月に刊行されている。私は今年度、実践型の教育セミナーにかまけて苅谷を読む気分には至らず、この書を買ったまま積ん読しておいたことを後悔した。なぜもっと早く読まなかったか。自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。

この国の教育に携わる者たちよ。私たちは同志である。戦前からの共同幻想的トラウマを、私たちは無意識につながり合うことによって解消してきたのだ。つまらない表層に自己批判をするんじゃない。自らの国の教育に誇りを失うんじゃない。私たちは自信をもって良いのだよ。

この書は、私たちにそう投げかけている。

私はいま、苅谷剛彦と同時代を生きることのできる幸せを噛み締めている。そして、オックスフォードで集めたデータを、これまた冷静に誠実に分析した結果として、この国の教育を動かすための提案がなされる日を待ち望んでいる。

ああ、森田に読ませたかった……。

【追記】

このブログを読んでいる教育関係者に堀からのメッセージである。まだこの書が未読であるならば、すぐに買いなさい。そしてすぐに読みなさい。仕事なんて一日くらい休んでもかまわない。そんなことはこの書を読むことに比べたら、価値などないに等しい。そしてこの書を読んで感動できたか否か、これが、あなたが我が国の教育課題について本気で考えてきたかどうかの試金石になる。それほどの書である。

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ふうせん

探してみると、意外と簡単に見つかった。厚別中学校時代のものは二つの段ボールにまとめてあった。そのうちの一つに、当時の指導案や別の学級文集、卒業アルバムといっしょに新卒の学級1年2組の文集「ふうせん」が入っていた。

早速開いてみると、先日の講座で扱った自作の詩は一つの連がまるまる抜けているということがわかった。この「わすれもの」は担任の巻頭言とともに見開き2頁で掲載されている。

「ふうせん」札幌市立厚別中学校1年2組作文集創刊号

   わすれもの

 なみだ
 ときにかなしくて
 ときにくやしくて
 ときにうれしくて

 夕暮れの帰り道
 たて笛のメヌエット
 たんぽぽのわたが
 風とたわむれて

 放り出されたリュックサック
 机に貼ったシール
 徹夜で縫ったハチマキ
 校庭に折れたミニスキー

 なにもかもがなつかしい
 おおきなおおきなわすれもの

  《 昭和六十三年七月 真駒内にて 堀 裕嗣 》

人は、
自分が小さかったときのこと、
覚えているようでなかなか覚えていないものです。
それはすぐに忘れてしまうからです。
あの時、
「何を考えていたのか」と思うとき、
これをご覧なさい。
きっと、
「わすれもの」を見つけることが出来るでしょう。

これが全文ですね。

うん。我ながらいいことを書いています。24歳の新卒にしては上出来でしょう(笑)。

Akikoは「イスの音」という文章を寄せている。Kazuは「水泳での奇跡」、Yokoは「市民大会へ向けて」という作文を書いている。1学期で転出したShinnosukeの作文もちゃんと載っている。当時、絶対にShinnosukeの文章も載せるのだと、使命感をもっていたのを想い出す。

いまのぼくを知っている人には想像もつかないだろうが、ぼくはかつて、まぎれもない「綴り方教師」だった。しかもたった5年間だけ。どうも「わすれもの」を見つけてしまったようである。

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KISSING TO BE CLEVER

「KISSING TO BE CLEVER」CULTURE CLUB/1982

Image580またまた高校時代に聴いていた音楽にはまり始めているようで、まずいなあと感じています。

このアルバムはだれがに何といおうと名盤です。CULTURE CLUBは決してイロモノではありません。「COLOUR BY NUMBERS」にはちょっとウケねらいのところがありますが、「KISSING TO BE CLEVER」はしっかりと完成度をねらったアルバムになっています。

聴いていてこんなに心地よいアルバムというのはそうあるものではありません。

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社会的な身体

「社会的な身体~振る舞い・運動・お笑い・ゲーム」荻上チキ/講談社現代新書/2009.06.18

Image579ぼくのような世代から見ると非常に新しく見え、しかも有益な情報に満ちている。90年代に青春期を過ごしたネット漬け、ゲーム漬けの世代から見ると、さして新しいことは言っていないのかも知れない。とにかく、ぼくには魅力的な一冊だった。

頁を折り、線を引いた箇所は数知れず。ゲームの種類やアニメキャラの種類といった具体例はまったく理解できなかったが、著者のきれいな(場合によってはぎれいすぎる)分類は、今後、いじめ論やキャラクター論など、生徒変容論を語るうえで有益な情報にあふれていた。しばらく手放せない一冊になるように思う。

ただ整理して自分のものにしていくのにそれほど時間はかからないだろうな、とも思う。それだけ著者の分類・整理がきれいすぎて、捨象しているものが多いということでもあるのだろう。

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ST. ELMO'S FIRE

「ST. ELMO'S FIRE」ORIGINAL SOUNDTRACK/1985

Image578ずいぶんとバイアスがかかっていることは百も承知なのだが、この映画は大好きな映画で、このサントラもお気に入りの一枚である。

滅多に聴くことはないのだが、聴いているとワンシーンワンシーンが浮かんでくる。大ヒットしたジョン・パーのタイトル曲、ビリー・スクワイア、ジョン・アンダーソン、エアプレイ、そしてデヴィッド・フォスター。すごいアルバムである。

映画の方も、ロブ・ロウ、アンドリュー・マッカーシー、デミ・ムーアなど、名優が出演していた。そういえば、アンドリュー・マッカーシーの「マネキン」も好きなコメディだったっけ。近いうちに見てみよう。

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24Km

【YAHOOニュース/2010.01.26.16:37】

北海道美唄市大富の無職朝倉清司さん(80)が車にひかれ、約24キロ離れた奈井江町の路上で遺体で見つかった事件で、自動車運転過失致死などの容疑で逮捕された左官業松本英樹容疑者(47)が、調べに「ゴンとぶつかった後、何かを引きずる感覚があった」と供述していることが26日、道警への取材で分かった。/美唄署などによると、松本容疑者は25日に逮捕された際、「雪の塊にぶつかったと思った」と供述し容疑を否認。ひいたのが人かどうかの認識についてはあいまいな供述をしている。

24Kmである。すごい話だ。引きずられた80歳の男性も気の毒だが、引きずった方の47歳の左官屋さんも気の毒だ。普通に考えれば、この男性は人を引きずっていたことに気がついていなかったのだろう、と思われる。わかっていたら、24Kmもの長い距離を引きずるはずがない。もしもわかってて引きずったのだとすれば、それはちょっとぼくらの想像を絶する倒錯した話になってくる。

この件、1日前の記事ではこう書いてある。

【時事ドットコム/2010.01.25.11.55】

北海道奈井江町で2日、車にひかれ、約24キロ引きずられたとみられる美唄市大富の無職朝倉清司さん(80)の遺体が見つかった事件で、道警美唄署は25日、月形町の左官業松本英樹容疑者(47)を自動車運転過失致死と道交法違反の疑いで逮捕した。同署によると、「雪の塊みたいなものにぶつかったと思った」と容疑を否認している。/逮捕容疑は2日午後6時15分ごろ、美唄市大富の道道上に倒れていた朝倉さんを車でひいて死亡させた疑い。/道警交通捜査課などは、松本容疑者の車の底に毛髪が付着していることなどから、同容疑者が朝倉さんをひいた後、美唄市から奈井江町まで約24キロにわたり引きずったとみている。DNA型鑑定などで、毛髪が朝倉さんのものかどうか特定する。/朝倉さんは2日午後6時すぎ、美唄市大富の道道で倒れているところを通行人に発見されたが、その後見当たらなくなり、奈井江町の奈井江大橋上で遺体が見つかった。同課などは、朝倉さんが道路上に倒れていた経緯も調べている。

要するに、被害者は道路に倒れていたということだ。1月2日。雪はどのくらい積もっていたのだろうか。もしも被害者の上に雪が多少なりとも積もっていたとしたら、自分も同じことをしていたかもしれない……そう思うとぞっとする。

通行人に発見されたのに、その後、見当たらなくなった……というのは、どういう状況なのだろうか。どうもうまく想像できない。通行人の方が救急車を呼びに行っている間に加害者が引きずっていってしまったということなのだろうか。

数年前の冬、学校の帰り道、信号待ちをしていたところ、道を渡っているおじさんが突然倒れたことがある。信号待ちをしていた車の人たちは、ぼくを含めてすぐに救急車を呼んだ。近くの店の人たちも仕事そっちのけでそこに集まってきて協力してくれた。結果的に、そのおじさんはただの酔っぱらいだったのだが、ぼくはその人たちの動きを見て、この国もまだまだ捨てたものではないな、と思ったものである。

この男性が倒れていたという大富という場所がどういうところなのか、ぼくは知らない。もしかしたら、近くに家や店などなかったのかもしれない。だから近隣住民がぼくが経験したような動きが出来たのか否かもわからない。いや、近くの人に助けを求めているうちに、こういうことになってしまった可能性だってある。ただ、「通行人」というからには、発見者はおそらく歩行者であったはずである。ということは、そんな寂しい場所でもないだろう。頭の中はこんなふうに、あっちこっちにぐるぐるとまわっていく。

ふう。

それにしてもいたましい事件である。

朝倉清司さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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ぼくらが甘い

毎朝の大渋滞にも慣れてきた。夏には6分だった通勤は、今冬は25分かかるということがわかった。ということは、8:25までの出勤だから、10分前に着くことを目指して7:50に家を出ればいいという結論に落ち着いたわけである。

今年、札幌市の除雪の基準が変わった。予算削減のために、中道の除雪が我々から見れば不完全なのである。従って、夏場なら二車線あった道路が軒並み一車線になっている。道路が一車線になるということは、バスが停留所に停まると、その後ろの車は一切動けなくなるということである。まあ、それも仕方ない。そもそも愚痴を言ったからといって、方針が変更されるわけでもない。

しかし、国が貧しくなるということはこういうことなのだなあ、とつくづく思う。

子供の頃から、生活は常に便利になる方向に向かうものだと思っていた。不便になる生活に向かうなんてことは予想したことさえなかった。しかし、年配者に聞くと、この程度のことはあるもんだよ、と口をそろえて言う。

居酒屋のおやっさん、居酒屋でいっしょになったおじいちゃん、この道40年というタクシーの運転手さん、10年近く前に退職した校長先生、取材した年配者はみんなそう言った。結論が見えた。要するに、ぼくらが甘いのである。

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臨月

「臨月」中島みゆき/1981

Image5771981年。

賛否はあるだろうが、ぼくは中島みゆきの最高傑作はこれだと思っている。ただし、中島みゆきのアルバムは12枚しか持っていないし、聴いていない。しかし、ぼくが持っている12枚の中で、このアルバムは他の11枚を圧倒している。

「何ンにつけ一応は絶望的観測をするのが癖です」と始まる「あした天気になれ」から、「あなたが海を見ているうちに私少しずつ遠くへゆくわ」と静かに語る「あたなが海を見ているうちに」へと続く、冒頭の二曲の展開がたまらなく好きである。

「あわせ鏡」「ひとり上手」「雪」「バス通り」「友情」「成人世代」「夜曲」 どれも名曲揃いである。

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人生ベストテン

「人生ベストテン」角田光代/講談社文庫/2008.03.14

Image576初めてこの作家の小説を読んだ。セミナーで他の登壇者が講座をやっている折、暇をもてあまして入った書店で平積みにされていた。イッセー尾形が帯にコメントを寄せていたので、思わず手に取った。どうせ暇なのだからと買った。

2003年の作品らしい。

セミナー会場に戻って、森くんの講座中に表題作を読んだ。ぼくの読んだことのないタイプの小説である。女のやわらかい視座がある。したがって、ぼくの好みではない。何かを学んだり何かを感じたり、そういうことのない小説である。文章もそれほどうまいわけではない。

しかし、帰宅してソファに寝転がって、6編の短編すべてを読んだ。どうでもいい日常の中にある、ちょっとだけ変わった出会い。人生を劇的には変えないけれど、精神にはちょっとだけ何かを遺す出会い。共通して描かれているテーマは要するにそういうこと。一コマ一コマの切り取り方に特徴があると言えばある。アングルの使い方はうまいのかもしれない。

いま流行している文学性というのはこういう〈日常性〉なのだな、と感じた。そういう意味では、読んで良かったと思う。

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アクロスティック

主教材を決めたら

人物像をつかむ

公的な言葉と私的な言葉とに分け

はまったと思えるまで読み込む

ベテランであろうと若者であろうと

ルーティンにならないよう

ナルホド感がわくまで

できるだけ繊細にこの作業を続ける

はしゃいだり

ないたり

くやしい思いをしたり

わたしもずいぶんとしてきたけれど、

たった一つの解を求めたりせずに

しんけんに教材と向き合うことが大切だ

だって、ぼくらは国語教師なんだから

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ゆるい講座

準備1時間。いつもと比べて手抜きの講座……といっては言葉が悪いが、ごくごく簡単につくった講座だった。これの評判がいいというのは、ちょっと複雑。なんとも皮肉。

まあ、詩については学生時代から最も研究(というには半端なのだが)してきた領域で、準備しなくても口頭で語れることが多かったのは確か。また、なにせ本文が短いので、常に全体像を提示しながら細かなことを語れるというのもミソ。やっぱり物語や小説の講座とは一線を画す。おそらくそういうことなのだろう。

今回は21歳のときに綴った自作の詩を教材候補の一つとして提示したのだが、三木露風の「赤とんぼ」、まど・みちおの「キリン」と比べて、ぼくの詩の方がいいと感じてくれた参加者が5人もいた(笑)。嬉しいのは嬉しいのだが、この出来の悪い詩を好んでくれる人がいたのは問題と言えば問題なのかもしれない。

学生時代、年に数編の詩を創作することがゼミのならいだった。毎年、浜益村の民宿でゼミ合宿をする際、二十数名のゼミ生が全員一遍ずつ詩を編む。作者を伏して一覧にした創作詩をみんなで解釈し合い、作者をあてっこする。だれもが楽しみにしている夏のイベントだった。感性の陶冶……創作なくして詩心は感受できない、そんな合い言葉に奮い立ったのを昨日のように想い出す。今回提示したのは、そんなゼミ合宿に提出した創作詩の一つである。大学2年、21歳の作である。

Akikoからもリクエストがあったので、全文をあげておく。

   わすれもの

    なみだ
    ときにかなしくて
    ときにくやしくて
    ときにうれしくて

    放り出されたリュックサック
    机に貼ったシール
    徹夜で縫ったハチマキ
    校庭に折れたミニスキー

    なにもかもがなつかしい
    おおきな
    おおきな
    わすれもの

この詩をいいと言ってくれた参加者には申し訳ないのだが、この詩は駄作である。まず韻律が悪い。論理的にも言葉の結びつきが弱く、直接的な形象性だけに頼り切っている。象徴的な表現も皆無で、読者にとっても作者にとっても何一つ発見がない。センスのない歌詞みたいなものに過ぎない。言ってみれば、昔、「My詩集」でよく見かけたような、甘ったるい詩である。

つくった本人から見れば、あたりまえである。ゼミ合宿の作者あてっこで、自分が作者だとあてられないような甘ったるい詩を、つまりは作者がゼミの女の子だとみんなが思うであろうようなものを、わざとつくって提出したのだから。つまりは遊びでつくった詩なのである。これをまじめに受け取られても困る。

さて、講座である。

今回は講座の全体構成を大きなワークショップとして位置づけた。つまり、詩教材としてのふさわしさとは何かを参加者に考えてもらって交流してもらう。それを受けて、ぼくが詩教材の特性について、良い詩教材とは何かについて、ちょっとしたワークを用いて3点あげる。その3点を学んだうえで、もう一度、冒頭の問いに戻って交流する。こういう構成である。ぼくがよく使う授業構成でもある。

冒頭のワークと最後のワークで変容が見られれば良し。変容が見られなくても、深まっていれば良し。そうした変容分析が授業では評価対象となる。まあ、講座ではそこまでは求めなかったけれど。ただけっこうおもしろい議論が交わされていたのは耳に入ってきたことだけは確か。

スライドは全部で9枚。三編の詩を載せた教材プリントが1枚。たったこれだけで90分。参加者同士の交流が約20分。模擬授業が約30分。「赤とんぼ」のCDをみんなで聞いていた時間が約10分。まあ、長い講座というのはこのくらいのゆるさがちょうどいいのかもしれない。

今年は、これでもかと情報を提示する講座構成を廃して、ゆるい講座ばかりでいこうと思っている。そのほうが参加者も疲れない。そして何より、ぼくも疲れないで済む(笑)。

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FUTURE SHOCK

「FUTURE SHOCK」HERBIE HANCOCK/1983

Image5751983年。ハービー・ハンコックの大ヒット作。

JAZZMANとしては唯一と言っていい、MTVの申し子である。

まあもちろん、これがJAZZかと言われれば賛否両論あるとは思うが、いずれにせよ、あの「ROCK IT」のPVがハービー・ハンコックを広く知らしめ、その中の何割かをJAZZの世界に引き付けたのは確かである。

ぼくも御多分に漏れず、「ROCK IT」のPVに引き付けられ、そこからマイルス・デービスとかジョン・コルトレーンとかを聴き出した。スクラッチの多用とか、テクノを意識したサウンドとか、それは80年代という時代の実験に過ぎない。むしろトーマス・ドルビーとかハワード・ジョーンズとか、或いはスタイル・カウンシルとか、ああいった時代の実験と同じ質のものなのだ。

とにかく、誰がなんと言おうと、「ROCK IT」は格好良かった(笑)。

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Welcome to My Life

「Welcome to My Life」村上“ポンタ”秀一/1998

Image574これがいいアルバムなのかどうか、傑作なのか駄作なのか、ぼくには判断がつかない。

長くミュージックシーンに君臨してきたドラマーがこれまで仕事をしてきた仲間たちといっしょに遊んでいると考えれば傑作とも言えるし、もっとアルバムとしての統一性をという考え方をすれば駄作とも言える。

聴いていて心地よいのは確か。

聴いていて面白いのも確か。

聴いていて楽しいのも確か。

聴いていてすげえっ!と思うのも確か。

取り敢えず、クレジットされている参加ミュージシャンを五十音順に挙げておく。青山純、ASA-CHANG、阿部雅士、荒木敏男、泉谷しげる、伊丹雅博、伊藤薫、井上陽水、忌野清志郎、江藤勲、EPO、大儀見元、大貫妙子、大村憲司、岡沢章、岡本エリ、小原礼、ORITA NOBOTTA、亀淵友香、KYON、窪田玉緒、GRACE、桑田佳祐、小池修、香西かおり、国府弘子、ゴンガー中根、近藤房之助、斉藤ノブ、佐藤潔、佐藤涼子、佐山雅弘、沢田研二、島健、ジョニー吉長、白井良明、神保彰、真矢、菅沼孝三、鈴木民雄、仙波清彦、高中正義、高橋ゲタ夫、高水健司、竹野昌邦、ちびしょうこ、CHAR、テツモトケンジ、富田京子、仲井戸“CHABO”麗市、中シゲヲ、中島啓江、中島大之、西村浩二、二代目高橋竹山、沼沢尚、NOKKO、野力奏一、バーベQ和佐田、バカボン鈴木、東原力哉、日野元彦、HIMARAYAN SHIMOGAMI、FUSSY KOBAYASHI、FLASH KANEKO、PECKER、本田雅人、前田康美、MALTA、MIKI TSUNODA、三沢またろう、MITSUKO、南浩之、三松亜美、村石雅行、村上奈美、村田幸謙、村田陽一、森高千里、森まどか、森山威男、矢島富雄、矢野顕子、ヤヒロトモヒロ、山下達郎、山下洋輔、山本潤子、山本拓夫、吉田健、吉田美奈子、米木康志、れいち、WAKABA KAWAI、和田アキラ、渡辺香津美。

