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2009年12月

第10回国語科授業改革セミナーin札幌

本当に国語の授業がうまくなりたい人へ
国語科授業づくり・AtoZ/読むこと・編
~教材研究から授業中の軌道修正まで~

私たちの研究会参加者から、「国語科授業づくりの全体像を知りたい」という声があがりました。いわば、

教材選択→素材研究→学習者研究→教材研究→目標設定→指導計画→授業案の立案→授業中の軌道修正

までの全体像です。今回の「国語科授業改革セミナー」は、私たち「研究集団ことのは」が日々、どのような観点で、どのような方法を用いて教材研究をし、どのように指導目標をたて指導計画を立てているのか、何に気をつけて説明し、指示し、発問するのか、板書やノート指導はどう構成するのか、また、予定通りに授業が進まなかった場合にはどのように軌道修正するのか、そうした全体像を提示します。

講師 堀 裕嗣・森  寛・山下 幸

日 時:2010年1月23日(土) 9:10~16:50

会 場:札幌市生涯学習センター「ちえりあ」

参加費:3,000円

定員:30人

【 日 程 】

9:00~ 9:10 受 付

9:10~ 9:15 開会セレモニー

講座1 ワークショップ
国語科授業づくりでのつまづき~その原因の解明

9:15~10:45/山下 幸・森  寛・堀 裕嗣
みなさんは国語科の授業づくりにおいて、どこでつまづいているのでしょうか。教材研究でしょうか。学習者の把握でしようか。それとも指導法でしようか。ただ漠然と授業をおこなっていて、正直言って、何がわからないのかもわからない…そんな方もいらっしゃることでしょう。この講座では、参加者の生の声を聞きながら、講師の先生が力量形成の方向性を示していきます。

講座2 国語科授業づくり・AtoZ~私の方法
教材研究から授業案立案まで、発問・指示の細案から予定外の反応の処理の仕方まで、3人の先生が、自らが日常的に取り組んでいる方法を公開します。指導事項の明確化・学習活動の多様化などについて、指導事項の何を扱い何を扱わないのか、机間巡視中にどんな観点で何を見ているのか、そしてそれはなぜか、そんな具体的な提案です。

提案1 文学的文章(物語)を中心題材として
11:00~12:30/山下 幸

12:30~13:30 昼食・休憩

提案2 説明的文章を中心題材として
13:30~15:00/森  寛

提案3 韻文教材(詩・短歌・俳句)を中心題材として
15:15~16:45/堀 裕嗣

16:45~16:50 閉会セレモニー

□お申し込み方法は以下のとおりです□

以下の7点をお書きの上,葉書かFAXがEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場
合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき) 〒005-0005 札幌市南区澄川5条5丁目14-12
FAX (011)812-4563 E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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第13回・中学校学級経営セミナーin札幌

10回連続セミナー・いよいよ最終講座
時代の変容にどう対応するか
~いま、もっとも語りたいこと~

昨年度から設立された中学校・学級経営セミナーの13回目。いよいよ、10回連続講座の最終講義になります。今回は、いま求められる〈教師の立ち位置〉がテーマです。

日時:2010年2月6日(土)

場所:札幌市生涯学習センター「ちえりあ」

定員:30人

参加費:3000円

講師:中学校・学級経営研究ネットワーク

【日程】

9:15~9:25 受付

9:25~9:30 開会セレモニー

9:30~10:45
講座1〈教員受難の時代〉を乗り切る教師力モデル
教師力ピラミッド/町医者モデル

司会:森  寛/提案者:石川 晋・堀 裕嗣
教師のチーム力を重視した堀先生の「教師力ピラミッド」、外部関係機関との連携を重視した石川先生の「町医者モデル」。この二つの教師力モデルを題材に、〈孤独に陥らないための仕事の仕方〉について、参加者の皆さんといっしょに考えていきます。

11:00~12:00
講座2〈教育界をとりまく世論の変容〉に対応する教師力
森  寛・山下 幸

あまり言われないことですが、我々が仕事をしていくうえで必要な観点として、「教師としてやらなければならないこと」と「一人の教師としてやりたいこと」とを調整しながら仕事をしていくということが挙げられます。ここでは、「やらなければならないこと」にどう効率的に取り組んでいくか、その基本的な考え方、手立てについて提案します。

12:00~13:00 昼食休憩

13:00~14:00
講座3〈いま、教師として生きる〉ということ
森  寛・田中幹也

「一人の教師としてやりたいこと」にどのように取り組んでいくか、その基本的な考え方、手立てについて提案します。

14:15~15:30
講座4 いま、教育界に何が起こっているのか
石川 晋・堀 裕嗣
学校バッシング・教師バッシングが一時期に比べて沈静化しています。マスコミによる報道も少なくなっていますし、保護者による著しいクレームも影を潜めています。しかし、この安定は長くは続きません。いま、これまで以上の学校バッシングが起ころうとしています。その構造を明らかにしながら、いま、我々に必要なことについて提案します。

15:45~16:45
講座5 10回連続講座ラストメッセージ
頑張らなければならないが、頑張りすぎてはいけない

司会:森  寛/堀 裕嗣・石川 晋・田中幹也・山下 幸

16:45~16:50 閉会セレモニー

□お申し込み方法は以下のとおりです□

以下の7点をお書きの上,葉書かFAXがEメールにて下記まで御連絡ください。

1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場
合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)

〒005-0005 札幌市南区澄川5条5丁目14-12
FAX (011)812-4563

E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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良いお年をお迎えください

今年ももう残り8時間となりました。これから岩見沢の実家に帰省します。おそらく、紅白を見ながら刺身とカニで熱燗……という恒例の年末年始となります。

思えば、2009年はかなり転機となる1年でした。

初めて自宅の近くの学校に転勤して、圧倒的に時間ができ、肉体的に楽になりました。これまでの18年間、家から1時間以上という学校にばかり勤めてきたため、勤務校が自宅から近いということが精神的にも肉体的にもこんなに楽だということを知りませんでした。今年は副担だったわけですが、担任がないということよりもむしろ通勤に時間をとられないということのほうが、ぼくにはとても楽でした。これまでの教員生活でずいぶんと寿命を縮めたのだろうなあ……と、改めて感じ入るものがあります。

ずいぶんと研究会を開催した年でもありました。森くんと山下くんと晋ちゃんと幹也くんと堀。5人を開催した「中学校学級経営セミナー」という10回連続講座(あと1回、来年2月6日を残す)は、ぼくらが日常的にやっていることの意味・意義を大きく自覚させてくれました。大変多くの方にご参加いただき、感謝しております。プレセミナーも含めて、延べ400人以上の中学校教師にご参加いただきました。ありがとうございました。

国語科授業研究においても実りの多い年でした。「中学校国語科授業づくりセミナー」「国語科授業改革セミナー」「累積科学国語教育研究会」「教師力BRUSH-UPセミナー」という4チャンネルで活動してきましたが、それぞれが明快に棲み分けをしながら、研究を進めてきたという実感をもっています。特に、授業における発問・指示型授業とワークショップの使い分け、指導事項(言語技術体系)の再確認、授業技術が小さな〈意図〉の連続であることの自覚、こうした境地に立つことが教師の力量形成に大きく効果を発揮するということに到達しました。こうした活動は夏以降に始めましたが、こちらもかなり大勢の皆さんのご参加をいただきました。ありがとうございました。

来年の「研究集団ことのは」は、「教師力BRUSH-UPセミナー」での活動を除けば、おそらく国語科教育研究中心の年となることと思います。特に「習得」「活用」という新指導要領の理念をできるだけわかりやすく、指導事項や授業形態、学習者研究の視点を総合して理論化・実践化していく年になります。お近くの方は来年も、私たちの研究会に足をお運びいただければ幸いです。

個人的には、外に出る年にしようと考えています。学級経営・教科経営を問わず、その目的や原理を根底から考えるチャンネルと、若者に教育技術の原理原則について具体的に身につけてもらうためのチャンネルと、この二つを両輪に考えていきたいと思います。前者は一般的な抽象度をもう一段抽象的に、後者は一般的な具象度をもう一段具体的に、その手法を考える年にしていきたいと考えています。今年の活動の中で、そろそろ模擬授業提案やワークショップ型研究会の限界性が視野に入ってきたことが、個人的には大きな収穫でした。

みなさま、良いお年をお迎えください。

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哀しみ本線 日本海

【1番】

もしも死んだら あなた

あなた泣いてくれますか

寒い こころ 寒い

哀しみ本線 日本海

【2番】

胸の痛みを あなた

あなた 聞いてくれますか

寒い こころ 寒い

哀しみ本線 日本海

【3番】

綴る便りを あなた

あなた 読んでくれますか

寒い こころ 寒い

哀しみ本線 日本海

3番のサビが断然いいです。

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3年振り

3年振りに書斎の片付けを始めました。床に積み上がっている、ここ3年の間に買った本とここ3年の間に参考文献として使った本を、書棚に移動しています。書斎スペースの横に積み上がった煙草の空き箱も一気に捨てました。試し焼きしたDVD-ROMも次々にハサミを入れています。デジタルビデオテープも整理して、書棚の引き出しに整理しました。書類の山は思い切って捨てました。こうした作業にあと数日はかかるものと思われます。正月の3日には終えていたい。これが目標です。

とりあえず、床が見えてきたことが嬉しい。テレビでよくやっているゴミ屋敷に近い状態でしたから(笑)。

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地図をもっていますか

BRUSH合宿でもっとも有益だったのは、たぶん2日目の昼休みだったと思うのですが、山下・對馬・藤原・石川と5人で〈地図〉の話をした10分程度の時間。廊下のソファにゆったりと座りながら、何の気なしに雑談をしていた折のことです。

最近の若者は〈地図〉をもたなくなっている。一つ一つの具体的な事象は、ぼくらにとって〈地図〉に置かれた〈ドット〉になっている。つまり、〈ドット〉を認識するとき、それは〈地図〉のどこに置かれるかという認識とセットになっている。でも、最近、職場でも研究会でも、若者と話していると〈ドット〉を〈ドット〉のみで認識しているようなところがある。

でも、問題は、なぜ、ぼくらの世代が若い頃から当然のように〈地図〉が大事だという認識をもつことができ、いまの若者がなぜ、〈地図〉をもつことができないのかということである。

思えば、ぼくらの世代は、青春期がニューアカ・ブームのど真ん中にあった。ニューアカ・ブームとともに、西洋・東洋の思想家達をマトリクス上のドットとして解説する本がたくさん出ていた。ぼくらニューアカを気取った馬鹿な学生たちは、みんなそんな思想マニュアルみたいなものを見ながら「ふむふむ」とやるのを日常としていた。

いま、ネットで情報を集めようと思えば、そこにはそれぞれに〈ドット〉があるだけである。ネット情報をマトリクス上のドットとして解説するマニュアル本はあり得ない。検索した情報をどのように整理するかは、〈地図〉が大きい人ほど上手いという構造がある。いや、検索するワード自体、大きな〈地図〉、立体的な〈地図〉、等高線まで細かく描いてある〈地図〉をもつ者ほど上手くそのワードを選択できるという構造をもっている。〈地図〉をもたないままに〈ドット〉時用法を連続的に浴びることは、世界観の作り方を変容させてもちっとも不思議ではない。

そんなことを語り合った10分でした。

あなたは自分なりの〈地図〉をもっていますか?

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師走~2009年を振り返る・31

なぜ、研修する場を作ろうと考えるのか

12月28日(土)。第1回教師力BRUSH-UPセミナー合宿in新篠津温泉での提案。110分の講座。これまでつくってきたイベントの山場企画の作り方について。

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哀しみ本線日本海

「潟沼先生の御退官の折には、卒業生をたくさん集めて御苦労さん会を開かなくちゃなぁ」
 ビールをあおりながら、あなたとこんなことを語ったのは、つい半年ほど前のことです。

そう言っていたあなたが、なぜだか今、かくも多勢の卒業生を集めてしまっていることを、私たちはどう理解すればいいのでしょうか。潟沼先生の御退官にはまだはるかに間があるというのに、早すぎるではありませんか。

思えば、あなたは学生を大切にする教官でした。あなたの研究室には、かつて四研に所属した学生の写真が初代から順に並んでいます。そして、どの写真でも、あなたは中央にドンと陣取り、どこか満足げな笑顔をたたえているのです。私たちは卒業後も四研におじゃまする度に、その写真を眺めて「おお、また増えた」と、四研の短い歴史に、どこか得意げな想いを抱いたものでした。

私たち四研所属学生は、俗に「森田ファミリー」と呼ばれ、まるでマフィアのファミリーのように鉄壁の連帯を誇っていると揶揄されたりもしました。私たち四研OBは、卒業してなお、森田が困っているのなら、森田が一声かけるなら、「いざ鎌倉」の用意も持っておりました。それなのに、私たちが馳せ参ずべきあなたは、既に帰らぬ人となってしまいました。こんな日は、二十年も三十年も先の話だと思っていました。

あなたが永眠した夜、私は学生時代の写真を見直しました。どの写真も、あなたは中央に陣取り、そして笑っていました。水ゼミ合宿では、浜益の海辺の民宿岩浅で焼き肉を食べながら笑っています。木ゼミ合宿では、支笏湖畔でジェンカを躍りながら笑っています。新歓コンパでは、多くの学生に囲まれて、やはりあなたは中央で笑っているのです。

浜益での水ゼミ合宿では、民宿の庭で焼き肉パーティをしながら、カラオケを歌う習わしでした。私が大学一年のとき、点数つきカラオケで高得点を挙げた折、それを見たあなたは、「よーし。堀君には負けられませんから」と選曲を始めました。選んだ曲は『哀しみ本線 日本海』。二点差で私に負けたあなたは、まるで子どものように、庭のコンクリートを叩いて悔しがっていました。先日の紅白歌合戦で森昌子が一六年振りの復帰を果たしたのを見た折、私はこの合宿での出来事をはっきりと想い出しました。私は元日からCD屋に走り、森昌子のCDを求め、一日中、『哀しみ本線』を聴き続けました。すると、聴けば聴くほど、あなたの低く、太い歌声が甦ってくるのです。もう一五年も前のことだというのに、はっきりと聞こえてくるのです。

私が大学三年のとき、私たち四研生は、あなたと、あなたの家族とともに、四研ドライヴと称して小樽に行きました。八九年七月一六日のことです。その中に、伊藤整文学碑の前で、私が京君を、梶が章君を肩車している写真があります。私たちが「先生も入って」と言うのに、あなたは「いや、私はいいです」と傍らに避け、自らシャッターを切りました。数枚の写真を撮る間、あなたはなんとも満足げな表情で目を細めていましたね。私が小馬鹿にして、「森田も人の親ですなぁ」と言うと、あなたは「それはそうですよ」と応じました。そのときのあなたの表情がはっきりと想い出されます。こんなことが想い出されるのも、あの日、私たちが二人を肩車したように、今後の京・章を支えてくれ、というあなたのメッセージでしょうか。

あなたとの想い出は、挙げれば切りがありません。ゼミの納め会で一気をし過ぎて国研横のトイレで一緒に吐いたこと、特製原稿用紙に手書きでびっしりと書き込まれた講義レジュメ、教育実習でもないのに学生の私たちを現場に連れて行き、年に六本もの授業をさせてくれたこと。そして、私たちが水ゼミ・木ゼミの歴史を、延ては四研の歴史を築くために創刊した『礎』『はまます』『幻像』の三誌。そのどれもが、いまなお私たちを根底から支えている宝です。

そして何より、私たちが現場に出て以後、十年以上にわたって月一で例会をもってきた共同研究、実践研究水輪。この水の輪と書く「水輪」という名称も、水ゼミの輪という意味を込めて、三ヶ月にわたってみんなで考えた末にできあがった名前でした。

私が最後にあなたに会ったのは、一二月二六日。あなたが帰らぬ人となるわずか四日前、水輪の二○○一年最後の例会です。場所はやはり四研でした。会が終わったのは、夕方六時頃だったでしょうか。帰り道、私たちの前を走っていたあなたは、岩見沢インター手前で左ウインカーをあげて、ゆっくりとガソリンスタンドに入っていきました。思えばあれが、あなたと私との最後になりました。あのとき入れたガソリンは、おそらく使い切られることなく、いまなおあなたの車のタンクの中で、あなたをいずこへかと運ぶためだけに、静かに待っていることでしょう。

