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2009年11月

中学校国語科・絶対評価チェックリスト

先日…といっても、もう3週間も前のことになりますが、あるセミナーで「中学校国語科・絶対評価チェックリスト」を提示して、参加者の皆さんに取り組んでいただいた。みなさんは、いくつあてはまるだろうか。

1)「関心・意欲・態度」の評価データに観察記録を入れている。

2)「関心・意欲・態度」の評価データに忘れ物や提出物の遅れを入れている。

3)「話すこと・聞くこと」の評価データに音読や暗唱を入れている。

4)「話すこと・聞くこと」の評価データに市販の聞き取りテストのみをあてている。

5)「書くこと」の評価データに定期テストの論述問題(100字以内)をあてている。

6)「読むこと」の評価データに定期テストの点数のみをあてている。

7)「言語事項」の評価データに定期テストの点数のみをあてている。

8)定期テストの漢字の書き取り問題に新出漢字を出題している。

9)定期テストは漢字の問題が1割程度、或いは3割程度である。

10)各定期テストにおいて各文種のバランスをとっていない。

11)観点項目の比率が1:1:1:1:1である。

12)学年末評定はそれぞれの学期の割合が1:1:1である。

ぼくはこれらの12項目について、すべてダメだと思っている。近いうちに少しずつ、その詳細を書いていきたいと考えている。

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2月の企画

今日、暇だったので…というか、何もする気が起きなかったので、2月の1ヶ月の企画を固めた。怒濤の1年間の最後の月ということで、4つの土曜日にすべて企画を入れた。副担任の1年間にコンテンツを整理しようとものすごい数のセミナーを企画して実現してきた1年間だったが、その1年間も2月で終わる。

先日、中学校・学級経営セミナーの参加者のお一人から、今年度は何度かしか参加できなかったが、来年度は10回講座を申し込みたいのだが…との問い合わせをいただいた。

中学校・学級経営セミナーの参加者の中には、この方のように、ぼくらが来年も同じようにセミナーを開催するものだと思っている方もおられるようだが、それはない。前にもこのブログに書いたことがあるけれど、ぼくらがセミナーを開催するのは自分たちのコンテンツを整理するためであって、決して参加者への還元が第一目的なのではない。コンテンツが整理され、新たな課題が見つかれば、活動の中心は自分たちのサークル定例会で少しずつ議論を重ね、一つ一つ成果を積み重ねていくという地味な活動が中心になる。今年は特別な年だったのだ。

「研究集団ことのは」の次年度は、国語科の授業研究、それも地に足のついた中学校国語科の授業研究と決めている。特に、今月14日におこなった評価の研究会で得た成果と課題は、ぼくらにとってとても大きなものだった。地味な活動でしっかりと研究をまとめたいと思っている。

中学校・学級経営セミナーは、おそらく年に3回程度の開催になる。数年後、ぼくらが実践を重ねて、新たな提案をしたい、ちゃんとコンテンツを整理したい、それが一般の方々に伝わるかどうかを確認したい、そんなふうに思うことがあれば、また再び、10回連続講座みたいなものがおこなわれることもあるかもしれない。でも、それとて、まったくの未定であり、可能性について語っているに過ぎない。

ぼくらはやりたいことだけを、やりたいときにだけやる。もうそんなスタンスを20年近くも保持している。今年はそれなりに楽しい1年間だったし、それなりに自分たちの成長を実感することも出来た、いい1年だった。

取り敢えず、残り数回のセミナーを頑張りたい。

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校内研修会10箇条

昨年度、前任校で研修を担当した。私の企画した校内研修会(年3回/その他は教育課程編制会議等にあたられた)は、以下である。

【6月】学校祭・合唱コンクールの指導法
【11月】道徳の公開授業/授業技術の検討
【2月】理科の公開授業/基礎基本の検討

私が実際に企画・運営したこの3回の校内研修会に沿って稿を進めることとする。

1 特別活動の研修会を(第1回)

通常、第一回校内研修会では、その年度の研究テーマ、研究仮説、研究推進計画などが提示されるのが普通であろう。私はこれらの年度計画を四月の年度当初の職員会議で提案してしまう。校内研修会は研修をこそすべきであり、研究計画のごときは通常の行事の計画と変わらないものである。職員会議において数分で提案し、承認を受ければ済むものに過ぎない。こうした提案と承認にせっかくの校内研修会の一回分を使ってしまうのは馬鹿げている。同様に、年度反省に校内研修会一回分を使うのも馬鹿げている。