なんだか、スネークマン・ショウとかザ・ナンバーワン・バンドとかの豪華な遊びを想い出してしまう。

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堀講座「詩の授業づくり」

講座2 国語科授業づくり・AtoZ~私の方法
教材研究から授業案立案まで、発問・指示の細案から予定外の反応の処理の仕方まで、3人の先生が、自らが日常的に取り組んでいる方法を公開します。指導事項の明確化・学習活動の多様化などについて、指導事項の何を扱い何を扱わないのか、机間巡視中にどんな観点で何を見ているのか、そしてそれはなぜか、そんな具体的な提案です。
提案3 韻文教材(詩・短歌・俳句)を中心題材として
15:15~16:45/堀 裕嗣

評定平均は4.8

この講座のPPTはここ

【感想・意見】

詩人は一般人に見えないものを見る。なるほど勉強になりました。「赤とんぼ」の授業ではうっとりしました。群読の方法、味わいました。まだよく分からなかったところを考えながら帰ります。(男性/中学校)

言葉ではイメージしづらい要素を、音楽などを交えて、巧みに解説して頂けたなと思いました。ただ、きっとわかったつもりで、家に帰ったらやっぱりよくわかっていなかった……というくらい難しい内容だったとも思いました。活動中心→説明というスタイルは、最後の講座ではありがたかったです。ほどほどに集中して学べました。(男性/小学校)

詩の授業をどうやって展開し、教材選定の仕方をどうするのかがよくわかりました。(男性/小学校)

「詩人は一般人に見えないものを見る」という言葉で、とても納得させれました。短歌や俳句に苦労しているので、今度はぜひそちらのお話も伺いたいなと思いました。(女性/中学校)

堀先生のユーモアはつぼです。A・B・C、全部やってみたいです。Cは自作の詩で。ありがとうございます。夢中で聞きました。元気になりました。今日も感動的に面白かったです。また、来たいです。ありがとうございました。(男性/中学校)

詩はとらえどころがなくて、どう教えたら良いのかと悩んでいたのですが、とらえどころがなくて良いんだと思いました!やる気が出ました。(男性/小学校)

詩に対する解釈や感じ方、表現など、改めて考えることができました。(男性/中学校)

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森講座「説明文の授業づくり」

講座2 国語科授業づくり・AtoZ~私の方法
教材研究から授業案立案まで、発問・指示の細案から予定外の反応の処理の仕方まで、3人の先生が、自らが日常的に取り組んでいる方法を公開します。指導事項の明確化・学習活動の多様化などについて、指導事項の何を扱い何を扱わないのか、机間巡視中にどんな観点で何を見ているのか、そしてそれはなぜか、そんな具体的な提案です。
提案2 説明的文章を中心題材として
13:30~15:00/森  寛

評定平均は4.7

【感想・意見】

大胆不敵。本音の授業案。面白くて、ためになりました。その授業を支える教材研究、学習者研究、素材研究。裏打ちされているのだと思いました。魅力的な授業です。自分もそのように大胆にやっていきたいものだと思いました。(男性/中学校)

指導事項を重点化することで、いらないところを削ぎ落とし、意図のある授業づくりにつながることがわかりました。(男性/小学校)

割り切り方、ここまでバッサリ厳選して授業をつくっているのだということ、指導事項の明確化の具体例が見えました。昼食後はもうれつな眠気に負けてしまうことが多々ありますが、今日は持ちこたえることができました。森先生の授業のテンポに助けられました。昼過ぎの講座で眠らずに済むのは、「ことのは」の講座くらいだなと思いました(改めて)。(男性/小学校)

目標設定をし、そこへのアプローチの仕方を学んだ。その軌道修正をすることが大切だと思った。(男性/小学校)

3時間や4時間でも密度の濃い授業をすれば子供たちに色々と力をつけることができるのだなあと思いました。教材のダメ出しも新鮮でした。(女性/中学校)

深く響くものがありました。先生とは次元が違いますが(もちろん、私が低い…笑)、私も入試は意識しています。それをここまで明確にされて、形にして、かつ一貫していて、何よりも学習者に定着させようとする先生の方法に、驚きを越えて感動を覚えます。やっぱり、すごいなあ……。(男性/中学校)

私の小学校での説明文指導は問いの文、答えの文(筆者の主張)の見つけ方(~でしょうか。~でしょう。~か)を教え、内容を読み、理解を深めるために接続語、順序を表す言葉、段落構成図の理解に重きを置いています。下地作りといった意味合いが強いのかなあ…と思っています。自分達の指導は中学校での読み取りにつながっているのか、心配になりました。中学校の教材文に、小学校で教えている内容がはっきりとした形で出てきていないもので……。(男性/小学校)

説明文の教え方として、線の引き方、ポイントの捉え方など、参考になりました。(男性/中学校)

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山下講座「物語の授業づくり」

講座2 国語科授業づくり・AtoZ~私の方法
教材研究から授業案立案まで、発問・指示の細案から予定外の反応の処理の仕方まで、3人の先生が、自らが日常的に取り組んでいる方法を公開します。指導事項の明確化・学習活動の多様化などについて、指導事項の何を扱い何を扱わないのか、机間巡視中にどんな観点で何を見ているのか、そしてそれはなぜか、そんな具体的な提案です。
提案1 文学的文章(物語)を中心題材として
11:00~12:30/山下 幸

評定平均は4.5

【感想・意見】

設定読み、描写読み、視点読み、主題読みを、自分の思考、実感をともなって経験することができました。思考・実感をさせてもらうことができて、貴重でした。「主題読み」の5段階を1コマずつ経験してみたいと思いました。「ベルナのしっぽ」一冊の読書、喚起されました。(男性/中学校)

定義づけをする意味やタイミングが目的に応じて変わってくることや、教材を深く読みとるための準備の大切さがわかり勉強になりました。主人公は読み方の自由度を保障するためにあえて特定していなかったのでしょうが、「私」とした生徒がいた場合も同様でいいのか少し気になりました。後の読みもずっとずれてしまうので……。(女性/小学校)

模擬授業で体験的に学べました。また、授業後のていねいな解説と資料が財産になりそうです。(男性/小学校)

資料p5~10の分析観点と本教材の分析結果を組み合わせたものは、とても実践的で、このように分析をすればいいのかというモデルの一つになって、貴重だと思いました。授業の軌道修正の意図などもよくわかりましたが、発問3(発問4)あたりが子ども相手の授業だったらどうだったかな、という疑問があったので4です。(男性/小学校)

実際に授業を受けてみて、ゆれる発問とゆれない発問をしっかり考えて使うことが大切であるとわかった。子ども同士が伝え合いわかり合う授業を目指したい。(男性/小学校)

登場人物、主人公の決定についてのお話が中心だったので、これから資料をじっくり読んでみたいなと思います。授業づくりのポイントなど興味深そうな記事がたくさんありました。(女性/中学校)

とてもよかったです。①授業が魅力的。おもしろくてためになる。②問いの形と意味。優れた問い。問いの形とその形の持つ意味まで示していたこと。③軌道修正の実例。わかりやすい意図、背景、見通しも示されたこと。④資料のすばらしさ。全体像、各々の段階の優れた具体例が示されていること……等々、とにかくよかったです!(男性/中学校)

小学校での国語の学習は、教材文を読み取り、自分の考え書き表し、他人の意見を聞き、深めるといった学習活動の下地を育成することが大切だと思っています。ですが、どこからどこまでを教えるのか、考えさせるのかの判断がつかない面があり、最後は「自分の考えを押しつける」など……最低な授業をしたことがあります。今回の講座2を再度、自分で検討し、授業を改善していきたいと思います。(男性/小学校)

登場人物の定義や主人公の視点からの読み取りなど、文学的文章の扱い方についてわかりやすい内容での講座だった。(女性/中学校)

主人公、登場人物のとらえ方など、とても参考になりました。(男性/中学校)

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国語科授業づくりでのつまづき~その原因の解明

講座1 ワークショップ
国語科授業づくりでのつまづき~その原因の解明
9:15~10:45/山下 幸・森  寛・堀 裕嗣
みなさんは国語科の授業づくりにおいて、どこでつまづいているのでしょうか。教材研究でしょうか。学習者の把握でしようか。それとも指導法でしようか。ただ漠然と授業をおこなっていて、正直言って、何がわからないのかもわからない…そんな方もいらっしゃることでしょう。この講座では、参加者の生の声を聞きながら、講師の先生が力量形成の方向性を示していきます。

評定平均は4.8

【感想・意見】

漠然とした絞り切れていない参加者の質問に答えてしまう講師の先生のすごさ。予想していないコメントがかえってきて大収穫でした。知りたいことも増えました。(男性/中学校)

国語科で重点的に指導しなければならない事項や授業のスタイル、板書やノート作りのポイントについての説明が聞けて良かった。(女性/小学校)

参加者が大概、同じような疑問、課題をもっており、講師の先生から生のご助言をいただくことができ、大変勉強になりました。(男性/小学校)

話の内容はためになることが多く、勉強になりました。ただ、ワークショップのフレームが甘く、話が広がりすぎてしまった感があったように思います。それゆえに堀先生の対応力のすごさに感動。(男性/小学校)

普段聞けないこと、自分の悩みが自分だけでなかったことがわかったことがよかった。それと、授業スタイルの3つのモデルのことや説明文・物語文の読み取らせ方がわかった。(男性/小学校)

途中からの参加だったのですが、4人グループの意義やノートのこと、授業のタイプのことなど、大変参考になりました。(女性/中学校)

意見・質問を吸い上げようとして下さったと思いますが、具体的なことをもっとたくさん教えて頂けた方が、結果としては良かったと思います。(男性/中学校)

おもしろい!わかりやすい!役立つことがたくさんありました。山下先生の「一つにしぼる」、森先生の「ゴールを定める」、堀先生の「授業スタイルの意識・自覚」「地上戦型発問」「ノートの機能とシステム」「視写から聴写へ」「副詞(句)」、全部よかったです。(男性/中学校)

ノート作りの方法がとても参考になりました(男性/中学校)

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国語科授業づくり・AtoZ「読むこと」編

「第10回国語科授業改革セミナーin札幌」と題された研究会が終わった。森くんと山下くんといっしょに国語科授業づくりの全体像を自分たちなりに提示してみようと始めた企画である。最初にQ&Aを90分、その後、山下、森、堀の順で授業づくりの在り方について90分ずつ語るという構成。

このセミナーを終えて、最初の90分Q&Aがずいぶんと機能したなというのが第一印象。「時間のかからない、素人でもできる教材研究の観点は?」「試験学力と豊かな言語教育とのバランスを授業でとる方法は?」「指導事項の優先順位はどうきめればいい?」といった、大きな、しかし重要な質問が次々に出る。それに次々に応えていく。90分もあるので、時間を区切らずに、ある程度ちゃんと応えることができる。ぼくらにとっては即時対応が求められるので厳しい時間ではあったのだが、かなり有益な時間でもあった。

その後、山下くんは「ベルナのしっぽ」を使って「設定」「構成」「描写」「視点」「主題」という物語の読みの5段階を、森くんが「言葉を考える」を使って授業づくりで「取り入れるべきもの」と「思い切って捨てるもの」の決め方の観点について、更にぼくが詩教材の選択、教材研究の観点について授業づくりとからめながら語る。これが90分ずつ。

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NON POLICY

「NON POLICY」沢田研二/1984

Image5731984年。ぼくが高校3年生の時のアルバム。

はずれ曲無し。名盤。ROCK色よりはPOP色の強いアルバム。ソングライターに秋元康、佐藤健、クリス・レア、南佳孝、佐野元春、原田真二など迎え、超豪華。沢田研二自身の作曲も2曲ある。80年代のジュリーらしい声、80年代らしいテクノっぽいアレンジ。

個人的には、この頃から、ものすごくアルバムづくりに力が入り始めたように感じている。これ以前のアルバムはただヒットシングルのイメージにあわせたアルバムつぐりをしていたように感じられていたのだが(実はそれでも完成度の高いアルバムは何枚もあったけれど)、80年代半ばあたりアルバムとしてのストーリーが感じられるようになってきた。Co-CoLOを始める直前の時期のアルバムなので、よけいにそう感じるのかも知れない。

いずれにせよ、このアルバムは、最高傑作とは言えないまでも、かなりの名作である。

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新しい「教育格差」

「新しい『教育格差』」増田ユリア/講談社現代新書/2009.06.20

Image572苅谷剛彦と共著を書いたこともある著者なので、期待して読んだのだが、結論から言うとイマイチ。

言いたいことはよくわかるし、結論にも整合性はある。従って、増田ユリア自身の立ち位置はよくわかる。ただ、教育を俯瞰して論じるには、著者の経っているステージが狭すぎる。

読み物としてなら、要するにエッセイとしてなら認めても良いが、これが教育論として普及するとなると、少々問題である。著者の親戚というM君のいじめられ事例は現実にもありそうだが、教師の指導姿勢や保護者の我が子を守りたいという姿勢を批判するのもけっこうであるが、なぜ、このような体制になってしまうのかという分析が欲しい。それがないと解決には向かわない。教師も保護者も黙り込むだけである。

全編を通じて数々のデータが掲載されているのだが、この分析も甘い。文科省の公表しているデータをそのまま用いて、校内暴力が増えていると結論づけたり、進学率のデータをそのまま用いて内実の場合分けをしないなど、こうしたデータの用い方が災いして現実から遊離した分析に陥っている箇所が多い。

「第三章 教員間の格差」において非常勤講師の立場からのみ格差を論じる視点には目も当てられない。これで「教師という仕事が好きだから」という感情論を随所に論拠にされても、現場感覚としては閉口させられる。

この書がAMAZONのレビューでずいぶんと高評価を得ていることも、本当に教育論ってのは「何でもありなのだなあ」と実感させられる。そういう意味では、すべての教員に読んで欲しい書である。

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かまわれたい人々

「かまわれたい人々」森真一/中経出版/2009.06.17

Image571「自己コントロールの檻」以来、この著者の新刊はすべてフォローしている。

最近は高校生向きの本を書いたり、一般向けの本を書いたりと、文章修業でもしているのだろうかと思わせるくらい、文体をやさしくしている感がある。この本もだれでも読めるように書かれているのだが、その分、読後の満足感は小さい。

ただし、社会学的な視点で構造を暴こうとの志はそれなりに生きている。ただ、現代人の葛藤の論述には少々感情論的なところが散見され、説得力に欠ける。

「おわりに」に書かれている「便所飯」の事例は初めて知ったので驚いた。これはしばらくぼくを捉えそうである。

専門書はちょっと……というタイプの社会学ファンにはお勧めかも知れない。個人的にはよいたとえ話をいくつも入手することができて有益だった。新しい知見を得たとか、目を見開かされたとか、そういった箇所は正直言ってなかった。

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関係する女 所有する男

「関係する女 所有する男」斎藤環/講談社現代新書/2009.09.20

Image570精神科医にしては床屋談義の域を出ない論述ではある。頁を折った箇所もずいぶんと少ない。男の欲望が言語的であり観念的であるとの指摘はずいぶんと古くからなされてきているし、所有原理と関係原理をまとめた230頁の表もさして新しいものとも言えない。

しかし、読み物としてはなかなかよくできていて、具体例も楽しめるものが多い。読んで損はないと思う。

これを読んでいて、かつて学生時代に渡辺淳一や澁澤龍彦の性差論を好んで読んでいた頃を想い出した(笑)。ただ、彼らの方が西洋の文学者(例えばサドとかマゾッホとか)を具体例に引いていて、当時はずいぶんと高尚に思えていたような気がする。自分が成長したということか(笑)。

どうも斎藤環は「社会的ひきこもり」で颯爽と登場した頃に比べて、商売に走りすぎている感は否めない。まあ、そういうのも必要ですけどね。

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安全地帯Ⅹ~雨のち晴れ~

「安全地帯Ⅹ~雨のち晴れ~」安全地帯/2003

Image5692003年の発売と同時に買って、封さえ切ることなく一度も聴いていなかったアルバム。年末に部屋を片付けていて、ふと出てきたアルバム。それでも半月以上放置されていたアルバム。

今日、封を切って、初めて聴いた。初期の安全地帯ばかり聴いてきたぼくには、どうもしっくり来ない。聴き込めばよくなるのかもしれないし、そうはならないのかもしれない。とにかく、現時点ではしっくりこない。この、まるで「ミッケ?」のようなジャケットもしっくりこない。

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セミナー準備、終える

土曜日のセミナー準備が終わった。資料のプリントアウトもして、あとは明日、学校で印刷するだけである。ふぅ。

いろいろ迷ったが、ぼくらしくない展開にすることにした。ほとんどがワークショップである。授業づくりの講座というと、常に演繹的な講座構成にするぼくが、今回は完全に帰納型である。

こういう構成にすると、おそらく参加者に残る配付資料はほとんどあとで見直しても講座内容の後追いができなくなる。まあ、それでも情報量の多さよりも、理解してもらって実感してもらうことを選んだということ。そういう展開にしながらも、できるだけ質は落とさないことを心がけたつもりである。

まあ毎年同じことばかりやっていても成長がない。成功するか失敗するかはわからないけれど、2010年はこれでいこうと思う。幸い、土曜日のセミナーもそれなりに参加者に集まっていただいて、この手のワークをやるにはちょうどいい人数である。

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笑顔を振りまく

3学期が始まって1週間。

明日は3年生の小評提出。今日は校務部会。昨日は教育課程検討委員会。しかも今週月曜日からスキー学習も始まっている。3年の学活は願書書きとか面接練習とか目白押し。放課後はその点検作業。調査書も進行中。

決して暇な時期ではないはずなのだが、生徒も職員もなごやかである。

職員室にとっても、学級にとっても、明るい人間がいるということが最も大切なことである。仕事なんかできなくても、笑顔をふりまく人間こそがこういうときには何より必要とされる。

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守秘義務

ブログの更新頻度が落ちてきた。学校が始まった証拠である。忙しいわけではない。表現したいことがないわけでもない。要は、頭の中がブログには書けない守秘義務対象で占められるようになってきているのである。書けないことを書くわけにはいかない。そういうことは、ワープロで記入することにしている。フォルダにいっぱい溜まっている。守秘義務対象は忘れてはならないことばかりである。

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3rd DEGREE

「3rd DEGREE」JOHNNY WINTER/1986

Image568煮詰まっている。

大きな原稿を数本抱え、土曜日のセミナー準備も進んでいない。3学期も始まって、冬休み中のようにまとまった時間がつくれるわけでもない。

こういうことを考え始めたら、JOHNNY WINTERである(笑)。

このアルバムは1986年のリリース。JOHNNY WINTERのギター、ボーカルがいいのは言うまでもないことだが、ドクター・ジョンとケン・セイダックのピアノが何ともいえない、いい入り方をしている。

ぼくはこのアルバムでJOHNNY WINTERを知った。スティーヴィー・レイ・ヴォーンを通じて知った。スティーヴィー・レイ・ヴォーンがぼくの中でかすんでいくのを感じた。いまでは十数枚のアルバムをもっているけれど、ぼくにとって、もうなくてはならない人になっている。すべてのアルバムを通しても数曲しか聴けない、アコースティックもたまらない。

数日前にライヴ盤のVol.6がリリースされたのだが、まだ届いていない。楽しみである。早く来ないかなあ。

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YokoとAkiko

11月上旬だったと思う。

すすきの。22時頃。すでにべろべろで、友人の言われるままに小さな店にはいった。あぶり鯖がうまくて更に調子よく飲んでいたのだが、店の女の子(女将)の顔にどこか見覚えがある。その女将の実兄という男が隣に座っていて、話をしているうちに名刺をもらった。Tという苗字。