あなたの口癖は、「人生、太く短く」でした。この言葉を、他ならぬあなた自身の口から何度聞いたことでしょう。いま思うと、あなたは本当に、太く短い人生を送りました。戦後の混乱期に生まれ、七○年安保闘争に学生時代を送り、あの校内暴力吹き荒れる中に現場時代を過ごし、大学改革急激に進む中、毎日、奔走を続けていました。しかし、そんなあなたの人生を、武田泰淳とドストエフスキーをこよなく愛し、西尾実、荒木繁、大河原忠蔵を敬愛して止まなかったあなたの人生を、他ならぬあなた自身がまったく後悔していなかったということが、弟子の私にはよくわかります。

思えば、私とあなたの師弟の契りは、わずか一五年に終わりました。確かに現世では一五年でしたが、いつの日か、来世で、私は再びあなたの門を叩きます。私だけでなく、桑原も、北山も、梶も、山下も、竹美も、ヤスも、賢治も、再びあなたの門を叩くでしょう。そして、来世には、現世になかった、悠久の時間が流れていることでしょう。その日まで、私たちはあなたの研究を継承するのみならず、大いに進化させましょう。再びあなたの門を叩くときには、両手に抱えきれないほどの手土産を持って伺います。そしてまた、ホッケの開きとイカの一夜干しで、熱燗をキュッとやりましょう。

その日まで、しばしお別れです。安らかにお眠り下さい。

平成14年1月3日/教え子を,そして「実践研究水輪」を代表して/堀 裕嗣

これは森田茂之の葬儀に際して、ぼくが読んだ弔辞です。2001年12月30日午前3時頃、心臓発作による突然の死でした。54歳。ぼくもあと十年でその年齢になります。

今日もまた、例年同様、梶くんと山下くんと3人で森田家にうかがって手をあわせ、帰宅後は森ちゃんがよく歌っていた森昌子の「哀しみ本線日本海」を聴いています。特別な日です。でも、こんな特別な日はいらないなあ……と、毎年思います。

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師走~2009年を振り返る・30

授業づくりの基本的な発想~〈目的〉と〈方法〉/〈指導事項〉と〈学習活動〉の関連

12月26日(土)。第9回国語科授業改革セミナーin札幌の第一講座。ごく短い3本の模擬授業のあと、それぞれの〈指導事項〉と〈学習活動〉との関連構造を明らかにしながら、解説していくという講座。最後にはマトリクスを用いながら、現段階でぼくがとらえている国語科の学力構造を提示。

これを基調提案に齋藤佳太・太田充紀両若手の模擬授業をストップモーション授業検討でかなり綿密に検討。最後はQAを含めたシンポジウムと盛りだくさんの一日だった。講師は堀・森のほか、南山さん、大谷さんにお願いし、山下くんの司会。かなり内容の濃い一日で、参加者の評判もよかった。

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研究のない合宿

BRUSH合宿が終わりました。

2日間を通して、BRUSHのこれまでや研究会のつくり方、民間教育運動の流れ、若手に必要な教師力といった講座が並びました。それもひとつの講座が短くて90分という、大きな講座が並びました。別にこれらが楽しくなかったわけではないですし、飲み会もずいぶんと盛り上がったわけですが、どうも研究のない合宿というのは性に合わんなあ……というのが率直な感想。

それはやっていることがどうしても、「研究」ではなく「運動」に見えてしまうからだろうと思います。ぼくは若い頃から「運動」に参加することを好ましく思っていません。おそらくそれがぼくとこの合宿との齟齬なのだろうと思います。

毎年、年末に日文協国語教育部会が合宿をおこなっています。これまで何度もこの合宿に参加しようかなと思ったことがあるのですが、どうも次年度の分担とか、方向性とか、あとは懇親が目的と思えわれるようなプログラムが多いように見えて(もちろん、研究もひとコマはあるのですが)、なかなか重い腰を上げるには至りませんでした。

やっぱり飲み会というのは、研究をやってからそれを肴に飲むのが楽しいわけでして。これは明らかに学生時代にならった鹿内信善先生の影響だなあと思います。

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師走~2009年を振り返る・29

年度末の大仕事!~進級認定・卒業認定・推薦書に伴う指導力・事務能力

12月19日(土)。今年最後の中学校学級経営セミナーの第一講座。第12回である。

山下くんが進級認定・卒業認定について、ぼくが推薦書という分担。過去の推薦書や自己アピール文の添削等を資料に、かなり具体的に直すべき視点、ポイントを提案。本来、中学校教師にとってはかなり大きな仕事だと思うのだが、現場一般にはあまりそのような意識が見られない。ぼくはずいぶんとこだわりをもって、こうした進路事務に取り組んできたので、このコマにはずいぶんと思い入れをもって取り組んだ。

40分くらいの持ち時間だったのだが、ワークショップ的に自己アピール文や推薦書に赤を入れさせて交流させたり、ぼくの書いた推薦書の内容の実際をビデオを見せながら解説したりと、普通ではちょっと体験できない講座にはなったと思う。

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師走~2009年を振り返る・28

行事ビデオ~その思想とKNOW-HOW

11月28日(土)。第21回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌。レクチャー型で固めた一日の第二講座。先週のメディアリテラシーに思想面のことを付け加え、7月のユニット型ステージ発表講座とミックスさせた講座内容。手抜きと言えば手抜き。

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「第9回国語科授業改革セミナー」終わる

年末の予定がまた更に一つ、終わりました。それも「ああ、若手を育てるための研究会の持ち方に一つの典型ができたな…」という印象をもてる、そんな会になりました。

第一講座はぼくだったのですが、提案の仕方をかなり「帰納型」にしました。ほんの短い、10分から15分程度の模擬授業を3本体験してもらって、それらがどのような意図、どのような構成でできているのかを提示する。更に、〈指導事項〉と〈学習活動〉との関連、端的に言えば授業の〈目的〉と〈方法〉との関連をどのように考えるべきなのかをマトリクスで提案。最終的には「学習意欲」「思考力」「言語技術」「国語教養」「言語感覚」という5つの学力が密接に関わり合って国語学力が形成されているのだという構造論を展開しました。

内容的にはかなり難しい内容なのですが、若い人、というかこんなことを考えたこともない人には模擬授業で授業のつくり方の基本発想だけを学んでもらえばよし、ある程度力量のある参加者にはそれなりに骨太の理論提案を理解してもらう、そんな二兎を追う講座構成にしたつもりです。

第二講座は斉藤佳太先生の説明文「森を育てる炭づくり」、第三講座は太田充紀先生の「川とノリオ」、それぞれ30分の模擬授業について、それぞれ90分かけてストップモーション授業検討するというもの。二人ともそれなりに実力があり、そしてそれなりに甘さのある、お二方には悪いのですが、題材としてはかっこうの模擬授業提案でした。終了後は二人ともへこんでいましたが、「この場に立つ」というだけで間違いなくすごいことなのであり、もう既に一般の先生とはまったく違う場所に立っているのだということに、彼らは気がついていない、そんな感じがしました。

ストップモーション検討ではここには書ききれないくらい多くのことが検討されましたが、この検討の最も大きなポイントは、授業というものがどこまで想定されてできあがっているのか、どこまで想定してつくるべきものなのか、その視点を提示することができたことでしょう。参加された若い先生方には、「ああ、力量の高い先生方ってのは、小さな手法の一つ一つにまでここまで広く考えて授業づくりをしているのだな」と思ってもらえればそれで良い。一つ一つの指導言、授業行為には必ず理由があり意図がある、それさえわかってもらえればそれで良いのです。

このストップモーション授業検討には、指定討論者として堀・森のほか、南山潤司先生と大谷和明先生が参加されましたが、この4人がそれぞれにキャラが立っていることも会を盛り上げた大きな要因でした。それでいて歯に衣着せぬ批判、更にはちゃんと愛情をもっての発言、こういうことは長い付き合いの者同士だからできることだなあ、とも改めて感じました。

たぶん、齋藤先生も太田先生もとても怖かったと思いますが、二人はこれを一つの契機として間違いなく伸びていくでしょう。

第四講座はQA型のシンポジウム。参加者が質問項目を個人的に設定、4人で交流して価値ある質問を全体に出し、それに4人の講師が応えていくという展開。ストップモーション授業検討をやっている分だけ、参加者に共通した題材があるため、講師の応えも決して空中戦にならない、そんな受け答えが続きました。

夜は店に向かう途中、一部の宴会参加者がはぐれてしまうというアクシデントもありましたが、総勢13人で楽しい宴会でした。なつかしい人、遠くから来た人、教え子、そして日常的な仲間たち。ぼくにとってはなんとも心地よい空間でした。その後、5人で二次会に行って日本酒。20年近い教員生活を振り返るような話、いま現場の実践研究はどこにあるのかというような話。そんな話を聞きながら、ぼくは官製研究会にも民間研究会にも「かつての研究」がなくなったのだなと感じていた。ぼくらの研究会も「研究」というよりは「教師教育」の色合いが濃くなってきている。ふとそんなことも感じていた。これもまた心地よい小宴だった。思えば、ぼくにとっては、時間軸と空間軸とが交差する、そんな二次会だったのでしょう。

帰宅後、感想・質問記入用紙に目を通すと、驚くほどの高い評価。特に、最近、割とよく顔を出してくれているS田くんとかN野くんとかH井くんとか、若い先生たちが驚嘆とともに感想を寄せてくれている。今度は模擬授業者としてあの場に立ってみるといい。きっと世界観が変わるはずである。そういう失敗に学びながら、怖い経験に晒されながら、ぼくらだって世界観を少しずつ広げてきたのである。

超えても超えても更に高いハードルがある。それに気がつくと、もうやめられなくなります(笑)。

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師走~2009年を振り返る・27

学級経営を潤すメディアリテラシー

11月21日(土)の第11回・中学校学級経営セミナー。「学級担任の小ネタ一覧」と題した1日のひとコマ。本当はもっとちゃんと作りたかったのだが、研究会が重なって古いネタで提案せざるをえなかった。ちょっと公開の残っている提案である。本当はメダィアリテラシーほど最新のネタで提案したほうがいいものはないのだが……。

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師走~2009年を振り返る・26

残業しない、空き時間を浸食しない、それでいて効果が上がる 評価・評定の効率化・その思想と技術

これも11月14日(土)、第9回中学校国語科授業づくりセミナー。ぼくの絶対評価の現実的対応をかなり具体的に提案。結局、評価と連動させながら、いかに学力保障につなげていく授業システムを構築するか、それが大切なのだという趣旨。

そのためにはかなり大胆なこともする必要がある。要は、指導の〈目的〉と〈方法〉とをしっかりと考えることが重要との指摘である。

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第9回国語科授業改革セミナーin札幌

残席僅少

本当に国語の授業がうまくなりたい人へ
指導事項に基づいた学習活動のつくり方
~国語科授業塾・授業づくり編~

 私たちは毎日授業をしています。うまくいくこともあれば、うまくいかないこともあれます。しかし、それは印象として曖昧に評価しているだけで、実は子供たちに力がついたのかどうかはわからない、子供たちが意欲を抱いたかどうかはわからない、というのが実態ではないでしょうか。実は、授業というものはその授業の〈目的〉つまり〈指導事項〉に対して、授業の〈方法〉つまり〈学習活動〉がどれだけ機能したかで測られるのです。教師の授業行為(説明・指示・発問)の一つ一つにも意図があります。今回の国語科授業改革セミナーは2本の模擬授業を題材に、教師の授業行為の意図を徹底的に解明します。

講師 堀 裕嗣・森  寛・大谷和明・南山潤司

日 時:2009年12月26日(土) 9:10~16:50

会 場:札幌市白石区民センター1F多目的室

参加費:3,000円/定員:30人

【 日 程 】

9:00~ 9:10 受 付

9:10~ 9:15 開会セレモニー

講座1 授業づくりの基本的な発想
〈目的〉と〈方法〉、〈指導事項〉と〈学習活動〉の関連

9:15~10:15/堀 裕嗣
授業づくりを方法論で捉えていませんか。絶対的に良い方法、絶対的に良い授業技術などないのです。「方法」は「目的」に応じて選ばれる。「学習活動」は「指導事項」に応じて組織される。授業づくりは、この当然の原理をあらためて確認することから始まります。

講座2 「説明的文章」の授業づくり~学習活動の意図と原理
10:30~11:00/授業者:齋藤佳太(登別市立青葉小学校)
11:00~12:30/代案提示型授業検討/司会:山下 幸
指定討論者:堀 裕嗣・森  寛・大谷和明・南山潤司
一つの模擬授業を題材に、指導目的・指導事項・指導意図に基づいてその機能度を分析し、4人の講師が適宜代案模擬授業をしながら解説していきます。参加者にも意見をもらいながら、具体的に検討します。

12:30~13:30 昼食・休憩

講座3 「文学的文章」の授業づくり~学習活動の意図と原理
13:30~14:00/授業者:太田充紀(名寄市立智恵文小学校)
14:00~15:30/代案提示型授業検討/司会:山下 幸
指定討論者:堀 裕嗣・森  寛・大谷和明・南山潤司
一つの模擬授業を題材に、指導目的・指導事項・指導意図に基づいてその機能度を分析し、4人の講師が適宜代案模擬授業をしながら解説していきます。参加者にも意見をもらいながら、具体的に検討します。

講座4 シンポジウム「国語科・授業づくり」
〈目的〉と〈方法〉、〈指導事項〉と〈学習活動〉を結ぶ原理

15:45~16:45/司会:山下 幸
シンポジスト:堀 裕嗣・森  寛・大谷和明・南山潤司

16:45~16:50 閉会セレモニー

□お申し込み方法は以下のとおりです□
以下の7点をお書きの上,Eメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)

E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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学力構造論の不毛性

明日のセミナーの講座準備が完了した。

国語科授業づくりの基本的発想~〈目的〉と〈方法〉、〈指導事項〉と〈学習活動〉の関連

という途方もない講座タイトルである。なんとか60分講座のPPTをつくった。それもぼくにしては珍しく、参考文献を何も見ることなく、自分の実践の構造だけを拠り所にしてつくってみた。

できあがって思った。

ああ、ぼくは学力構造論に踏み込み始めているなあ……と。

学力構造論は教育研究をする者が必ず踏み込み、挫折していく、そういった馬鹿げた体系論である。学力構造をモデルで語っているうちは、まだ補助線を引くようなものだから、モデル開発者もそれに凝り固まるということがない。しかし、学力構造を論として体系化したと思ってしまうと、それに凝り固まり、思考が固定化し、頑固になり、最終的にはだれにも相手にされなくなる。ぼくはこれまでそういう人を何人も見てきた。

そもそも学力構造を論として体系化できるはずなどないのである。そんなことができるのなら、教育研究がこんなにも多様化し、こんなにも諸派諸説入り乱れるはずもない。

自分の立てた論を疑ってかかる視点だけは忘れたくないものである。

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師走~2009年を振り返る・25

「絶対評価」の現実~やるべきこと/やってはいけないこと

11月14日(土)。「絶対評価」の現実的対応を提案しようとの意図をもった第9回・中学校国語科授業づくりセミナーの基調提案。「絶対評価」導入から8年が経過しているというのに、いまだに「相対評価」の手法・思想が紛れ込んでいるという前提のもと、チェックリストとして提案。

普通に行われていることがずいぶんと覆されたようで、参加者は驚きの表情をかくさなかった。ぼくの提案が必ずしも正しいとはいえないが、こういう考え方もあるということは知っておいていいことだと思う。

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荒れた学校

「荒れた学校」という表現がある。戦争の傷跡生々しい50年代、学生運動の影響から学校というシステムそのものに疑問が呈された60年代、校内暴力吹き荒れる80年代、確かに学校は「荒れた」といわれた。ぼくがいま勤務している学校も、かつては札幌市内有数の「荒れた学校」といわれていた学校である。前任校だって、決して落ち着いた学校ではなかった。

しかし、「荒れた学校」といわれている学校の生徒も、実は生徒の97%は荒れない。

この言い方は語弊があるかもしれない。関東地方を中心に、生徒の50%が荒れているといわれる学校がたくさんある。ぼくの知っている元中学校教師が講座の中で、「かつて勤務していた学校は半分が荒れていて、もう半分はもっと荒れていた」と、冗談めかして言っていたことがある。そういう現実というのは確かにある。

だが、ぼくが言いたいのは、どんな学校でも、だれが指導しても荒れる、つまり、だれが指導しても警察権力や司法の力を借りなければどうにも手立てがない生徒というのは、どんなに大きく見積もっても3%を超えることはないだろう、ということだ。残りの97%が「荒れ」の兆候を見せるのは指導の在り方の問題であり、学校が敷くシステムの問題であり、その意味で回避できるものに過ぎない。要するに、3%は先天的な要因として生徒のせいにしてもいいが、残りの97%は環境要因として、教師は批判の目を自分に向けるべきだと思うのだ。