この年、第1回校内研修会では、学校祭・合唱コンクールの指導法と題して、職員室内で学校祭指導・合唱コン指導を得意としている教師の講演会をおこなった。

(1)全員が興味関心のもてる題材を選択する

授業研究は確かに必要度が高いものだが、中学校の場合、教科性の問題があって、なかなか問題意識を共有できないことが多い。その点、学級経営や特別活動ならば、全教職員が深くかかわるものであり、学級担任ならば好むと好まざるとにかかわらず、実際に企画・運営しなければならないものである。しかも、学校祭や合唱コンクールの指導は、意外と苦手にしている教師が多い。 年度当初の、まだ本格的に行事が始まる以前に、学校祭や合唱コンクール等について、指導の在り方を検討しておくことは有益である。

(2)自校の人材を活用する

何かテーマを決めて講演をという場合、多くの学校は外部の人材に依頼して学ぼうとする。しかし、外部講師は学校の実態・生徒の実態を知らない。その学校の校風も知らない。保護者がどのくらい行事を楽しみにしているのか、クレームはどの程度されるのか、こうしたことも知らない。講演内容は当然、一般論にならざるを得ない。

そこで、内部人材の活用である。どこの学校にも、毎年、学校祭でみんなが楽しむことのできるステージ発表をする、或いは合唱コンクール指導を得意としていて、毎年入賞している、といった教員が一人や二人はいるのではないだろうか。そうした教員に前年度の指導の在り方について、具体的に実践発表してもらうのである。前年度のビデオを見ながら、或いは指導に苦労した具体的な生徒とのやりとりを紹介してもらいながら、学校独自のかなり具体的な話を聞くことができる。更には、参加者の誰もが具体的な場面を想像しながら聞くことができる。合唱コンクールならば、前年度の学年別優勝学級担任三人の実践発表という手もある。

(3)専門家にはデメリットがある

一般に、学校祭ステージ発表指導なら学校の演劇部顧問を、合唱コンクール指導なら音楽教師を、と考えがちである。しかし、講師はこのような専門家ではない方がいい。理由は単純である。聞いている側が、あの「人は演劇的センスのある人だから…」「あの人のような音楽の素養ないからなあ…」と、講師を〈遠い人〉と感じてしまうからだ。人間はあまりに遠い目標に対して努力しようとは思えないものである。〈自分よりちょっと上〉という講師がよい。また、専門家や上級者は、初心者が何をわからないのかということがわからない、ということが多い。この意味でも、専門家ではない、普通の学級担任で〈割とそれを得意としている人〉というのが、最もふさわしい講師である。校内の専門家には、最後の話のまとめをしゃべらせて、プライドを維持させてあげればいいのである。

(4)具体的な題材をテーマに据える

校内研修会のテーマを授業外に設定しようと考えたとき、多くの教師は「学級経営」をテーマに据えようとするだろう。しかし、「学級経営」という漠然としたテーマを設定しても、議論はなかなか具体化しない。テーマが広すぎるからである。それよりも、「合唱コンクールの指導・三週間のプログラム」といった具体的な題材をテーマに据えることである。こうすれば、合唱コンクールの指導ばかりでなく、学級リーダーをどう育てるか、予想外の案件が起こったときにどのように対処するか、問題傾向生徒が学級の輪をこわしにかかったときにどう対処するか、などなど、実質的には学級経営の議論が起こる。しかも、全職員が具体的な場面を想定して議論に参加することができ、研修の機能度が高まる。

2 授業システムの比較を(第2回)

第二回校内研修会では、「授業システムの比較」として、道徳の公開授業をおこなった。研修担当者(つまり私)がつくった道徳指導案にもとづいて、二人の授業者が同時進行で授業を公開するという趣向である。

(5)同一指導案の二つの授業を比較する

通常、校内研修会で公開授業をおこなうという場合、一つの学級、一人の教師の公開授業というパターンが多い。この場合、その教師がどの程度の力量なのか、その教師がどのようなキチャラクターなのか、また、生徒の実態によってどのように反応が異なるのか、更には日常的にどのような授業システムがとられているのかといったことが、見えにくくなってしまう。そこで、同一指導案について、二人の教師が隣り合った二つの学級で授業を公開するという手法をとった。参観者は廊下から、二つの授業を比較しながら参観することになる。

この手法をとると、一方は導入に十分かけていたのだが、もう一方は導入を一分で流してすぐに発問に入った、というような違いが出てくる。しかも、冒頭の十分で進度に大きな差がついていたのに、三十分後には進度がぴたりと合ってしまう、などということも起こり得る。導入に十分かけた教師は最後まで一斉授業で進めたが、導入を簡単に終わらせた教師は途中で小集団学習を入れた、などということも起こる。こうなると、学習活動の是非と時間の使い方・生み出し方という観点が、明確に見て取れるようになるわけだ。必然的に、研究協議も盛り上がることになる。