これですべてがつながった。

「おまえ、T.Yokoか」

女将はきょとんとした顔。

「堀だ」とひと言、私。

「堀せんせい~」とYoko。

Yokoは私がはじめてもった学級、1年2組の生徒である。新卒の年だから、既に20年近く前のこと。2~3年は隣の学級で国語の授業だけは受け持っていた。

数年前、旦那といっしょにこの店を始めたという。旦那には悪いが、中学生のときとほとんど顔が変わっていない。どうりで見覚えがあるはずである。

Yokoの料理の腕はよくわからない(きっとたいしたことはないのだろう)のだが、旦那の腕は確かである。札幌在住の方は是非。下記にブログがある。

酒 めし いづ屋/札幌市中央区南4条西5丁目第四藤井ビル2階

ここに私のことも書いてある。しかし、私の話は前置きに過ぎない。で、本題はピスタチオ。20年振りに会った昔の担任はピスタチオに負けるらしい(笑)。

私はめったにすすきのに出ないので、まだ2回しか行っていないのだが、今後、数人での二次会は常にここと決めている。

今日、このブログにコメントを寄せてくれたAkiko。この子もこのクラス、1年2組の子である。こちらは3年間、担任だった。

中学1年生だというのに大人びていて、正論しか言わない。私は「おまえはふけてるなあ」とよくからかったものである。Akikoはそんなとき、「どうせわたしはふけてます」と受け流していた。そういうところも大人びていた。

けっこう言いつけたことはなんでも完璧にこなす、能力の高い子でもあった。学校祭のたびに会計を頼み、現金をわたして領収書をどんどんわたす。すると学校祭が終わったときには帳簿ができている。そんな子だった。

あの頃は学校もまだなごやかで、こんなことも許されていた。いや、こんなことをしていたのは私だけで許されてなどいなかったのかもしれない。

そういや、母親(Emiちゃん)が魚屋でパートをしていて、ほっけをくれたりしてたっけ。家庭訪問は毎年、必ずその日の最後にして、夕食も食わせてもらっていたっけ。当時は私も25歳。25歳独身の若者にには保護者も優しい。43歳の髭のおっさんには、だれもほっけなんてくれない(笑)。

Yosuke.Kという男の子からも、毎年、年賀状が来る。私たちが「ハナ」と呼んでいた、小っちゃな男の子である。一人息子は5歳になったようだ。キューちゃんという猫を飼っている。

よくこのブログにわけのわからない、自己否定・社会批判の長いコメントを寄せるKazuもこのクラスである。

いい時代になったものだ。ネットがなければ、この4人のうち、何人と連絡を取り合えただろうか。最近になって、ずいぶんと教え子から突然のメールをいただく。

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Never Again 許さない

「Never Again 許さない」岩崎宏美/1999

Image567もう何度も書いたけれど、このアルバムは素晴らしい。

かつて岩崎宏美の歌った筒美京平の名曲たちをニューアレンジ、プラス新曲が2曲という構成。

「わたしの1095日」とか「想い出の樹の下で」とか「春おぼろ」とか「月見草」とか、初期の代表曲をはじめとして、「素敵な気持ち」「Sympathy」「女優」「日暮れのマティーニ」といった80年代のシングル、アルバムの名曲まで、これでもかという新しいアレンジと円熟の歌唱力で堪能させてくれる。

1999年のリリース。

個人的には「わたしの1095日」が最高。

「三年が過ぎました。1095日です。そのあとのさよならがもうそこに来ています。」という切ないフレーズのあとに、「なにかいい忘れていませんか。もっと大切な話はありませんか。」とたたみかける。岩崎宏美にしか歌えない、しかもかつての十代の頃の歌声とは格段の差をもつ、見事な曲に仕上がっている。

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やっとここまで……

今日は3年生の学年末テスト。

赴任して9ヶ月半。やっと普通に近いテスト問題で定期テストを行えるようになった。まずまずの難易度と思う。平均点は63.1点。この問題で平均がこれなら、まずまずである。かなり力を入れて指導してきた甲斐があったというものだ。やっとここまで来た。

問題用紙解答用紙模範解答

来年度からは200字作文を定期テストに導入したいものである。

まあ、急がず、少しずつ改良していこう。大規模校なので、他の先生との調整もある。

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ELIMINATOR

「ELIMINATOR」ZZ TOP/1983

Image566とにかくカッコいい。

初夏、北海道のトライヴにあまりにもピッタリのアルバム。ぼくの中では、北海道で天気がいい夏のドライヴはZZ TOPとGEORGIA SATELLITESと決まっている(笑)。

ネットで調べてみると、3人とも元気で現役らしい。メンバーチェンジもないという。それにしても、最もシンプルなバンド形態をとったこのバンドが、これだけカッコよく聴かせるということは、結局、バンドによけいなものはいらないということの何よりの証拠に思える。

久し振りに聴いて、90年代末以降にリリースした3枚のアルバムを注文してしまった。最近はブルースへの回帰傾向が見られるという。楽しみである。

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BUSINESS AS USUAL

「BUSINESS AS USUAL」MEN AT WORK/1982

Image5651982年だから高校1年のとき。なんとも形容しがたいユーモラスなバンドが全米チャートを駆け上がって、あっという間にNo.1。

ポリスみたいに洗練されてはいないけれど、スプリングスティーンみたいに泥臭くはない。かと言ってクラレンス・クレモンズみたいにかっこいいサックスでもない。ただノリのいいサウンドとユーモラスなビデオ・クリップにぼくらは熱狂した。

そういえば、MIDNIGHT OILとかINXSとか、あの頃はオースラリア発のおもしろいバンドがいたっけなあ。

それにしても「WHO CAN IT BE NOW ?」も「DOWN UNDER」も、いま聴いてもいいなあ……。

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巨星墜つ

小林繁が亡くなったらしい。57歳。

ああ、また一人、ぼくらの世代が憧れた巨星が墜ちた。彼はぼくらに男の意地を教えてくれたなあ……。

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VIRGINAL

「VIRGINAL」南野陽子/1986

Image564前にも書いたような気がするが、このアルバムが大好きである。

ぼくは南野陽子のファンでもなんでもない。このアルバム以外は聴いたこともない。このアルバムは南野陽子の全盛期、ぼくの妹がもっていて、ぼくも暇なときに聴いていた。

驚いた。はずれ曲が1曲もない。どの曲も力を入れてつくられている。特にアイドルが歌うのはこういう曲であるべき……という歌詞とメロディの連続である。特に10曲目「海のステーション」は素晴らしい。シングルだった「接近(アプローチ)」が最もつまらない曲といっても過言ではない。そんな、とても完成度の高いアイドルアルバムである。

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REALLY LOVE YA

「REALLY LOVE YA」沢田研二/1993

Image563たぶん発売当時に買って、1回だけ聴いてそのまま放置していたアルバムだと思う。1993年のリリースだから、20年近く放置されていたことになる。

聴いてみるとなかなかいいアルバム。

沢田研二は80年代後半にずいぶんと完成度の高いアルバムを連続して発表したのだが、その流れをくむアルバムだと感じた。

21世紀になって、50歳を過ぎてから、ちょっと違和感があるほどに無理をしてROCKしようとしているところがあるのだが、それ以前の変に肩に力の入る前のアルバムである。ROCKとバラードのバランスもよく、ほどよいPOPな曲もある。

沢田研二は自分のバラードにどれだけのファンがいるかということを知っているのだろうか。そんな感じさえ受ける21世紀のジュリーに比べて、20世紀のジュリーはずいぶんと心に浸みる曲を歌ってくれている。「幻の恋」とか「アフターマス」とかバラードの名曲が多いアルバムである。

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Wの悲劇

先日録画しておいた「Wの悲劇」を見た。

昔見た薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」は、夏樹静子原作の「Wの悲劇」が劇中劇になっていたが、今回はちゃんと原作を描いている。

菅野美穂があまり好きではないぼくにとってはそれほど興味もなかったのだが、小日向文世が出演していたことと、TBSがそれなりに力を入れていそうなドラマだったので見ることにした。予想通り、小日向文世はいい味を出していた。この役者をぼくは「白線流し」の特番で初めて見たのだが、役柄は限られるが、非常に味のある役者である。

今回、驚いたのは真矢みきである。

ぼくは宝塚出身の女優をあまり好まない。品はあるのだが、演技が大袈裟すぎて、どうもぼくの感覚には馴染まないのである。

ところが、今回のラスト近く、事実を自供する真矢みきはずいぶんとはまっていた。それまで、池内淳子で引っ張ってきた感のあった主題がらみの「女の性(さが)」の描き方が、この場面で一気に真矢みきの演技によって包み込まれた感があった。演技が大袈裟……というか、台詞まわしはあくまでも大袈裟だったのだが、なんとも表情のつくり方が見事だった。大作りな顔立ちが生きる演技であり場面だったのだろう。

しかし、ドラマ全体としては、もう少し細かい描写が必要だったように思う。真矢みきの最後の表情がなかったとしたら、どうにも説得力に欠けるドラマになっていただろう。

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ぼくには最初から勝算があった

生徒の演劇を見に行くという妻を送って地下鉄駅へ。帰りに狭い道を通っていたら、ワゴン車とすれ違う。いつもなら二車線ある道が今日は大雪のせいでギリギリ一車線。すれ違えない。

相手のおじさんはぼくに戻れと言う。ぼくはおじさんが戻るべきだと思う。しばらくにらみ合いが続いたあと、業を煮やしたおじさんが車から降りてきた。

「おい、あんたの方が脇道に近いだろ!」

けっこう迫力のある怖いおじさんだったが、ぼくには勝算があった。だから言い返した。

「どう考えても、おっさんが戻るべきなんだよ!」

「なんだと!」

おじさんはつり上がった目で一歩前へ出た。

ぼくは冷静に言った。

「おじさんさあ、怒るのもいいけど、どう考えてもおじさんの負けなんだよ。ここ一方通行なんだから」

少し間がある。その間の中で、おじさんの目が一気に柔和になっていく。

「あら~、マジですか……そりゃすまん」

「いえいえ、ぼくの方が脇道に近いから下がりますよ。そこから曲がってください」

「ああ、ありがとうございます」

もう一度言う。ぼくには最初から勝算があった(笑)。

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「大雪」では表現しきれない大雪

「大雪」なんて言葉では表現しきれない大雪。まさに豪雪。一晩で40センチはゆうに超えて50センチ近い。北海道ではドカ雪とも言う。

昼過ぎに起きると、妻が既に家の前の除雪を終えていた。きれいなものである。自分の車に積まれた50センチ近い雪を見て、昨晩の雪の量を知った。車の高さが2倍になったような雪の量。妻は除雪に何時間かかったのだろうか。

取り敢えず、自分の車の雪だけはおろす。その後、妻が除雪した雪をロードヒーティングでとけた家の前の駐車場に運ぶ。今日はこの作業を何度かせねばなるまい。少しとけては運び、少しとけては運び。

隣のだんなさんも除雪。裏の家はまだ除雪をしていない。車が雪に埋まっている。

北海道には台風がない分、この作業があるのだな。神様はずいぶんと人々に公平に自然を操るものである。それにしてもすごい雪である。

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ストップモーション授業検討in伊達

3月20日(土)、伊達の加藤恭子先生のサークルの若手に模擬授業をしてもらってストップモーション授業検討してみることになった。若い先生がストップモーションによってどのくらい伸びるのか、また、研究会の登壇などしたこともない若い先生にストップモーションをかけることで参加者にどのような学びが期待できるのか、ここで検討される若手には失礼だけれど、いろいろな観点から実験ができて楽しみである。

せっかくなので、山下くんといっしょに行くことにした。

もしもお近くの方で参加希望の方がいらっしゃったら、たぶん参加させてもらえると思う。ぼくに連絡をくれてもいいし、加藤恭子先生に直接問い合わせていただいても構わない。

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風来坊

「風来坊」ふきのとう/1977

Image562たぶん、ぼくの人生において最も回数を聴いているアルバムはこのアルバムだと思う。このアルバムを買ったのは確か小学校5年生の時のこと。すべての曲が歌詞カードを見なくてもソラで歌える。

「水色の木もれ陽」のギターの前奏がかかっただけでもうダメである。思いは小学生に戻ってしまう。昔から細坪さんのボーカルも山木さんのボーカルも、そして二人のハーモニーもぼくにとっては珠玉だった。

このアルバムを聴くと、当時の6年2組という学級の一人一人の顔が浮かんでくる。顔だけじゃない。学級編制なく3年間を過ごした4年2組から6年2組へと至る3年間のエピソードが次々に甦ってくる。

真駒内の片田舎で秘密基地をつくろうと6人で穴を掘ったこと。

毎週火曜日にクラスの男女6人で英語を習っていたこと。

毎週金曜日の午後にに学級対抗で野球をやっていたこと。

毎週土曜日は、誕生会だといってはいつもだれかの家でパーティを開いていたこと。

転出していくクラスメイトのトラックをみんなで見送ったこと。

みんなで歩いて藻岩山にスキーに行く途中にはぐれて泣きそうになったこと。

ミシンの使い方を習って運動会のためにはちまきを縫おうとしたのにぼくだけがボロボロだったこと。

もう数え上げたらキリがない。あの3年間があまりにも楽しくて、あの3年間が卒業式でばらばらになるのが悔しくて、「ああ、自分は先生になろう」って決めたんだったっけ。

放り出されたリュックサック、机に貼ったシール、徹夜で縫ったハチマキ、校庭に折れたミニスキー。なにもかもがなつかしい、おおきな、おおきなわすれもの。

そんな、たくさんのわすれものが、このアルバムにはいっぱい詰まっている。

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EBERHARD SCHOENER/STING/ANDY SUMMERS

「EBERHARD SCHOENER/STING/ANDY SUMMERS」1990

Image561邦題「創世記」。ドイツのキーボード奏者EBERHARD SCHOENERがリリースしたアルバムのうち、STINGとANDY SUMMERSが参加した「Video Magic」と「Flashback」を編集したもの。

確かリリースされたのは90年だったような。

初期ポリスのファンには違和感のないようなサウンド。それでいてSTINGのボーカルの妙を堪能できる。なんだか懐かしくなる。いいアルバム。

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アメリカン・ジョーク

「関係する女 所有する男」(齋藤環/講談社現代新書)を読んでいたら、男と女の特徴に関するアメリカン・ジョークが載っていて大笑いした。

お金 … 男は必要とあらば1ドルの品物に2ドルでも払う。女はたとえ必要でなくても、セール中なら2ドルの品物を1ドルで買う。

洗面所 … 男は六つのものを置く。歯ブラシ、歯磨き粉、髭剃りクリーム、かみそり、石けん、タオル。女は平均337個のアイテムを置く。男はそのうち20個以上の用途がわからない。

未来 … 女は結婚するまで、未来について思い悩んでいる。男は結婚するまで、未来を思いわずらうことはない。

結婚 … 女は男が変わることを期待して結婚するが、男は変わらない。男は女に変わらないことを期待して結婚するが、女は変わってしまう。

成功 … 成功した男とは、妻が浪費する以上に多く稼ぐ男のこと。成功した女とは、そんな男をゲットした女のこと。

子供 … 女はわが子のすべてを知っている。歯科の予約、恋愛、親友、大好物、心に秘めた恐れ、希望、夢まで、あらゆることを知っている。男はなんとなく、小さい人間がいつも家にいるような感じをもっている。

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人間関係の修復

今年は〈つながり〉をもつことを目標に掲げようと思っています。別に、目標に……というほど肩肘張っているわけでもないのですが、かつてはいっしょに研究をしていて、いまは疎遠になっている人たちというのがずいぶんといますから、また連絡をとっていっしょに活動できたらな、ということです。疎遠になったといっても、別に喧嘩をしたわけではありませんから、連絡をとってみると、みんな親しみを込めたメールをくれます。疎遠になっていた間も、みんな独自に活動をしていたわけで、その間、間違いなく成長しているはずです。それをちゃんと交流しようというわけです。

今年のぼくはアクティヴに動く年にしようと決めたわけで、そのためにまずは疎遠になっていた人々との関係を修復するところから始めています。そうした企画が2010年度にはどんどん展開されます。楽しい1年になりそうです。

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NUMBER ONES

「NUMBER ONES」MICHAEL JACKSON/2003

Image560御多分に漏れず、ぼくもマイケル・ジャクソン世代である。

「スリラー」のリリースが高校1年。ポールとのコラボ「ガール・イズ・マイン」で聴くようになり、「スリラー」PVに感動し、「SAY SAY SAY」にも熱狂した。マイケルが亡くなってテレビが大騒ぎしていたときにはあまり感じなかったが、今回、改めてこれを聴いてみてやっぱりすごいなあ、と思った次第。

「オフ・ザ・ウォール」とか「スリラー」とか「バッド」とか、CDでももっていたんだけど、すべて欲しいという生徒にあげてしまって、いまぼくの手元にあるのはこれだけである。ちょっと惜しかったなという感じもする。

昔から「ヒューマン・ネイチャー」が好きである。

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破綻をハジョウと読むこと

「いやあ…授業で予定していた計画がすぐにハジョウしちゃうんですよね」

今日、勤務校の若手教師と話をしていて、彼がまじめな顔をして言ったひと言。ぼくはすぐに「ああ、破綻の言い間違いだな……」とわかったのだが、こういうのを指摘されると恥ずかしいものなので、指摘しようか指摘するまいか迷っていた。

ぼくが迷っているうちに、彼は「ハジョウ」という言葉を4回使った。彼はいつから「ハジョウ」という言葉を使っているのだろう。いつ覚えた言葉なんだろう。少なくともその言葉は活字で読んで覚えたに違いない。音声言語なら「破綻」とちゃんと読めているはずだ。

では、この若者は「ハタン」という言葉を知らないのだろうか。いや、そんなはずはないだろう。「ハタン」という言葉を20年以上一度も聞くことなく生きてくることはできないはずだ。理解語彙どころか、もしかしたら使用語彙にもなっているのではないか。

そこまで考えたとき、ぼくは彼に訊いてみた。

「ハジョウだけどさ、似たような言葉にハタンって言葉があるよね。ニュアンス的にどう違うのかな。」

彼は言った。

「授業みたいにその場が壊れるのはハジョウです。結婚生活とか友情みたいに人間関係が壊れるのがハタンじゃないですかね。」

なるほど。ぼくにはまったく理解できなかったが、言葉を間違って覚えると、間違ったなりの語感が形成され、新しい言語世界が生まれるのである。ぼくは彼をバカにしてこう書いているのではない。言葉とはまさにそういうものなのだ、ということである。

かつて内田樹が英語の「devil fish」を引いて、エイとタコをまとめて「devil fish」と呼ぶ英語圏では日本人のもたないこの概念をもっている、言語が異なるとこういうことが多々あるわけで、やはり言語こそが世界をつくっているのだ、というようなことを述べていたが、この若者にも同じ構造が見て取れる。もちろん次元が違うと言ってしまえばそれまでだが、確かにぼくとは異なった概念をもっているのは確かである。少なくとも彼は「ハジョウ」と「ハタン」とを使い分けているのである。

さて、ここで迷った。「破綻」は「ハタン」なのだと教えることは簡単である。しかし、それを教えたとたん、間違いなく彼は「ハジョウ」と「ハタン」の使い分けの概念を失う。間違ってるんだからそれでいいじゃん……というのもわかる。しかし、しかしである。このつまらない規範とは異なる、ほんの少しの別世界をもってる彼に対して、ぼくが、国語教師だからとか先輩だからとかそんなあまりにもつまらない理由によってあまりにもつまらない指導をし、彼が数年かかって築いてきた「ハジョウ」と「ハタン」との使い分けの言語感覚を奪われてしまうとしたら……、果たしてそれは良いことなのだろうか。