ここまでを読んで、賢明な読者の方には伝わると思うが、ぼくは内心、先天要因をもつ3%だって最大限の数字であり、実際には1%を切ると思っている。ただし、どこかの人権派のようにそれがゼロだとは言うつもりはない。そういうスタンスである。

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ぶっ壊す

いよいよあと2日学校に行けば冬休みである。

今年の冬休みはかなり時間をつくった。1年前から計画して、この冬休みはやりたいことをやろうと決めていた。黙っていればおそらく行くことになっていたであろう「授業づくりネットワーク」の冬の大会に参加しない旨を1年前から宣言し、「研究集団ことのは」合宿では準備のいらない、それでいて何かが生まれそうな企画に作り替え、「教師力BRUSH-UPセミナー」の合宿が年末に入ったことは誤算だったが、それでも10日以上の時間がある。なんとも楽しみな冬休みである。

久し振りにこれまでの実践の大規模なまとめに取りかかろうと思っている。

歩き続けること、走り続けること、要するに「動き続けること」は大切なことである。しかし、動き続けることは「じっくりと考えること」とセットで在ることが大切だ。「動くこと」も大切、「留まること」も大切。動くだけでは思考が散逸し、留まるだけでは思考が活性化しない。バランスが必要なのである。

思えば、ここ7~8年ほど、ぼくの時間は生み出すことばかりに使われてきて、どれもこれも中途半端に散逸していった。2~3年かけて、散逸した思考を一つの場所に集め、それぞれに相応しい引き出しをつくって、箪笥に収納し直さなければならない。収納がちゃんとなされていなければ、必要なときに必要なものを取り出せない。必要なときに必要なものを取り出せないと、他の人たちにも伝えられない。

そして、そういう箪笥ができたら、思い切りナタを振るって、その箪笥をぶっ壊す作業にはいる。

ああ、教職に就いて幾度めかの過渡期だなあ、と思う。そろそろぶっ壊すことが視野に入り始めた。再生は破壊を伴い、破壊は構築を前提とする。

たぶん教職についてぶっ壊すのは3度目である。

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師走~2009年を振り返る・24

義務教育で扱う「書くこと」の言語技術・20+α

これも10月10日(土)。第8回国語科授業改革セミナーの第3講座。今度は書くこと。

「書くこと」講座は理念的なことをしゃべろうとすると、どうしても難しくなる。実際に書いてみないと実感できないことが多い。それでいて、ひとつひとつの言語技術を使って書いてみるということになると、膨大な時間がかかる。しかも参加者が疲れてしまう。

生徒の書いたものや説明文なんかを具体例に話してみても、いまひとつ落ちない。結局、この講座は全国学テの問題とその解答例を具体例にして話すことにした。

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また二日酔い

また二日酔い。もう深酒はやめよう。

直近で同じ決意をしたのは、20日(日)のことである。今日は23日(水)。たった3日しかたっていない。なんという学習能力のなさ。昨日はビール→ウイスキー→ビール→日本酒。最悪である。飲む前に飲んだウコンもこれだけの酒量に対応できるはずもない。ウコンの力にもぼくのアルコール分解の力にも限界がある。

人は体験によって学ぶというが、深酒の体験からだけは学ばない。

池田さんが学生に酒の講釈をたれたそうだが、ぼくも聞きたかった。

もう深酒はやめよう。

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師走~2009年を振り返る・23

義務教育で扱う「話すこと・聞くこと」の言語技術・40+α

10月10日(土)。「研究集団ことのは」がかれこれ10年近く前に一生懸命に取り組んでいた表現系言語技術の体系づくり。これを再整理しようと開いた研究会である。

これはこの日の第一講座として、「聴衆分析」「教室プレゼンの20の技術」「聞き方スキルの4段階・20の技術」の3つを90分で語ろうとした無謀な試み。「聴衆分析」をワークショップで、「教室プレゼン」を講義で、「聞き方スキル」を紙面での提案で、取り敢えず音声言語の指導事項の全体像を再整理することができた。

ただ、参加者から「学年別の指導事項が知りたかった」という感想があり、この人の主体性のないというか、他力本願の強い感想に、教員の平均値を見た思いがしてとても残念に思った。そんなものは子供が変われば基準も変わるわけで、「これが学年別指導事項です」などというものを提示することに何の意味もない。そんなことさえわからずに教壇に立っているのである。本当に残念に思った。

こういうものは全体像を教師が頭の中にしっかりともっていて、何か必要な場に出逢ったときに、すぐに頭の引き出しを開けて豊富な具体例とともに提示できる、そういう状態が理想なのである。つまらない、形式張った系統性を頭の中に固めてしまうと、それに縛られてしまう。そういうものは「志向性」としてのみもつものであって、どこかにあるものではない。ましてや、他人から教えてもらうものなどでは断じてない。

そういうことがわかっていない人が多い。

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師走~2009年を振り返る・22

物語・小説で習得させるべき20の言語技術

8月23日(日)。第8回・中学校国語科授業づくりセミナー。「義務教育で〈習得〉させるべき50の言語技術~読解編~」と銘打った一日。かなり学術的な内容も織り交ぜながら、それを一般の先生にどう理解してもらうかということをずいぶんと考えた。

今年一番の大作は間違いなくこれ。スライドも54枚。2時間半しゃべりっぱなしの講座。なにせ教育出版教科書の6本の文学教材をすべて扱った。この整理は今後の研究にずいぶんと生きていくだろうな、と思う。

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走りすぎると苦しい思いをする

年末。いよいよ、あと10日。学校は3日。飲み会は三つ。セミナーは二つ。講座も二つ。研究協議やシンポジウムといったものを入れれば六つ。でも、そちらは気楽。

今年はずいぶんと走ったなあと思う。走らなくてもいいのに走った。走りたくないのに走らざるを得なかった1年という言い方もできる。とにかく、担任がなかったので、自分を忙しくした。そんなつもりはなかったのだが、おそらくそういうことだったのだろう、といま思う。

何はともあれ、「中学校・学級経営セミナー/10回連続講座」なんていう、始める前は「できるのか?」と思っていたことをやり遂げたことが大きい。ほんとはまだ9回分しか終わっていないのだが、コンテンツとして難しいもの、つまり某かの「開発」が必要なものはすべて終わったのだから、10回目の参加者には申し訳ないいいかたになるがもう終わったようなものである。10回目は好きなことをしゃべればいいようにプランニングされている。

反対に、外からの依頼は断りまくった1年だった。

引き受けたのは8月の日文協のシンポ登壇と乙部中学校の公開研の講演のみ。今年はコンテンツ整理の1年と決めていたので、とにかくこれまでやってきたことを整理することに心血を注いだ。おかげで講座の組み立て方にちょっとだけ「心得」らしきものを体得した。

まあ、次年度からは「頼まれたら断らない」という例年のスタンスに戻すことにしよう。かなり講座のレベル……というか、ステージの定め方というものが見えてきた。もうよほどのテーマでない限り、隙間時間でもなんとかそれなりの準備ができそうである。

……とここで、教え子からのメール。ずいぶん以前の教え子。数年間、連絡のなかった教え子。どうやら、この数年でかなり苦しい思いをし、そしていま再浮上の兆しが見えてきているらしい。何よりである。

「今度、飲みましょう。おごってあげる。」と返信する。教師なんてものは、教え子が卒業してしまえば、そんなことくらいしかできないものである。

走りすぎると苦しい思いをする。老若男女、世の中はそういうものなのかもしれない。走りすぎないこともまた、大切なことである。

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師走~2009年を振り返る・21

習得・活用・探究~その原理をさぐる~

8月23日(土)。第8回・中学校国語科授業づくりセミナー。基調提案。基本的には5/9の累積の基調提案とほぼ同じ。ただ、最後に「探究型授業」のモデルを示して、こういう学力が求められているのだということを、我々もしっかりと受け止めたうえで、国語科授業の「習得」「活用」を考えなければいけませんよというワークショップを入れた。

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「第12回・中学校学級経営セミナー」終わる

年末の予定がまた一つ終わった。今年最後の中学校・学級経営セミナーである。今年度の10回連続講座の9回目。職員室の人間関係・進路業務・力量形成という3本立て。どれも割と楽しい講座となった。

第一講座の「職員室の人間関係学」はポスターセッション。会場を4つのブースに分けて、堀・森・田中・山下の4人がそれぞれ8分程度の提案。少人数の参加者に対して説明。それに対して、非常に近い距離感覚で質疑。

第二講座は「推薦書」と「進級認定・卒業認定」。60分のうち45分間はぼくの提案。自己アピール文2本、推薦書1本に赤を入れて交流するワークショップをまじえながら、最終的にはぼくの書いた推薦書を3本提示して、どんなことに配慮して書いているか、推薦書に書く内容をどのように決め、場合によってはつくっているか、そんな話をした。後半は「進級認定・卒業認定」にからめながら、不登校生徒にどのような働きかけをしていくかという山下くんの提案。

第三講座は「面接」と「小論文」。幹也くんと森くんである。まずは私立高校勤務の経験がある先生をゲストに、高校側が面接においてどのような点について注意して見ているかを具体的に、続いて面接指導のポイントと流れを幹也くんが提案。次に森くんが入試作文指導の実際を提案。推薦入試の作文も事前準備がほぼ可能なものが多いので、それをしっかりしようというあたりまえの提案なのだが、あまりなされていない現状がある。

第四講座は「中学校教師の力量形成」と称してワールド・カフェ。参加者は60分間、たいへん楽しそうに交流していた。それを全体でシェア、更に山下・堀・森・田中の順で、力量形成のポイントを3点に絞って提案。なかなか濃密な135分間。

その後、屯田屋敷で小宴。一般参加者も含めて楽しいひととき。久し振りに日本酒をかなり飲んでへべれけ。

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師走~2009年を振り返る・20

学校祭ステージ発表の具体的プログラム

8月22日(土)。第8回中学校学級経営セミナーin札幌。学校祭ステージ発表と合唱コンクールに絞ったセミナーの2回目。

この回は、前回(7/18)が「開閉会式のスライドづくり」と「ユニット型ステージ発表」だったのに対し、「演劇型ステージ発表」と「ステージ発表を構成する20の技術」という内容。過去のビデオを流しながら、午前中いっぱいの講座。

とても長い講座でずいぶんと疲れたのを覚えている。

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師走~2009年を振り返る・19

PISA型読解力を育てる中学校国語科授業

8月11日(火)。授業づくりネットワークの全国大会。東京である。吉祥寺の成蹊大学にて。野中さんや池田さん、赤坂さん、土作さん、あべたかさん、やまかんさんなどなど……ごぶさたの人たちにたくさん会え、しかもライフヒストリー・アプローチの手法が見られるということで久し振りに全国大会に参加した。

しかし、ライフヒストリー・アプローチのこの大会での手法にはちょっと問題ありかな…という印象。なにせ事を急ぎすぎる。しかし、イベントとしてはこのくらい急がないと成り立たない。結局、ライフヒストリーはイベントには合わないな……というのが結論だった。合宿研究会のようなものでじっくりとやるべきものである。

さて、講座自体は時間の配分を間違えて大失敗。まあ、PPTには一応ぼくの言いたいことはすべておさめてある。

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第12回中学校学級経営セミナー

残席が少なくなっています。ご参加をご希望の方はお申し込みをお急ぎくださいませ。

先輩教師が本音で語る教師力・担任力
職員室の人間関係!教師の力量形成!

昨年度から設立された中学校・学級経営セミナーの12回目。今回は、年度末の事務仕事や進路事務、そして職員室の人間関係を円滑に進める方法、中学校学級担任としての力量形成の方法と、盛りだくさんの一日です。

日時:2009年12月19日(土)

場所:札幌市白石区民センター1F多目的室

定員:30人/参加費:3000円

講師:中学校・学級経営研究ネットワーク

9:15~9:25 受付/9:25~9:30 開会セレモニー

9:30~11:00
講座1 ワークショップ「職員室の人間関係学」
司会:石川 晋/堀 裕嗣・森  寛・山下 幸・田中幹也

いまも昔も、教師の悩み事の上位に「職員室の人間関係」があります。職員室に協働性があれば、もっと生徒たちをよい方向に導けるのに……。ほとんどの教師がそれぞれの立場からそう考えています。今回はワークショップ形式で参加者の実際の事例を挙げながら、また講師陣の実際の事例を挙げながら、「職員室の人間関係」を円滑にしていく勘所を考えていきます。

11:15~12:15
講座2 年度末の大仕事!
進級認定・卒業認定・推薦書に伴う指導力・事務能力
堀 裕嗣・山下 幸

進級認定・卒業認定の時期は不登校生徒の状態を改善に導くための最大のチャンスです。推薦入学の合否には推薦書の内容がかなり大きく影響します。推薦依頼書をどう書かせるかから推薦書をどう書くかまで、一通りの流れを具体例をまじえて解説していきます。

12:15~13:15 昼食休憩

13:15~14:15
講座3 進路指導大詰め!「小論文指導・面接指導の極意」
森  寛・田中幹也

推薦入学や単願入学の小論文、最近増えつつある高校入試の面接。特に推薦入試では、学級担任であるあなたの指導が的確であるか否かによって、かなり合否に大きな影響を与えます。小論文指導や面接指導では何が重要なのでしょうか。その勘所をお伝えします。

14:30~16:45(適宜休憩)
講座4 ワークショップ「中学校教師の力量形成」(含・Q&A)
司会:石川 晋/堀 裕嗣・森  寛・山下 幸・田中幹也

中学校には、小学校や高校にはない、独特のシステムと実態があります。そうしたシステム、そうした実態の中で、どのように学級担任としての、或いは中学校教師としての力量を高めていけば良いのでしょうか。授業、学級経営、生徒指導、部活指導、そして職員室の人間関係……すべての観点から中学校教師の力量形成を考えます。

16:45~16:50 閉会セレモニー

16:50~17:15 個人的な質問のコーナー
全体の場で訊くほどのことではない。でも訊いてみたい。講師の先生をつかまえて、どうどん質問しちゃいましょう。

【お申し込み先】
以下の7点をお書きの上,Eメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)

E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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師走~2009年を振り返る・18

子どもに力をつける国語科授業システム「授業技術初級編~発言指導!話し合い指導!ノート指導!」

7月25日(土)。夏休み初日の第7回国語科授業改革セミナーの基調提案である。

目標集客5人。こんなものに人が集まるはずがない。それでもコンテンツ整理のために必要な研究会だ。

そういう決意で始めた「国語科・授業塾」と題したイベント。ちらしをまいてみると、定員30名ぴったしの満員御礼。おいおい…こんなことなら、学級経営セミナーと2集連続なんかにするんじゃなかった。準備時間がないぞ……と嬉しい悲鳴。しかも参加者の6割が女性。こんなものに女性が集まるのか……と、不思議な気分。

取り敢えず、結果的に、2009年度後半のぼくらの動きを決める、大きな研究会になった。

よし!みんな国語の授業に困ってるんじゃないか。ちゃんと国語の研究会をやろう。そんな気分になった。

ただし、ぼくらの国語科授業に関する提案が、小学校教師にはかなり難しいということも身にしみてわかった研究会でもあった。まあ、ぼくの基調提案はそれなりに小学校教材も取り上げながらの提案だったので、ぼくには珍しく、それほどの難しさのない、というよりは表面だけをあっさりとなめるだけの提案になった。

ある地方の、通称「二股指導主事」も参加。この後、かなりの常連になっていく。

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ウェブはバカと暇人のもの

『ウェブはバカと暇人のもの』中川淳一郎/光文社新書/2009年4月

久し振りに実体験を本音ベースで語る、それでいて問題提起性は非常に高い、そういう新書を読んだ思いがする。ただこれがぼくにとって役立つか…というと微妙なのだが(笑)。

ぼくが買ったのは第6版。半年で6版だからまずまずヒット新書といっていい。つい先日、郊外型店舗にCDレンタルと書店が併設しているような「本屋とは呼べない本屋」で平積みにされているのを見て、なんとなく買って読んでみた。

