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たしなめる

石川晋がぶつぶつ言っている。

http://suponjinokokoro.blog112.fc2.com/blog-entry-92.html

まあ、わからなくもない。要は、学級担任の志の問題である。

ぼくらが何らかの提案をする。提案は提案性を基盤とする。提案性のない話は単なるおしゃべりにすぎない。

提案性があるということは、その提案にある種の過激さがあるということである。参加者はその過激な部分に反応する。自分の学級では無理だなあ……。でも、そういう実態はこの提案者の学級にもあるはず。何か今日の提案以前に手立てを打っているのかもしれない。よし、訊いてみよう。

こうなっていく気持ちはわかる。

しかし、提案者にもしそういう前提指導があったとして、それを提案してみても、参加者には「やっぱり無理だなあ…」と思われてしまう。ぼくらにはそれがわかる。なぜなら、その前提指導にもある種の過激さがあるからである。そこにも同じ構造が生まれてしまうのだ。

こういう構造を熟知しているぼくらは、どうしてもこの作業を端折りたくなる。無駄なやりとりを端折りたくなる。

「それはあたなの学級のことなんだから、あなたにしか考え出せないのですよ。」と。

「ぼくはぼくの学級に対して、ぼくの責任においてこの実践をし、その前提となる障害も取り払ってきたのですよ。」と。

「それは担任の責任の問題なのですよ。」と。

「学級担任としての志が低いから、そういう質問になるのですよ。」と。

ぼくも何度、こうしたやりとりをしてきたことか。そして、ぼくだって、次の研究会でいつそういう袋小路に入り込んで後悔することになったとしても、まったく不思議ではない。要は参加者の質問が自分の琴線に触れてしまったか否かで、冷静さを保てるか否かが決まる。コミュニケーションとはそういうものである。

今回の石川晋のブログを読んでいて「おもしろいなあ」と思ったのは、彼が工藤信司さんにたしなめられて「そうだよなあ」と反省していることである。工藤信司さんは昔から、石川晋と付き合いのある年上の実践家である。いまは胆振館内で教頭先生をしておられる。

思えば、ぼくらも40代になり、先輩からたしなめられるということが少なくなってきている。自分自身を振り返ってみると、2009年という1年間、先輩にたしなめられたということが皆無だったのではないか。もう勤務校の校長にたしなめられることさえなくなってきている。30代くらいまでは、校長室に呼ばれてたしなめられるということが年に一度か二度はあったように記憶しているのだが……。

いまとなってはもう、校長室に呼ばれるのは、「きみの責任下にある若手教師がなっていない。ちゃんと指導するように……。」といったようなネタばかりである。こんなとき、第一に頭に浮かぶのは「若手教師はそれなりに頑張っているのだから、そんなふうに見ちゃダメだよ」という言葉である。こんなふうになってきている。

5年前、10年前なら、ぼくらをたしなめる先達がたくさんいた。野口芳宏先生とか、大内善一先生とか、高橋俊三先生とか、小森茂先生とか、鹿内信善先生とか。そうそう、忘れてならないのが、宇佐美寛先生と大森修先生である。彼らはたしなめることを自分の責任として引き受けていたようなところがある。

まあ、数え上げればきりがないほどに。ぼくらが年を取り、彼らも年を取って、ぼくらが少しだけ大きくなり、彼らも少しだけ丸くなって、もうたしなめられることがなくなっている。

たしなめられているうちが華である。たしなめられることがなくなったら、それは自らの責任が大きくなっている、ということだ。

2010年はたしなめてくれる人を呼んでみようか……。それが自分のためなのかもしれない。それでこそ、本気になり、元気が出るというものだ。

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