買いかぶり
特に悩んでいるというわけでもないのだが、最近、よく思うことをひとつ。
今日、校内研究の教科内授業交流において、若手教師が「ウミガメと少年」の授業を公開した。ぼくから見ると、教材は読めていないし、授業構成はなっていないし、発問・指示も一つ一つがつながっていない。
しかし、この若手教師がこうなってしまうのはなぜかと考えたとき、それは兎にも角にも、教材が読めていないことに尽きる。教材が読めていないから、何をやっていいのかわからない。何をやっていいのかわからないから、生徒の素朴な疑問に頼ってそれを学習課題にする。その学習課題に対する答えが自分でも明快でないから、生徒の意見に対する教師の受けに逃避が見える。教師に逃げの姿勢が見えるから、参観者がいらつく。
うーん……。悪循環である。
そこでぼくが言いたいことは単純である。
この特に能力が高いとも言えない若手教師。しかし、ごく普通に学級経営をし、ごく普通に教科経営をしている教師である。その普通の国語教師が、しかも中学校の国語教師が、つまりは曲がりなりにも国語科を専門としている教師が、その主題を読み取れない小説が、果たして義務教育の教科書教材たり得るのだろうか。こういう素朴にして単純な疑問をぼくはもつ。
いま、土曜日のセミナーの準備をしている。テーマは絶対評価だ。
今回のみならず、いつもセミナー準備をしていて思うのは、難しくなりすぎると参加者に引かれ、自分ではこんなに簡単でいいのかと思うような、シンプルにして、提案性のない(とぼくには思われる)講座をおこなったときには評判がいいという事実である。
人は自分の理解を超えるものに出会ったとき、近寄りがたさを感じる。そして、その場から引いてしまうか、劣等感を抱くか、どちらかの態度を示す。
人は、一般的には、明快なものに惹かれる。しかし、人は明快すぎるものには物足りなさをも感じる。わがままといえばわがままなのだが、それは自分を省みても仕方のないことである。
結局、人というものは、自分よりちょっとだけ上のレベルのものを求め、自分よりもちょっとだけ上のもののみを理解しようとし、自分よりちょっとだけ上のものを理解したときにだけ満足感を覚える。そういう生き物である。
とすれば、これを生徒に当て嵌めたとき、やはり「ウミガメと少年」は、そして「言葉の力」は、難しすぎるのではないか。そういう思いが浮かんでくる。
教科書会社、そして教科書編集者の志の高さはわかる。こういう教材を授業し、カリキュラムを自主編制せよとの思いもわかる。しかし、そこには、「中学校国語教師」というものへの買いかぶりがないか。
この志を捨てるか、この志への道筋を丁寧にマニュアル化してサルでもわかる指導書をつくるか、道はどちらかしかない。
ちなみに、ぼくのこのブログへの検索ワードを見ると、「言葉の力 指導案」とか「言葉の力 発問」とか「言葉の力 教材研究」とかいったものが、この1ヶ月で70件以上ある。みんなほとほと困っているということだろう(笑)。
さらにいえば、今日だけで「言葉の力 池田晶子 指導案」の類が4件である。
| 固定リンク
「今日のひとこと」カテゴリの記事
この記事へのコメントは終了しました。
コメント