これは読む価値あり。

「ウェブの可能性」に期待しながらも、また、「ウェブ」を自分の生活の一部にしっかりと位置づけながらも、だれもが潜在的に感じざるを得ないでいた「ウェブの限界性」、だれもが予感していたおそらくは圧倒的に大きいであろう「ウェブのネガティヴな側面」を、ウェブで食っている人間が豊富な具体例と構造的な分析とで解き明かしてくれている。それも、たぶん自宅にネット環境があるという人なら、だれでも間違いなく理解できる、そんな内容のみで構成されている。

ほどよい過激な描写もスパイスと照れ隠しが併存していてとても心地いい(ただし、この点だけは賛否両論があるかもしれない)。

文体は平易、それでいて様々な配慮がなされていて、かなりメタ認知能力の高い著者だとわかる。見事なものである。おすすめ。

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師走~2009年を振り返る・17

学校祭ステージ発表のイロハ

7月18日(土)の第7回・中学校学級経営セミナーでの2時間半講座。PPT自体はスライド12枚という少なさだが、学校祭や送別集会のステージ発表ビデオが10本近く。この講座は、8月22日(土)の第8回の講座とセットで、ぼくのステージ発表づくりのスキルを全面的に整理したといっていい内容になっている。

中学校の学校祭では、ステージ発表は嫌われる。生徒に嫌われるのではなく、教師に嫌われる。面倒だし、アイディアがないし、指導が難しいし、目立つし、失敗すれば批判されるし、と、どうにもこうにも良くないことだらけ……。

それでも学年分担制なら学年教師のだれかがやらなければならないし、学級分担制なら生徒がやりたいといえば担任がその意欲をつぶすわけにもいかない。合唱指導やものづくり指導なら、中学校教師はある程度はだれもが身につけなければならないが、ステージ指導はすべての教師に身につけることが強要されるスキルではない。それでも、知っている便利。いや、知っていると生徒指導や生徒たちとのラポートづくりに大きな影響を与える、教育活動の「潤い」の最たるものの一つなのである。

とは言っても、身につけようと思えば、それなりの覚悟がいる。

それでも身につけたいと思うか否かは、少し大袈裟にいえば、自分が中学校教師という仕事にどのように対して行くかというギリギリの判断を迫られる。そんな分野だと思う。

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今夜のニュース…

札幌市東区の女子中学生が覚醒剤使用。テレビを見ていたらそんなニュースが流れた。

更にテレビ局が送信してくるニュースを読んでいたら、白石区内の女性中学校教諭が出勤途中に停車中のトラックに追突、心臓破裂でまもなく死亡したとのこと。名前をみると、ぼくの向陵中学校時代の同僚ではないか。

なんてことだ。

同世代。確かぼくと同い年か、一つ下かくらいだったはずだ。いずれにせよ、まだ40代前半である。

ご冥福を心よりお祈りいたします。

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ため息……

報道によれば、どうやら民主党が子供手当てに所得制限を設ける方向で調整をはじめたようである。調整を始めたとはいうが、どうやらほとんど本決まりのようでもある。

かつて、ぼくはこの件について、次のように書いたことがある。

【引用開始】

自民党の惨敗。民主党の圧勝。

民主党が掲げた基本イメージは何だろうか。それはひと言で言えば、自民党が経済優先・外交優先の政治という基本イメージを提示していたのに対し、民主党が医療・介護・教育といった、一般的な国民が求めるサービスの中期目標を視野に入れたことだろうと思う。これは、外需中心の「ものづくり」から内需中心の「サービス」へと軸を移動させようとしているともいえるし、比喩的に言えば、「強い日本」イメージから「しなやかな日本」イメージへの移行とも言える。

それはおそらく、この選挙期間中の流行語ともなった「財源」という言葉、「ばらまき」という言葉が象徴している。

子供一人あたりに26,000円を支給する、しかも中学校卒業までの15年間支給し続ける、という子供手当て。一見、公明党が推進してきた地域振興券や定額給付金に似た政策のようにも見えるが、おそらく裏にある思想はこれらとは全く異なる。地域振興券や定額給付金はあくまで短期的な経済対策である。しかし、民主党の子供手当ては、どうやら少子化対策として打たれた政策であり、少子化対策を通しての長期的な経済対策である、と言えそうだ。

子供手当てが主張されたのは一昨年の参議院選挙。既に政権奪取が視野に入り始めた時期である。この時期に、子供手当ては恒久法として提案された。しかも配偶者控除や扶養控除の廃止とセットである。このことは、国が「世帯を守る」というスタンスから「子供を守る」というスタンスへと移行したことを意味する。賛否はあるのだろうが、一つの見識ではあるだろう。

日本の出生率は1.3強。月26,000円が15年間支給され、保育所の整備や産科医不足の解消が行われたとすれば、確かに出生率は上昇しそうな気はする。しかし、短期的な経済効果としてはほとんどないと見て間違いないだろう。月26,000円くらいの金額なら、おそらく多くの家庭では高校・大学といったよりお金のかかる時期のために貯金にまわされるのがオチだろう。高等教育への進学を考えていないような家庭、考えられないような家庭では生活費に消えていくだけである。それより何より、本当にこの程度の政策で出生率が上がるのかどうかだって怪しいものである。どうも日本人のメンタリティは、こうした予想ではすくえないような、想定範囲の外側にあるような気もするからである。

しかし、それでもこの子供手当てを政策の核の一つにするのは、出生率を上げないことにはこの国が立ちゆかないという認識があるからなのだろう。

自民党的な「ものをつくって外需をあてにする」といった政策をやっていて、将来的にこの国の経済が発展する見込みはない。格安の賃金で労働者を雇うことのできる中国やインドと競争しても勝てるはずがない。もし勝とうとすれば、ここ数年の派遣労働者問題に目をつぶり、「人のダンピング競争」をするしかないからである。物理的にも精神的にも豊かになってしまったこの国で、それは考える余地なく無理なことだ。しかも、外需も挙がる見込みはない。いまは中国やインドが世界経済を牽引しているが、数十年後を考えればそれも頭打ちになるはずである。

そこで必要なのが、「内需の拡大」である。しかも、エコカーやらIT機器やらといった「もの」をつくって買わせようという内需ではない。もちろん、従来の「もの」(必需品)に付加価値をつけて内需を少しでも拡大しようという努力はなされるべきであるが、いま、おそらく国民が最も欲しているのは「安心できる医療」であり、「安心できる介護」であり、「安心できる教育」なのである。これらが手にはいるのなら、みんな貯めている金をはたいて買うはずである。いま国民は「安心」に対してなら金を払う。

民主党の公約に掲げられている重点政策は、そのための出生率上昇の試みであり、そのための「医療」「介護」「教育」の充実なのである。その一つの象徴として、子供手当てがあるというわけだ。おそらく農業政策の思想も同様だろう。食糧自給率の上昇を視野に入れての政策である。

民主党の子供手当てに対しては、各方面から、いや民主党内部からさえも、「高収入家庭にも子供がいる場合には一律26,000円を支給するのか。それは不必要であり無駄ではないか」と、収入の額によって制限を設けるべきだとの意見もある。

しかし、もしもこれまで述べてきたような理屈で子供手当てを提言しているのだとしたら、この制限はすべきでない。この制限をかけた時点で、子供手当ては短期的な経済政策に堕してしまう。そこには逆差別のルサンチマン思想が流入してしまうからだ。

今後、民主党は、社民党や国民新党、場合によってはみんなの党とも政策協議にはいるはずである。これらの政党はみな、子供手当てには年収制限を設けるべきと主張しているようである。この政策協議で民主党が年収制限をつけて、子供手当てに短期的な経済政策の色合いを出してしまうのか、それともあくまで長期的な見通しをもっての政策としての色合いを維持するのか、私はこれにとても注目している。

なぜなら、私が教育の現場に身を置く者の一人として、民主党の教育政策に期待しているからである。民主党は教育委員会を改変したり免許更新制を廃止したり高校の授業料を無償化したりといった政策を打ち出している。どれもこれも形だけ変えてもそれほどの意味はない。すべては長期的な見通しをもってディテールをどうつくるかであり、打ち出した政策に間違いがあった場合には長期的な見通しをもってすぐに修正できるかなのである。

もしも、民主党が、子供手当てに対して、中・長期的な見通しをもった政策として、その思想性を揺るがせないならば、教育政策にも本当に期待しようという気持ちになる。医療制度改革にも、介護制度の整備にも、年金制度改革にも、期待しようという気になるというものだ。

「財源がない」という言葉も、「ばらまき」という言葉も、短期的な経済政策を基準に見るから使われる言葉に過ぎない。子供手当てが「ばらまき」なのかどうか、それは収入制限がつけられるか否かでわかる、そんな気がする。

【引用終了】

所得制限を設けるか否かは、おそらく政策の思想を変えてしまう大問題である。短期的な経済政策(現実/党利党略とまでは言わない)を長期的なビジョン(理想)より優先したことを意味するからだ。しかもこうした大文字の公約…というか、国民の誰もが知っているような、しかも国民の生活に密接にかかわっているような、更には国民の安心のベクトルとして提案された政策が、かくも無惨な形で翻されるとすれば、今後、他の様々な公約がこれまでより抵抗なく翻されるであろうことは推して知るべしである。

結局、我々が自民党に対して抱いていたイメージと何も変わらない。

日本が大戦に踏み込んだ経緯、日本が終戦を遅らせた経緯と何も変わらない。

学校が職員室の人間関係に配慮しながら、なかなか取るべき一手に踏み出せず、先送り先送りにしてしまい、最終的に「もうダメだ。やるしかない!」という空気になるまで動かない……というのと何も変わらない。

生徒指導において、生徒があくまでシラをきり、いよいよ逃げられなくなって泣きながらゲロするのと何も変わらない。

時代を超えて、世代を超えて、老若男女、日本人とはそういうものなのだなあ……と、ため息が出る。

【参考1】ばらまき/2009.09.01(火)

【参考2】いい思いをさせてやる/2009.08.30(日)

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師走~2009年を振り返る・16

学級・学年・学校リーダーの育て方

これも6月20日(土)の第6回中学校・学級経営セミナーニミ札幌。

最近、リーダー性の高い生徒がいない…という声をよく聞く。確かに昔に比べればリーダー性の高い生徒が減ってきているのは事実だろう。リーダーが減ったというよりも、「仕切り屋」が減った…といったほうがいいかもしれない。

ぼくの考え方は、というよりも「研究集団ことのは」の考え方は二つだ。

第一に、基本的にリーダーに特別な資質を求めないということ。学級代表なんて立候補した者であればだれでもいい。

第二に、先生のお手伝いをさせるだけではなく、必ずいい思いをさせてやるということ。

もしもリーダーに様々な能力や性格上の資質を求める先生がいるとすれば、その先生は自分が職員室においてそのようなはたらきを果たしているか否かとを反省した方がいい。「自分に置き換え」て考えてみることが大切だと思う。

【参考】自分に置き換える

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叩く側と叩かれる側

あるブログにこんなことが書かれていた。

「この資料を使った授業については〝それなりの知識〟を持っている私は、授業開始から15分ほどでその教室を出た。ここまでの子どもたちの「姿」や教師の言動を見て、自学級の子たちを「自習」させるのはもったいないと判断したからである。/子どもたちは返事もせず・挙手もせず・声も出さず、教師はそうした子どもたちに対して何一つ手を打たず・マスクをしたまま教卓の「指導案」を何回も見ている――これだけで〝十分〟。それ以上参観する意味はない。/発問・指示をどうするといういわゆる「教材研究」以前の問題である。4月から8ヶ月ほど経っているのに、学級に活気がない。子どもたちと年齢的には近い「若者」でありながら、子どもも教師も授業の中で自身を〝さらけ出して〟いない。/授業は、子どもとの格闘の中核的ステージだ。授業の中で、返事・発言・集中・スピード・姿勢・作法等を指導していくのだ。返事もしない子に対して何もしない・「答え」が分かっているのに挙手しない事態を放置する、こんな事を教師が毎日一年間やっていたとしたら、その学級の子たちは〝哀れ〟だ。自身の持つ潜在力を発揮できぬまま、伸び盛りの一年間を過ごすからである。」

この文章を読んで、ふと考え込んでしまった。

この文章を読んで、一般の…というか普通の教師はどう思うのだろうか、と。

ぼくはこの書き手を批判したいのではない。実はぼくもこの手のことをよく思い、考える質である。それどころか、ここ数年は、自分の授業を自習にしなければ参観できない授業は見に行かなくなっている。校内で行われる「授業交流」とか「教科内授業公開」とかいう類のもののことだ。

実はぼくが考え込んだのは、このことではない。この文章に「その新卒の先生にはそのことをご教授なさったのですか?」というコメントがついた。それに対して、この書き手の先生が「どなたか存じませんが、コメントありがとうございます。授業後の『感想用紙』にミッチリ書き、それとは別に、「手紙」を添えて『とっておきの道徳授業』をプレゼントしました。」とレスを返していたのである。

ぼくは驚いた。

「なんという優しい人なのだろう」

と同時に

「なんという自己顕示欲の強い人なんだろう」

とも。

ぼくは授業さえ見に行かない。数少ない見に行ったときでさえ、「感想用紙」にミッチリ書くということもない。ましてや、「感想用紙」とは別に「手紙」を添えて本を贈るなどということは、人生でただの一度もない。「ああ、こういうところがぼくの運動家ではないところなのだなあ…」と感慨深く考え込んだ次第である。

ついでに考えた。この授業者の新卒教師はこのっ「感想用紙」と「手紙」と「本のプレゼント」とを、自分の中でどう整理するのだろう。ぼくがこうされたなら、間違いなく有り難いと思う。でも、それはぼくが民間教育の活動の中で、こうしたやりとりに慣れているからである。一般の、普通の新卒教師の脳みそは、先輩教師によってなされたこれらの行為をどう処理するのだろう。

ポジティヴに捉えられる教師とネガティヴにしか捉えられない教師とでは、比率的に何対何くらいだろう。ぼくの感覚では、おそらく999:1くらいではなかろうかと思われるのだが……。

ぼくが考え込んだネタとはこのことである。ぼくらより上の世代には「叩くことによって育てる」という風習がある。ぼくにも確かにそれはある。

しかし、ぼくにとって、それは非常に近しい人間に対してのみ行う育成法である。もっといえば、プライベートの研究会で付き合っている若手に対してのみである。職場ではまったくしないかと言われればそうでもないのだが、それでも職場でなら自分の部下の20代前半のみである。自分の部下でも教職3年以上の者だったり、ましてや自分の学年に所属していない教師だったりには、絶対にそういう「叩く指導」はしない。そしておそらくそれは、教職3年以上なら「もう3年もやってるんだから自分の頭で考えな」であり、自分の部下でない場合には「おれには関係ない人だ」なのである。

「叩く指導」は、「叩かれてもいい」と思っている人によって「叩く指導」が行われた場合にのみ機能する。「叩く指導」の良さを「叩く側」が判断しておこなっても逆効果である。ぼくはそう思っている。

ただし、これには時間の問題がある。かなり長く「叩く指導」を行い続けた場合には、その「叩く指導」が最初は嫌がられていても、時が過ぎ、「叩かれる側」がものがわかってくると気づき始める……という場合がある。これを想定する場合には、「叩く側」に「ちゃんとこいつに付き合おう」という覚悟が必要になる。

ぼくにはそれがないから、遠い人は叩かない。

うーん。

ちょっとだけ考え込んだ結果、今日はここまで考えた。

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変わること

ぼくらの研究会のもち方に変化が見られ始めている。

今週末の「中学校・学級経営セミナー」は第一講座がポスターセッション形式。第二・第三講座の進路関係こそ全体演習講座だが、第四講座はワールドカフェ形式。

プログラムとして見ていくと、次のようになる。

講座1 ワークショップ「職員室の人間関係学」司会:石川晋/堀裕嗣・森寛・山下幸・田中幹也/ポスターセッションで堀・森・山下・田中が提案。参加者と差し向かい、少人数のQA。これを4サイクル。更に全体でのシェアリングが30分。

講座2 年度末の大仕事!進級認定・卒業認定・推薦書に伴う指導力・事務能力/堀裕嗣・山下幸/推薦書・自己アピール文の添削演習、及び添削観点のレクチャー。進級認定・卒業認定時期の不登校生徒への対応法を事例提案。

講座3 進路指導大詰め!小論文指導・面接指導の極意/森  寛・田中幹也/入試作文の指導法観点のレクチャー、面接指導演習。

講座4 ワークショップ「中学校教師の力量形成」(含・Q&A)/司会:石川 晋/堀裕嗣・森寛・山下幸・田中幹也/ワールドカフェで堀・森・山下・田中のそれぞれがファシリテーターとなって、少人数グループでワーキング。これをおそらく4セット。更に、20分程度の共有化・可視化。

