他者と協働するということ
今年度、5年振りに大規模校に勤務して思うことは、教科の調整、特に評価・評定の調整が面倒だということである。
評定の基準の話ではない。つまり、何点以上に5をつけるとか、どの程度の頑張りなら平常で救うかとか、そんな話ではない。そうした数字上の調整ならば、話を詰めればなんとでもなる。
また、評定資料として何を使うかとか、評定資料を一致させようとか、そんな話でもない。そうした評価項目上の話も、話を詰めればなんとでもなる話である。
更には、教科指導についての考え方が異なるとか、教科指導に独自のこだわりをお互いがもっているとか、そんな話でもない。そうした理念上の違いさえ、話を詰めればなんとかなる話である。たとえなんとかならなかったとしても、お互いに妥協すればよい。
問題は、評価基準も評定資料項目も教科指導上の理念も一致させたにもかかわらず、双方の理解の〈レベル〉に大きな開きがある場合である。Aは突発的な事象や予想外の事象にも臨機応変に対応できるが、Bは理解度が浅いために、一つ一つの具体的な事柄に対応しきれず、確認事項の小さな変更が幾度も幾度も重なっていく、そんな場合である。しかも、そんな変更によって、確認通りにやっていたAの生徒たちが損をすることになる、というような場合である。
思えば、学校教育の評価・評定は、評価基準が一致しているというだけでなく、教師の力量も一致していることを前提にシステムが組まれている。もちろん、力量のある者が力量のない者をフォローして、できる限り生徒にとって不公平のないように運営しようとするわけだが、こうしたシステムにも限界がある。
残念ながら、教師の中にはそういうレベルのものが少なからず混じっている。
最後に、誤解のないように書き添えておくが、この話は、現在、私が授業を組んでいる教師の話をしているのではない。ここ4年間、一つの学年を一人で担当してきた私にとって、それなりに苦労があるとはいうものの、ここで言うほどの苦労があるわけではない。
ちなみに私は、組んでいる人間の力量が低い場合には、授業をする以前にテスト問題を作成してしまい、そのテスト問題に対応できるように授業を進めてもらうことにしている。この方法が一番トラブルが少なく、効率的である。その教師がテスト問題をあらかじめもっていることによって、その教材の勘所を理解することにもつながり、とても良い方法である。
私と近しいある教師は、学年を組んでいる教師に、毎時間の指導案に近いメモをつくって渡しているらしいが、私はそこまでやるつもりはない。そこまでされなければまともに授業を運営できない教師がいるとしたら、彼らは「指導力不足教員」と呼ばれるべき輩であろう。
「協働」といえば聞こえはいいが、最低限の職能くらいは身につけたいものである。
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