一人で抱えるな、みんなでやろう
1 沈静化した学校批判
教師批判、学校批判が沈静化し始めている─そう感じているのは私だけだろうか。
マスコミに、一時のような、学校のやることなすこと批判するという姿勢が見られなくなってきている。保護者にも、重箱の隅をつつくような、小さなことに対するクレームが見られなくなってきている。教師も、学校現場も、批判されないための心得について考え始め、しかもそれが少しずつ形になり始めている。そして何より、ある大規模な保護者アンケートでは、自分の子を通わせている学校への満足度が「非常に満足」「ある程度満足」をあわせて80パーセントを超えた、という報告も現れ始めている。
思えば、学校バッシング、教師バッシングが喧しかったこの十年、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分たちはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。 一九九八年、学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩するようになった。その後十年、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、一段と闊歩の度合いを強めてきた。2000年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、2000年代半ばには、かの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになっていった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっていた。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していた。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。
結果、「教員免許更新制」が敷かれ、教師は十年に一度、30時間の講習を受けることが義務づけられた。教師はダメだ、教師が生徒・保護者の期待に応えていない、そうした世論がこの制度の実現を後押しした。しかし、現在、民主党政権がこの制度の廃止を提案しても、特にそれに反対しようとする大規模な世論は生まれない。
2003年4月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰したことを意味していた。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見られた。このことは、80年代以来の教職サービス業化の流れと70年代以前の「熱血教師」待望論という、相矛盾した期待がはびこっていることを思わせた。いやはや、教師への要求水準はどこまで上がるのか、当時の教師たちは戦々恐々としていたものである。
しかし、ここに来て雲行きが変わってきた。安倍首相による市場原理主義的な教育改革が頓挫し、教育再生会議が雲散霧消し、各新聞社の過激な教育特集も沈静化しと、教育が旬ではない世の中が二年ほど続いている。クレーム処理のノウハウを蓄積するとともに、クレームを受けないためのノウハウも蓄積されてきた。学校は二十年ぶりの安定期に入り始めたとの声も聞くほどである。
しかし、この見解は甘い。私見によれば、この沈静化は一時的なものに過ぎない。これから数年のうちに、保護者・マスコミによる教師批判の大合唱が起こる。
2 教員の質の低下
いわゆる「団塊の世代」の大量退職が始まった。私の勤める札幌市では、この十年で半分の教師が入れ替わるという。
苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約10万8000人だった志願者が、1998年には6万4000人、2007年は4万7000人にまで減少した。18歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。18歳同一年齢人口比に照らしても、1988年に5.7%が教員志望であったのに対し、2007年は3.6%にまで落ち込んでいると言う(「教育再生の迷走」筑摩書房・2008年11月)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。
こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。
昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、80年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。
こうした中学校教師の実感から想定されるのは、今後数年のうちに、主に小学校において、質の低下した若手教師たちに我が子を預けざるを得ない保護者たちによって、最低限の教育が行われていないのではないかという不満が顕在化するのではないか、という危惧である。このとき、これまで幾多の問題が起こってきたにもかかわらず、いまだに「担任任せ」を維持している小学校がもつのだろうか。私の心配はそこにある。
3 新たな世代の登場
最近、新たに現場に入ってくる若手教師を見ていて、危惧することがある。それは、若手教師が生活指導上の問題で生徒とトラブルを起こす事例が増えてきていることである。生徒の立場を考えずに指導してトラブルになったり、生徒の言い分を一切聞かずに指導してトラブルになったりと、ひと昔前であれば、生徒指導部長や生活指導係が生徒たちの壁となるうえで起こっていたトラブル事例が、若手教師に見られるようになったのである。
若手教師のトラブルといえば、ひと昔前なら、授業がわかりづらいとうちの子が言っていると保護者からクレームを受ける、授業のフレームが甘くて授業中に生徒同士のトラブルが起こる、一部の子どもたちを優遇するという差別がおこなわれているという訴えがある、悪いことをした子をちゃんと叱っていないというクレームを受ける、女子生徒に甘いという評判が立つ、などなど、いかにも若手教師っぽいトラブルだった。そうしたトラブルから、生徒との距離感覚を学んでいくというのが、若手教師の成長モデルだったといっていい。
しかし、最近のトラブルは、どうもそうではない。言葉は悪いが、若いくせにあまりにも「教師然」としていることから起こるトラブルなのである。これはどうしたことか。