(6)道徳・学活・総合の授業公開をおこなう

前節でも述べたことだが、中学校は教科性に基づいた〈縦割り意識〉の強い職場である。他教科の授業公開は、多くの教職員にとって当事者意識の薄いものになりかねない。よほど意識の高い職員室である場合であればその限りではないが、多くの場合、できるだけ当事者意識を強くもつことのできる道徳・学活・総合といった授業のほうが、多くの職員が当事者意識をもって参観することができる。ただし、同一指導案による二つの授業を比較する場合には、できるだけ「発問・指示型」で展開されるような授業案とし、教師の関わり方が見えにくい、いわゆる「活動型授業」は避けた方がよい。研究協議での話題が授業技術や授業システム、指導案の是非ではなく、生徒の質にばかり向いてしまうからである。

(7)授業者を孤独にしない

二つの授業を比較する場合に限らず、校内研修会で公開授業をもつ場合には、授業づくりを授業者任せにしないことが大切である。忙しい中で授業を引き受けた教師が孤独感を抱くような公開授業なら、やらないほうがましである。

この年の道徳の授業は一学年二学級でおこなわれたのだが、一学年教師八人を二つのグループに分けて四人ずつのプロジェクトチームをつくり、このプロジェクトにおいて三回にわたる授業細案検討、そしてプレ授業をおこなった。教科の違いによって道徳の授業のつくり方の細かなニュアンスが異なり、こうした検討がかなり有益に機能する。若手教師とベテラン教師とが同じ土俵で授業論、授業観を交流することができ、学年のチームワークも高めることができる。そして何より、多くの場合、授業者に「やってよかった」と思ってもらうことができる。

3 年に一度は教科の公開授業を(第3回)

年に一度程度は、教科の公開授業をおこなったほうがいい。ただし、これは教科内交流の話ではなく、一つの授業を全教職員で見るという形態の公開授業を指す。同一教科の教師のみが授業を見合う教科内交流ならば、何も校内研修会の時間として設定する必要はない。

この年は、「作業指示の出し方/グループ討議のさせ方」と題して理科の公開授業を全員で参観した。

(8)教科横断的なテーマを設定する

この年、授業教科は理科であったが、理科の授業研究としてではなく、「作業指示の出し方/グループ討議させ方」というテーマを設けて、理科実験の授業を公開してもらった。の授業を理科の授業としてのみ公開したのでは、やはり他教科の教師の当事者意識が低くなってしまう。しかし、「作業指示/グループ討議」という観点で公開されると、それは全教科共通の「授業システム研究」「指導言研究」となる。こうしたテーマを設定するだけで、教職員の参加意識が格段に高まる。

(9)なぜその教科なのかを納得させる

皆さんの学校では、校内研の授業者はどのように決まるだろうか。教科の輪番だろうか。それとも、教科よりも人、つまりたまたまその教科に若い人間がいたからその教師に授業をあてる、という感じだろうか。授業者の決め方はそれぞれでいいとは思うが、もう少し、今年はこれ…というふさわしい教科があるのではないだろうか。それも、全職員が人情として納得するような決め方が……。

私の前任校ではこの年、実は、理科を専門とする学校長が退職する年だった。退職まで一ヶ月あまりというこの時期、学校長が校内研修会に気持ちよく参加でき、しかも気持ちよくまとめの話をすることができる、私はそういう研修会にしようと思った。そのために、四月から理科の教師に授業公開をお願いし、二月の授業公開に向けての心構えを抱かせた。研修担当者にはこうした心遣いをもつこと、そして年度当初から見通しをもって研修計画をたてること、この二点が重要である。

退職を控えた学校長は、実に楽しそうに指導案の事前検討に参加し、プレ授業を参観し、そして意見を述べた。校内研修会が退職への一つの花道ともなったわけである。

(10)研究協議では全員に発言させる

私がよく使うのは、公開授業のあと休憩時間を20分間とり、付箋に授業の分析を書かせるという手法である。

付箋は縦76ミリ、横127ミリのものを使っている。この大きさの付箋に必ず記名させたうえで、肯定的な意見を一点、批判的な意見を一点書くことを強制する。これを全員分コピーして研究協議冒頭で配付するわけである。研究協議はこれをレジュメに一人一分で授業分析を発表するところから始まる。授業者のコメントの前に、全員からの肯定的意見と批判的意見とが提起されるわけだ。全員が意見を述べたうえで、それに応える形で授業者がコメントを発する。その後、司会者が論点を整理して、協議にはいっていく、という流れである。

ここでは、批判的意見を書くことが強制されているという点が重要である。多くの教師にとって他人の授業を批判することはいやなものである。それを強制されるとなると、しかも全員がそれなりに批判を書くということになると、二重に責任が生じる。授業者を批判する責任と他の参観者と視点が異なった場合に生じる説明責任とである。こうした二重の責任を感じることが、公開授業を当事者意識をもって参観することへとつながるわけだ。