要するに、「伝える研究会」から「生み出す研究会」を志向し始めるということだ。メンバーは不安だらけだが、だれも反対しない。こういうときには、何かが生まれるものだ。そして、数年後に「あの研究会がエポックだったね」と振り返られることになる。まあ、それなりに成果が挙がればの話だが。

もう一つ。

来週末の「国語科授業改革セミナー」。こちらは2本の30分模擬授業を90年代に「授業づくりネットワーク」が流行させた「ストップモーション授業検討」で具体的に検討しようというもの。これも成功すれば、授業検討の新たな動きになっていくだろう。

簡単に言えば、ぼくらは「授業づくりネットワーク」の手法をいつまでもそのまま援用するつもりはない。すべての手法には必ず不満が生まれ、必ずもっと伸ばしたい長所が見えてくる。長所を大胆に発揮できるように改良し、短所を最小限に抑えるための抑制をかけることは、ぼくらの得意とするところである。そうした挑戦を来年から始めるための、一つの転機となる研究会である。

大きな流れで言えば、いよいよコンテンツを整理する時期が終わり、失敗を怖れることなく新たなものを生み出す時期に入りつつある、ということである。この二つの研究会で何かがつかめたら、ぼくらは活気づくだろう。

ぼくらが活気づくと、自分でいうのもなんなのだが、手がつけられなくなる(笑)。

最後に別の視点で。

かつてこのブログに「おまかせします」という文章を書いたことがある。何も考えずに適当にその日思ったことを書いた駄文なのだが、割と評判のよい駄文で、いまでも毎日幾人かにアクセスされているようである。

今回の「中学校・学級経営セミナー」は晋ちゃんに、来週の国語科授業改革セミナーは山下くんに、会の司りを丸投げした。まさに「おまかせします」である。無理難題に近い責任をおっかぶせられると、人は「挑戦的なこと」を考え出すものである。しかし、この「挑戦的なこと」を考え出すことも、ある程度の力量がないと考え出せないものである。

更に言えば、それを成功させるにはその何倍もの力量を必要とするはずだ。今回の二つの研究会は、ぼくらの力量がどの程度のものなのかを測る一つの基準になる。

ただし、ここでぼくの言う「成功」は、「ストップモーション授業検討」や「ポスターセッション」や「ワールドカフェ」といった手法がうまくいくかどうかを意味しない。正否の基準は、この二つの研究会が「何かを生み出すか否か」だけである。

ぼくらはこの基準感覚だけで、もう20年以上も実践研究の場に立ち続けている。

その昔、野口先生が「できることより変わること」を合い言葉に、国語科授業づくりの一時代を築いたが、ぼくらはこの原理に大いに賛同している。

この年末、自分たちが「変わること」に、少なくともそのきっかけを得られることに、ちょっとだけ期待している。

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テストは事前につくるべし

3年生の学年末テストが完成した。ちょうど1ヶ月後のテストである。

いっしょに3学年国語を組んでいる若手教師が、「言葉の力」や「故郷」で何を教えればよいのか不安だというので、先にテスト問題をつくって渡し、少なくともそれらの問題は確実に扱うようにとの意図でつくったものだ。

中学校教員となって20年近く、3年生を担当するのは11回目になるが、さすがにこんなに早く学年末テストをつくったことはない。

しかし、実際につくってしまうと、これほどスッキリするものはない。こんな単純なことで、こんなにもスッキリ感を味わえるとは予想していなかった。組んでいる若手教師に感謝である。

しかし、考えてみれば当たり前である。

評価項目が事前に立っているということは、授業がそれにあわせて行われるわけで、いつものような「あれも教えなきゃ、これも教えておいた方がいいかな…」に陥らなくなる。これは3年生の学年末だけではなく、同一学年を複数教師で担当しなければならない大規模校では、すべての学年で、すべての学期でこの方式をとった方がよいのではないか。そう感じた。

前任校では、小規模校だったため、常に同一学年を一人で担当していた。思えば、その4年間、授業をしながらも常にテスト問題のイメージをもっていた。常にテスト問題を想定しながら、テストで測れないような評価項目(例えば「話すこと・聞くこと」とか「書くこと」とか、「読むこと」では全文の構成をどうとらえているかとか、読み取った情報内容を図示するとか)についの評定資料をとって、評価・評定のバランスを確保していたのである。考えてみればそれが当たり前の在り方なのだ。

大規模校に転勤してきて切に感じるのは、ペーパーテストで測れる学力と測れない学力というバランスの問題の他に、いっしょに学年を組んでいる国語教師の出題傾向の分析とか、どのような授業観をもっているかという分析とか、どうしてもそういう点にまで配慮を重しながら授業を展開しなければならない、ということである。

行政は「事前に緻密な打ち合わせを……」というのだろうが、いくら「緻密な打ち合わせ」をしても、そこは異なった人間同士。どうしても齟齬が生じる。これはどうしようもないことである。しかも、それがテスト問題になったときに初めて明らかになる、というのでは最悪だ。少なくとも、テストを事前につくっておくという方法は、教師全員が評定資料の筆頭とするものについて、全員が一致してそれを前提に取り組むことができる。

二人で一つの学年をもつのならばまだいいが、場合によって、3人、4人でもつということもある。ぼくに近しいある国語教師は、今年度、一つの学年を5人で担当しているという。これは異常な例であるにしても、1学年9学級を超えれば、そんなことさえないとは限らないのである。

テストは事前につくるべし。

これが一つの有効策であることは間違いない。

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師走~2009年を振り返る・15

合唱コンクール・選曲のポイント

これも6月20日(土)の第6回中学校・学級経営セミナーin札幌。

そろそろ合唱コンクールの選曲時期が近づいてきていたので、そのポイントを30分で簡単にレクチャー。それほど力を入れてつくったわけでもないのだが、参加者の目つきが真剣で、「ああ、合唱コンクール」ってのは学級担任にとって大きな行事なのだなあ……と、改めて感じた。

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無難

「師走~2009年を振り返る」を始めて、半月が経とうとしている。

この間、アクセス数がみるみる増え、1日に100人にしか見られていなかったこのブログが、1日に400人に見られるようになっている。この現象にちょっと戸惑っている。

1日に100人だと、だいたい見ている人というのに想像がつく。100人のうち70人くらいは顔を知っている人である。しかもそのほとんどが道内の人である。しかし、400人となると、もう60%くらいは顔も知らない人に違いない。

100人の顔を知っている人だと、僕の言葉は、たとえそれが抽象的に書かれていたとしても、読み手は具体的に受け取ってくれる。しかし、不特定多数の400人だと、ぼくの言葉は、たとえそれが具体的に書かれていたとしても、読み手は抽象的に受け取るだろう。

ぼくは不特定多数の400人に語る言葉をもたない。

不特定多数の400人に語るとなれば、そうそう具体的なことは書けなくなる。実名を挙げて語っている以上、しかも札幌市内の中学校教師であると身分を明かして語っている以上、内容はどうしても無難なものへ無難なものへと規制されていく。この規制は、もちろん読者が100人でも働くわけだが、そのレベルがずいぶんと異なってしまう。

まあ、不特定多数に見られるのがいやならばブログなんて書くな、という話になるわけだが、そういう単純な話でもない。

いやはや、どうしたものか……。

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ラスト曲

ここ1週間ほど、車の音楽が松山千春になっている。別に意図的に松山千春を聴いているわけではなく、HDに録音してある200枚ほどのアルバムが自動的にかかるようになっているわけだ。その中に、松山千春のアルバムが発売順に録音されているところがある。半年に一度くらい、松山千春のアルバムを発売順に聴く時期がある、ということだ。

「君のために作った歌」「こんな夜は」「歩き続ける時」「空を飛ぶ鳥のように野を駆ける風のように」と4枚聴いて、気がついたことがある。まあ、どうでもいいことなのだが、アルバム構成が変わっているのである。

最初の3枚は、ラスト曲が軽いタッチのさわやかな雰囲気の曲である。「おやすみ」「涙」「これ以上」という3曲が、それまでの曲をきれいに、さわやかにまとめる。聴き手をクールダウンさせてくれるように。

ところが、「空を飛ぶ…」のラスト曲「生きがい」からは、ラストに重く長い曲があてられるようになる。確かに聴いていて、「ああ、アルバムが終わったな…」という雰囲気にはなるのだけれど、昼間に車の中で聴くアルバムとしては最悪である。

まあ、どうでもいいことなのだけれど。

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師走~2009年を振り返る・14

通知表の構造/通知表所見をいつどのように書くか

6月20日(土)の第6回中学校・学級経営セミナーin札幌。

この通知表所見の講座から、本格的に学級づくりにまつわる講座をワークショップ型に変えた。通知表所見を実際に参加者に書かせてみて、交流させ、少人数で練り上げさせる。参加者は同じ生徒を題材に他の教師と所見の書き方を交流したことが初めてだったらしく、かなり驚いた様子。しかも、楽しんでもいる様子。何よりだった。

冒頭の説明5分、ワークショップ60分、最後に「通知表所見10箇条」と題してぼくのまとめが25分ほど。なかなかできた講座だった。

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会場確保

2009年度は、自分でいうのも何なのだが、狂ったように研究会を開催してきた。これまでの「研究集団ことのは」の実践をコンテンツとして整理しようというのがねらいである。

定例会で「さあ、整理しよう」と考えても、さぼり癖のあるぼくらのこと、なかなかうまくいかない。そこで、お金をとって参加者を募ることで、絶対にさぼれないところに自分たちを追い込んだわけだ。

この目論見はかなり成功して、堀・森・山下・石川・田中の5人は、かなりコンテンツ整理することができたように思う。これだけ整理すると、次は「整理」ではなく、「開発」になっていく。新しいものを創っていく段階に入るわけだ。そうしたものは、なかなか研究会コンテンツにはならない。

2010年度は、あまり研究会を開かない1年になりそうだ。定例会でじっくりと考える1年……ということになる。

この研究会ラッシュもあと3ヶ月である。

先日、1~2月の3回分の研究会会場を森くんがおさえてくれた。今日はぼくが2~3月の4回分の研究会会場をおさえてきた。すべて満度に入って30名という会場をおさえた。つまり、定員はどんなに増えても、絶対に30名だということである。しかも、ぼくら登壇者も含めて。ぼくらにとっては、かなり楽しみな研究会が並んでいる。

次の7セミナーである。

1月23日(土) 第10回・国語科授業改革セミナーin札幌

2月6日(土) 第13回・中学校学級経営セミナーin札幌

2月13日(土) 第25回・累積科学国語教育研究会in札幌

2月20日(土) 第11回・国語科授業改革セミナーin札幌

2月27日(土) 第5回・教室実践力研究会in札幌

3月27日(土) 第14回・中学校学級経営セミナーin札幌

3月28日(日) 第10回・中学校国語科授業づくりセミナーin札幌

すべて受付を開始します。お申し込み希望の方は下記まで。

□お申し込み方法は以下のとおりです□
以下の7点をお書きの上,Eメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)

E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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教育実践は科学にならない

最近はどうも教育関係の情報に疎くていけない。特に、新しい書き手とか、民間教育関係で話題になっていることとか、そうしたことがまったく情報として入ってこない。数年前まではいろいろと考えさせられる媒体をいくつも収集していたのだが、いまは教育雑誌をほとんど読むこともなく、MLで情報交換するでもなく、教育関係者のプログを読むわけでもなく、何も情報収集の努力をしていない。教育書もほとんど買わなくなった。本屋にもほとんど行かなくなった。amazonばかりである。

明治図書の教育書をとらなくなったのは、それまで雑誌の仲介をしてくれていたT田さんが廃業してしまったことが大きい。それ以来、申し込もう申し込もうと思いながら、なんとなく申し込むことなく、既に2年が過ぎようとしている。

学事出版の教育書もとらなくなって久しい。もう数年がたつ。小学館も同じ。

自分が書いた雑誌は送られてくるので、さらっと目を通すのだけれど、自分の原稿も含めて実におもしろくない。はっとする原稿がほとんどない。

これが自分が年をとったことが原因なのか、それとも教育界自体にはっとする話題がなくなってきているのか、ぼくにはわからない。とにかくここ数年ではっとしたのは、「ライフ・ヒストリー・アプローチ」という、潜在的には現場人ならだれでもわかっていることを、学術化しようとした動きだけである。これに興味をもって、「授業づくりネットワーク」の東京大会にまで足を運んだが、この研究方法の難しさばかりが目につく結果となった。

どうも教育研究の対象が、80年代くらいまで戻ってしまっているような気がするのだが。そんな印象を抱いているのは、ぼくだけなのだろうか。

いま、若手教師は、「教材研究法」とか「授業技術」とか「発問・指示・説明」とか「評価の仕方」とか、そんな80年代に思いっきり研究され、それなりの成果を挙げた、それと同じレベルの悩み、或いはそれ以下のレベルの悩みを抱いているように見える。

結局、現場の教育実践は「科学」にならないのだなあ……と、改めて感じている。

これは現場人にも責任があるし、行政にも大学にも責任がある。でも、どこに責任があるかという目の向け方自体が無駄でもある。敢えて言えば、「教育界の空気」と「教育というものの構造」とが、教育に携わる者に同じところをいつまでも回り続けることを強いている。そんな感じである。こういうことが見えてくると、なかなか意欲がわかなくなる。

いいわけか(笑)。

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通知表所見2

ちなみにぼくは、通知表所見を6月、11月、2月に書きます。評定が出て、判子押しをする時点で、既に通知表には所見が記入されている状態です。だから、ぼくの所見には学習に関するものがほとんどありません。

書き方は毎日の隙間時間を利用して、一日に3~5人程度ずつ書いていきます。まあ、一週間あれば終わります。締め切りギリギリになって、一日で書こうとか二日で書こうとかするから苦しくなるのですね。

もう一つ。必ず出席番号順に書きます。教師の中には所見を書きやすい子から書いていって、後半に苦しむという人が少なからずいますが、そういうことをするとよけいな苦しみが生まれます。自分の担任している子供たちなのですから、書きやすいとか書きづらいとかいうことがあること自体を反省すべきでしょう。

ちょっと嫌みでしたね。

でも、どんな生徒だって、学期に活躍の場面が一つもなかったなんてことはないわけで、要はそういう活躍の場面を意識して見ていたか、つまり、「ああ、今学期のこの子の所見に書く活躍場面はこれだな」という意識で見ていたかどうか、それだけなのです。学期も後半にはいって活躍場面のない子がいたとすれば、学級担任として、その子の活躍の場を意図的につくればいいだけです。

こういう意識で、学級の生徒全員に「学期に一度の活躍の場」をつくるという学級経営をシステム化してしまえば、実は、通知表所見で困るなどということはないのです。教師は効率的に仕事を進めることが出来、生徒はもちろん保護者から見ても「我が子の活躍の場」ができるのですから、何の障害もありません。まさに〈WIN-WIN関係〉が成立します。

学級経営の諸事象を、一度、「〈WIN-WIN関係〉の構築」という観点で見直してみると、学級経営が劇的に変わるものです。

今日、通知表所見を書いているという読者のみなさん、少々嫌みに聞こえるかも知れませんが、こうした発想が「疲弊しない教職の在り方」の手立てなのです。今学期はもう間に合いませんが、来学期からは是非。

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通知表所見

いまふと、このプログの「検索ワード・フレーズ集」を見てみた。どのようなワード・フレーズで検索してこのブログにたどり着いたかをあらわすアクセス解析の一つである。

すると、今日の検索ワード・フレーズのすべてが「通知表」とか「所見」とか「所見文例」とか、通知表所見がらみのものばかりだった。

今日は世の先生方は、通知表所見を書く日なのですね。

日曜日だというのに、ご苦労様です。

こうした現実をもう少し行政は理解するべきだという声もあるし、勤務時間内にこうした事務仕事が完了しないのは教師の能力の問題だという論調もあります。まあ、どちらも、何を基準に考えるかによって正しくもなり間違いにもなる、そういう質のものです。要するに、現場教師から見れば前者が正しく、外部の人間から見れば後者が正しい、そういうものです。

でも、ぎりぎりになるまで面倒な仕事に取り組まないというのは、教師に限らず、人間の性(さが)ですから、教師をギリギリ締め付けても、疲弊させるだけだという認識くらいは、行政にももってほしいと常々感じています(笑)。教師が疲弊することは、教育界のみならず、この国にとって決して得策ではありません。

