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教育実践は科学にならない

最近はどうも教育関係の情報に疎くていけない。特に、新しい書き手とか、民間教育関係で話題になっていることとか、そうしたことがまったく情報として入ってこない。数年前まではいろいろと考えさせられる媒体をいくつも収集していたのだが、いまは教育雑誌をほとんど読むこともなく、MLで情報交換するでもなく、教育関係者のプログを読むわけでもなく、何も情報収集の努力をしていない。教育書もほとんど買わなくなった。本屋にもほとんど行かなくなった。amazonばかりである。

明治図書の教育書をとらなくなったのは、それまで雑誌の仲介をしてくれていたT田さんが廃業してしまったことが大きい。それ以来、申し込もう申し込もうと思いながら、なんとなく申し込むことなく、既に2年が過ぎようとしている。

学事出版の教育書もとらなくなって久しい。もう数年がたつ。小学館も同じ。

自分が書いた雑誌は送られてくるので、さらっと目を通すのだけれど、自分の原稿も含めて実におもしろくない。はっとする原稿がほとんどない。

これが自分が年をとったことが原因なのか、それとも教育界自体にはっとする話題がなくなってきているのか、ぼくにはわからない。とにかくここ数年ではっとしたのは、「ライフ・ヒストリー・アプローチ」という、潜在的には現場人ならだれでもわかっていることを、学術化しようとした動きだけである。これに興味をもって、「授業づくりネットワーク」の東京大会にまで足を運んだが、この研究方法の難しさばかりが目につく結果となった。

どうも教育研究の対象が、80年代くらいまで戻ってしまっているような気がするのだが。そんな印象を抱いているのは、ぼくだけなのだろうか。

いま、若手教師は、「教材研究法」とか「授業技術」とか「発問・指示・説明」とか「評価の仕方」とか、そんな80年代に思いっきり研究され、それなりの成果を挙げた、それと同じレベルの悩み、或いはそれ以下のレベルの悩みを抱いているように見える。

結局、現場の教育実践は「科学」にならないのだなあ……と、改めて感じている。

これは現場人にも責任があるし、行政にも大学にも責任がある。でも、どこに責任があるかという目の向け方自体が無駄でもある。敢えて言えば、「教育界の空気」と「教育というものの構造」とが、教育に携わる者に同じところをいつまでも回り続けることを強いている。そんな感じである。こういうことが見えてくると、なかなか意欲がわかなくなる。

いいわけか(笑)。

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