結局、ぼくは彼の言葉を「なるほどね。そうかもね」と引き取って、彼の世界を壊さなかった。ぼくのしたことがいいことなのか悪いことなのか、それはわからない(笑)。

しかし、彼はこのブログを読んでるから、いずれ知るはずである。本人はブログにまで書かれてバカにされたとしか思わないだろうが、ぼくはいたってまじめに考えて書いている。

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Neue Musik

「Neue Musik」松任谷由実/1998

Image559ぼくにとって松任谷由実はボーカリストではなくソングライターである。

彼女のつくった歌に好きな歌がいっぱいあるのだが、彼女の歌った歌に好きな歌はあまりない。彼女の曲を聴いていると、他のボーカリストが歌った方がいいのにな、と思うことがよくある。

特にバラードに多い。「真夏の夜の夢」や「輪舞曲」ならなんとも思わない。でもユーミンノつくられた歌声にはどうもバラードがなじまない。まあ、そんな感じである。先日書いた麗美の「青春のリグレット」のように。

それでも「リフレインが叫んでる」「春よ、来い」の2曲だけはユーミンのボーカルがいいと思う。

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Twitter社会論

「Twitter社会論」津田大介/洋泉社新書/2009.11.21

Image558まわりがあまりにツイッターツイッター言うものだから、ついつい手が伸びてしまった。読んで良かったな、と思った。

要するにツイッターとこれまでのパーソナル・メディアとの違いは「速報性」なのだな、ということだ。ぼくには「速報性」をもって発信しなければならない情報がない。「速報性」をもってコミュニケーションをとらなければならない人間関係もない。ツイッター好きや携帯電話好きからみれば寂しい人間なのかもしれないが、さしてそういう人間関係を必要ともしていない。

読んでいて、使えるとすれば140字で文章を書き連ねておけば、原稿を書くときに楽ができるかも……というものだった。一段落とか意味のひとまとまりとかは、まあ、140字程度であることが多い。それをコピペで並べて、サクサク手直しすれば、1本出来上がり!なんていうことも一瞬夢想したけれど、やっぱりぼくには必要ないなと思い直す。

だいたいリアルタイムで他人のつぶやきを覗き覗かれ、レスしたりしていたのではどれだけ時間をとられることか。ぼくは恐怖感を抱くに違いない。向かないな、と感じた。

本としてはよくまとまっていて、具体例もわかりやすい。素人にもイメージできる、とてもおもしろい本だという印象をもった。いい書き手だと思う。これがツイッターの威力なのだとすれば、やってみようかな……(笑)。

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夏休み/冬休み

ひと昔前なら、夏休み・冬休み明けの初日というのは、生徒たちに大きな変化があらわれたものである。髪型がおおきく変わっていたり、髪の色が落ちていたり、スカート丈が極端に短くなったり……。そうした生徒が学年に何人かはいたものである。

今日、体育館に並ぶ800人以上の生徒を眺めながら、そういう生徒がいないかと無意識のうちに見回している自分に気がついた。そしてほとんど2学期末と変化がないなと安心したとき、そういえば、昨年も、一昨年、その前の年も、そのまた前の年も、同じことを感じて安心した自分がいたことを思い出した。

これだけ続くと、しかも学校が変わってさえひれが続くということは、夏休み・冬休みの生徒たちの動きが自分がイメージしているようなかつてのものとは違ってきているのかもしれない、と考えざるを得ない。

しばらく生徒たちと話をしながら、情報を収集し、分析してみようと思う。

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太陽に向かう

今朝、しばれついた車の雪をガリガリ削り、なんとか時間通りに家を出た。走り始めて数十秒、太陽の光が寝不足の目にまぶしくて、ふだんならかけないサングラスをかけた。出勤途中にサングラスをかけたのは初めてだな……。そんなことを思いながら。

そういえば、私はこの19年、通勤で太陽に向かって運転したことがないということに気がついた。陽の光が白い雪に反射し、まぶしくて目を開けて運転できない、そんな通勤は今年初めてなのである。

私の学校は常に、自宅から西側にあった。出勤時の運転も退勤時の運転も、すべて太陽を背にして運転していたのである。それが今年度から勤務した学校だけが、太陽に向かって運転するのである。

別にどうでもいいことなのかもしれない。いや、おそらくどうでもいいことなのだろう。でも確かに、私の中で、今度の学校のイメージがよくなった。こんなことを考えるのも年のせいかもしれないなと、ふと思う。

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SCARECROW

「SCARECROW」JOHN COUGAR MELLENCAMP/1985

Image557まあ、多くのファンが言うように、だれがなんと言おうとジョン・クーガーはいい。好き嫌いもあるだろうし、価値観の問題もあるのかも知れないが、ぼくはそれをすべて否定しよう……そんな気分になる。

個人的には前作「UH-HUH」のほうが好きなのだが、特に「PINK HOUSES」が大好きなのだが、アルバムとしての完成度はこちらのほうが高いのだろうとぼくも思う。売れるには売れるだけの理由があった、といったところ。

最近はアルバムをリリースしているのだろうか。ちょっとフォローしていない。

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the world of SHEENA EASTON

「the world of SHEENA EASTON」1996

Image556ぼくは決して、シーナ・イーストンのいい聴き手ではなくて、かつてもオリジナル・アルバムは一枚しかもっていなかったし、そのアルバムをCDで買い換えることもしていない。いま聴いているのはこのベスト盤だけである。

でも、プロデューサーがだれなのかも知らないけれど、あのルックスに合致した楽曲を、これだけポップに徹してリリースし続けたのは、たいしたものだと思う。特に初期の3~4年間くらいの充実振りには目を見張る。

たぶんノスタルジーではなく、「9to5」にしても「モダン・ガール」にしても「テレフォン」にしても「ストラット」にしても、現在の新譜だったとしてもそれなりにヒットしたのではないか。そんな充実した楽曲が並んでいる。

おすすめ。

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鬼のように…

今日は夕方から鬼のようにメールを送信し受信する日。今日一日で二百数十本。さらに電話もかけまくる一日。そのおかげで2010年度の1学期の企画がほぼ決まった。

年に3回ほど、こういう日がある。長期休業の最終日が多い。

明日から3学期である。

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WHAT TIME IS IT?

「WHAT TIME IS IT?」THE TIME/1982

Image554昔、PRINCEをよく聴いていた頃、当然のようにTHE TIMEとかSHEILA E.なんかもよく聴いていた。

このアルバムは1982年、THE TIMEのセカンドだったと思う。いまとなっては大物プロデューサーとなっているJam&Lewisが在籍していたバンドとしても有名である。

ぼくが好きなのはリードボーカルMORRIS DAYのまさにFUNKとはこういうものだとでも言うように、FUNKを体現しているようなボーカル、語り、そしてダンス。かつて映画「PURPLE RAIN」の中でPRINCE以上の存在感を示していた。

どのアルバムもいいけれど、80年代の3枚のアルバムの中ではほかの2枚よりちょっと落ちるかも知れない。でも、彼らがメジャーになる以前のアルバムだけに、なんとも彼ららしさの出た逸品ではある。

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2010年 いよいよ始動…

年が明けて初めての出勤。いよいよ始動である。

これまでの自宅研修はかなり有意義な書き物ができた。そういう意味では一応始動はしていた。しかし、朝からちゃんと学校に行くというのとはずいぶんと違う。その意味では、やはり今日こそが「いよいよ始動」という気分になる一日目である。

まずは同僚と挨拶を交わし、部活で賑わう廊下で生徒と立ち話をし、机上に積み上がるプリントや封書と格闘し、1月分の手帳を整備し、明後日の学年会の準備をする。これで午前中は終わり。

昼からは、3年生に自己推薦書の手直しを頼まれる。こちらもスイスイ。次に始業式でスピーチをする1年生代表生徒の指導。これがまずまずの文章、ほぼ暗記、スピーチもまずまずと上出来。文章を少しだけ直し、強調する語に赤丸をつけ、スピーチのスピードを直し、作法の指導をしてOK。あとは始業式の日、朝学活後すぐに体育館に来るよう確認して終わり。

教務に頼まれ、年間行事予定表を見ながら生徒会関係の行事の希望日程を伝えたり、来週月曜日の3年生学年末テスト&評定作業の段取りを打ち合わせたり。そうこうしている間に夕方になったので、3ヶ月振りの床屋へ。これで見かけも出勤仕様になった。

帰宅後は仕事をする気にならない。やはり、出勤すると、昨日までが嘘のように家で仕事をする気がなくなる。まあ、それもよい。来週がテストで仮評定締め切りであることが信じられない気分である。送別集会の準備や生徒会規約改正への動きも一気に進めなければならない。

また、ルーティンをどうにかしておもしろくできないかと考え続ける日々が始まるらしい。

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赤とんぼ

夕焼け小焼けの赤とんぼ

負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を

小籠に摘んだはまぼろしか

十五で姐やは嫁に行き

お里のたよりも絶えはてた

夕焼け小焼けの赤とんぼ

とまっているよ竿の先

見事な起承転結。姐や(子守娘)との楽しい想い出を「いつの日か」「まぼろしか」と問うて哀愁を誘う。ふるさとからの便りも絶えたと現実を垣間見せる。十五は姐やが嫁に行った年か、それとも自分が十五の時に姐やが嫁に行ったのか。いずれせよ、「夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先」という帰結に胸うたれる。

美しく、はかなく、切ない詩である。

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にほんのうた 第一集

「にほんのうた 第一集」2007

Image553三波晴夫の「赤とんぼ」、坂本龍一+中谷美紀の「ちいさい秋みつけた」、くめさゆりの「旅愁」、あがた森魚の「森の恋人」、大貫妙子のの「この道」、八代亜紀の「証城寺の狸囃子」、高田漣の「赤とんぼ」、ヤン富田の「やぎさんゆうびん」、カヒミ・カリィ+大友良英の「からたちの花」。どれもこれも最高である。

こういう企画盤はこの年になるととても嬉しい。

特に中谷美紀のボーカルと坂本龍一のアレンジ、八代亜紀のボーカルと丸山和範のアレンジ、そして大貫妙子の切ないボーカルにはまいった。

大切に聴いていこうと思う。

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Vibrato

「Vibrato」久嶋美さち/2006.03.08

Image552元ちとせもそうだが、民謡出身のボーカリストは本当に声が伸びやかに伸びる。そして、ところどころにどうしても出てしまうこぶしがなんとも味のある心地よさを醸し出す。久嶋美さちは元ちとせ以来の素晴らしいボーカリストである。

まだ、大ヒット曲はないけれど、そしてここ数年、アルバムのリリースもないけれど、いまに必ず……という感じがする。

これはファーストアルバム。かなり出来のいいアルバムだが、声のインパクトに比べて、全体的に楽曲にもアレンジにもインパクトがない。

ただし、セカンドシングル「リタの場合」はとてもいい。

現在はMisaChiと改名している。

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すとっぷも~しょん授業検討&らいふひすとり~あぷろ~ち&ふぁしりて~しょん

ことのは合宿からまる一日が経つ。今夜は合宿での討議を経て新年度の企画を2本つくってみた。研究会企画として一日通しての企画を考えてみると、これはおそらくうまくいくなあ……という直感みたいなものがわいてきた。ただし、人は集まらないだろうなあ、というのも実感である。20人くらい集まれば御の字と考えなければならないだろう。

簡単に言えば、新たな企画はある人物が模擬授業をして、その授業者がどのような意図をもって授業をしたかを「ストップモーション授業検討」でみんなで検討、その後に「ライフヒストリー・アプローチ」でどのようにそのような授業意図が形成されてきたかを明らかにしようというものだ。

「ストップモーション授業検討」で参加者も充分にその授業意図を把握することによって、討議に参加する地盤を耕す。おそらく、これを経ていれば、「ライフヒストリー・アプローチ」の長時間もかなり興味をもって参加することができるだろう。更に、60分のシェアリングはファシリテーションの手法である。4~6人の小グループで学びをシェアし、グラフィック化していく予定だ。こうした三手法のセットによって、「なぜ、その授業をおこなうのか」「なぜ、その授業が生まれたのか」「授業を作るうえで考えなければならない範囲はどのくらいなのか」という3点が明らかになっていくはずである。

問題はあまりそれぞれの手法のあるべき仕方にこだわり過ぎないこと。「ストップモーション授業検討&ライフヒストリー・アプローチ&ファシリテーション」ではなく、「すとっぷも~しょん授業検討&らいふひすとり~あぷろ~ち&ふぁしりて~しょん」くらいのつもりでいるのがいい。

ただ、模擬授業の具体からできるだけ離れないようにすることが、研究会としての成功には必要だろうと思う。これだけは肝に銘じたい。「ライフヒストリー・アプローチ」本来の性格には反する手法だが、なんといったって、これは「らいふひすとり~あぷろ~ち」なのである。

現実はこんなふうに割り切った方が成果が出る場合が多いものだ。

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CRYPTOGRAPH~愛の暗号~

「CRYPTOGRAPH~愛の暗号~」小林麻美/1984

Image551先日、「野獣死すべし」を見て以来、このアルバムが聴きたくてたまらなくなった。松田優作に撃たれる小林麻美のスローモーションがあまりにも美しかったからだ。

かつてレコード盤でもっていたので中身はわかっている。そんなにいいアルバムとも思っていない。しかし、結局、AMAZONで中古盤を買ってしまった。

まあいいか。ちょっとだけ久保田早紀の初期みたいな雰囲気があって、元アイドル歌手なんて想像できない。でも歌は下手。楽曲はGAZEBOのほか、松任谷由実、井上陽水、加藤和彦、玉置浩二ときら星が並ぶ。作詞・翻訳詞には小林麻美自身のものも多い。

「雨音はショパンの調べ」は猛烈に懐かしかった。あの頃、よく聴いたよなあ(笑)。特に「気休めは麻薬」というフレーズはとてもいい。さすがユーミンである。

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PARADE

「PARADE」 SPANDAU BALLET/1984

Image5501984年。名盤である。

このアルバムには個人的な思い入れがある。当時の想い出がぎっしりと詰め込まれたアルバムだ。

デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、トンプソン・ツインズ、ヒューマン・リーグ、ディペッシュ・モード、シンプル・マインズ、数え上げればキリのないニュー・ロマンティックス・ムーヴメントの中で、確実に長く続けることを意識して音楽性を紡いでいたバンドだったことは確かである。「TRUE」の大ヒットから颯爽と現れた感があるが、アルバムとしてはこのアルバムが最高傑作だと思う。

その後、ロックを意識したアルバムを出したり、アラン・パーソンズ・プロジェクトのボーカルをとったりと、おもしろい活動を続けてきているが、去年久し振りに新作を発表して健在振りを示してくれた。まだ聴いていないけれど、また、かつての代表曲の新録だとも聞くけれど、きっと20年の時を隔てて、彼らのこの間の成長ぶりを、人生の変容を聴かせてくれているに違いない。

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綺麗

「綺麗」SOUTHERN ALL STARS/1983

Image549サザンのアルバムとして、ぼくは「ステレオ太陽族」が最高傑作、次いで「さくら」と思っていますが、このアルバムは五指にははいるように思っています。

サザンのヒストリーとしては地味な印象のあるアルバムですが、実はそれほど大規模なヒットを記録しなかった地味目なアルバム、シングルに名曲が多いのがサザンの特徴……というところがあって、このアルバム然り、このアルバムからシングルカットされた「EMANON」然り。

「EMANON」の前奏が流れ始めると切ない気分になります。

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TANGO IN THE NIGHT

「TANGO IN THE NIGHT」FLEETWOOD MAC/1987

Image548いまとなってはそれほどいいアルバムとは思わないけれど、リリース当初はMACの久し振りのアルバムだったこともあって、ずいぶんと熱狂したものである。

まだクリスティン・マクヴィーもちゃんといて、ピアノを響かせていて、数曲のリードボーカルもとっている。ぼくはスティーヴィー・ニックスのボーカルが好きなのだが、クリスティンの少し低くて太い声も大好きで、最近、20年に一枚しか出ない、たった3枚のソロアルバムでしか聴けないことを残念に思っている。

古くからのブルース好きのファンには物足りないだろうし、「RUMOURS」に代表される70年代的なサウンドが好きなファンにはポップすぎてMACじゃないような音づくりに聞こえるのかもしれないが、ぼくの世代にはもはやこういうサウンドこそが最もノスタルジーに誘うものになっている。70年代のサウンドのほうがかえって新しく聞こえてしまう(笑)。

不思議なものである。

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floating pupa

「floating pupa」pupa/2008.07.02

Image547高橋幸宏・原田知世・高野寛・高田漣・堀江博久・権藤知彦によるユニット。

浮遊感の漂う音づくり、ボーカルの連続がきっと夏に聴くと気持ちいいに違いない。

それにしても元YMOとか元アイドルとか元フォークシンガーとか元ソングライターとか、よくこんなにもバラエティに富んだメンツが集まるものだと思う。時間が経つとこういうユニットがおもしろい仕事をするようになるというのはとても興味深い。音づくりも曲づくりもばらばらなのに、イメージを統一して同じ志向性をもってまとめられた完成度の高いアルバムだなあ……と感じた。

今度は夏に聴こう。

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ぼくの絶望感は深い

「頑張れば頑張るほど損をするシステム」

ことのは合宿の中でこのフレーズが出た。討議のさなか、何気ない発言として出たものだ。教員世界は頑張れば頑張るほど損するようにできている、と。

確かにそうである。少なくとも、時間・労力といった費やすものと成果・実入りといった得られるものとを比較した場合、時間・労力を費やして努力すればするほど、どんどん仕事が増えていく。できる人と思われると際限なく仕事が増えていく。あの人にまかせておけば大丈夫。あの人にお願いすれば大丈夫。あの人に任せよう、あの人にお願いしよう、そうなっていく。

経済効率の観点で考えてみると、確かにこれが現実のようである。もちろん、子ども相手の学級経営や授業への取り組みの話ではない。校務分掌上の事務仕事や外部団体の運営業務のことである。

校務分掌上の事務仕事や外部団体の運営業務というものは、一般に実入りの少ない仕事である。もちろん、例えば昇進を目指しているとか、ステイタスを高めることを目指しているとか、外発的な動機があれば別である。実力者と呼ばれる校長などは「昇進」や「よい転勤先」なんかをちらつかせながらこうした仕事を依頼する場合が多い。官製研や半官半民研の運営などにもこの構図があてはまることが多い。要するに、その仕事の外に目的がある場合には頑張る必然性が生まれる。

ぼくなどはいかなる仕事であっても、楽しむことができるタイプだが、それは教師の仕事のすべてにおいて原理・原則をまとめて理論化してみたい……なんていうことを趣味としている珍しい人間だからである。例えば、事務仕事が怒濤のように押し寄せてきているときには「仕事の優先順位」と「効率化の仕事術」に関する原理・原則をまとめられないかと考え、研究会の運営を頼まれれば「研究会運営マネジメント」に関する原理・原則をまとめられないかと考えながら仕事をするタイプである。つまり、その仕事の中に目的を生み出すわけだ。しかし、こんな考え方をする人間は超少数派だと思う。でも、こんな感じでいろいろなことに取り組んできたぼくのような人間も、最近は、仕事の中心が他人の面倒を見ることになってしまってまで、依頼を受け続ける必要もない……なんていうエゴイスティックな動き方をするようになってしまっている。