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「言葉の力」入試問題特講

問一 「このこと」(74頁2行目)とありますが、これはどのようなことですか。30字以内で書きなさい。

問二 「それ」(74頁9行目)とありますが、この「それ」の指し示す内容を10字以内で書き抜きなさい。

問三 「それ」(74頁9行目)とありますが、この「それ」の指し示す内容を40字程度で書きなさい。

問四  「人の人生は全く違ったものになる」(74頁11行目)とありますが、どのような人生とどのような人生とが「全く違ったもの」になるのですが。それぞれ、30字程度で書き抜きなさい。

問五 「そういうあたりまえの不思議」(74頁12行目)とありますが、これはどういうあたりまえの不思議ですか。100字以内で書きなさい。

問六 「この想像」(75頁11行目)とありますが、これはどのような想像ですか。50字程度で書きなさい。

問七 「この想像」(75頁14行目)とありますが、これはどうのような想像ですか。30字以内で書きなさい。

問八 筆者は聖書の言葉(76頁2~3行目)を引用していますが、この言葉はどのようなことを言っているのですか。40字以内にまとめなさい。

問九 「言葉の力とは、まさしく、創造する力なのだ」(76頁18行目)とありますが、筆者がこのように言うのはなぜですか。その理由にあたる部分を35字程度で書き抜きなさい。

問十 「このこと」(77頁1行目)とありますが、これはどういうことですか。50字以内で書きなさい。

こんな問題に取り組ませながら、「言葉の力」を終えた。もちろんこの手の問題だけで終わらせたわけではなく、様々な語句の比較や哲学的な事象も扱うは扱ったのだが、前半の3頁はこれだけで終わった。

「言葉の力」の難しさは前半にある。初めて読む者には「この想像」や「聖書の言葉」、或いは「神」という概念の登場が唐突に思われ、あまりにも抽象的な文章に思われ、わけがわからなくなっていくのである。

しかし、ぼくは「言葉の力」ほど、すべての文言が響き合っている教科書教材を他に知らない。テスト問題的につくってもその解答が完璧なおさまりを示す。池田晶子の論理性というものに改めて感心させられた。

まったく惜しい人を亡くしたものである。

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野口塾in帯広

2月の野口塾in帯広に登壇することになった。ふと考えてみると、野口先生関係のイベントに登壇するのは9年振りである。北海道の野口先生関係のイベントがぼくらから柳谷さんや横藤さんに移ってから、ほとんど登壇することがなくなった。

思えば、野口先生が函館にいらした頃にはお会いしない月がなかったほどだった。たぶん年に20回程度お会いしていたのではなかったか。それがもう2年もお会いしていない。いま、21世紀になって何度お会いしたかを数えてみたら、6回である。

不義理を重ねているなあ…と改めて感じた次第。

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師走~2009年を振り返る・13

6月13日(土)の中学校・国語科授業づくりセミナー。「授業参観用模擬授業12連発」と銘打って、森くん、山下くんと4本ずつの30分模擬授業。

ぼくの当日の割り当ては

動物の睡眠と暮らし(中1)

熟字訓(中2)

近代の俳句ワークシート(中3)

マイクロ・ディベートワークシート(中1~3)

参加者は少人数だったが、コンテンツを整理するにはとてもいい会だった。

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説明力/上達の場

野中さんがすぐにぼくの「説明」に関する分析を取り上げてくれている。

おそらく「説明」の研究にとって最も大切なのは、ぼくが挙げた問題点の三つ目である。以下の点である。

更に更にやっかいなのは、「説明」というものは、「発問」や「指示」に比べてコンテクストの影響を受けやすい性質をもつということである。学校というところは基本的に、子供たちが少なくとも1年間は同じ教員の指導を受け続けることが多い。その場合、教師の指導言(指導言に限らず指導全般、もっといえば言動のすべてにおいていえることだが)が多少下手でも、子供たちがその下手な指導言に慣れ、教師の意をくんでくれるという現象が起こる。早い話、教師の指導言が下手くそでも、夏くらいにはほとんど以心伝心で通じるようになるという傾向が強いわけだ。そしてこの傾向は、「発問」より「指示」、「指示」より「説明」に顕著な傾向なのである。(2009.12.10)

このコンテクストの影響に「説明」というものは大きく呪縛されてしまう。

自分の「説明」を上達させようと思えばどうするか。自分の学級ではなかなか訓練にならない。他学級に入れてもらって授業をさせてもらうのが一番いいわけだが、一度や二度ならともかく、そう何度も機会をいただけるものでもない。

そこで、「説明力」をアップさせようと思えば、研究会での登壇…ということになる。

研究会で模擬授業をやったり、ワークショップ型の講座をやったりというときに、慣れない者がやっていてもっとも陥る落とし穴は、説明が、特に作業の仕方の説明がなかなか受講者に通じないとていう現象である。何を言われているのかわからない受講者が質問をし、その質問によって登壇者ががちがちになってしまって、更に何を言っているのかわからなくなっていく……こういう場面をもう100回以上見た。

こうした場面を体験したことがあるという方も多いことと思う。

しかし、実は、これこそが「説明力」の問題なのである。

「説明力」とはごくごく簡単に言えば、「常に聞いている側にとってどのように聞こえているかを意識しながら説明する」ということに尽きる。「説明」の内容を一度でキチッと通すことのできる人間は、自分が説明したいことを語ると同時に、自分の説明の仕方を聞き手として聞いている。この感覚を身につけている。

そしてこの感覚を身につけた者は、もうこの感覚が失われることはない。

言葉で言うとあっさりといえることだが、この感覚を身につけるには、どうしても自分一人でコンテクストの一致していない多数の聴衆に一発で説明を通さなければならない……という強制された場が必要である。そのためにもっとも適した場が研究会での登壇機会なのである。

校内ならば、保護者集会とかPTA総会とか、或いは全校集会とか、そういった場面くらいしかない。

つまり、いくら自分の学級で「説明」の訓練を…と頑張ってみても、学級という構造が、学級担任という構造がそれを許してくれないのである。

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師走~2009年を振り返る・12

活用力を高める〈読むこと〉授業モデル/「習得・活用・探究」「PISA型読解力」

5月9日(土)。累積科学国語教育研究会の23回目。

この日は新学習指導要領・国語科の授業像を考えようという一日。その第一講座での基調提案である。

提案の基軸は3つ。

1)すべての時間で指導事項を明確化せよ

2)すべての時間で4技能のバランスを考えた学習活動を展開せよ

3)自らの言語活動をメタ認知するような〈評価場面〉を設定せよ

これらが行われれば、子どもたちに「活用力」が身についていく……そういう提案である。

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師走~2009年を振り返る・11

生徒指導のイロハのロ/「困った同僚」とどう向き合うか

これまた4月25日(土)。「中学校・学級経営セミナーin札幌・10回連続講座」の2回目。第3講座。

中学校の教育活動は、学級経営にしても行事指導にしても生徒指導にしても部活指導にしても、「同僚性」の在り方に大きく規定される。「困った同僚」がいたり、戦力として機能しづらい「新卒教師」が一人いるだけで、教育活動の運営方針を大きく変えなければならない。

しかし、基本的には彼らを「戦力として機能させる手立てはないか」と考えることからスタートしたい。諦めるのはその努力をとことんしてみたあとである。

噂や第一印象など、その人の〈過去〉や〈外見〉で決めてはならない。日との本質などというものは、ちぉんと付き合ってみないとわからないものなのである。

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説明を研究するという覚悟

野中さんと晋ちゃんが、「発問」や「指示」が教育界で長く話題になってきたにもかかわらず、「説明」がほとんど研究されていないことを問題視している。言いたいことはわかる。基本的に、ぼくも「説明」が授業において最も大切な指導言であることを様々な場で発言してきている。

しかし、「説明」が「発問」や「指示」に比べて研究対象とならなかったことは、当然だと思っている。それは端的に言えば、「発問」や「指示」が行動を喚起する指導言であるのに対し、「説明」が認知を広げ、深めるための指導言だからである。

「発問」や「指示」は必ずその後に児童生徒の行動が起こることを前提として発せられる指導言である。児童生徒に何らかの行動があらわれるということは、その「発問」や「指示」の有効性を評価しやすいということであもある。評価しやすいということはすなわち研究しやすいことを意味する。

ところが、「説明」は違う。「説明」は行動ではなく、頭で理解することを第一義とする指導言である。もちろん、行動の仕方を「説明」することもあるし、「発問」の意図を説明することもあるにはある。しかし、授業において、多くの「説明」は認知・認識を広め深めることを意図したものであり、児童生徒が少なくとも黙って聞いている姿勢を示した場合、その「説明」が適切であったか否かを評価することは困難である。ここに「説明」が「発問」「指示」に比べて研究対象になりづらかった第一義的要因がある。

おまけにやっかいなのは、「説明」する側が自分の説明をよかれと思って説明しており、「発問」や「指示」のように児童生徒の言動によってすぐに評価がフィードバックされるという特質をもちづらいことある。さらに、テストの出来が悪かったとか、後日行事の本番になってまったく取り組めなかったという現実にあたって、初めて「わかっていなかったのだなあ…」と認識するに至る……という、いわば時間差評価に陥る可能性がきわめて高いという傾向も災いしている。

更に更にやっかいなのは、「説明」というものは、「発問」や「指示」に比べてコンテクストの影響を受けやすい性質をもつということである。学校と言うところは基本的に、子供たちが少なくとも1年間は同じ教員の指導を受け続けることが多い。その場合、教師の指導言(指導言に限らず指導全般、もっといえば言動のすべてにおいていえることだが)が多少下手でも、子供たちがその下手な指導言になれ、教師の意をくんでくれるという現象が起きる。早い話、教師の指導言が下手くそでも、夏くらいにはほとんど以心伝心で通じるようになるという傾向が強いわけだ。そしてこの傾向は、「発問」より「指示」、「指示」より「説明」に顕著な傾向なのである。

野中さんも晋ちゃんも、「説明」の研究が必要だという。ぼくももちろん、反対ではない。しかし、実は、「説明」の研究こそ、「発問」の研究や「指示」の研究よりも難しいのである。それは、「説明」というものが、「発問」や「指示」に比べて、その「説明」を発する教師の人格・人間性と親和性が高いからである。ただ「わかりやすい説明を」という程度であればいくらでもできるけれど、もう一歩踏み込もうと考えたときに、ぼくらは間違いなく膨大な難問に次々に突き当たっていく。

「説明」の研究には、こうした覚悟が必要である。

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自己アピール文

3年生の持ち学級3クラスで推薦受験をする生徒たちの自己アピール文の指導をした。彼らが下書きを書いてきており、見てくれというので見たわけだ。はっきり言ってひどい。

言いたいことはわかるのだが、書き方が悪い……というのなら、添削もできようというものである。しかし、実態は違う。書き方の段階ではなく、何を書くかの段階でつまずいている。しかも、書き方もなっていない。ということは、この段階では直しようがないということである。

これは困った……。

とは言いつつも、2時間くらい何度も書き直しをさせて、すべての生徒の自己アピール文がまともになり、生徒たちは笑顔で帰って行った。

さて、別にぼくは生徒の作文力をなさをあげつらおうというのではない。生徒の悪口を言いたいわけでもない。担任の指導がなっていないと言いたいわけでもない。ましてや、ぼくの作文の授業によってこの実態が劇的に変えられるとも思っていない。

ぼくが言いたいのは、国語科のぼくでさえこんなに苦労するのだから、一般の担任、特に国語科以外の担任は指導しきれないだろうなあ……ということである。推薦関係の文書などは担任に任される仕事の最たるものである。しかし、こういう仕事は、こういうことを得意にしている人間が一括して指導した方がいいのではないか。通知表所見を書くのに四苦八苦している(失礼…)ごく一般的な担任には荷が重すぎる。

こういう事務仕事にも適材適所を採用して、効率的なシステムをつくった方がいい。

そんなことを感じた一日だった。

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師走~2009年を振り返る・10

生徒指導のイロハのロ/「困った生徒」とどう向き合うか

これも4月25日(土)。「中学校・学級経営セミナーin札幌・10回連続講座」の2回目。第2講座。年度当初に問題傾向生徒とどう向き合うかという講座。

これも堀・森・山下がそれぞれに20分程度で提案。

問題傾向生徒への向き合い方は、教師のキャラクターと不可分の関係があり、なかなか普遍的なスキルとしては確立しにくい。その構造が色濃く出た1時間だった。

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相棒8/消えた乗客

ひどい脚本。これまでも徳永富彦作品には違和感を抱いてきたけれど、ここまで説得力も共感性の喚起もない本は初めて。

運転手・乗客が消えて放置された路線バス。この仕掛け自体は興味深いのだが、人間の描き方がなってない。羽田美智子の「女優」以来の出来の悪さ。

同性愛を描くなら、もう少し伏線がなければならないだろうし、参考にすべき先行する文学作品も多々あるだろうに。とにかくひどかった。

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ルーティンだからこそ効率を考えるべきである

通知表の判子押し。

各副担任が期末懇談の裏で取り組んでいる。若手教師はやはり遅い。しかも、遅いだけならばいいのだが、完成度が低い。つまり、汚い。

判子にインクをつけるのに、トントントンと二度、三度とインクをつけるので、インクがつきすぎている。それでいて、一度押すとまたインクをつけるので、だんだんにじんでくる。

ぼくは判子をインクに触れさせる程度。しかも、一度インクをつけると三度押す。一度目と二度目は軽く、三度目は強く押す。だから、三度目も薄くならない。こんなくだらないことにもスキルがある。

自分の副担任が年上だった頃、確か新卒から12年間だったと思うが、その12年間で効率的に通知表をつくるために身につけた方法である。二度しか押さないのはもったいない、しかし、四度押すとムラが出る。だから三回。別にいばれるほどではない、ただただ効率的に通知表をつくるために考えた経験則である。

若手教師を見ていて思うのは、何も考えずに、ただ仕事をしているということ。

まあ、今日はたまたま若手教師を見たので若手の話になっているが、おそらく年齢の問題ではない。ベテランでもこういうルーティンワークについて効率を考えることなく、遅く、汚いやり方を何十年も続けている教師がいっぱいいるに違いない。

どうでもいいことのようで、どうでもよくはない。

ルーティンだからこそ、よくよく効率を考えるべきである。

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師走~2009年を振り返る・9

学級開きから1ヶ月/学級経営チェックリスト

4月25日(土)。「中学校・学級経営セミナーin札幌・10回連続講座」の2回目。

「表の学級経営・5つのポイント」と題して、学級経営上のシステム、服装や頭髪といった生徒指導面の動きの中で生徒から〈見える〉ものについてのチェックリスト。

もう一つは「裏の学級経営・5つのポイント」と題して、特定の生徒・特定の保護者との関係や学級担任としての自己評価の視点など、一般生徒からは〈見えない〉ものについてのチェックリスト。

このチェックリストは、登壇者の3人(堀・森・山下)がそれぞれに提案。学級担任として重要視しているところに違いが出て、大変おもしろかった。

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自分に置き換える

1年ほど前のセミナーでのこと。「リーダーの育て方」というワークショップ型講座で、先生方に「学級リーダーの3条件といえば?」と問うたところ、ものすごく高度な3条件が挙げられたことがある。

それに対して、あなたは職員室において、その3条件を満たしていますか? と少し意地悪な問いかけをすると、みんなシュンとしてしまった。

つい先日のセミナーでのこと。全国学力・学習状況調査で家庭学習が30分以下だったことを受けて、生徒たちに一日平均1時間の家庭学習習慣をつけようとする取り組みとして、生徒全員に「My Note」と称して家庭学習ノートを配付した。いわば、「家庭学習時間倍増計画」である。しかし、最初こそ提出があったものの、次第に提出率が下がり、いまではあまり機能しなくなってきている。何かいい手立てはないか。こういう質問がなされた。

ぼくは応えた。先生、教材研究は一日何時間していますか。その先生は1時間程度と答えた。では、あなたは毎日、教材研究を2時間しなさいということで、教育委員会から「My Note」と称されたノートが配付された。あたなはそれを継続できると思いますか。会場が笑いで包まれた。

どうも教師というものは、生徒たちに自分が課していることーについて、自分だったらできるかな…と、「自分に置き換えて考える」ということをしない傾向があるらしい。

この「My Note」の事例なら笑えるけれど、「学級リーダーの3条件」には、笑い話にならないほどに厳しい条件が並んでいた。まるで学級リーダーには聖人君子であるかごとき徳性が備わっているべきとでも言わんとする、そんな厳しい条件がズラリである。