思うに、彼らは「教師─生徒関係」を前提とした役割演技をしようとしているからではないか。スカート丈の指導、名札の指導、チャイム着席の指導、授業中の私語の指導……こうした指導をするのはいい。毅然とした態度で指導するのもいい。しかし、「なんで名札つけなきゃならないの?」「ちょっと手を洗いに出ただけじゃない」と言い返されたときの二の矢がない。
そうしたことに生徒が疑問をもつことくらい、ちょっと前、自分が生徒だったときのことを考えればわかりそうなものだが、そうした認識がない。次の手立てがないから、もっと語気を荒げて激しく注意するか、この段階で早くも先輩教師を頼るか、この二つしかない。そして前者を選択したときに、トラブルになるわけだ。
単なる印象でしかないことを承知のうえで言えば、彼らは「スカート丈」や「名札」や「チャイム着席」が大切だとは、特に思ってはいない。ただ、教師とはそういうことを注意するものだ、教師とはそういうものだ、という漠としたイメージに自分を同化させているだけである。だから、一言、単純な言い返しが来ただけで、既に手立てがない。お手上げになってしまう。私にはそう見える。
どうも、前節で述べた学力的な質の低下とは異なった、昨今の若者の世代的傾向が出ているように思える。教師にとって、「役割演技」は確かに重要なスキルである。しかし残念ながら、教師は「役割演技」のみでできるほど単純な商売ではない。公私混同は避けねばならぬが、「公」だけの個人などあるはずもない。そのあたりの機微が最近の若者には欠けている。
4 教師力ピラミッドの効用
こうした状況の中で、二年前、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。
「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。
第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日 常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。
第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。
また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編制という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。 更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。
以上が、「教師力ピラミッド」に関する大まかな説明であるが、これには既に二つの大きな誤解が生じている。
第一に、私自身がこれらの能力のすべてを身に付けていると、私が主張しているのだとする誤解である。しかし、私の意図はそうではない。本稿の冒頭にも書いたことだが、「教師力ピラミッド」は学校バッシング、教師バッシングに対する反発が私につくらせたものである。私は「なぜ、こんなにも自分たちは責められねばならないのか」「世論は我々にどういう教師であることを求めているのか」と、悩ましさを抱いていた。そこである日、「讀賣教育メール」の五年分をフォルダから引っ張り出し、教師の不祥事として報道されている記事を一件一件読んでいった。すると、教師には「これも求められていればあれも求められている」「わかるはずのないこんなことさえ事前にわかれといわれている」といった実態が理解されてきたのである。教師がこうした事態に陥るのは、間違いなく、世論が架空の「理想の教師」像を抽象的なイメージとして設定し、それを基準にして教師の具体的な行いを断罪するからである。しかも、そこで基準とされている「理想の教師」像は完璧な教師であり、完璧な人間であった。そこで、私は「みなさんの求めている教師像はこんなにもすごいスーパー教師なのですよ。こんな教師がいるわけないじゃないですか。」という意味で、「教師力ピラミッド」をつくったのである。「教師力ピラミッド」はむしろ、私の反骨精神のあらわれなのたと言ってよい。
第二に、「教師力ピラミッド」に示されているすべての能力を身に付けることが、教師の理想像であり、教師修業の目標であると、私が主張しているのだとする誤解である。これも私の意図に反している。私が主張しているのは、こんなにも多彩な諸能力をすべて一個人でもつことは不可能なのだから、これらを組織として機能させようということである。例えば、一つの学校(大規模な中学校ならば学年団でもいい)に、先見性・創造性をもつ人が一人もいないとか、教務力・研究力に長けた人が一人もいないとか、怖い先生を演じられる父性型教師が一人もいないとか、そういう状態にならないように、人事も学校運営も配慮すべきではないか、ということである。
ところが実際の学校には、父性型教師が生徒指導を牛耳って母性型・友人型教師を軽視したり、研究型・教務型教師が父性型教師を「時代遅れだ」と揶揄したりといった実態がある。それが学校や学年の「チーム力」に計り知れない悪影響を与えているケースが多々見られる。そのことをすべての教師が意識すべきではないか、という提案なのである。
私のメッセージはたったひとつだ。「一人で抱えるな、みんなでやろう」である。
新たな世代に成長モデルを提示しながら、一段一段、階段を昇らせる。叱りつけるのでもなく、突き放すのでもない、チームの一員として機能させることによって成長を促していく。学校現場の現実に鑑みると、いま考えられる手立てはこれしかない。特に、いまだに「担任任せ」のはびこる小学校には、こうした発想の転換が急務である。
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日本に科学費はいらない。そもそもマスコミに出させてもらっているノーベル賞学者こそ奇妙である。この連中は長い間日本にいなかったやつらなのだ。中には被差別部落出身つまりえた・ひにんのため、日本で研究すると上司につぶされてしまうので、そうそうに外国に出てしまい、外国で賞をもらってから日本に暴力団組長の地位を約束されてようやく帰国したノーベル賞学者もいる。つまり、日本にいた科学者は全く出てこないのだ。それほど日本の科学者はやくざそのもので非常に悪いやつらなのである。だから裕福な学生は日本にいると殺されるのですぐに外国に出てしまって、ポストがもらえるころになると日本へ帰ってくるのだ。これは日本学術会議の前の会長も自分でそうしていたし、そうするのがいいとまわりにも言っていた。こういう暴力団科学者に国民のカネをつぎ込むわけには絶対にいかないのだ。日本に科学者はいらない。
投稿: さちこ | 2009年11月28日 (土) 11時52分