結局、頑張れば頑張るほど仕事が集中するというシステムは、職員室のように、管理職昇進しか対価がないような鍋ぶた組織には向かないのである。教職を労働として考えている人には頑張れば休みが増える、研究をしたいと考えている人には頑張れば大学院派遣が許される、教職が心底好きな人には頑張れば3年間学級経営と授業だけに専念させてもらえる、お金が欲しいという人には頑張れば給料が3号俸上がる、こんなふうに少し多様な外発動機を認めなければ、なかなか頑張る人は増えないだろうと思う。

教員評価、つまり教員に対する人事考課が収入アップだけという単線的な対価でおこなわれていることが、どうも教職員の意欲減退につながっているように見える。「もっと金を」「もっと地位を」「もっと名誉を」という、一般的にポジティヴと考えられている対価では、動かない者が多い。それが職員室の大きな特徴なのである。

ぼくはここ2年ほどで、これまでそれなりに頑張ってきた公的な研究団体や半官半民的な研究団体から次々に離脱している。

例えばある国語研究組織。新卒2年目からずーっと所属する部署の三役として仕事を続けてきた。研究主題をつくり、研究仮説をつくり、研究構造図をつくり、研究計画を立て、他人の研究授業を一生懸命につくってきた。ぼくが一生懸命につくれば、ぼくが転勤したとき、それを元にして新しい担当者がそれを発展させてくれ、ぼくもそれを見て勉強することができる。そういう構造が生まれると信じていた。

でも、そうはならなかった。ぼくがその区から転勤しても、ぼくが国語部会から抜けてしまってさえ、ぼくがつくった研究計画はそのまま使われ続けることが多い。他者によって発展するなんてことはまずない。いや、まずないなんてことではなく、正直に言えば、一度も見たことがない。結局、その研究は自分が発展させていくしかないのである。頑張っても結局発展なんかせず、自分の研究にしかならないのなら、共同研究なんて必要ないではないか。ぼくの絶望感は深い。

ぼくがかつて入っていた半官半民の研究団体もそうである。なあなあの研究で、下からだれかが出てくるのを待つ。後進を育てるなんていうシステムはまったくない。学生時代の恩師といっしょに現場に出てからも研究を重ね、後輩が教職に就くたびに入会させ、ダメ出しに次ぐダメ出しでなんとしても育てる……共同研究をする中で、こんなことを目的的に、しかも日常的におこなうことを当然として教員生活を送ってきたぼくから見ると、どう考えてもその研究団体はぬるかった。しかも人間関係のしがらみとか、好き嫌いとか、そういうことで人事が動きすぎる。ぼくの絶望感は深い。

ぼくは1年前、自由を得ることにした。こういう研究会からすべて抜けてしまい、国語の研究関係の管理職のいない、しがらみのないところに転勤させて欲しいということを筆頭理由にして転勤した。2009年度、ぼくは自由を謳歌できるようになった。校長には早々に管理職試験を受けるつもりがないことを宣言し、ふつうに働くことを選んだ。まわりもぼくのことを外でいろいろやっているようだが、どうやら上を目指しているのではないようだという認識だけはもってくれている。これほど精神的に楽なことはない。

校内でももちろんしがらみは生まれる。しかし、ごく近しい距離で、いっしょに仕事をしている人たちとしがらむのは普通のことであり当然のことである。ぼくはそういうのはまったくいやではない。むしろ歓迎である。むしろそういうしがらみを乗り越えて自分の力を発揮しようと思っている。もしもどうしようもなくなったときには、転勤によって、職場からは逃げることもできる。そういう期間限定的な気楽さがある。

しかし、先ほどのような研究団体は転勤しようが何をしようが、いつまでもついてまわる。自分自身が退職するまでついてまわる。しかも利用されることも多い。ある研究会で自分の役割は終えたなと休んでいたところ、突如、10分後の研究協議に研究担当として登壇しろと言われたことがある。仕方がないから、数百人の前でその日の研究授業に対する質問に対して答弁した。何分くらいだったろうか。たぶん1時間くらいだろう。ある人が紀要原稿に穴を開けたから、「堀さん、書いてくれないか」と言われて、次の日までに穴を埋めたこともある。締め切りが次の日だったのだから仕方がない。しかし、ぼくは大きく疑問だ。こういうことのある共同研究は共同研究の名に値するのだろうか。

研究協議の答弁は下の者に頼まないで、責任ある立場の者がやるべきではないか。下の者が原稿に穴を開けたら、それを埋めるのはその直接の上司ではないのか。それが通常の組織ではないのか。できる人間にあてる、できる人間に頼む。そのできる人間が逃げたら、逃げたと責める。もう組織の体をなしていない。結局、研究を純粋に目的とした研究団体ではなく、あくまでも外発的な目的と連動した研究団体だからこういうことになるのだ。地位が上に行けば行くほど研究に深い造詣を持つ。それが研究団体のあるべき姿なのである。研究について詳しくない者は上に立ってはいけないのだ。それが研究団体なのだ。

ぼくの絶望は深い。

まあ、もうやめたのだから、もういい。最初で最後の愚痴だ。

さようなら、かつて愛した研究団体たちよ。私はしょせん、あなたたたちとは無縁の存在であった。

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青春のリグレット

ゴールデン☆ベスト 麗美

Image546 1984年だから高校3年生のときのこと。

ラジオから流れる麗美の「青春のリグレット」を初めて聴いた。「ああ、ぼくの大好きな声だ」と思った。

その後、松任谷由実がかかわっていることで売れた、麗美アルバム3枚を買ったが、ぼくが惹かれていたのはユーミンの楽曲ではなく、麗美の声だった。

下手な歌。それほど美形とは思えない沖縄特有の特徴的な容貌。でもいいのだ。ぼくが好きなのはあくまで麗美の声だった。「青春のリグレット」はユーミンの「DA・DI・DA」にも収録されているけれど、本家本元のユーミンよりもずっと麗美が歌ったほうが哀愁が高まる。ユーミンファンにはよく叱られるけれど、ぼくにはこうとしか思えない。

このベスト盤は麗美のシングル・アルバムから松任谷由実の楽曲のみを集めたもの。

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第5回「研究集団ことのは」合宿

新春恒例の「研究集団ことのは」合宿が終わった。毎回、この合宿は良い意味でも悪い意味でもサークルのその1年の活動の〈質〉を決める合宿になる。この合宿が盛り上がるとその1年の活動も盛り上がり、逆にこの合宿が低調に終わるとその1年の活動が低調になる。

もちろん、このことを熟知しているぼくは、そういう場合、低調にならないように別のことを始めるようにして〈質〉の異なる活性化をねらうのだが。ちなみに一昨年の合宿では、メンバー全員がずいぶんと創造的発言を繰り返したので、その1年は多くの人間で提案する研究会が多かった。もう一つちなみに、去年の合宿では、主要メンバーの提案とそうでないメンバーとの提案の質にちょっと大きな差が感じられたので、今年は一気に主要メンバーのみの研究会が多くなった。そういう感じである。

今年は、昨年までの教材研究中心の研究が少々倦怠期にはいっているという認識のもとに、合宿の研究内容を変更。1回だけ、生徒指導・学級経営をテーマにして日常実践と完全に連動させた地上戦をおこなった。しかも無意識領域の可視化、潜在領域の顕在化に徹底的に重点を置いた。そのために藤原さんや森脇さん提案の研究手法「ライフヒストリー・アプローチ」を基軸において、中心メンバーの現在の研究への到達にいたる経緯を明らかにしていく手法をとった。

この手法はかなり効果があったと思う。たぶんこれから、「研究集団ことのは」の研究会づくりの手法も、研究会のプログラムも、かなり劇的に変化することと思う。

先日、「別世界に行きたい」という駄文を書いたけれど、今回の合宿でぼくらは2年振りに「別世界」を覗けたことは間違いない。

今回のぼくの提案資料はこれである。

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MOON ROAD

「MOON ROAD」瀬木貴将/2007.11.24/伊豆北川温泉観光協会

Image545去年のぼくの10大ニュースの一つは瀬木貴将と出逢ったこと。

サンポーニャとケーナという耳慣れないバンパイプと縦笛を操り、哀愁漂うメロディを創り出す、ぼくと同い年の天才である。サンポーニャ&ケーナとは、葦でつくった、要するに笛の一種である。

このアルバムは2007年12月リリース、伊豆の北川温泉観光協会がつくったマイナー盤である。だれがもっていたのか、学校で給食を食べているときに、校内放送で頭上のスピーカーから流れてきた。静かな夜の海、或いは静かな砂漠の夜をイメージさせるようなメロディラインとサンポーニャの美しい音色にしびれた。

すぐに放送局員のところに飛んで行き、何という人物の曲なのかを確かめた。迷わず、その日のうちに10枚以上のアルバムをamazonで発注していた。7月23日のことである。

思えば、学校にこのアルバムをもっている人間がいなかったら、テレビもラジオもほとんど見聴きすることのないぼくがこのアルバムと出逢うことはなかつただろう。

また、その日、たまたま担任教師が休んで、副担のぼくが給食にはいっていなかったら、このアルバムと出逢うことはなかっただろう。

更には、放送で流れたのがこのアルバムではなく他のアルバムだったら、これほどのインスピレーションを感じたかどうかはわからない。それは永遠にわからない。

大袈裟なようだが、それほどに素晴らしいアルバムである。

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queen of the supermarket

There's a wonderful world where all you desire

And everything you've longed for is at your fingertrips

Where the bittersweet taste of life is at your lips

Where aisles and aisles of dreams await you

And the cool promise of ecstasy fills the air

At the end of each working day she's waiting there

I'm in love with the queen of the supermarket

As the evening sky turns blue

A dream awaits in aisle number two

なんて素朴で素敵な歌詞だろう。映画ならこれだけで15分くらい描けそうだ。

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WORKING ON A DREAM

「WORKING ON A DREAM」BRUCE SPRINGSTEEN/2009.01.27

Image544いや~素晴らしい!素晴らしすぎる!

もう1曲目から魂を鷲づかみにされてしまった。

60歳になってポップに進化するってことがあるんだな。まだまだ現役であり続けるんだな。オバマの応援してるだけじゃないんだな。まだ走るんだな。しかも堂々と前に向かって走るんだな。すごいよ、スプリングスティーン。

90年代までは必ず新作を買っていたのに、21世紀になって1枚も買っていなかった。もう落ちていく一方なんだろうと思ったからだ。00年代の最後に1枚だけ聴いてみようと思ってamazonをワンクリックした。しかも安い方の輸入盤。でも、それが正解だった。DVDはついてるし、ジャケットは大きいし。

ついさっき岩崎宏美のアルバムに「安っぽい感じの人生応援歌」的なことを書いたけれど、人生応援歌ってやつはこのアルバムみたいのじゃないとダメなんだよ。

もう、「OUTLAW PETE」のCan you hear me?が耳からはなれないもの。

いままでぼくの中では「THE RIVER」が圧倒的な一番だったけれど、ぼく、数年後には、これが最高傑作だって言ってそうな予感さえある。

まだちゃんとE-STREET BANDとレコーディングしてるってのも感動に拍車をかけた。

スプリングスティーン、すげェじっちゃんだ。

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Thanks

「Thanks」岩崎宏美/2009.05.20

Image543去年の5月にリリースされていたのは知っていたのだが、2009年の1年間はなんとなく新譜からは離れていたので、最近購入した。

今日、初めて聴いた。岩崎宏美のオリジナルアルバムとしては何年振りなのだろう。もう忘れてしまうほどである。前作が何だったのかさえ想い出せない。最近は「DEAR FRIENDS」の売れ行きが好調で、そちらばかりが目立っている感がある。

3回リピートして聴いたのだが、いまのところ、印象的なのは5曲目の「カナリア」のみ。あとはさわやか路線か、ちょっと安っぽい感じの、人生をポジティヴに捉えたバラード。

岩崎宏美の失恋歌が好きなぼくには、★3つといったところ。

AMAZONのレビューを見ると、ファンの評判は上々のよう。聴き込んだらよくなってくるのかな……。ぼくには岩崎宏美でなくても歌いこなせる楽曲が並んでいるように思われるのが。

ただ、久し振りにジャケットの写真は素敵である。ぼくの中で、岩崎宏美のジャケット写真は「二十歳前」型と「さよならの挽歌」型に分かれている。ファンにしかわからないだろうけど、ぼくは圧倒的に「さよならの挽歌」型の美しい岩崎宏美が見たい。

岩崎宏美の美しさは正面のフラットアングルで絶対的に際立つ。これはもうぼくの中では哲学である(笑)。

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知ることが必ずしも絶対善ではない

知ることが必ずしも絶対善とは限らない。

最近よく思うことである。それは自分の実感3割、他人の話から6割、書籍の情報1割、そのくらいの比率でぐちゃぐちゃとこねまわし、半年くらいコトコト煮込んだ結果として、たどりついた結論である。

まず自分の実感の話からすると、20代から30代半ばくらいまでは、とにかく知ることがおもしろくて仕方がなかった。ひたすら本を読み、ひたすら研究会に参加し、ひたすら自他の実践を分析していた。

自分で語りながら、「おお、これは受けた」「あら、これは受けなかった」「おや、意外なところで受けたなあ」とか、「あっ、やっぱりこの言い方でストンと落ちたようだ」「ああ、やっぱりこの言い方では駄目だったか」「おや、意外にこんな説明がおもしろがられている」とか、授業中、生徒の反応を見ながらよく考えていたものである。

しかもそれをメモしておいて、自宅であれこれ分析する始末。確かに授業にも学級経営にも手応えを感じるようにはなった。それがおもしろくて仕方がなかった。

でも30代後半になって、自分が学年主任とか教育課程検討委員とか生徒指導を仕切る立場とかになって、状況が変わってきた。知っていることが非常にストレスフルになってきたのである。

「えっ、その年になってなってそんなことも知らないの?」

「そんなやり方で動くわけないじゃんか」

「いまなんだよ、いま! ここで様子見なんて、後にかける時間と労力を膨大にするだけじゃん」

なんてことを、他人との調整でしきりに思うようになった。もちろん、自分より若い人間に対してではない。自分より年上の教師に対してである。自分が知れば知るほど、自分より年上の人間を見る基準、ハードルが高くなっていく。

たとえば、ぼくはいま43歳だが、43歳ならぼくくらいのことは知っていなければならないし、ぼくくらいの技能はもっていなければならない。無意識的にそういう機制が働くのである。これはやっかいだ。

もちろん、普通の人が普通に仕事をしているだけ知ることなど、そうそう多くはない。しかし、そんなことは頭ではわかっていても、だれもが自分を基準をするように、どうしてもぼくもまた自分を基準にしてしまうのである。

知るということは、具体的な事象から見えてくるものが多くなることを意味している。見えるものが多くなるということは、普通の人には見えない細かなつまずきや細かなミス、細かな怠惰も見えてくるということだ。

見えれば見えるほど、それを解消したい欲望にとらわれる。普通の人なら気づきもせずに見過ごしてしまうことが、実に大きな問題のように感じてしまう。

しかし、あまりがあがあ言い過ぎると職場の和を乱してしまう。しかも、自分にできることなど時間的にも労力的にも限りがある。その結果、自分に見えるまずさのうち、6割、7割には目をつぶらざるを得ない。これがストレスなのである。

こんなことを考え始めて既に5年が経つ。

最近は割とストレスを感じることなく、目をつぶれるようになってきた。なぜ、目をつぶれるようになったかと言えば、一つ一つの見えるものに自分の中で優先順位をつけたから。それに尽きる。

次に、他人の話から考えたこと。サークル仲間とか同僚とか友人とかの中で、よく勉強している人と飲んでいると、校内でちょっとあり得ないような仕事量を抱えているという話を聞く。興味があるので具体的に聞いてみると、確かにそんな仕事量を一人でかぶるのは変だなと思う仕事量である。

できる人に仕事は集まるとは言うけれど、それにしてもひどい。

ぼくもある年、3年担任をしながら部活を主でもち、時間割をつくりながら学校便りをつくり、学年では生活係と学習係と道徳・学活係と進路サブと学年協と学年便り、おまけに教科代表に体育文化振興会の会計、PTA広報までもたされた年がある。年齢は三十そこそこだった。

しかも学年教師は20人近く、学校全体では60人以上の職員がいる学校でである。この規模の学校の時間割作成がどれだけ大変か、中学校で時間割係をやったことがある者なら想像できるはずである。43歳のいま考えてみても、ちょっと考えられない人事だ。

勉強して知ってしまうと、こんなことが起こってしまうのである。

さて、話を戻そう。若い頃から勉強を怠らず、スキルを身につけてきたある40代のある教師が、ふともらしたことがある。

「こんなことになるなら、向上心なんかもつんじゃなかった。もっと楽してる人がたくさんいるのに……。」

自分もそう思うかどうかは別として、ぼくには少なくともこの心象がよくわかる。この教師は、明らかに向上心をもったことがこのストレスにつながっている。勉強したことが仇になっている。勉強してきたことによって、いまは勉強する時間を奪われている。そういう構図がある。

この教師に対して、「それは中途半端な勉強だったからだ」と批判するのはたやすい。しかし、この世に中途半端でない勉強など決してない。それは程度問題であり、レベルの違いの程度のものに過ぎない。

おそらく多くの人にとって、知ることは必ずしも絶対善ではない。それに無意識的に気づいている人たちが、勉強しないことを選択しているのかもしれない。そんな不謹慎なことまで考えてしまう、今日この頃である(笑)。

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BLACK MAGIC VOODOO CAFE

「BLACK MAGIC VOODOO CAFE」勝手にしやがれ/2006.09.20

Image542これほど格好いい、日本人のバンドをぼくは知らない。

ルースターズも格好よかったし、麗蘭もZELDAも格好いいのだけれど、彼ら彼女らはどこか熱いものをもっていたりニヒルを気取っていたりしていたものである。ところが、勝手にしやがれはただ単に純粋に格好いい音楽をやるためだけに音楽をしているような感じがひしひしと伝わってくる。

もともとEGO-WRAPPIN'が好きで、EGOとのコラボがあって知ったバンドだったのだけれど、ここ数年けっこうはまっている。

日本人なのに、ジャズとパンクをこれほど見事にマッチングさせたバンドは他にない。普通は日本人がやるとどこかユーモラスのところが生まれてしまったり、それを逆手にとって桑田のように意図的にユーモラスに演出するものだが、勝手にしやがれにはそれがない。

ぼくには天才的に見える。

これは2006年の3rdアルバム。EGOとのコラボもこのアルバムに収録されている。

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大人の時間はなぜ短いのか

「大人の時間はなぜ短いのか」一川誠/集英社新書/2008.09.22

Image541印象的なタイトルだが、認知科学の本である。それも実験心理学。

大人の時間がなぜ短いのかに関する著者の論述にはまったく納得できなかったが、というよりも実感がわかなかったが、現代社会の構造については目を見開かれる論述が多々あった。ずいぶんと頁の角を折った。

現代の情報化社会によって人間の潜在的欲望が増やされているという論述はよく見る。しかし、その分、実時間との関係で満たされない欲望の数・量も増えるから、それがなかなか実現されないことによってジレンマに陥り、ストレスとなる。現在のストレス社会には、このような構造的側面がある。まあ、ぼくなりにまとめるとこれが大きな学びだった。

また、数々の実験の紹介は、教材として活用できるとも感じた。それなりにお勧め。

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Page By Page

「Page By Page」高橋幸広/2009.03.11

Image540高橋幸宏のつくる哀愁漂うメロディと味のあるボーカルに癒され続けて30年が経つ。これは去年の3月にリリースされた最新作。YMOの再結成とかpupaの活動なんかを経て、なんとなく一段と哀愁POPに磨きがかかったような印象。