生徒に強制していることについて、「自分に置き換えて考え」てみるだけで、ずいぶんと世界観が変わるはずである。多くの教師に伝えたい。

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担任陣が通知表所見を書き始めている。推薦入試を受ける生徒たちが「自己アピール文」の下書きを書き始めている。両方を見ていて、思うことは同じである。

どうしてみんな、抽象的な文言が好きなのだろうか。

例えば、「行事にも授業にも意欲的に取り組んでいた」とか、「貴校は行事も部活動も盛んで、進学指導にも熱心だと聞いているので」とか、そんな文言ばかりである。

どうして「合唱コンクールではパートリーダーとして勇気を振り絞って人前に立ち」とか、「学校説明会で紹介されていた学校祭をとても楽しみにしている」とか、素朴で、具体的な文言を綴れないのだろうか。

これだけ「形」のくずれた世の中だというのに、公的な場面では「形」だけを構成する風潮が強まっている。

そんな気がしてならない。

もちろん「形」は大切である。しかし、大枠として「形」をくずさない中に、キラリと光る言葉、「形」と釣り合いを保ちながらもつい溢れ出てしまったというタイプの言葉、そういう言葉にこそ価値があるはずなのに……。いま、人々は「形」を整えることだけにとらわれすぎている。就職の面接、自己アピール文、そして依頼状・礼状などなど。

「形づくり」に四苦八苦している人たちなんかに、何の魅力も感じない。

「形」というものは「中身」が一体化して、凛としたオーラを発してこそ価値がある。そういうものである。「形」が芳香を発するのはそういうときだ。

「中身」の伴わぬ者が見よう見まねで「形」だけを整えてみても、それはかえって滑稽でさえある。いまの世の中、子供から大人まで、そういう事例だらけだ。

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師走~2009年を振り返る・8

対話で深める学級開き・5つのポイント/学級経営・学年経営にみる法則

3月29日(日)。2009年度の仕事の中心は「中学校・学級経営セミナーin札幌」と銘打った10回連続講座。その1回目である。

これは90分間で年度当初に学級担任として考えなければならないこと、敷かなければならないシステム、学年教師で確認しなければならないこと、などなどについて、5つのポイントに絞って提案したもの。

2月7日(土)の第3回の提案と1月6日(火)のネットワークの選択講座を下敷きにしながら、年度当初の動き方について整理した。自分でもまずまずの出来たなと考えており、いまだにこの講座のスライドから少しずつ取り上げて具体的な提案を進めている。

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子供もつ必要ない/若者の6割

たぶん自分を好きになれない若者が増えているんだね。

自分が親をどう思っているかを考え、親に隠れて自分が裏で何をしているかに思いを馳せるとき、そこから敷衍して、子供をもつことが自分にとってリスクだとしか思えなくなってきているんだね。

つまり、この件は、若者が家族構成についても生殖性についても、経済効率で考えるようになってきているということ。消費社会のなれの果て。

ぼくの解釈はこんな感じかな。

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YES-YES-YES

留萌の梶くんがかつて言っていたことがある。

「教師力として大切なことは、人を指ささないことです。これは自分に対して指ささないことをも含んでいます。」

素敵な言葉である。要するに、だれかを責めたり自分を責めたりしてみても、何も生まれないという意味だろうと思う。その通りだ。

YES-YES-YES

「そうさそうさそうさ」だと思っていたのだが、「振り返らないで 今 君はすてきだよ」と続くところをみると、「肯定せよ肯定せよ肯定せよ」なのかもしれない、と、ふと感じた。「受け入れよう受け入れよう受け入れよう」でもいい。

いまのままでいいじゃないか……と。

いや、いいまのままがいいじゃないか……と。

今夜は、なぜ、自分が小田和正を嫌いだったのかについて、ずーっと考え続けている。

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蜘蛛とセロリとオフコース

ぼくの嫌いなもの。

蜘蛛とセロリとオフコース。

これは中学時代。

でも、数年前、ブックオフで1250円で売っていた3枚組のベスト盤を買って以来、年に何度かそれを聴くようになっている。最近、行事の印象的なシーンをまとめて、音楽にあわせてビデオをつくるようになり、なおさら聴くようになっている。

昨日から、久し振りにオフコースのベスト盤を聴き始めている。

僕がてれるから誰も見ていない道を寄り添い歩ける寒い日が君は好きだった(「さよなら」1979年)

なぜ、男はみな、寄り添い歩くことに照れるのか。いまの若者も照れるのだろうか。この歌詞の受け止め方はぼくらと同じだろうか。

愛は哀しいね 僕のかわりに君が今日は誰かの胸に眠るかも知れない(「さよなら」1979年)

女も思うのだろうか。私のかわりにあの人が今日は誰かをその胸に眠らせるかも知れない、と。「男は過ぎた恋を数え、女はいまの恋を追う」とはある著名な作家の有名なフレーズだが、二つの論理は少々矛盾する。女はそう思わないという幻想を多くの男は抱いているように思う。

こんなことを考えながら、小田和正の歌詞は、情意表現をちょっと変えれば、うたっていることは演歌とさほど変わらないなあ、と感じた。

蜘蛛もセロリも、いまとなってはさほど嫌いではない。

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推薦入試

19日(土)のセミナーの準備をはじめた。

ぼくの割り当ては推薦書をどう書くか、そして自己アピール文をどう書かせるか。

今日は勤務校の過去数年分の推薦書と自己アピール文に目を通した。全部で300枚くらいの書類である。それぞれの生徒の思い、担任の思いがよく伝わってくる。これは良い意味でも、悪い意味でも。

もちろん、これらを提案資料とするわけにもいかないから、これらを参考に架空の推薦書や架空の自己アピール文を提案資料としてつくるわけだが、数時間集中して読み続けたことで、ある程度の原理・原則は抽出することができたように思う。

さて、推薦入試には賛否両論がある。

生徒たちが勉強をしなくなったといわれる時代、入試くらいは楽をさせずに全員が受けるべきだという論理……。もっともといえばもっともである。しかし、入試のテストだけでは測れない、一人一人の生徒の良さだって評価されてしかるべきであるという論理……。これも、もっともといえばもっともである。どんなテストだって、ペーパーテストである限り、そのテスト問題の特性によって有利不利は出るからである。しかも、各校が独自に入試問題をつくるわけではない公立高校入試においては、そのテストの妥当性にはもう少し厳しい目が向けられてしかるべきかもしれない。

また、各校で学校推薦の基準に揺れがあるという指摘も根強い。内申点はあっても模擬試験での点数がとれないから推薦しちゃえ…という発想の学校もあれば、普通に入試を受けても合格するような模擬試験の点数をとっていなければ断固として推薦しない…という学校もある。その昔、相対評価時代に内申点の学校間格差がずいぶんと批判の対象となったが、この推薦基準格差というものも大きな問題である。教委は少なくとも自分の管轄内で推薦基準を一致させるくらいの取り組みはしたほうが良いかもしれない。また、推薦基準を学校推薦であるがゆえに各校が定めるべきという建前を堅持するのならば、それは推薦入試廃止論の大きな追い風となるはずだ。

いずれにせよ、大学入試でも話題になっているように、推薦入試やAO入試といった、本来は生徒たちを総合的に評価しよう、一芸に秀でた者たちを救おうという取り組みが、一部の生徒にとって「楽をするための一方策」となっているのだとしたら、世論は廃止のほうに傾いて行くに違いない。ぼくら現場の人間から見ても、少なくとも議論の対象にすべきだろうとは思えてしまう。

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師走~2009年を振り返る・7

新学習指導要領・国語科の理念をどう実践化するか

3月28日(土)。第6回・中学校国語科授業づくりセミナーの第一講座である。「研究集団ことのは」としては春休み恒例の研究会。私のこの講座のあと、6人のメンバーが教材を用いて具体的に提案した。その前提としての理論編である。

前半は新学習指導要領の大枠について、後半は〈PISA型読解力〉の理念と実践化について。教科書教材を用いながら、できるだけ具体的にと考えて提案をつくったわけだが、ちょっと欲張りすぎたようで、1時間ではおさまらなくて後半をずいぶんと端折って提案することになった。まあ、いい経験である。

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なぜ、研修する場をつくろうと考えるのか

よくわからないうちに、ある場で「なぜ、研修する場をつくろうと考えるのか」というお題で話すことになった。なんと110分。このテーマで1時間50分である。

こりゃすごい。これだけあれば、このテーマについて考えていることのほぼすべてを語れるだろう。

ぼくの研究に対する考え方はたった一つである。研究会の作り方の発想もたった二つで構成される。どちらも実にシンプルだ。シンプルではあるけれども、だれもやっていないことだ。おそらくいかなる先達も、ぼくの研究会づくりの発想だけはもっていない。

実は、今回語る場は、それほど楽しみにしていたわけではなかった。

でも、これを語らせてくれるのであれば、それなりに若者たちに伝授できるものがあるかもしれない。まあ、あまり期待せずに、肩に力も入れずに、「そこそこ」にねらいを定めてやってみよう。

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たしなめる

石川晋がぶつぶつ言っている。

http://suponjinokokoro.blog112.fc2.com/blog-entry-92.html

まあ、わからなくもない。要は、学級担任の志の問題である。

ぼくらが何らかの提案をする。提案は提案性を基盤とする。提案性のない話は単なるおしゃべりにすぎない。

提案性があるということは、その提案にある種の過激さがあるということである。参加者はその過激な部分に反応する。自分の学級では無理だなあ……。でも、そういう実態はこの提案者の学級にもあるはず。何か今日の提案以前に手立てを打っているのかもしれない。よし、訊いてみよう。

こうなっていく気持ちはわかる。

しかし、提案者にもしそういう前提指導があったとして、それを提案してみても、参加者には「やっぱり無理だなあ…」と思われてしまう。ぼくらにはそれがわかる。なぜなら、その前提指導にもある種の過激さがあるからである。そこにも同じ構造が生まれてしまうのだ。

こういう構造を熟知しているぼくらは、どうしてもこの作業を端折りたくなる。無駄なやりとりを端折りたくなる。

「それはあたなの学級のことなんだから、あなたにしか考え出せないのですよ。」と。

「ぼくはぼくの学級に対して、ぼくの責任においてこの実践をし、その前提となる障害も取り払ってきたのですよ。」と。

「それは担任の責任の問題なのですよ。」と。

「学級担任としての志が低いから、そういう質問になるのですよ。」と。

ぼくも何度、こうしたやりとりをしてきたことか。そして、ぼくだって、次の研究会でいつそういう袋小路に入り込んで後悔することになったとしても、まったく不思議ではない。要は参加者の質問が自分の琴線に触れてしまったか否かで、冷静さを保てるか否かが決まる。コミュニケーションとはそういうものである。

今回の石川晋のブログを読んでいて「おもしろいなあ」と思ったのは、彼が工藤信司さんにたしなめられて「そうだよなあ」と反省していることである。工藤信司さんは昔から、石川晋と付き合いのある年上の実践家である。いまは胆振館内で教頭先生をしておられる。

思えば、ぼくらも40代になり、先輩からたしなめられるということが少なくなってきている。自分自身を振り返ってみると、2009年という1年間、先輩にたしなめられたということが皆無だったのではないか。もう勤務校の校長にたしなめられることさえなくなってきている。30代くらいまでは、校長室に呼ばれてたしなめられるということが年に一度か二度はあったように記憶しているのだが……。

いまとなってはもう、校長室に呼ばれるのは、「きみの責任下にある若手教師がなっていない。ちゃんと指導するように……。」といったようなネタばかりである。こんなとき、第一に頭に浮かぶのは「若手教師はそれなりに頑張っているのだから、そんなふうに見ちゃダメだよ」という言葉である。こんなふうになってきている。

5年前、10年前なら、ぼくらをたしなめる先達がたくさんいた。野口芳宏先生とか、大内善一先生とか、高橋俊三先生とか、小森茂先生とか、鹿内信善先生とか。そうそう、忘れてならないのが、宇佐美寛先生と大森修先生である。彼らはたしなめることを自分の責任として引き受けていたようなところがある。

まあ、数え上げればきりがないほどに。ぼくらが年を取り、彼らも年を取って、ぼくらが少しだけ大きくなり、彼らも少しだけ丸くなって、もうたしなめられることがなくなっている。

たしなめられているうちが華である。たしなめられることがなくなったら、それは自らの責任が大きくなっている、ということだ。

2010年はたしなめてくれる人を呼んでみようか……。それが自分のためなのかもしれない。それでこそ、本気になり、元気が出るというものだ。

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師走~2009年を振り返る・6

新学習指導要領の理念と構造

これは3月19日。勤務校の校内研修会で40分ほど講演した際のPPT。1月7日のネットワークのPPTを少々作り替えて、これまでの歴史を振り返ったあと、このたびの改訂指導要領の大まかな枠組みをレクチャー。

転勤直前だったので、好き放題にしゃべった感じ。

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伊達

今日は「第22回教師力BRUSH-UPセミナーin伊達」。

札幌から伊達までは高速を使って片道1時間40分といったところ。ちょうどアルバムを2枚聴くと到着する…という感じである。行きは八神純子、帰りはSTING。晴れた青空に響く八神純子のファルセット。冬の夜に静かに響くSTINGのトラッド。どちらも最高だった。

研究会のほうはといえば、女性が仕切っているのだなあ…とわかる、温かい運営。細かい配慮、目白押し。昼食時間を読み違えたこと以外はほぼ完璧といっていい運営だった。おまけに、事務局を担っている女性たち(実行委員長はのぞく)が若く、美しく、元気がいい。まさに、三拍子そろい踏み。最後の飲み会までいやな思いをする瞬間のない一日。

さらに驚かされたことは、帰宅してメールを確認すると、既に参加者のアンケート集計がMLに挙がっていたこと。これは驚きである。

こういう研究会なら、毎週でもいい。

いずれにせよ、「ことのは」イベントに足りないことだらけ(笑)である。「ことのは」イベントの運営者は、中年で、むさくるしく、疲れているの三拍子そろい踏み。月とスッポンとは、まさに、このこと。

さて、提案者である。

どうもLINKSの3人が「登壇開始から5年前後の壁」にあたっているような感じがした。だれしも経験することだが、夢中でやっていた時期が過ぎ、自分に語れることは何なのかとか、いい年なのだから何か提案性を一つくらいは加えなければ……とか、ちょっとだけ迷っていることがモロに講座に出てしまう、そんな時期に入ってきているように感じられた。

結局、自分のやっている以上のことは語れない。

これが等身大の私です……と胸を張って語ればそれでいいのだが、それがうまくいかない時期というものがある。

ちょっと言葉にしにくいのだが、なんとなく、自分のしゃべっていることに魂が載っていかない、そんな袋小路に入ってしまう時期である。結果、自分の言葉ではないものが講座のあちらこちらに出てしまう。それが参加者に引っかかってしまって、参加者の顔が下がる。それを見ていて、自分の気持ちも沈んでいく。負のスパイラルに陥る。ぼくにも経験があるのでよくわかるのだが、これを抜けるのには、実は3~4年かかる。

こういう活動を始めた人間にとって、「第一の壁」である。当たり講座とはずれ講座との振幅が激しくなる。ここで自信を喪失してこの手の活動から離れてしまった人を何人も見ている。

LINKSの3人には力がある。彼らには是非とも続けて欲しい。

伊達の若者たちも、今度は自分の足でステージに立ってみるといい。最初は足が震えるけれど、そこに立つからこそ見えてくるものがいっぱいある。そこに立たないと一生見ることのできないものもいっぱいある。

若く、美しく、元気のいいお嬢さんたちも。

雨に濡れた髪の毛がなかなかかわかないお兄さんも。

そして、たった一杯のビールで顔が真っ赤になってしまうお兄さんも。

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3・7・30・90の法則

野中さんがぼくのプログを紹介くれたので、もう一つ、野中さんベースの提案を。「月刊ホームルーム」2009年4月号(学事出版)に書いたコラムである。

学級開きのポイント/3・7・30・90の法則

学級経営は最初が肝心。でも、「最初」っていつ頃までのこと? あなたは学級開きを3日間とか、1週間とか、そんなごく短い期間で考えていませんか? 数ヶ月たって、最初はあんなに素直だったのに……なんて思っていませんか? そんなあなたにとっておきの法則です。

読者の皆さんは「3・7・30・90の法則」をご存知でしようか。最初の3日間、最初の7日間、最初の30日間、最初の90日間のそれぞれに何をすべきか、学級をどんな状態にまで導かなければならないのか、それを目処として教えてくれる効果的なシステムです。横浜の小学校教師野中信行先生が提案され、私が中学校用に改良したものです。

私は概ね、次のように考えています。

最初の3日間/生徒達との心理的距離を縮める

安全を脅かす事例でない限り、或いは集団の規律から著しく逸脱した事例でない限り、厳しい指導はしない。楽しく学級開きを行う。

最初の7日間/学級のルールを確立する

日直・給食当番・清掃当番・席替えについて、教師主導でルールを決定する。これらについては教師の専権事項とする。生徒の意見を聞いてはいけない。しかもここで決めたルールは1年間,絶対に変更してはいけない。悪しき「ヒドゥン・カリキュラム」となる。

日直には黒板の消し方や朝学活・帰り学活の仕方(声の大きさといった基礎的な事柄から),当番活動ではほうきのかけ方,配膳の仕方に至るまで逐一細かく指導すること。その際,「やって見せて」「やらせて」「ほめる」を心がける。この間は,見本を見せることを旨として,教師がいっしょに給食当番や清掃当番をやることも良い。

最初の30日間/学級のルールを定着させ、システム化する

日直・給食当番・清掃当番について、教師が徹底的にチェックして定着させる。この時期からは担任教師は決していっしょに配膳や清掃をしてはいけない。生徒達がルールどおりに動いているかをチェックすることに専念すべきである。

班・係のポスター、作成物等は、質の高いものをつくらせる。

最初の90日間/授業のルールを定着させ、システム化する

各教科の授業システムを確立する。教科連絡、発言の仕方、ノートの取り方、提出物の提出の仕方等々、細部まで徹底的に指導し定着させる。

このような目処をもっているだけで、学級経営は劇的に変わります。学級開きをなんとなく自己紹介から始め、なんとなく班をつくり、なんとなく日直や当番活動に取り組ませる。4月にはしっかり取り組んでいた生徒たちが、5月、6月と進むにつれて少しずつ少しずつくずれていく。さぼり出す者も出てくる。そうなっていませんか?