4 〈当事者意識〉と〈安心感〉との同時達成を

教職に就いて最も大きく違和感を抱いたのは、公開研究会において公開授業だけを参観して、研究協議に参加することなく帰って行く教員が少なくないということだった。公開授業の参観者は三十人いたのに、研究協議には八人しか残らない……そんな公開研究会を幾度となく経験してきた。公開授業を見ることよりも、むしろ研究協議において他の教師のものの見方を学ぶことの方がずっと勉強になる、そうした印象を抱いていた私に、この多くの教師にみられる傾向はなんとも不思議に映っていたものである。

研究協議では、その日の公開授業が意味づけられ、意義づけられる。そのために、様々な意見が交わされ、ときには論争が起きる。司会者や研究担当者が議論を整理し、成果と課題が提示される。もちろんそうした整理は、必ずしも私にとって納得できるものでない場合も多いが、それでも一般論としてかくかくということが言え、私の実践はしかじかという理由で特殊なのだ……といった自実践を相対化する視点が得られる。こうした経験の積み重ねは、間違いなく私を成長させてくれた。

公開授業だけを参観し、研究協議には参加しない。この態度が、私には教員生活二十年に近づいているいまなお、不思議でならない。そんななかでも、私なりに彼らの心象を解釈してみると次のようになる。

まず第一に、①変化をかたくなに拒否するという態度である。新たなことを学んだり対立の中に身を置くことを極端に怖れ、避ける。自らの殻を破ること、破られることを極端に怖れ、避ける。その結果、②批判されることを拒否する態度を示す。また、自らが批判されないために、③他人を批判することを忌避する。一般的に、教員にはこの三つの共通項がある。こうした共通項が、ある種独特の教員文化をつくっている。

彼らは自分に変化を強いられることを怖れている。だから、意見を求められ、時には対立を余儀なくされるような場である研究協議には参加しない。しかし、授業のネタ収集にはなるから、公開授業だけは参観したい。無意識的にこうした思考過程を経て、公開授業参加・研究協議不参加という参加様態がとられるのである。

だが、「変化からの逃避」は、実は「成長からの逃避」を意味している。変化のないところに成長などあり得ないからである。

では、そうした教師たちが「成長」を拒否しているかといえば、決してそうではない。彼らもできれば成長したいと考えている。もしも、ある種の安心感とともに「成長の場」が設定されるならば、できれば参加したいと考えている。二十年近く、身近に「教員」という人種を見てきて、私にはその確信がある。

校内研修会を〈安心感〉を伴った成長の場にすること、これが、いま私の考える校内研修改革論である。おそらく、校内研修会の成否は、学校の職員にどれだけ〈安心感〉をもってもらえたかで、その機能度が決まる。内容は学校教育にかかわることでさえあれば領域は問わない。授業にこだわることはない。道徳でもいいし特別活動でもいい。「発問・指示」「学級組織のつくり方」といった大きな子話題から、「掲示物のつくり方」「行事ビデオの編集」などというミニマムなものまで、様々なテーマが取り上げられてかまわない。問題は教職員一人一人の機能度を高めることにこそある。

長く、研修を厭わない教師たちから、「なぜ、多くの教師は研修に積極的でないのか。法律にも規定されている教師の義務ではないか。」という声をよく聞いてきた。そうした教師は多くの場合、一般教師から忌避され、結果的にその主張を機能不全に陥らせてきた。しかし、それはあたりまえなのである。研修に対して消極的な教師たちをこのような言葉で責めてみても逆効果なのだ。

だれも好きこのんで批判される場に臨もうという者などいるはずがない。また、ルーティン化した研修に意欲的になれ、というのも馬鹿げている。〈当事者意識〉をもたせるとともに〈安心感〉をもたせる。この二つの同時達成こそが、実は校内研修会を活性化させるのである。その原理は、授業のつくり方と同じであると心得たい。

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第21回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌

◇◇◇第20回教師力BRUSH-UPセミナーin札幌◇◇◇

2学期終了目前。残りの3学期を充実したものにするために。
あるいは、新しい年度を今から見据えて、「技量」と「視点」を
ブラッシュアップしませんか?
20回をむかえた私たちのセミナーが自信をもって企画しました。

日 時:11月28日(土)9時25分より
場 所:ちえりあ(札幌市生涯学習センター)
札幌市西区宮の沢1条1丁目1-10
参加費:3000円(学生は2000円)
*当日受付にて、お支払いしていただきます。
後 援:北海道教育委員会・札幌市教育委員会