夜、ソファに寝転がりながら読書をするときに、BGMとして流れているととても心地よい。決して傑作なんていう代物じゃないが、ぼくには必要なアルバムである。

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空き時間の授業観察から見えてくる

糸井さんの昨日のブログ「仕事の流儀」が私には大変おもしろく読めた。次の箇所である。

何で、みんな、職員室での談話が中心なんだろう。
私たちの現場は教室なのに。
汚いままの教室で年を越し、そのままの状態で明日を迎えるなんて、信じられない。

ゴミ出しをするついでに、各教室を覗いて見て回る。
誰もいない休み中の教室にこそ、見るべきものがある。
つまりは、仕事の流儀である。
是非、若い先生は、誰もいない放課後の教室を見て回ってほしい。
私は、若い頃は、ウロウロと見て回り、勉強させていただいた。

私は糸井さんのような誠実な「仕事の流儀」をもたないけれど、各教室を見て回ることだけは続けている。あるときは感心しながら、あるときは批判的に見ながら、そしてあるときは何かおもしろいものはないかとネタ探しをしながら。

一つ目。

新卒の4月のことだから、もうかれこれ19年前のことになる。学年の宴会二次会である年配教師が私に言った。もう時効だろう。私が最初にお世話になった学年主任の先生である。ずいぶん前に還暦を迎え、いまはもう退職されている。

「堀さん、学級経営がうまくいっているかどうかをはかるには、放課後の教室を見るのが一番いい。床にゴミは落ちていないか、机・椅子はちゃんと並んでいるか、窓の鍵はどうか、カーテンは整えられているか、そういうところに学級経営が出るんだ。」

私はこの話を感心しながら聞いた。なるほど、そういうものかと。

翌日、言われたとおり、私は放課後の教室を見てまわった。新卒で赴任した学校は当時25学級。私は2階の3年生の教室から一つ一つ見て回った。確かに昨日、あの先生が言ったとおりだった。黒板の消し方が乱雑だったり、明らかに放課後に黒板に落書きをして遊んでいた形跡があったり……。はずれかけた掲示物が放置されていたり、掲示板が破れているのに修復されていなかったり……。机・椅子が乱雑に並んでいたり、机に大きな落書きがあったり……。ガーテンがまとめられていなかったり、乱雑にまるめられていたり、ひどいものは破れているものがそのまま放置されている。

これはよいことを聞いたと思い、3階の2年生へ、4階の1年生へ、と時間をかけて見まわっていった。私のクラスはさすがに昨日の今日で、担任の私が意識していたので、整然とした美しい教室になっている。うんうんと自己満足にひたりながら、学年主任の教室に足を踏み入れたときだった。

ひどい……。

カーテンがまとめられていない。黒板の消し方は汚い。掲示物は一カ所留めでひらひらしている。机・椅子も、並んでいないわけではないのだが、微妙にずれている。90度がない。各列の合間も均等化されていない。広い通路と細い通路がある。

私は思った。口だけだったのだ。頭でわかっていても、やっていないのだ。しかも新卒に説教した次の日くらい、付け焼き刃的にでも実践してみてはどうなのか。いや、酒席で自分がそんな説教をしたことさえきっと覚えてはいないのだ。1年生の4月である。最初からこんなことでは、3年生の教室がああなるのも無理はない……。これからいったいどうなってしまうのか。私はこれから3年間、この学年でやっていくことを不安に思った記憶がある。

二つ目。

これも新卒の年のことである。勤務校はその年、開校8年目。当時の職員会議では、開校以来勤務している教務主任と生徒指導主事がだれも否定できないような理念的な演説をぶって、話をまとめるのが習わしになっていた。

中学校には空き時間がある。放課後の教室を見てまわって以来、私は授業の空き時間も急ぎの仕事がないときには各教室を見てまわるようになっていた。戸の窓から教室をのぞくだけでも、なんとなく授業の雰囲気というものは伝わってくる。体育や音楽で生徒たちがいない教室からはいろんなことが垣間見えた。前の時間の板書が残っている場合には、それを見ながらどんな授業が展開されたのかを想像することが楽しみにもなっていた。

ある日、3年生の授業をのぞいてみて、戦慄が走った。

教室の後ろの方で3人の男子生徒が花札をしていた。学校でもだれもが名を知っているような3人である。他の生徒たちは前を向いてノートにペンを走らせている。何の授業だ?と視線を教卓にむけて驚いた。生徒指導主事なのである。しかも、後ろの3人が目に入らぬかのように淡々と授業を進めている。

おいおい。これが3年生か。職員会議であれだけいっぱしのことを言っている生徒指導主事の現実はこんなものなのか。

私は思った。口だけだったのだ。頭でわかっていても、やっていないのだ。自分はとんでもない学校に来たものだ。大荒れではないか。中学校とはやはりこういうところだったか。

後日談。この生徒指導主事は次の年、教頭に昇進した。生徒指導主事がかわった。新しい生徒指導主事は厳しい先生だった。生徒にも厳しいのだが、教師にも厳しい人だった。それでいて、最後にはさりげなくフォローする優しさも兼ね備えていた。どうなることかと思った最初の勤務校には7年いたのだが、2年目から7年目までは特に大きな問題もなく、授業に乱れもなく、落ち着いた雰囲気が維持されるようになった。私にとって、この経験はいまだに大きな教訓となっている。

三つ目。

それから14年経って、私は小さな学校の学年主任になった。掲示物や給食、清掃に割とうるさい学年主任だったと思う。放課後には各教室を見てまわり、空き時間には授業に入っていくことも多かった。授業のまずさを細かくメモに書いて指導することもあった。これらのことが学年の生活規範の維持にどれだけ大切かということを知っているからである。

四つ目。

今年、再び大規模校に転勤した。24学級である。副担であることもあって、空き時間はよく授業を見てまわっている。同じ学年の授業なら欠席者の席に座っていっしょに授業を受け、他学年の授業なら、授業が上手いなと思う教師の授業は1時間廊下に座って聞いていることもある。いろんなことがわかる。

最近、野中先生が初任者指導の立場になって、授業をやる側から見る側になっていろいろなことに気づき、驚いたということを盛んに書いている。話によると、小学校は研究授業があると、自分の学級を自習にして見に行くことがあるという。どうせ自習をつくってまで見るのなら、研究授業などではなく、普段の様子を見てまわったほうがいい。いろんな学びがある。

自分はこの感覚をもつことができたというだけで、中学校教師でよかったなと思う。

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『こころ』は本当に名作か 正直者の名作案内

「『こころ』は本当に名作か 正直者の名作案内」小谷野敦/新潮新書/2009.04.20

Image539相変わらず一気に読ませる筆力はたいしたものである。

『こころ』が名作かどうかはともかくとして、「第三章 私には疑わしい『名作』」は論になっていない。まあ、論になっていないことを前提に、リーダブルにというコンセプトであろうから、読者も躍起になる必要はないのだろうが、もう少し小屋のらしい切れ味が欲しかった。

当時の社会システムはかくかくであるから、史実と整合の取れないしかじかは名作の名に値しない。

○○教信者であるからこそ了解できる心象であるのに、非○○教である日本人がなぜこんなに名作扱いするのかわからない。

当時の知識人の代表たる作者の逸話によって、あらかじめ大作家が形成され、そのバイアスがかかった目で見たからこそ名作扱いされたのではないか。

それぞれ具体的なその作品、その作家については言えることなのかもしれないが、それらの視点の関係性を見比べたとき、矛盾しはしないか。ぼくは史実に従わない創作があってもいいと思うし、無宗教者が宗教的な葛藤とはこういものかと曲解する読者もありだと思う。問題は史実や宗教といった物語よりも、そうした物語を語り手がどう意識し、どう自己表出するのかを通じて、作家自体の世界観の在り方をさぐることにこそ興味がある。

とはいうものの、「禁煙ファシズムと断固戦う!」と宣言した小谷野はどうしても嫌いになれない(笑)。

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アベンジャー型犯罪 秋葉原事件は警告する

「アベンジャー型犯罪 秋葉原事件は警告する」岡田尊司/文春新書/2009.01.20

Image5382冊目を読んで、この著者が大言壮語を吐くのは性癖に近いのだとよくわかった(笑)。それならそういう著者として読むというこである。

さて、これも「誇大自己症候群」同様、「アベンジャー型犯罪」という用語を生み出したことは大きい。まあ、思いつき程度のものかもしれないけど。いずれにしても、これは「犯罪の型」だから日常的に使えるタイプの語となる。

「誇大自己症候群」と異なるのは、著者に秋葉原事件から放れないようにしようという意識が一応うかがえること。

特に、冒頭の加藤智大の視点から描写した物語は出色。これは道徳の教材として用いれば、かなり想像力を喚起する物語になっている。教材化を試みようと本気で考え始めているところ。この価値だけでもぼくにとっては読んでよかった。

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誇大自己症候群

「誇大自己症候群」岡田尊司/ちくま新書/2005.09.10

Image537非常に便利な言葉を編み出してくれたな……というのが率直な印象。

しかし、それ以外は、前半に引かれている事例も一般的でどこかで読んだようなものが続き、「誇大自己症候群を生む現代社会」「身近にひそむ誇大自己症候群」「誇大自己症候群の克服」と続く後半もいまひとつ鋭さに欠ける。読後は、著者の「ひとつの視点からすべてを見直してみよう」という気概はよくわかるのだが、便利なネーミングほど分析を大雑把にしてしまうものだなあ……というものだった。少なくとも、「それは誇大自己症候群だね」という言葉は、居酒屋談義以外では聞きたくない。職員室でそれを聞いたら、ぼくはきっと怒ると思う。

自らの発想をどんどん拡大解釈して全体志向に走るのではなく、著者の現場経験から前半の事例に関してもっとねちっこく語ってくれればいいのになあ、と感じた。ただし、読んでいて「あるある」とニヤニヤしてしまう箇所は多々あり、読後感は決して悪くないし、文章もいい。

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日暮らし ベスト

昔、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」を始めて聴いたとき、その透き通った歌声に「神に通ずる少女」だと感じた。「探偵物語」を聴いて、さらにしびれた。「天に星 地に花」を聴いて、その歌声がぼくの人生に不可欠となった。でも、それは「Wの悲劇」までだったような気がする。その後の30年については語るまい。十代の頃だけに神に通じていたという少女は、芸能界にたくさんいる。最近では酒井美紀とか宮崎あおいとか……。

話が脱線したが、あの透き通る歌声は、このベストを聴くまで、薬師丸ひろ子だけのものだと思っていた。ところがところが……。ただ懐かしさに「いにしえ」が聴きたくて、どうせならベスト盤をと購入したこのCD。すごい。あの頃の薬師丸ひろ子と並ぶ、いや、それ以上の透き通った歌声があった。「いにしえ」と「サンセット・メモリー」しか聴いたことのなかったぼくは、これをまったく知らなかった。

しかも、あたりまえのことだが、ちゃんとしたボーカリストなので、要所要所に抜群の表現力がある。低音を出すときには、美空ひばり的な色合いを見せる。ちゃんとフルアルバムを聴いてみたくなった。

Image536 ゴールデン☆ベスト 日暮し

1. まちぼうけ~佐渡を恋うる詩~ (日暮し)
2. 夢みる風船 (日暮し)
3. あなたは何処にいるんですか (日暮し)
4. 冬の夜 (日暮し)
5. オレンジ色の電車 (日暮し)
6. 街の影 (日暮し)
7. いにしえ (日暮し)
8. 木橋の上から (日暮し)
9. 心の屋根 (日暮し)
10. 愛のもどかしさ (日暮し)
11. 秋の扉 (日暮し)
12. 旅の童話 (日暮し)
13. うでまくら (日暮し)
14. 絵空事 (日暮し)
15. サンセット・メモリー (杉村尚美)
16. 風のノスタルジア (杉村尚美)
17. 風の中のメロディー (杉村尚美)

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別世界にいきたい

今頃は、「授業づくりネットワーク」の函館大会も終わった頃だろう。

家に閉じこもったままの冬休み。3日に学生時代の友人と飲んだ以外は、外出は年賀状を出しに行く程度。もう6日だというのに一度も車の運転をしていない。部屋を片付け、本を読み、資料を整理し、原稿を書く。それだけである。

こういう長期休業は久し振りである。

民間の研究会に登壇するようになって十数年、冬休みには必ず幾つかの研究会が重なっていた。少なくとも授業づくりネットワーク、札幌・冬の陣と題された国語科授業研究会、そして研究集団ことのは合宿などなど。こうした研究会が2~3日置きにあると、その合間はすべて提案準備に追われてしまう。ぼくは時間をかけずに要領よく講座をまとめるタイプではなく、時間をかけてじっくりと新たなものを生み出したときにだけそれを伝えたくなる、そういうタイプである。数年に一度はやはりこういう時間をつくりたいものだと思う。

先日の教師力BRUSH-UPセミナー合宿でも話題になったのだが、講座には「レクチャー型」と「研究型」がある。研究会にも「レクチャー型」と「研究型」とがある。「レクチャー型」とは講師が提案内容をもっていて、それを参加者にレクチャーする。これは説明の必要がないだろう。

問題は「研究型」である。

「研究型」とは、複数の提案者が対話を重ね、その場で何か新しいものを生み出そうというタイプの講座である。

例えば、模擬授業者二人から三人が同一教材同一場面の模擬授業をおこなう。それも10分とか15分とかではなく、少なくとも30分、できれば45分程度の模擬授業である。その後、90分~120分、みっちり三者比較の協議をおこなう。最初は協議内容が授業技術に偏るが、次第にその授業技術が選択された背景がそれぞれの授業者の学習者観・教材観・授業観・指導観・教育観・人生観の違いであることが見えてくる。

だいたいそこまでに60分~90分かかってしまう。それが見えてくると短時間ではあるが、それぞれの授業者が自らの教育観とか授業観を語り出す。そこに必ず対立が生まれる。短時間でもその対立的やりとりを参加者が聞くことによって、「そうか。この授業はそのような教育観から発祥しているのか」とか「自分はBさんよりもAさんの授業観に近いな」とか、そういうレベルでやりとりを見るようになる。講座はこのレベルまで達すると、参加者にも、そして実は提案者にも「別世界」を見せるものとなる。

ただし、協議司会者に並々ならぬ力量が必要となるのに加えて、いくら力量があっても会の趣旨を深く理解していない外部の人に頼むと失敗しやすいこともあり、この協議を捌ききれる主催者の力量が必要となる。

もう少し簡単なのは、ストップモーション授業検討である。一人の模擬授業者の授業を、これも90分~120分かけてじっくりと検討する。その際、毛色の異なる指定討論者が3~5人いることが必要である。力量のない指定討論者を立てたり参加者だけに発言を求めたりすると、授業技術論議だけに終始するか、堂々巡りの教材論に終始することになりがちである。

そこで、例えば物語の模擬授業であれば、授業技術に深い知識・技能のある人、文学教育に深い知識・技能のある人、言語技術教育や単元学習といった学習形態に深い知識・技能のある人、思想的な背景に深い知識・技能のある人、場合によっては前四者が確実にいるのを前提で、新卒や他教科専門といった素人的な人を招いて現実なバイアスや外の視点を語ってもらう、こういった多角的に検討できる構成が必要である。

いずれにせよ、ストップモーション授業検討も、参加者に「別世界」を見せる講座となる。提案者は自分の授業が多角的に、しかも徹底的に斬られるわけであるから、「別世界」を見るのは当然の手法である。

いま、ぼくが注目している「研究型講座」の手法は、ライフヒストリー・アプローチと呼ばれる、提案者の歴史性に注目した協議方法である。一人が模擬授業や提案をおこなう。たぶん、1時間の授業よりは、学級経営論とか特別活動実践報告とか生徒指導論とかがいい。これまでの教師としての経験を踏まえた全人格的な要素をもつ提案になりやすいからである。授業についてであれば、おそらく「国語科授業づくり・5つのポイント」のような、実質的には授業論を語ってもらう形態の講座がいい。

これを最低でも180分、できれば300分くらいかけて、みっちりと検討することが必要である。昨年の「授業づくりネットワーク東京大会」はこのライフヒストリー・アプローチを旗印とした研究会だった。ぼくはこの手法に興味があって参加したわけだが、どうにも検討時間が短すぎて何一つ深まらなかったという印象を受けた。

もう一つ、これは大きな研究大会には向かないな、とも感じた。対話者が提案者に一つ一つ質問していくわけだが、どうしても対話者が参加者に有益になるように本質的な質問をしようと急ぎすぎてしまうのだ。おそらくライフヒストリー型検討は、いくつかの本質的な質問のまわりに、その何倍もの膨大な退屈な質問、経緯の説明、四方山話、といったものを必要とする手法である。そうした退屈な時間をともに共有できるような人間たちで行わなければ、なかなか機能しない。

しかしおそらく、これが機能したときには、参加者にはもちろん、提案者にも自分で気づいていなかった自己発見が見られる。そういう手法である。参加者にとっては、「なるほど、そういう経験が一見まるっきり異なった○○という場面に活きているのか。」「授業だけで授業を考えてもいけないし、教育だけで教育を考えてもだめだなあ。」「そうか、同僚との出会いって大切なんだなあ。反面教師でさえ大切なんだ。」といった学びが生まれる。提案者にとっては、「そうか。無意識にあのことへのこだわりがあったんだな」とか、「ああ。結局、オレはあの手法を避けていたのだな」とかいった学びが生まれるはずである。

これを「別世界」といわずになんと言おう。ライフヒストリー・アプローチは、おそらくここまでいかないと意味がない。

しかし、これは机上の空論。数日後、「研究集団ことのは」合宿で初めて試してみる。その成果と課題によって、もしかしたら一般の公開研究会でも可能な手法が開発できるかもしれない。それを楽しみにしているところである。

さて、最後に、これらの「研究型講座」が「ワークショップ型」として見事に機能しているのがおわかりだろうか。世に言われる「ワークショップ型授業」や「ワークショップ型研究会」は、その場のちょっとした気づきを交流しているだけで、それを徹底して深めるということをしない傾向がある。対立や理解し合えない立場を前提とした「対話」も成立していない。ぼくにはチャットのおしゃべりやツイッターのつぶやきあい程度にしか見えない。

もちろん、これを1年間かけて教室でおこなうのであれば、話は別である。一つのことを長く続ければ、学習者は必ず「自分なりの学びの視点」「自分なりの学びの観点」を編み出す。それは数ヶ月すれば、間違いなく機能するようになる。ぼくが言っているのは、あくまで単発の研究会の話である。

ここ数年、ワークショップやファシリテーションといったものを学んできて、ぼくはいまのところ、こんなことを考えている。

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OLIVIA NEWTON-JOHN GOLD

TWIST OF FATE」が聴きたくてアマゾンに注文した。

2枚組のベスト盤。輸入盤である。

1970年代半ばから1980年代半ばにかけて、彼女はまぎれもなくスターだった。リリースされた曲が次々にヒットし、主演する映画が次々に当たり。ジョン・トラボルタと共演した「グリース」は記録的なヒット。

しかし、ぼくの世代にとっては、やはり彼女はもうひと世代前のスターであって、DISC1の曲の多くはぼくの知らない曲だった。それでもDISC2の「Xanadu」「Magic」「Phyiscal」あたりは十代の前半によく耳にした曲である。

