ため息……
報道によれば、どうやら民主党が子供手当てに所得制限を設ける方向で調整をはじめたようである。調整を始めたとはいうが、どうやらほとんど本決まりのようでもある。
かつて、ぼくはこの件について、次のように書いたことがある。
【引用開始】
自民党の惨敗。民主党の圧勝。
民主党が掲げた基本イメージは何だろうか。それはひと言で言えば、自民党が経済優先・外交優先の政治という基本イメージを提示していたのに対し、民主党が医療・介護・教育といった、一般的な国民が求めるサービスの中期目標を視野に入れたことだろうと思う。これは、外需中心の「ものづくり」から内需中心の「サービス」へと軸を移動させようとしているともいえるし、比喩的に言えば、「強い日本」イメージから「しなやかな日本」イメージへの移行とも言える。
それはおそらく、この選挙期間中の流行語ともなった「財源」という言葉、「ばらまき」という言葉が象徴している。
子供一人あたりに26,000円を支給する、しかも中学校卒業までの15年間支給し続ける、という子供手当て。一見、公明党が推進してきた地域振興券や定額給付金に似た政策のようにも見えるが、おそらく裏にある思想はこれらとは全く異なる。地域振興券や定額給付金はあくまで短期的な経済対策である。しかし、民主党の子供手当ては、どうやら少子化対策として打たれた政策であり、少子化対策を通しての長期的な経済対策である、と言えそうだ。
子供手当てが主張されたのは一昨年の参議院選挙。既に政権奪取が視野に入り始めた時期である。この時期に、子供手当ては恒久法として提案された。しかも配偶者控除や扶養控除の廃止とセットである。このことは、国が「世帯を守る」というスタンスから「子供を守る」というスタンスへと移行したことを意味する。賛否はあるのだろうが、一つの見識ではあるだろう。
日本の出生率は1.3強。月26,000円が15年間支給され、保育所の整備や産科医不足の解消が行われたとすれば、確かに出生率は上昇しそうな気はする。しかし、短期的な経済効果としてはほとんどないと見て間違いないだろう。月26,000円くらいの金額なら、おそらく多くの家庭では高校・大学といったよりお金のかかる時期のために貯金にまわされるのがオチだろう。高等教育への進学を考えていないような家庭、考えられないような家庭では生活費に消えていくだけである。それより何より、本当にこの程度の政策で出生率が上がるのかどうかだって怪しいものである。どうも日本人のメンタリティは、こうした予想ではすくえないような、想定範囲の外側にあるような気もするからである。
しかし、それでもこの子供手当てを政策の核の一つにするのは、出生率を上げないことにはこの国が立ちゆかないという認識があるからなのだろう。
自民党的な「ものをつくって外需をあてにする」といった政策をやっていて、将来的にこの国の経済が発展する見込みはない。格安の賃金で労働者を雇うことのできる中国やインドと競争しても勝てるはずがない。もし勝とうとすれば、ここ数年の派遣労働者問題に目をつぶり、「人のダンピング競争」をするしかないからである。物理的にも精神的にも豊かになってしまったこの国で、それは考える余地なく無理なことだ。しかも、外需も挙がる見込みはない。いまは中国やインドが世界経済を牽引しているが、数十年後を考えればそれも頭打ちになるはずである。
そこで必要なのが、「内需の拡大」である。しかも、エコカーやらIT機器やらといった「もの」をつくって買わせようという内需ではない。もちろん、従来の「もの」(必需品)に付加価値をつけて内需を少しでも拡大しようという努力はなされるべきであるが、いま、おそらく国民が最も欲しているのは「安心できる医療」であり、「安心できる介護」であり、「安心できる教育」なのである。これらが手にはいるのなら、みんな貯めている金をはたいて買うはずである。いま国民は「安心」に対してなら金を払う。
民主党の公約に掲げられている重点政策は、そのための出生率上昇の試みであり、そのための「医療」「介護」「教育」の充実なのである。その一つの象徴として、子供手当てがあるというわけだ。おそらく農業政策の思想も同様だろう。食糧自給率の上昇を視野に入れての政策である。
民主党の子供手当てに対しては、各方面から、いや民主党内部からさえも、「高収入家庭にも子供がいる場合には一律26,000円を支給するのか。それは不必要であり無駄ではないか」と、収入の額によって制限を設けるべきだとの意見もある。
しかし、もしもこれまで述べてきたような理屈で子供手当てを提言しているのだとしたら、この制限はすべきでない。この制限をかけた時点で、子供手当ては短期的な経済政策に堕してしまう。そこには逆差別のルサンチマン思想が流入してしまうからだ。
今後、民主党は、社民党や国民新党、場合によってはみんなの党とも政策協議にはいるはずである。これらの政党はみな、子供手当てには年収制限を設けるべきと主張しているようである。この政策協議で民主党が年収制限をつけて、子供手当てに短期的な経済政策の色合いを出してしまうのか、それともあくまで長期的な見通しをもっての政策としての色合いを維持するのか、私はこれにとても注目している。
なぜなら、私が教育の現場に身を置く者の一人として、民主党の教育政策に期待しているからである。民主党は教育委員会を改変したり免許更新制を廃止したり高校の授業料を無償化したりといった政策を打ち出している。どれもこれも形だけ変えてもそれほどの意味はない。すべては長期的な見通しをもってディテールをどうつくるかであり、打ち出した政策に間違いがあった場合には長期的な見通しをもってすぐに修正できるかなのである。
もしも、民主党が、子供手当てに対して、中・長期的な見通しをもった政策として、その思想性を揺るがせないならば、教育政策にも本当に期待しようという気持ちになる。医療制度改革にも、介護制度の整備にも、年金制度改革にも、期待しようという気になるというものだ。
「財源がない」という言葉も、「ばらまき」という言葉も、短期的な経済政策を基準に見るから使われる言葉に過ぎない。子供手当てが「ばらまき」なのかどうか、それは収入制限がつけられるか否かでわかる、そんな気がする。
【引用終了】
所得制限を設けるか否かは、おそらく政策の思想を変えてしまう大問題である。短期的な経済政策(現実/党利党略とまでは言わない)を長期的なビジョン(理想)より優先したことを意味するからだ。しかもこうした大文字の公約…というか、国民の誰もが知っているような、しかも国民の生活に密接にかかわっているような、更には国民の安心のベクトルとして提案された政策が、かくも無惨な形で翻されるとすれば、今後、他の様々な公約がこれまでより抵抗なく翻されるであろうことは推して知るべしである。
結局、我々が自民党に対して抱いていたイメージと何も変わらない。
日本が大戦に踏み込んだ経緯、日本が終戦を遅らせた経緯と何も変わらない。
学校が職員室の人間関係に配慮しながら、なかなか取るべき一手に踏み出せず、先送り先送りにしてしまい、最終的に「もうダメだ。やるしかない!」という空気になるまで動かない……というのと何も変わらない。
生徒指導において、生徒があくまでシラをきり、いよいよ逃げられなくなって泣きながらゲロするのと何も変わらない。
時代を超えて、世代を超えて、老若男女、日本人とはそういうものなのだなあ……と、ため息が出る。
【参考1】ばらまき/2009.09.01(火)
【参考2】いい思いをさせてやる/2009.08.30(日)
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