申込方法:下記アドレスの投稿フォームからお申込みください。
折り返し連絡いたします。
*3日たっても折り返しの連絡がない場合は、
もう一度お申込みください。
http://form1.fc2.com/form/?id=225111

09:15-09:25 受付

09:25-09:30 開会セレモニー

09:35-10:20 「<育てる>から<高める>~集団づくりのアクティビティ」
札幌市立厚別通小学校 大野 睦仁

10:30-12:00 「行事ビデオ~その思想とノウハウ」
札幌市立北白石中学校 堀 裕嗣

12:00-13:00 昼食休憩

13:00-13:50 「担任必須!2つの対応術<やんちゃ>と<保護者>」
札幌市立南小学校 南山 潤司
札幌市立真駒内緑小学校 高橋 裕章
札幌市立藻岩北小学校 山口 淳一

14:00-14:50 「いま磨きあげたい授業技術はコレだ!」
札幌市立向陵中学校 森 寛
札幌市立上篠路中学校 山下 幸

15:00-16:30 「学級経営と教科経営を織りなす2つの指導力~縦糸と横糸」
札幌市立羊丘小学校 横藤 雅人

16:30-16:35 閉会セレモニー

PDFのチラシは以下のURLからどうぞ。
http://www.h7.dion.ne.jp/~kirahika/20091128brush-up.pdf

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地域の力/継続の力

「総合」の職場訪問。

地域の力というものはたいしたものである。そしてまた、継続の力というのはたいしたものである。

生徒たちが訪問させていただいた校区内の事業所の方々は、みなさん、大変親切にしていただいた。ジュースやお菓子を出していただいたり、おそば屋さんでおそばを食べさせていただいたり、ベンツに乗せていただいたり、車椅子体験をさせていただいたり……。たった1時間足らずの時間を、生徒たちが有意義に学習できるようにと、隙間なく考えていただいている。頭の下がる思いである。

説明もうまい。子供にもわかる言葉で、的確に、過不足なく説明していただいている。教師以上にうまい話し手が何人もいらっしゃった。まったく頭の下がる思いである。

ぼくがまわったたった6カ所の事業所だけでこうである。

各事業所のみなさんも、この訪問活動の回を重ね、少しずつ工夫をしてくださっているのだと思う。本気で対応してくださっている。それが手に取るように伝わってくる。

地域の力、継続の力に思いを馳せた一日だった。

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一人で抱えるな、みんなでやろう

1 沈静化した学校批判

教師批判、学校批判が沈静化し始めている─そう感じているのは私だけだろうか。

マスコミに、一時のような、学校のやることなすこと批判するという姿勢が見られなくなってきている。保護者にも、重箱の隅をつつくような、小さなことに対するクレームが見られなくなってきている。教師も、学校現場も、批判されないための心得について考え始め、しかもそれが少しずつ形になり始めている。そして何より、ある大規模な保護者アンケートでは、自分の子を通わせている学校への満足度が「非常に満足」「ある程度満足」をあわせて80パーセントを超えた、という報告も現れ始めている。

思えば、学校バッシング、教師バッシングが喧しかったこの十年、学校教育の現場に身を置く者の一人として、何ゆえに自分たちはこんなにも責められねばならぬのかと、悩ましい日々を過ごしてきた。 一九九八年、学級崩壊が社会問題化し、「指導力不足教員」の語が新聞紙上を闊歩するようになった。その後十年、このバッシングの勢いは留まるところを知らず、一段と闊歩の度合いを強めてきた。2000年前後には「指導力不足教員」の名で呼ばれていた問題教師が、2000年代半ばには、かの教育再生会議の議事録でさえ「不適格教員」の名で呼ばれるようになっていった。その用語の差が示すとおり、「指導力不足教員」と「不適格教員」とではその定義も異なるはずであるが、両者は混同されて用いられてしまっていた。教育再生会議において、渡辺美樹が「不適格教員」を「授業の成立しない教師」(第二回学校再生分科会議事録)と定義していた。授業を成立させられない教師は、確かに「指導力不足教員」ではあるが、いわゆる「不適格教員」の烙印を押すには猶予が必要である。

結果、「教員免許更新制」が敷かれ、教師は十年に一度、30時間の講習を受けることが義務づけられた。教師はダメだ、教師が生徒・保護者の期待に応えていない、そうした世論がこの制度の実現を後押しした。しかし、現在、民主党政権がこの制度の廃止を提案しても、特にそれに反対しようとする大規模な世論は生まれない。