最初が肝心!とは言いますが、その「最初を1週間くらいだと思っていませんか? ちゃんとできるまで指導していますか? 私はそう問いかけたいのです。

※ヒドゥン・カリキュラム
学校教育の中で,意識的,自覚的に行われる正規のカリキュラムに対し,主に教師の無意識,無自覚的な言動により,児童や生徒へ伝わっていく知識,文化,規範などのこと。例えば、出席の取り方や指名の順番で男子が女子の先に呼ばれ続けると,男子優先という規範が子供たちに植え付けられていく、といった事例が学校にはたくさんある。

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師走~2009年を振り返る・5

行事指導のイロハ・学校祭編

これも、2月7日の中学校・学級経営セミナーでの講座。「対話型講座」と銘打って、40分ほどぼくが提案し、幹也くんがそれに質問して、ぼくが応えていくという講座形式。あわせて60分。

平成15年の送別集会ビデオ(感謝)と平成18年の学校祭ビデオ(ミッキーマウスとゆかいな仲間たち)を題材に、ユニット型ステージの作り方を提案。「すごすぎて参考にならない」という声を参加者からいただき、ちょっと講座構成を考えなければ…と思った講座。

この講座の反省を10回連続講座の行事指導のコマにずいぶんと活かした。

7・8月の学校祭ステージ発表の講座は、この講座あっての講座だったといえる。

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入試問題特講「言葉の力」

「言葉の力」(池田晶子/教育出版3年)を用いて、「入試問題特講」と題した授業をおこなっている。本当はこんなことやりたくないのだが、3年から突如もった生徒たち。試験問題の解き方を知らない生徒たち。背に腹は替えられない。

問1)「このこと」(74頁2行目)とありますが、この指示語の指し示す内容を30字以内で書きなさい。

解答例)人間が言葉を話すだけでなく、読んだり書いたりもすること(27字)

誤答例1)言葉を話すだけでなく、読んだり書いたりもすること(字数不足/主語なし/0点)

誤答例2)人間は言葉を話したり読んだり書いたりすること(字数不足/主語が「人間は」と副助詞を使っている。格助詞「人間が」を使うべき/「話す」「読む」「書く」の並列が本文のニュアンスと異なる/0点)

誤答例3)人間が言葉を話したり読んだり書いたりすること(字数不足/「話す」「読む」「書く」の並列が本文のニュアンスと異なる/0点)

誤答例4)人間が言葉を話し、話すだけではなくて読んだり書いたりもすること(字数過多/0点)

減点例1)人間が言葉を話すだけでなく、読んだり書いたりもする(文末の「こと」なし/2点減点)

減点例2)人間は言葉を話すだけでなく、読んだり書いたりもすること(主語が「人間は」と副助詞を使っている。格助詞「人間が」を使うべき/2点減点)

指導事項は以下の4点。

〈原理1〉字数指定の問題では、指定字数の8割を越えなければならない。

〈指示語の問題〉

1)指示語の問題の解答は、文末が名詞(多くの場合は「こと」)である。

2)指示語の問題の解答は、文末に名詞がつくと主語の「~は」「~も」といった副助詞を格助詞「が」に変える。

3)指示語の問題の解答は、出題されている指示語に代入することができる。

こんな感じである。まるで塾の授業のようだ(笑)。生徒たちからはすこぶる評判がいい。そりゃそうだろう。生徒たちも背に腹は替えられないのだから(笑)。

きっと、この続きを知りたい人が山のようにいるのだろうなあ……(笑)。でも、ここまでにしておこう。だってこんな書き方していくの面倒だもの。

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第22回教師力BRUSH-UPセミナーin伊達

第22回教師力BRUSH-UPセミナーin伊達のお知らせ

主 催:教師力BRUSH-UPセミナー

後 援:北海道教育委員会

「明日の学級、授業をつくるヒントを学ぼう」

How toに終わらない真の教師力UP↑を目指して~

 12月5日、伊達で第22回BRUSUUPセミナーが開催されます。 教師力BRUSH-UPセミナーは、全道一円で学ぶ先生方のお手伝いをするべく活動を続けているグループで

す。特定の考え方や立場に依ることなく、「よいものからは何でも学ぶ」という姿勢を貫き、初めての方にこそ参加しやすい研修会づくりを大切にしています。

  今回は、初の胆振管内での開催ということで、小・中・特別支援学校から計7名の豪華講師陣による授業づくりと学級経営の提案をお届けします。

 単なるHow toに終わらない、真の教師力Upのヒントを一緒に考えましょう。たくさんのご参加をお待ちしております。

【受 付】9:20~

【第1講座】9:40~10:10

  「先輩教師からのアドバイス!教師力アップのポイント3×5」

   講師:山寺潤氏(今金町立今金小学校)

      藤原友和氏(函館市立戸井西小学校)

      大野睦仁氏(札幌市立厚別通小学校)

      石川 晋氏(上士幌町立上士幌中学校)

      堀裕 嗣氏(札幌市立北白石中学校)

【第2講座】10:30~11:30

「感じて、動いて!音楽ムーブメント~子どもと音を楽しもう~」

講師:青野由香利氏(北海道今金高等養護学校)

【第3講座】12:40~13:25

「提言!学級経営の基礎・基本~今、3学期に向けて何をする?~」

<小学校>藤原友和氏  <中学校>堀 裕嗣氏

【第4講座】13:35~15:10

「提案!これからの授業づくり~新学習指導要領のキーワード~」

<国語>PISA型読解力を育てる授業(授業者:山寺 潤氏)

<外国語>コミュケーションの素地を養う授業

              (授業者:三浦将大氏、福島町立福島小学校)

<社会>言語活動を重視する授業(授業者:大野睦仁氏)

<道徳>自己の生き方を見つめさせる授業(授業者:石川 晋氏)

【第5講座】15:20~15:55

「解決!もう悩まない通知表所見の書き方」

<小学校>「私の通知表所見記入術」講師:三浦将大氏

<中学校>「通知表所見の10箇条」 講師:堀 裕嗣氏

【第6講座】16:00~16:40

「質問!もっと聞きたいQA

全講師が登壇します。講座に関する質問、実践上の悩み相談何でも受け付けます。

◇日 時:2009年12月5日(土)9:20~16:50

◇場 所:だて歴史の杜カルチャーセンター2F視聴覚室

              (伊達市松ヶ枝町34番地1)

◇資料代、会場費など必要経費として:3000円

              (学生、1講座のみの参加は1000円)

◇申し込み、問い合わせ:Eメールでご連絡ください。

     katokyongmail.com 加藤恭子(伊達市立東小学校)

         ★を@に代えてお送りください。

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師走~2009年を振り返る・4

「3・7・30・90の法則」でスムーズな学級開きを/学級経営・学年経営にみる法則

昨年の10月から、森くん、山下くん、晋ちゃん、幹也くんと5人で始めた「中学校・学級経営セミナー」と銘打った講座の3回目。4月からの10回連続講座の準備段階として、プレ集会として集客力を確かめたり講座の構成を模索したりしていた期間の講座である。

野中信行先生の「3・7・30の法則」を下敷きにしながら、それを中学校の現実に機能するように作り替えたもの。平成20年度に上篠路中学校で担任した1年1組の学級システムをベースにしながら、次に学級経営をするならこういうシステムを敷くだろう、という提案。

「学級システム」をつくることによって学級を動かすと学級経営が非常に楽になり、無理せず安定的な学級経営ができる。ぼくにとっては当然のことだったのだが、こういう視点を参加者の多くがもっていなかったようで、驚嘆とともに受け取られたことが印象的だった。

今年度の「中学校・学級経営セミナー」のコンテンツは、基本的にこの提案を細分化してつくっていった感じである。参加者にはまったく別のものに見えているだろうが、ぼくの中ではそういう意識である。

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熱が下がる

現在、23時34分。熱が36度代に下がる。明日は学校に行けそうだ。何よりである。3年生の学年末テストの試験範囲を終わらせなければならない。何せ、学年末テストが既にできているのだから。つくり直すのはいやである(笑)。

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発熱

発熱で休んでいる。

枕元にノートPCを置き、熱のある頭で雑誌原稿を1本書いた。既に書くことは決まっていたので、それを文章化するだけなのだが、いつもなら2時間くらいで書き上げるところが6時間くらいかかってしまった。

当たり前のことだが、発熱と原稿執筆とは相性が悪い。

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師走~2009年を振り返る・3

「オツベルと象」の構造・徹底解明

田中実先生、須貝千里先生をお迎えしての「研究集団ことのは」合宿2009in長沼温泉(1月10日~12日)での提案である。PPTを見ても、主張はわからないと思うが、教材研究を口頭で説明していくのに、PPTを使い始めたのがこの提案からである。

語り手「牛飼い」の意味、「おや、川へはいっちゃいけないったら」の意味など、若い頃にはわからなかった事柄が、いまはその意義づけを鮮明にして提案することができる。こうした成長を自分自身で実感できるということは、こうした活動をしている者にとって無上の喜びである。

この提案のあと、教科書教材をPPTで説明しながら、その構造を明らかにしていくという発表スタイルを確立した。3月、8月の講座は、この講座を下敷きにして行うことができた。合宿はぼくにとって、こうしたエポックとして意義がある。

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師走~2009年を振り返る・2

教師に必要な授業力

1月7日。「授業づくりネットワーク2009冬in函館」の2日目。全体講座である。100人以上の参加者を前にして、60分ほどの講演。それを受けて、晋ちゃんの質問に応えていく形で、対話型の講座が30分程度。割と評判の良かった講座である。

「教師に必要な授業力」と銘打った講演ではあるが、実はその前提となる〈発想法〉について語る講座である。

最近、教師が学級づくりや授業づくりにおいて、〈HOW〉ばかり、つまり〈方法論〉ばかりで考える傾向があることを指摘したうえで、、〈HOW〉というものがあくまで〈WHY〉、すなわち〈目的〉によって事後的に選択されるものであることを提示する講座である。

そのために、前半は戦後の学校教育の変遷を確認し、80年代以降の相対主義の機運がいかに現代の教師の発想法を技術主義に陥らせているかという問題を提起した。

後半は参加者に

1)なぜ勉強しなければならないの?

2)なぜ学校に行かなければならないの?

3)楽しい授業と学力をつける授業、どちらが大切なの?

という3つの質問を投げかけ、私だったらこう応えるという形で、〈WHY〉で考えることの具体を示していった。

この講演は、今年、冬、夏、秋と3回おこなった。教師の心構えとしてぼくが伝えたいことをコンパクトに伝えられる講座として自分自身で重宝している。

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他者と協働するということ

今年度、5年振りに大規模校に勤務して思うことは、教科の調整、特に評価・評定の調整が面倒だということである。

評定の基準の話ではない。つまり、何点以上に5をつけるとか、どの程度の頑張りなら平常で救うかとか、そんな話ではない。そうした数字上の調整ならば、話を詰めればなんとでもなる。

また、評定資料として何を使うかとか、評定資料を一致させようとか、そんな話でもない。そうした評価項目上の話も、話を詰めればなんとでもなる話である。

更には、教科指導についての考え方が異なるとか、教科指導に独自のこだわりをお互いがもっているとか、そんな話でもない。そうした理念上の違いさえ、話を詰めればなんとかなる話である。たとえなんとかならなかったとしても、お互いに妥協すればよい。

問題は、評価基準も評定資料項目も教科指導上の理念も一致させたにもかかわらず、双方の理解の〈レベル〉に大きな開きがある場合である。Aは突発的な事象や予想外の事象にも臨機応変に対応できるが、Bは理解度が浅いために、一つ一つの具体的な事柄に対応しきれず、確認事項の小さな変更が幾度も幾度も重なっていく、そんな場合である。しかも、そんな変更によって、確認通りにやっていたAの生徒たちが損をすることになる、というような場合である。

思えば、学校教育の評価・評定は、評価基準が一致しているというだけでなく、教師の力量も一致していることを前提にシステムが組まれている。もちろん、力量のある者が力量のない者をフォローして、できる限り生徒にとって不公平のないように運営しようとするわけだが、こうしたシステムにも限界がある。

残念ながら、教師の中にはそういうレベルのものが少なからず混じっている。

最後に、誤解のないように書き添えておくが、この話は、現在、私が授業を組んでいる教師の話をしているのではない。ここ4年間、一つの学年を一人で担当してきた私にとって、それなりに苦労があるとはいうものの、ここで言うほどの苦労があるわけではない。

ちなみに私は、組んでいる人間の力量が低い場合には、授業をする以前にテスト問題を作成してしまい、そのテスト問題に対応できるように授業を進めてもらうことにしている。この方法が一番トラブルが少なく、効率的である。その教師がテスト問題をあらかじめもっていることによって、その教材の勘所を理解することにもつながり、とても良い方法である。

私と近しいある教師は、学年を組んでいる教師に、毎時間の指導案に近いメモをつくって渡しているらしいが、私はそこまでやるつもりはない。そこまでされなければまともに授業を運営できない教師がいるとしたら、彼らは「指導力不足教員」と呼ばれるべき輩であろう。

「協働」といえば聞こえはいいが、最低限の職能くらいは身につけたいものである。

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師走~2009年を振り返る・1

いじめを生まない学年・学級づくり

今年は「授業づくりネットワーク2009冬in函館」、この選択講座から始まった。1月6日のことである。

最初に「いじめのメカニズム」、次に「学級・学年経営の実際」という二本立てである。1学年主任として、①自分の学級を規律ある学級にすること、②学年全体に生徒指導のシステムを敷くこと、③学年に若手教師が多かったので、彼らが困らないようにシステマティックに動くこと、この3点を特に意識していた。

この講座では、まず、文科省の「いじめ」の定義を紹介してその原理を説明。次に、「いじめの構造」(森口朗/新潮新書)・「友だち地獄」(土井隆義/ちくま新書)を参考文献にスクールカースト論を紹介、現在の学級の状況をモデルとして提示した。

更に、自分の学年運営のシステムを紹介して、「起こった事実」を確認することの徹底、「FMCチームワーク指導」の具体の紹介、行事その他による「空気の更新」の具体例をビデオを見せながら提示した。

ぼくがPPTを用いて行うようになった最初の講座である。この講座から、PPTと映像を交互に提示しながら話す講座スタイルを少しずつつくっていった。いまだにまだまだだが、それなりの成功をおさめていると自負している。

この講座は、かなり大切な論点を含んでいて、まだまだ広く深く考えていかなければならない内容を含んでいる。2010年度も「いじめ」について語る機会はあるだろうから、少しずつ防止策と対応策とを整理していきたい。

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