「Xanadu」が「桃源郷」の意味だったと今回調べてみて始めて知った。

レオタード姿でエアロビクスを踊る「Physical」のPVがなつかしく想い出された。でも、こっちのビデオの方がいいけどね。

Image535 OLIVIA NEWTON-JOHN GOLD

ディスク:1
1. If Not For You
2. Banks Of The Ohio
3. Let Me Be There
4. If You Love Me (Let Me Know)
5. I Honestly Love You
6. Have You Never Been Mellow?
7. Please Mr. Please
8. Something Better To Do
9. Let It Shine
10. Come On Over
11. Don't Stop Believin'
12. Every Face Tells A Story
13. Sam
14. Making A Good Thing Better
15. Hopelessly Devoted To You
16. Summer Nights
17. You're The One That I Want
18. A Little More Love
19. Deeper Than The Night
20. Dancin' 'Round And 'Round
21. Totally Hot
22. Fool Country
ディスク:2
1. Xanadu
2. Magic
3. Suddenly
4. Physical
5. Make A Move On Me
6. Landslide
7. Heart Attack
8. Tied Up
9. Twist Of Fate
10. Livin' In Desperate Times
11. Soul Kiss
12. The Best Of Me
13. Can't We Talk It Over In Bed
14. The Rumour
15. Reach Out For Me
16. Deeper Than A River
17. Grease Mega-Mix
18. I Honestly Love You

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オリジナリティ

実践研究をしていてよく思うことは、「オリジナリティのある提案が評価されるのはなぜか」ということである。他人の提案を拝聴していても、これはオリジナリティがある、これはオリジナリティがないと判断している。そして、オリジナリティありと判断した提案を価値ある提案と考える自分がいる。

若い頃、自分が何夜も徹夜してつくった提案が、2年後にある先輩教師に全国大会の提言にパクられて激怒したことがある。ぼくと付き合いの長い研究仲間も、ある研究会で提案した文書が徹底的に批判され、後にその批判した張本人が授業でその提案どおりに授業をしていたことがわかり激怒していた。以来、ぼくらはなんとなく官製の研究団体や半官半民の研究団体に距離感を抱くようになったという経緯がある。言ってみれば、このときわいてきたエネルギーが「研究集団ことのは」の現在をつくったという側面がある。

しかし、考えてみれば、「研究」とはもともとオリジナリティを出発とするものではない。まったくのオリジナルな研究などというものは、「実践」ではあり得ても「研究」ではない。「研究」というものが「科学」だとすれば、それは先人の成果を細かく記録し分析したうえで、ぐちゃぐちゃとかき混ぜてみたり、時間をかけて煮込んでみたり、或いはもともと違う世界にあったものを具材にサンドウィッチをつくってみたり、そんな活動である。

ここまで書いてみて合点がいった。

そう。「研究」にはまったくのオリジナリティはないけれども、そこには一度ぐちゃぐちゃにしたり、時間をかけたり、違う世界観を外挿的にもちこんだりという営みがあるべきなのである。ところが現場の実践研究は、官製研究ならふりかけをまぶしたり梅干しをのせたりした程度のものが「研究」としてまかりとおってしまい、組合教研なら古米・古々米・古々々米を加工もせずにそのまま食わせようとするものがいまだに「研究」としてまかりとおっている傾向がある。

おそらく、ぐちゃぐちゃにかき混ぜたそのかき混ぜ方とか、時間をかけて煮込んだその煮込み方とか、外挿的にもちこんだきた別世界のかけ離れ方とか、そうした発想に驚きを感じたとき、人はその「研究」にオリジナリティを見るのに違いない。

そう考えると、一つの研究に10年とか20年とかかかるというのも肯けるというものである。ぐちゃぐちゃにかき混ぜたものを再整理したり、煮込み方に納得がいかなくて何度もやり直したり、別世界の世界観を一生懸命に勉強したり、そうしたことに時間と労力を惜しまない者だけがその「研究」にオリジナリティを感じさせることができるのである。

そう考えると、ぼくはまだ何一つオリジナリティある提案などしていないな、と反省する。

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本をもってゴミステーションへ出よう

3年振りに部屋を片付けたら、いよいよ限界を感じた。

書棚がどうにも窮屈なのである。かつては宝のように思われた本たちがずいぶんと遠くに行ってしまった気がする。例えば、言語技術教育関連の本とか、授業技術・教育技術関係の本とか、教育問題関係の本とか、心理学関係の本とか、社会学関係の本とか、こういったこれまでのぼくの仕事を支えてくれた本たちがどうにも鬱陶しくおもえてくるのだ。

おまけに、どうにもこうにも整理のしようのない文庫とか新書とかがごまんとある。文庫全集関係はとっておくにしても、東野圭吾とか盛田隆二とか由良三郎とかどう考えてももう二度と読まないだろう大衆小説(もう死語ですね)の嵐。これはもう捨ててもいいのではないか。松本清張や森村誠一や横溝正史はどうしようか。江戸川乱歩はとっておいたほうがいいな。何かに使えそうだから。いやいや、清張だってせっかく生誕100年だったしな。そんなこと言ったら森村だって横溝だって再び読むこともあるかもしれない……。こうして本は捨てられなくなる。

それに比べれば、新書の整理はしやすい。テーマ別に整理して必要なテーマの本はとっておき、不必要なテーマの本は捨てればよろしい。捨てたテーマが必要になることもあるかもしれない……と考える必要もない。そうなったらまた買えばいいからである。これだけ新刊があふれ、100円で手に入る古本屋もあふれている世の中である。さらにはネット書店も充実している世の中である。ふと思い出したとき、この新書が手に入らないのではないかなどと心配する必要はまったくない。

問題は時間である。大衆小説関係の文庫は「よし、捨てる!」と思い切れば捨てられるのだが、新書はテーマ別に整理する時間が必要になる。これをほんとうにやるとなったら膨大な時間がかかる。なぜなら、新書のテーマ別整理が新書だけで終わるはずがないからである。新書のテーマと単行本のテーマとは明らかにつながっている。それぞれをリンクさせているうちにこれまた作業が膨大になっていく。そのうちその作業は文庫にも派生していくはずだ。

例えば、山本七平の「空気の研究」は文庫といっても捨てるはずがない。そうすると、こんな文庫が出てきたところで、それまでの整理が一気にパラダイムシフトを起こしてしまう。そうか。「空気の研究」を整理の観点としたらこうこうこういう観点での整理も可能になる。その観点で整理し直してみよう。

あっ。諸葛孔明の兵法関係の本が出てきちゃった。この本たちと横山光輝の『三国志』60巻はいっしょに置くべきなのか否か。いっしょに置いたら、『項羽と劉邦』全21巻だっていっしょに置くことになるじゃないか。それじゃあ、司馬遼太郎もこの棚か?陽明学関係の本は? 論語の解説書は?

こんなことを考えているうちに、書庫の床は次々に平積みされた「整理を志向した本たち」によって占領されていったのが3年前。数ヶ月もたつと、誰一人、妻さえも踏み込むことのない部屋ができあがってしまったのである。いや、正確に言えば、二匹の犬たちだけはぼくの部屋に入りたくて仕方ないようだったが、あいつらを入れると別の大変さが出てくるので丁重にお断りしたのであった。

さあ、同じ轍を踏まないために、今度はどういう手でいこうか。まずは「捨てる技術」関係の本を10冊くらい買ってきて考えてみることにしようか。

こうしてまた価値のない、どうでもいい本が増えていくのである。

でも、今回は大衆小説だけは捨てよう。文庫はすべて。単行本も内海隆一郎や長野まゆみは捨てることにしよう(笑)。そう決意した。

本をもってゴミステーションへ出よう!

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大傑作である

「天使のパン くめさゆり・さんびか集」

久米小百合の13年振りの新譜を聴いた。久保田早紀の新譜かと思われるほどにポップに仕上がっている。ああ、『回想録(メモリーズ)~午後の頁から』で吐露していた葛藤をとうとう乗り越えたんだなあ……という印象を抱いて、正直、感動してしまった。

「テヒリーム33」(1987)や「はじめの日」(1996)に比べても、ボーカルが久保田早紀に近づいてきている。久保田早紀名義の最後のアルバム「夜の底は柔らかな幻」に収録されていた「見えない手」を初めて聴いたときの感動と同じ質の、それでいて何千倍にも何万倍にも深みのある感動を覚えた。

久米小百合はぼくより確か8つ年上だったはず。たぶんいま、50歳か51歳だ。

二十歳そこそこで、「異邦人」というその後30年以上聴かれ続けている名曲を偶然にもつくってしまい、自らにこびりついてしまったシルクロードとかオリエンタルエキゾティックとかエスニックとかいったイメージに戸惑い、そのイメージ具現化の期待に押しつぶされた久保田早紀。

ファドを取り入れてもアイドル的なポップスを取り入れても、どこか自らにこびりついたイメージを払拭できなかった久保田早紀。

「夜の底は柔らかな幻」という圧倒的な傑作を最後に結婚して、突如引退した久保田早紀。

数年後、再びぼくらの前に姿をあらわしたとき、彼女はゴスペルシンガーとして、いや、というよりはあまりにも日本的な音楽伝道者に方向転換していた。ぼくは彼女のその頃の葛藤を『回想録』というエッセイで読んで以来、キリスト教には縁もゆかりもないけれど、「彼女の歌だけは聴き続けたいな」と思ったものである。

久し振りに、一人の人間の「人生」を感じさせてくれるアルバムを聴いた思いがする。まだ50そこそこだというのに、これからどうなっていくんだろう。また、10年待たされてもいいから、次回作に期待してしまう。

それにしても、あの頃の久保田早紀とその後の久米小百合をよくもここまで止揚したものである。おそらく今回、自分の名を「くめさゆり」とひらがな表記したのはそういう意味なんだろうな。久保田早紀のアルバムでも久米小百合のアルバムでもない、「くめさゆり」のアルバムなんだろうな。そんな気がする。

大傑作である。

Image531 天使のパン くめさゆり・さんびか集

1. アメイジング・グレース
2. 聖なる 聖なる 聖なるかな
3. 天使のパン
4. 丘の上に立てる十字架
5. イエスはそばに
6. いつくしみ深き
7. 道化師の夜
8. 少年
9. Pane e Pesce
10. グリーンスリーブス
11. 主のまことはくしきかな
12. ああベツレヘムよ
13. 主われを愛す
14. イエスはそばに (English vrsion)
15. イエスはそばに (Korean version)

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A LONG VACATION From Ladies

すごいアルバムだとは思う。でも、せっかくリリースするのなら、もう少しアレンジに工夫があっても……というのが率直な印象。「原曲をこわさないように」と、「ボーカリストのオリジナリティを活かすような新しさを」との間で折衷的に選ばれたアレンジという感想を抱いた。

かつて「コスメティック・ルネサンス」が昭和の歌謡曲を世良公則や狩人、鈴木トオル、坂本冬美なんかに歌わせて、とてもおもしろいアルバムに仕上がったことがあるが、あっちの方がボーカリストの個性をずっと活かしていたような気がする。

とはいうものの、尾崎亜美、原田郁子、つじあやのボーカルには感動した。楽曲を完全に自分のものにしている。大貫妙子、今井美樹、鈴木祥子あたりには大瀧詠一への遠慮が感じられるような気がふとした。太田裕美の「FUN×4」はファンとしてはたまらなかった。ぼくにとっては、もともと太田裕美の「散歩しない?」っていう曲に過ぎませんから(笑)。

まあ、これから聴き込んだらまた印象も変わるのかもしれない。

「これはもう 新しいアルバム 僕はその 幸せなリスナー」

という大瀧のコピーはしんみりくるものがあった。

1. 君は天然色/大貫妙子
2. Velvet Motel/金子マリ
3. カナリア諸島にて/今井美樹
4. Pop-Pi-Doo-Bi-Doo-Ba物語/行川さをり(ジュライム)
5. 我が心のピンボール/イシイモモコ(ハミングキッチン)
6. 雨のウェンズデイ/尾崎亜美
7. スピーチ・バルーン/原田郁子(クラムボン)
8. 恋するカレン/つじあやの
9. Fun×4/太田裕美
10. さらばシベリア鉄道/鈴木祥子
11. Epilogue Instrumental~Blue Niagara/井上鑑(*ボーナストラック)

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心地よい

新年が明けてから、朝起きると昨日来た年賀状に返事を出す。宛名を登録して印刷し、一筆添えて、近くのローソンに出しに行く。缶コーヒーを1本買って、それを飲みながら昨日書いた原稿を読み直し、それに赤を入れる。朱入れが終わり、修正が終わると、今日やるべきことにやる気がわいてくる。

こんな毎日を送ることは一般的には異常なのかもしれないし、不幸なのかもしれない。

でも、こんな毎日が心地よいのも確かである。

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絶滅危惧種

自然界に絶滅危惧種があるように、教育界でも絶滅危惧種を意識させられることが多くなった。

例えば、不良とかワルとか、ひと昔前(いや、ふた前だろうか)には教育界に君臨し、数々の映画や漫画に描かれた生徒像がほとんど絶滅危惧種となっている。中間トオルのリーゼントとか加藤ヒロシのリーゼントパーマとか菊リンのパンチパーマとか、最近はついぞ見ることはない。いま床屋でアイロンが使われることなどあるのだろうか。今度床屋に行ったとき訊いてみよう。

例えば、研究する若手教師というのも絶滅危惧種になっている。ぼくはここ3校で9人の新卒教師と出逢ったけれど、彼らには一人残らず実践埋没型教師だった。日々の公務に精一杯で、かつてぼくや森くんがしていたような、公務とは別に、家でしこしこ教材研究をし教育書を読んでいるというような感触はまったく感じられない。酒を飲む席では純粋に酒の席を楽しみ、子どものことを語ったり授業のことを語ったり、ましてや教育について議論をするなどという姿はほとんど見られない。ぼくから見て才能豊かに思える若者でさえそうである。

そういえば、先輩教師が酒席で若手に説教をするという場面もほとんど見られなくなった。もちろん、ぼくだって酒席を純粋に酒席として楽しむタイプなので、他人をことをとやかく言える立場にはない。昨夜、学生時代の友人3人と新年会をもったのだが、そこで交わされる会話のほとんどが教育の議論であったことを考えるとき、その差に驚かざるを得ない。ぼくはこの20年間で「後輩に期待する」という気持ちを失ってしまったように思える。

職能の伝承……これこそが絶滅危惧種なのかもしれない。

不良やワルがいなくなったというのも、「あいつは不良だ」「あいつはワルだ」というレッテルを貼るというメンタリティ自体が絶滅危惧種化しているのだという現実がある。

学校で方々に見られる絶滅危惧種を探してみることにしよう。ちょっとだけ気にかけていれば、いくらでも見つかるに違いない。

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またまた二日酔い

2010年初めての二日酔い。

昨夜は梶くん、柏葉くん、山下くんと4人で夕方からウイスキー三昧。ほとんど大学時代そのままのノリで語らうこと10時間。大学時代に何を学んだのか、就職してから何を学んできたか、それぞれがそれぞれにおこなつている活動の意義は何か、そんなことを話しながら、気がついてみると午前様。一次会は白石だったはずなのに、いつのまにやらすすきのに繰り出していた。最後は柏葉くんの馴染みのバーへ。

何も気を遣うことのないメンツ。

こういう場で深酒をしないのは無理なことである。

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SUNRISE

みなさん、井上堯之バンドの「SUNRISE」ってアルバムをご存じですか?

おそらく知らないでしょう。だって、「SUNRISE」っていうタイトルはサブタイトルで、アルバムのタイトルは「太陽にほえろ!’76」なんですから。

でも、このアルバム、完成度高いんです。通常の「太陽にほえろ!」のサントラとはわけが違うんです。1曲目…というか、LP盤のA面にあたる部分に、「組曲『太陽にほえろ!」という24分4秒にわたる大作が収録されているんです。この組曲の完成度の高いこと高いこと。ドラマで割とシリアスな場面で使われていた幾つかの曲をSEのようにつなげた組曲なわけですが、これが小学校のときから大好きなんです。

確か小学校6年生のときだったと思いますが、同じクラスの女の子のうちにこのアルバムがあって、借りてきてダビングして……毎夜、就寝の音楽としてかけていた記憶があります。組曲の半ば過ぎに女性の叫び声があって、そろそろ眠りに就こうかとうとうとしているとこの叫び声に起こされる、そんな夜が幾度もあったこともよく覚えています。

いま、AMAZONで3750円で中古盤が手にはいるようです。まあ、興味ないという人がほとんどとは思いますが、ちょっとでも気になったら是非。損はさせません。

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安田

50をとうに過ぎて、残り数年になっても延長戦を闘っている教師がいる。延長戦は突出したスターのサヨナラホームランで決まることは少ない。球筋を見極め四球を選び、バントで送って次打者の安打を待つ。エンドランをかけるぞ、盗塁もあるぞ、と内野手を攪乱するランナーの動きも肝心だ。打者はミートを心がけ、決して引っ張らない、決して欲張らない決意をもって打席に立つ。要するにチーム力がものを言う、それが延長戦である。元気出せよ、一人じゃないよ、あいつには俺から話してみるよと、同僚はもちろん、ときには管理職をもフォローする。そんな教師が少なからずいる。

その一方で、20代で敗戦処理みたいな仕事しかしない教師がいる。締め切りまでに仕事が間に合わない。当然のように毎日残業を重ねる。それでいてホームランまで打たれてしまう大チョンボ。次第に職員室をあきれさせてしまう若手教師。かわいがられて嗤われているうちが華である。そのまま30を超えたとき、職員室のお荷物になっていく。転勤すれば、「○○校では若手が育たないらしい」なんて前任校の評判まで落としてしまう。そんな教師が少なからず存在する。

江川や松坂みたいな教師もいるにはいる。でも、多くの場合、彼らにはいい捕手がいなくて、独り相撲を演じてしまう。江川や松坂には阿部慎之助や城島みたいな捕手じゃダメで、山倉とか村田みたいな投手リードで投げられるキャッチャーか、伊東とか古田みたいな人間性でチームを引っ張れるキャッチャーか、どちらかが必要なのだ。しかも、鈴木啓示にとっての有田修三みたいに替えが効かないのも特徴である。江川や松坂みたいな超エース級の教師には、どうしても替えの効かない名捕手が必要なんだよねえ。

きっと松岡がいて安田がいて、どちらも操れる大矢がいて、それでいて監督は広岡みたいな能面タイプ、あの50年代前半のヤクルトみたいなのが割と職員室にはいいのかもしれない。それだけいりゃあ、まあ安定的な闘いができる。そこに大杉とかマニエルみたいのがいれば一気に優勝……つまり、大きな学校改革ができるってことなんだろうなあ。

そういえば、安田みたいなピッチャーって昔はずいぶんいたよなぁ。それもしっかりとエース級で。ロッテの水谷とか、中日の安木とか、西武の杉本とか、南海(ダイエーだったかな?)の西川とか、阪急(オリックスだったかな?)の星野とか。往年の西武には永射っていうとてつもない変則ピッチャーがいたっけ。あれに比べりゃ、岩瀬なんか本格派だね。岩瀬みたいのが本当に力を発揮するには、もう一枚、同じような右が必要なんだよね。ほら、鹿取と角みたいなさ。とにもかくにも、職員室に安田がいると、まわらないものが本当にまわるんだよなあ。

うん。結局、職員室にもっとも必要なのは安田なんだ。今夜はそう確信した。

自己レス

これウケる人にはウケるだろうなあ……。たとえば對馬くんとか。山下くんも固いな。池田さんもいけるかもしれない。野中さんは五分五分だな。藤原なんか、何言ってるかわかんないんだろうな。

自己レス2

いま、たまらなく「がんばれ タブチくん」が見たいな。

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書き終えた

やっと年賀状を書き終えた。

毎年のことなのだが、年賀状を書いていると、なんとなく心苦しい。というのも、ぼくが民間教育研究関連のために両立できないとしてやめることになった団体、具体的に言えば中文連演劇関係の先生方とか、国語教育連盟関係の先生方とかから年賀状が届くからである。読んでいて心苦しい。これに返事を書くのが、どうにも心苦しい。

それに比べて、大学時代の友人とか、かつての教え子とか、かつての実習生とか、かつての同僚とか、かつてお世話になった研究者の方々とか、こうした人たちからいただく年賀状は読んでいて楽しい。