2003年4月、朝日新聞が教育連載に〈教師力〉なる語を用いて以来、この語も活字・映像を問わずメディアを賑わすようになった。おそらくこのことは、教師の役割について世論が抱くイメージが、いわゆる「指導力」の枠組みを超えて、いわゆる「感化力」、つまり「人間的な魅力」をもってこそ教師の名に値するという、従来の「教師聖職者論」イメージへと回帰したことを意味していた。「指導力」ではなく、〈教師力〉なる語の漠としたイメージは、間違いなく〈人間力〉という流行語の漠としたイメージとほぼ同義に用いられていると見られた。このことは、80年代以来の教職サービス業化の流れと70年代以前の「熱血教師」待望論という、相矛盾した期待がはびこっていることを思わせた。いやはや、教師への要求水準はどこまで上がるのか、当時の教師たちは戦々恐々としていたものである。

しかし、ここに来て雲行きが変わってきた。安倍首相による市場原理主義的な教育改革が頓挫し、教育再生会議が雲散霧消し、各新聞社の過激な教育特集も沈静化しと、教育が旬ではない世の中が二年ほど続いている。クレーム処理のノウハウを蓄積するとともに、クレームを受けないためのノウハウも蓄積されてきた。学校は二十年ぶりの安定期に入り始めたとの声も聞くほどである。

しかし、この見解は甘い。私見によれば、この沈静化は一時的なものに過ぎない。これから数年のうちに、保護者・マスコミによる教師批判の大合唱が起こる。

2 教員の質の低下

いわゆる「団塊の世代」の大量退職が始まった。私の勤める札幌市では、この十年で半分の教師が入れ替わるという。

苅谷剛彦によれば、教員養成課程大学への志願者が年々減少していると言う。一九八八年に約10万8000人だった志願者が、1998年には6万4000人、2007年は4万7000人にまで減少した。18歳人口の減少を計算に入れても、これは減り過ぎである。18歳同一年齢人口比に照らしても、1988年に5.7%が教員志望であったのに対し、2007年は3.6%にまで落ち込んでいると言う(「教育再生の迷走」筑摩書房・2008年11月)。これに対して、団塊世代の大量退職時代を迎えて、教員採用の枠は広がっている。実は今後、質の良い新採用が入ってくるという見込みがないばかりか、相対的に見れば、教員の質は下がっていくと見なければならない。

こうした時代の中、学校教育の制度自体はおそらく維持されていく。アメリカやイギリスを初めとして、かつて市場原理を導入しての教育改革が行われた先進国において、学校制度自体を廃止した国はない。とすれば、学力向上や規範意識の育成が求められる中で、しかも教員の質が低下する中で、学校現場は教育活動を行っていくことになるわけだ。この状況をどう乗り切ればよいのか。果たして乗り切る手立てはあるのか。

昨今、小学校と中学校とを比べた場合、小学校教育の方がより多くのトラブルを抱えている。その最たるものは学級崩壊であろう。中学校は不登校生徒が増加している以外には、ここ二十年ほどそれほど大きなシステム的な質の低下が見られない。これはおそらく、80年代の校内暴力を通過した中学校では、職員室の共同性が確保されているからである。つまり、中学校には、学級担任が自分の学級の生徒を指導しているというよりも、学年教師全員で学年のすべての生徒をいっしょに指導しているという意識があるからである。学級担任がしんどそうなときには、学年の生徒指導係や学年主任が当然のこととして動く。生徒指導係がある生徒にきつい指導をした場合には、母性的な雰囲気のある教師がその生徒をフォローする。多くの中学校ではこうした体制ができているのである。おそらく、現在の生徒たちに対する「学力の向上」「規範意識の醸成」を、教員の質の低下の中で行っていくには、このチームワーク指導しかない。それが教育活動をより機能させていくばかりでなく、新規採用者を「育てるシステム」にもなっていく。

こうした中学校教師の実感から想定されるのは、今後数年のうちに、主に小学校において、質の低下した若手教師たちに我が子を預けざるを得ない保護者たちによって、最低限の教育が行われていないのではないかという不満が顕在化するのではないか、という危惧である。このとき、これまで幾多の問題が起こってきたにもかかわらず、いまだに「担任任せ」を維持している小学校がもつのだろうか。私の心配はそこにある。

3 新たな世代の登場

最近、新たに現場に入ってくる若手教師を見ていて、危惧することがある。それは、若手教師が生活指導上の問題で生徒とトラブルを起こす事例が増えてきていることである。生徒の立場を考えずに指導してトラブルになったり、生徒の言い分を一切聞かずに指導してトラブルになったりと、ひと昔前であれば、生徒指導部長や生活指導係が生徒たちの壁となるうえで起こっていたトラブル事例が、若手教師に見られるようになったのである。

