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説明を研究するという覚悟

野中さんと晋ちゃんが、「発問」や「指示」が教育界で長く話題になってきたにもかかわらず、「説明」がほとんど研究されていないことを問題視している。言いたいことはわかる。基本的に、ぼくも「説明」が授業において最も大切な指導言であることを様々な場で発言してきている。

しかし、「説明」が「発問」や「指示」に比べて研究対象とならなかったことは、当然だと思っている。それは端的に言えば、「発問」や「指示」が行動を喚起する指導言であるのに対し、「説明」が認知を広げ、深めるための指導言だからである。

「発問」や「指示」は必ずその後に児童生徒の行動が起こることを前提として発せられる指導言である。児童生徒に何らかの行動があらわれるということは、その「発問」や「指示」の有効性を評価しやすいということであもある。評価しやすいということはすなわち研究しやすいことを意味する。

ところが、「説明」は違う。「説明」は行動ではなく、頭で理解することを第一義とする指導言である。もちろん、行動の仕方を「説明」することもあるし、「発問」の意図を説明することもあるにはある。しかし、授業において、多くの「説明」は認知・認識を広め深めることを意図したものであり、児童生徒が少なくとも黙って聞いている姿勢を示した場合、その「説明」が適切であったか否かを評価することは困難である。ここに「説明」が「発問」「指示」に比べて研究対象になりづらかった第一義的要因がある。

おまけにやっかいなのは、「説明」する側が自分の説明をよかれと思って説明しており、「発問」や「指示」のように児童生徒の言動によってすぐに評価がフィードバックされるという特質をもちづらいことある。さらに、テストの出来が悪かったとか、後日行事の本番になってまったく取り組めなかったという現実にあたって、初めて「わかっていなかったのだなあ…」と認識するに至る……という、いわば時間差評価に陥る可能性がきわめて高いという傾向も災いしている。

更に更にやっかいなのは、「説明」というものは、「発問」や「指示」に比べてコンテクストの影響を受けやすい性質をもつということである。学校と言うところは基本的に、子供たちが少なくとも1年間は同じ教員の指導を受け続けることが多い。その場合、教師の指導言(指導言に限らず指導全般、もっといえば言動のすべてにおいていえることだが)が多少下手でも、子供たちがその下手な指導言になれ、教師の意をくんでくれるという現象が起きる。早い話、教師の指導言が下手くそでも、夏くらいにはほとんど以心伝心で通じるようになるという傾向が強いわけだ。そしてこの傾向は、「発問」より「指示」、「指示」より「説明」に顕著な傾向なのである。

野中さんも晋ちゃんも、「説明」の研究が必要だという。ぼくももちろん、反対ではない。しかし、実は、「説明」の研究こそ、「発問」の研究や「指示」の研究よりも難しいのである。それは、「説明」というものが、「発問」や「指示」に比べて、その「説明」を発する教師の人格・人間性と親和性が高いからである。ただ「わかりやすい説明を」という程度であればいくらでもできるけれど、もう一歩踏み込もうと考えたときに、ぼくらは間違いなく膨大な難問に次々に突き当たっていく。

「説明」の研究には、こうした覚悟が必要である。

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