我が儘に生きてきたのだから、このくらいは我慢しろということか(笑)。

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SM授業検討・2

「第9回国語科授業改革セミナーin札幌」の第三講座の感想。これは太田充紀くんの30分模擬授業を、90分間かけてストップモーション授業検討したもの。教材は「川とノリオ」。

講座3 「文学的文章」の授業づくり~学習活動の意図と原理
13:30~14:00/授業者:太田充紀(名寄市立智恵文小学校)
14:00~15:30/代案提示型授業検討/司会:山下 幸
指定討論者:堀 裕嗣・森  寛・大谷和明・南山潤司
一つの模擬授業を題材に、指導目的・指導事項・指導意図に基づいてその機能度を分析し、4人の講師が適宜代案模擬授業をしながら解説していきます。参加者にも意見をもらいながら、具体的に検討します。

参加者の評定平均は4.84

母ちゃんに焦点を当てることに違和感があったのですが、解説ですっきりわかりました。描写を味わわせるためにはやはり広い問いで投げかけ焦点化していくべきなのかなと思いました。この講座も学びが多かったです。太田先生、お疲れ様でした。(男)

ボトムアップ・トップダウンについて、授業のトーンを変えるという発想、視点について、等々、新しい知見を得たので5にしました。(男)

言葉の解釈が甘かったのに気づかされました。子ども側の視点に立ち、登場人物を関連させる大切さを学びました。(男)

文学作品で何を教えるのか、いまいち分かっていませんでした。講座を受け、その教材に適した言語議事湯津を見極め、指導すればよいのだと分かりました。(男)

特によかったこと ①10分のシェアリング ②「学んだこと3つ」「疑問点を書かせたこと ③シェアリングが地上戦になったこと 講師の先生はみなさんよかったです。特に堀先生はすばらしいですね。 ①視点の重要性 ②「ボトムアップ」か「トップダウン」か ③板書しないこと ④「こと」はごまかし……等々、なんとか自分の授業改革に役立てたいです。まとはずれでしょうが、自分がモヤモヤしていたことは、「母ちゃんを読む」のはありかなしか。発問3はありかなしか……モヤモヤしてました。(男)

太田先生 お疲れ様でした。裁きの場に立つ勇気を見習いたいと思います。この模擬授業のみのことだけではなく、検討会での指定討論者により、文学的文章の授業づくり全般への地平へと広がっていきました。この講座も学びが多くて、自分の中で整理していくのにしばらくかかると感じていました。その前に、この時間内に「振り返りと4人シェア」があり、助かりました。(男)

文学作品は、教材の特性を教師がしっかりととらえないと難しいなあとあらためて思いました。「川とノリオ」は私が逃げ出した教材だったので、興味深く授業を見ました。ボリューム的に早春を1時間で終わらせなければいけないと思うのですが、私がやったら1時間で終わらないなあとますます力不足を感じました。(女)

今までに気づきもしなかったこと(教材に合うトーン、ボトムアップ・トップダウン、すぐに応えられる発問はNG)に気づけて、来てよかった~と思いました。(女)

トップダウンとボトムアップの違いが明確になりました。人柄→心情という思考の流れが自分中でうまくできなかったのは、ボトムアップからトップダウンに変わっていたからだとわかり、すっきりしました。(女)

内容によって話すトーンをかえることや、子どもの思考をゆさぶる質問をして子どもたちをたるませないことが大切と感じました。(女)

「授業のトーン」ということを意識してやったことがなかったので、勉強になりました。授業の理想状態をつかんでいる人の観点はやはり鋭いです。(男)

少ない時数の中で何に重点をおいて指導するのかが難しいと思いました。たくさんの授業づくりの視点をいただきました。(男)

【関連記事】「第9回国語科授業改革セミナー」終わる

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SM授業検討

「第9回国語科授業改革セミナーin札幌」の第二講座の感想。これは齋藤佳太くんの30分模擬授業を、90分間かけてストップモーション授業検討したもの。教材は「森を育てる炭づくり」。

講座2 「説明的文章」の授業づくり~学習活動の意図と原理
10:30~11:00/授業者:齋藤佳太(登別市立青葉小学校)
11:00~12:30/代案提示型授業検討/司会:山下 幸
指定討論者:堀 裕嗣・森  寛・大谷和明・南山潤司
一つの模擬授業を題材に、指導目的・指導事項・指導意図に基づいてその機能度を分析し、4人の講師が適宜代案模擬授業をしながら解説していきます。参加者にも意見をもらいながら、具体的に検討します。

参加者の評定平均は4.84

身につまされることが多々ありました。日頃自分が全く意識していなかったこと、無意識にやってしまっていたこと、やらなければならないのにおろそかにしていたことなど、自分の課題が明確になりました。齋藤先生は本当におつかれ様でした。&ありがとうございました。(男)

授業検討の視点が参考になったので5にしました。(男)

授業者を自分と置き換えてみると、意図が見えないことをたくさんしていることに気づかされました。(男)

ストップモーションで検討すると、授業者がどのような意図で授業をしているのかがわかりました。(男)

山下先生の説明と設定がよかったです。特に「3点箇条書き」がよかったです。堀・森・大谷・南山各先生のお話がかなりためになりました。「説明文の授業づくり」について、課題意識を束ねられたのが良かったです。(男)

齋藤先生 お疲れ様でした。大・大・大失格な授業を僕は20年間もやってきてしまい、もう若さもなくなって取り返しがつかなくなってしまつた自分を後悔しました。検討のときのコメント一つ一つが非常に参考になり、忘れたくないことばかりでした。記憶にとどめ、いくつかでも自分のものに、また意図と原理を考えていきたいと思います。(男)

授業を受ける側になったつもりで指導してきたつもりですが、今回初めて実際の授業を受けてみて、自分の授業に足りない物をいくつか見つけることができました。授業者の齋藤先生、お疲れ様でした。(女)

授業も検討も、自分の身におきかえてすごしていました。堀先生が“失格だ”と言った時、私の心にも刺さったのですが、すっきりしました。なぜか。苦しかったけど、ずっと聞いていたい検討でした。(女)

授業検討が大変勉強になりました。日々の自分の授業を振り返ってみて、ノート指導や発問・指示の細部に至るまでしっかり研究しなければならないと思いました。(女)

先生の授業を通して、日常うっかりやりすごしてしまうことにも気がつくことができました。ストップモーション方式の検討も時には必要と感じました。(女)

主文と副文、寄り添い方を教えるなど勉強になりました。(男)

ストップモーション方式を校内でも取り入れたいです。最後の堀先生のお話を聞いて、よく考えてみます。内容を理解させる読みだけでなく、構造を理解させる読みの指導も必要だと思いました。(男)

【関連記事】「第9回国語科授業改革セミナー」終わる

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正統派

元旦の「相棒」を見ました。内容にはそれほど感心しませんでしたが、檀れいの品のある美しさにはやられました。久し振りの正当派美人女優だなあ…と感動しますね。先日、「感染列島」を見たときにも感じましたが、吉永小百合を超えるのは無理にしても、黒木瞳とかその程度の正統派美女なら軽く超えてしまいそうな、そんなオーラがありますね。初めて見たのは例の「金麦」のCMでしたが、一目見て「だれだぁこれ!」って思いましたから。

なんというんでしょうか、昭和30~40年代の映画全盛期でも、いわゆる80年代のエンターテインメントが志向された時期でも、もちろん現在は売れているわけですけれども、どんな時代でも売れる女優……そんな感じがします。かつては宝塚で成績が悪く、端役ばかりという時代もあったようですから、30代になってその魅力が開花したタイプの女優さんなんでしょうね。

スキャンダルなんかにまみれることなく、正統派のイメージでもう一皮むけて、国民的な女優になっていって欲しいなと思います。「細雪」の札幌公演を見に行かなかったことをいまさらながら後悔しています。

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やっている側が気づかされること

暇なので、先日の研究会のぼくの講座の感想を載せてみようと思います。

「第9回国語科授業改革セミナーin札幌」という小さな小さな研究会。2009年12月26日(土)の白石区民センター1F多目的室。北海道では冬休み最初の日。参加者は27名。プログラムはこれです。

まずは第1講座。

第1講座 授業づくりの基本的な発想~〈目的〉と〈方法〉、〈指導事項〉と〈学習活動〉の関連/堀裕嗣

講座のPPTはこちらです。

参加者の評定平均は4.92

これまで参加したこちらの研究会は「言語技術」を習得させることが主なテーマだったのですが、それが国語学力の中でどのような位置づけにあり、どのように形成されるのかという全体像がわかりました。自分の中でもやもやしていたものが少しスッキリしたような感じです。(男)

指導の目的を意識した学習方法の具体例を体験することで、国語の授業づくりの考え方がよくわかりました。(男)

授業の基本について学ぶことができました。(男)

音読技術を身につけさせるためには、適切な負荷を与え、無意識から全体への意欲につなげるということを学びました。(男)

目的と内容によって活動スタイルが違ってくるということが、すっきりとわかりました。自分でもあとで考えたいと思いました。(男)

「難しい」のお言葉にドキドキしました。お話は感動的にわかりやすかったです。同時に、教えていただいたことを自分の授業改革に結びつけるのは難しそうです。それだけに意欲が強まりました。(男)

このようなテーマでの研修ははじめてでびっくりです。誰もしたことのないような。「ああかるほど」と理解できた部分と、勉強不足で理解できなかった部分がありました。考えていきたい鉱脈に突き当たった感覚でした。WORK1~3も僕にとっては新鮮でインパクトがありました。(男)

ねらいの置き方の理想が少し見えた気がします。私は力量不足でできませんが、今後は適切なねらいを見逃さないように気をつけていきたいと思います。音読一つとってもあんなに違うんですね。(女)

一度聞いただけではよくわからなかったので、また聞きたいと思っています。次聞ける時には、自分のレベルが少し上がっているといいなと思います。よくわかるようになっていたい。(女)

堀先生の講座はいつもスッと頭に入ります。音読の目的やそこへのアプローチ法がこんなに分類できるのだと改めて知りました。(女)

文章を読ませるコツや、どんな力をつけさせるのかによって方法を変えていくなど、すぐに役立つ話が聞けて良かったです。(女)

音読テストの方法が大変勉強になりました。的を定めること、吟味することの大切さを改めて考えました。(男)

いつも子どもに「今どんな力をつけているのか」ということを考えると整理できず、悩んでいました。説明を聞いてよくわかりました。(男)

これらいただいた感想の中で一番嬉しく感じたのは、「このようなテーマでの研修ははじめてでびっくりです。誰もしたことのないような。」というものです。自分でも意識していなかったのですが、そういえばぼくも見たことがないなあ……と我ながら思いました。学習活動が指導事項との関連によって決まる、方法というのは目的によって選ばれる、当然と言えば当然のことなのですが、これを具体例を用いて語る講座というのはなかなか見られないというのが現実です。かくいうぼくも、こんな講座は初めてもちました。

参加者の感想をとるようになって1年がたちますが、実は「講座をやっている側が気づかされる」ということの多さに驚いている次第です。今後も続けていこうと思っています。

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たまたま崩壊していない学級

たまたま崩壊していない学級っていうのが、全国いたるところに存在しているような気がします。それもものすごい数で。いまは運良く崩壊していない学級ということです。崩壊しないための手立てを何も講じていないのに、たまたま子供の質がよくて、たまたま地域の教育力がいまだに残っていて、たまたま学校の教育力がいまだに残っていて、それに気づくことなく、その状態を当然と思いながら、運営されている学級。そんな学級がたくさんあるような気がしています。

特にそういう学級は中学校に多いように思います。ある学級が落ち着かなくなってくると、学年のベテラン陣はその担任を傷つけないようにと、裏で手を回して幾人かの先生によってその学級の落ち着きのなさを指導します。それも授業中に指導します。授業という密室の中で指導されるわけです。自分の学級に来ている幾人かの教科担任が一斉に同じことを言い出した。それを察知した生徒たちは気をつけて生活するようになります。学年の中心を担っている先生方に一斉ににらまれては大変だというわけです。

多くの場合、そうした動きに担任は気がつきません。先生方もその担任を傷つけないようにと気を遣い、生徒たちも複数の先生方にそんな指導を受けたということを自分たちの担任に気を遣って言わない……そんな状況になります。

多くの小学校が学級崩壊に見舞われています。いまや崩壊した学級が一つもないという小学校は希少価値になってきました。有名国立、有名私立においても、そうした現象が起こりつつあるようです。中学校の立場からすると、中学校のように上のような組織的な動きが行われれば、おそらく6割~7割の学級崩壊は防げるだろうと思われます。

3割~4割の崩壊がなぜ防げないかというと、そうした学級の先生方は他の先生方の側面からの指導では効かないほどに、キャラの濃い「崩壊触媒性」を放っているからです。つまり、「他の先生が言うとおりだ」と自分たちも思うけれど、それでもその先生の具体的な一つ一つの指導の在り方に接したときに、我慢ならないほどに理不尽なことを言われてしまう、そう子どもたちが思っている場合です。

〈スキル〉とか〈システム〉とかを学べばいいと若者は思っています。しかし、外で学んできた〈スキル〉や〈システム〉が多いほど、教師としての力量が上がるわけではありません。外で学んできた〈スキル〉や〈システム〉を自分の学級に合わせて修正し、それらの〈スキル〉が一貫性をもって機能するような〈システム〉を構築してこそ学級は安定するのです。そしてまた、子どもたちに合わせてそうした〈スキル〉を機能させる〈システム〉を構築する志向の確実性こそが、教師としての力量なのです。

OSが不完全なままにいくらソフトをインストールしても機能しません。かえってフリーズするだけです。ソフトをインストールすること以上に大切なことは、OSをヴァージョン・アップさせることなのですが、年に数回の研究会参加や研究授業といった研修の場程度では、なかなかOSのヴァージョン・アップはできません。やはり職場の中に、先輩教師から後輩教師へという伝達の仕組みがあり、ダメ出し指導が適切になされる雰囲気がある、それ以外には道はないように思います。逆に言えば、そういう仕組みと雰囲気とをもった職場では、若者が著しいのびを示すものです。

ぼくの経験から、これだけは確信をもって言えます。

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退屈じゃないところ

4月から教職20年目を迎えます。教職20年目を迎えるということは、実は森くんや對馬くんに出逢って20年目を迎えることを意味します(ちなみに山下くんは大学時代の一期後輩なので、出逢って23年が経過しています)。「研究集団ことのは」の結成は我々が出逢ってから数年を経過してのものですが、その前身「ポプラの会」の数年の活動を実質的な「ことのは」の活動と見れば、「研究集団ことのは」もまた20周年と言って差し支えありません。まったく長くやってきたものだと改めて感慨を覚えます。

こういう活動を長く続けていると、しかも同じメンバーで続けていると次第にだれてきて、離脱者が出たり喧嘩別れをしたりというものがあるものですが、不思議なもので、堀・森・對馬・山下の間にはなぜかそういうことがありません。ある時は馬鹿みたいにいろんな研究会を行脚して夜の論評会を続けたり、ある時は馬鹿みたいに本を年に5冊も6冊も出したり、ある時は馬鹿みたいに5年も6年も連続して大きな研究会を開催し続けたり、去年のように馬鹿みたいに小セミナーを開催し続けたり……。

どれもこれも「馬鹿みたいに」やるのがぼくら流なのです。しかも、数年は続けるのですが、すぐに飽きてしまってやめてしまうというのも共通しています。ぼくらなりに理屈があって、おそらく普通の人が10年くらいかけてやることをぼくらは3年でやってしまって、密度の濃さを体感するのだろうと思います。そうすると、何か次にやりたいことが見えてきて、それが見つかったらすぐに企画を立ててまた密度の濃い3年間を過ごす。その繰り返しです。最近、ぼくらは結局、刺激が欲しいのだな……と思うことがあります。なにせ80年代に青春期を過ごした、80年代的な人間の集まりですから。

なんだかんだ言って、ぼくらは刺激的で、楽しいことしかしてきませんでした。やるかやらないかは楽しそうかそうでないかという基準だけで決めているところがあります。そんな餓鬼みたいな基準で動いていますから方々と軋轢を生んできましたが、年を追うごとにもうやめられなくなっています。

それは楽しいか。

それは実入りが大きいか。

それは密度が濃いか。

こんな基準で動いていますから、いろんな団体に所属しても、いろんな活動に参加しても、どこかルーティンの匂いがしてくるとすぐに離れてしまうのです。

ちゃんとやってないからちゃんとやろうよ。

ちゃんとやらないならやる意味がない。

ちゃんとやらないなら俺たちは抜ける。

ぼくらは常に様々な団体に対して、そんな脅しをかけ続けてきました。これは官民問わず、子供が秘密基地をつくるように、暴走族が暴走に生きている証を見出すように、躍動感のないところに興味を持ち続けることが難しいのです。何かを生み出す研究だけが研究の名に値する、何かを生み出す研究会だけが参加するに値する、そんな餓鬼臭い心持ちを今なお抱き続けている。そんな学生サークルのノリをいまだにもっている。そんな団体なのだと思います。

20年たって、ぼくらの行動原理は常に「〈退屈じゃないところ〉に向かっていく」にあったような気がしています。

「どこかに〈退屈じゃないところ〉はないか……。」

教師の力量形成において、だれもが「アンテナを高く」と言いますが、ぼくらにとって、いいえ少なくともぼくにとって、それはいつも〈退屈じゃないところ〉を探しているということと同義なのです。

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謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。

今年は久し振りに〈動く年〉にしようと思っています。外に出て行って、対外試合を志向する年ということです。80年代から〈スキル〉ということがずいぶんと言われ、〈スキル〉を高めることが教師の力量形成として大切にされてきましたが、いま、〈スキル〉をよりよく機能させるための土壌が壊れてきているようです。「壊れてきている」というよりも「薄まってきている」といった方が適切かも知れません。若い先生方が〈スキル〉よりはむしろ〈システム〉がないことを要因に苦労しているようにぼくには見えます。

かつては教師がわざわざ〈システム〉を敷かなくても、学校という装置自体が〈システム〉をつくってくれていました。かつてのぼくも含めて、若い教師は〈システム〉に無意識でもなんとか仕事をしていけたのだと思います。しかし、時代は変わり、いま力量のある教師はみな、自らの〈スキル〉が機能するような〈システム〉を自覚的に自分の学級経営や教科経営につくっているように感じています。力量のある教師と力量のない教師との差がネタの開発やスキルの獲得よりも、むしろ一貫した〈システム〉の構築、〈空気〉の醸成に自覚的であるか否かに見られる、そんな感じがしています。

今年は久し振りに〈頼まれたら断らない年〉にします。たまっている出版企画にも手をつけようと思います。

また、ここ数年、地道に地元で活動してきた成果を、ある程度大きな舞台で提案する年にしようとも思っています。いわば、〈カーニヴァル〉を志向する年にするわけです。まだ企画が固まっていないので詳しくは書けませんが、夏にはこれまでにない形のお祭りを企画しています。

ここ4年間、職場が遠かったものですから、なんとなく体力に自信もなくなり、外に出る気力も減退していましたが、昨年の1年間で近い学校に転勤し、担任を外れ、また大規模校への転勤だったせいで、更には自分よりも年齢が上の方々がたくさんいるという環境に身を置くことができたおかげで、久し振りにずいぶんと活動的になることができました。

去年の秋頃から、ずいぶんといろいろな依頼や打診をいただきました。まあ、いろいろと考えるところはありますし、具体的で小さな障壁もあるわけですが、取り敢えずこの決意を宣言することによって、2010年という年を充実したものにしていきたいと考えています。

本年もよろしくお願いいたします。

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