若手教師のトラブルといえば、ひと昔前なら、授業がわかりづらいとうちの子が言っていると保護者からクレームを受ける、授業のフレームが甘くて授業中に生徒同士のトラブルが起こる、一部の子どもたちを優遇するという差別がおこなわれているという訴えがある、悪いことをした子をちゃんと叱っていないというクレームを受ける、女子生徒に甘いという評判が立つ、などなど、いかにも若手教師っぽいトラブルだった。そうしたトラブルから、生徒との距離感覚を学んでいくというのが、若手教師の成長モデルだったといっていい。

しかし、最近のトラブルは、どうもそうではない。言葉は悪いが、若いくせにあまりにも「教師然」としていることから起こるトラブルなのである。これはどうしたことか。

思うに、彼らは「教師─生徒関係」を前提とした役割演技をしようとしているからではないか。スカート丈の指導、名札の指導、チャイム着席の指導、授業中の私語の指導……こうした指導をするのはいい。毅然とした態度で指導するのもいい。しかし、「なんで名札つけなきゃならないの?」「ちょっと手を洗いに出ただけじゃない」と言い返されたときの二の矢がない。

そうしたことに生徒が疑問をもつことくらい、ちょっと前、自分が生徒だったときのことを考えればわかりそうなものだが、そうした認識がない。次の手立てがないから、もっと語気を荒げて激しく注意するか、この段階で早くも先輩教師を頼るか、この二つしかない。そして前者を選択したときに、トラブルになるわけだ。

単なる印象でしかないことを承知のうえで言えば、彼らは「スカート丈」や「名札」や「チャイム着席」が大切だとは、特に思ってはいない。ただ、教師とはそういうことを注意するものだ、教師とはそういうものだ、という漠としたイメージに自分を同化させているだけである。だから、一言、単純な言い返しが来ただけで、既に手立てがない。お手上げになってしまう。私にはそう見える。

どうも、前節で述べた学力的な質の低下とは異なった、昨今の若者の世代的傾向が出ているように思える。教師にとって、「役割演技」は確かに重要なスキルである。しかし残念ながら、教師は「役割演技」のみでできるほど単純な商売ではない。公私混同は避けねばならぬが、「公」だけの個人などあるはずもない。そのあたりの機微が最近の若者には欠けている。

4 教師力ピラミッドの効用

こうした状況の中で、二年前、必要に迫られて、教師に必要な能力を分析して図解した「教師力ピラミッド」というモデルを作成した。マスコミや保護者といった学校外の人間も、そして教師自身も、教師に必要とされる能力と実態を知ることが問題解決の出発点になるだろう、と考えたからである。

「教師力ピラミッド」は、教師の日常的な仕事に関して、教師に求められている資質と能力をわかりやすく網羅し、三角形の底辺から頂点に向けて、能力習得の難易度に応じて三段階にランクづけしたものである。

Image354_2第一段階は、「モラル」と「生活力」である。教師の基盤が「モラル」であることは言うを待たないであろうが、「生活力」には若干の説明が必要である。具体例を挙げればこういうことだ。教師は、生徒が具合が悪いと言えば簡単な診断をし、軽い怪我くらいならその処置もできなくてはならない。教室のテレビが壊れたとなれば修理もするし、行事があればビデオの撮影や編集もすることになる。日 常生活で必要とされることはすべて身に付けた、いわば「なんでも屋」でなければならないのである。これを「生活力」と呼ぶ。

第二段階に、「指導力」と「事務力」である。「指導力」には、悪いことは悪いと生徒にしっかりと伝えられる「父性型指導力」、悩んでいる生徒を優しく包み込むような「母性型指導力」、生徒と気さくに話し一緒に楽しむことのできる「友人型指導力」の三種があるが、性格の三分類とさえ言えるこれらのキャラクターをすべて具え、時と場合に応じて使い分けることが求められる。

また、教師が持たなければならないとされる「事務力」についても、ずいぶんとハードルが高い。成績処理や生活記録、進路事務などにおいては、高い「緻密性」が求められる。加えて、授業や生徒指導に関して新しい指導法を開発する「研究力」、最近は学校独自で教育課程をつくることを文部科学省が推進しているため、複雑な時間割づくりや年間計画の策定といった、教育課程の編制という学校の全体像を構築するという膨大な能力、「教務力」も求められる。  更にその上に、「先見性」と「創造性」である。いじめや不登校など、担当する生徒に事故や事件が起これば「予兆を捉えられなかったのか」と責められ、最新のデータを用いて学校改革に取り組まなければ体質が古いと揶揄される。また、行事や生徒会活動では地道な活動ばかりでなく、生徒の多くが活躍する華のある運営が求められもする。教頭や校長ともなれば、その学校独自の特色も創造しなければならない。まさに、「先見性」や「創造性」も、教員評価の重要なポイントなのである。

以上が、「教師力ピラミッド」に関する大まかな説明であるが、これには既に二つの大きな誤解が生じている。

第一に、私自身がこれらの能力のすべてを身に付けていると、私が主張しているのだとする誤解である。しかし、私の意図はそうではない。本稿の冒頭にも書いたことだが、「教師力ピラミッド」は学校バッシング、教師バッシングに対する反発が私につくらせたものである。私は「なぜ、こんなにも自分たちは責められねばならないのか」「世論は我々にどういう教師であることを求めているのか」と、悩ましさを抱いていた。そこである日、「讀賣教育メール」の五年分をフォルダから引っ張り出し、教師の不祥事として報道されている記事を一件一件読んでいった。すると、教師には「これも求められていればあれも求められている」「わかるはずのないこんなことさえ事前にわかれといわれている」といった実態が理解されてきたのである。教師がこうした事態に陥るのは、間違いなく、世論が架空の「理想の教師」像を抽象的なイメージとして設定し、それを基準にして教師の具体的な行いを断罪するからである。しかも、そこで基準とされている「理想の教師」像は完璧な教師であり、完璧な人間であった。そこで、私は「みなさんの求めている教師像はこんなにもすごいスーパー教師なのですよ。こんな教師がいるわけないじゃないですか。」という意味で、「教師力ピラミッド」をつくったのである。「教師力ピラミッド」はむしろ、私の反骨精神のあらわれなのたと言ってよい。

第二に、「教師力ピラミッド」に示されているすべての能力を身に付けることが、教師の理想像であり、教師修業の目標であると、私が主張しているのだとする誤解である。これも私の意図に反している。私が主張しているのは、こんなにも多彩な諸能力をすべて一個人でもつことは不可能なのだから、これらを組織として機能させようということである。例えば、一つの学校(大規模な中学校ならば学年団でもいい)に、先見性・創造性をもつ人が一人もいないとか、教務力・研究力に長けた人が一人もいないとか、怖い先生を演じられる父性型教師が一人もいないとか、そういう状態にならないように、人事も学校運営も配慮すべきではないか、ということである。

ところが実際の学校には、父性型教師が生徒指導を牛耳って母性型・友人型教師を軽視したり、研究型・教務型教師が父性型教師を「時代遅れだ」と揶揄したりといった実態がある。それが学校や学年の「チーム力」に計り知れない悪影響を与えているケースが多々見られる。そのことをすべての教師が意識すべきではないか、という提案なのである。

私のメッセージはたったひとつだ。「一人で抱えるな、みんなでやろう」である。

新たな世代に成長モデルを提示しながら、一段一段、階段を昇らせる。叱りつけるのでもなく、突き放すのでもない、チームの一員として機能させることによって成長を促していく。学校現場の現実に鑑みると、いま考えられる手立てはこれしかない。特に、いまだに「担任任せ」のはびこる小学校には、こうした発想の転換が急務である。

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落ち着かない

数日前に、研究会が二つ終わって「落ち着いた」と書いたばかりなのだが、次のセミナーの準備を始めて見て、「落ち着いてなどいない」ということが身にしみてわかった。先週・今週と映像系コンテンツの提案が続いているのである。

映像系のコンテンツ…つまり、メディアリテラシーとかビデオづくりとかといったコンテンツの提案は、提案内容が固まってもゴールが遠い。提案内容は固まった状態なのに、道半ばまでさえ行かない。そこから、具体例のビデオをどれにするかとか、何分ビデオを流して何分しゃべるのかとか、そうした準備が延々と続く。しかも、時間が読みにくい。ちょっと長くしゃべれば時間が過ぎる。ちょっとゆっくりしゃべっただけでも時間が延びる。しかも、具体例を一つとばせば軌道修正できる…というわけにいかない。具体例として用意した5分のビデオはそれ自体をカットしないかぎりはどうしても5分かかってしまうのだ。5分の予定を3分で切り上げる、ということができない。

まったく、落ち着かない。

おまけに前日の金曜日に宴会が入ってしまった。「入ってしまった」と書いたが、まったくいやではない。とにかく、木曜日までに提案物のすべてを完成させなければならないということである。

まったく落ち着かない。

おまけに数日前にハーパーを買ってしまった。「買ってしまった」と書いたが、まったく後悔していない。さっきちょっとなめてみたら、うまい。空きっ腹に飲んだら脾臓にしみわたる。この感触がたまらなくいい。とにかく、木曜日までに提案物のすべてを完成させなければならないということである。

まったく落ち着かない。

おまけに数日前にSTINGの新譜を買ってしまった。「買ってしまった」と書いたが、全く後悔していない。仕事をしながらずーっと聴いているのだが、ちょっと気を緩めるとすぐに聴き入ってしまう。我に返って仕事を始めるのだけれど、気がつくとまた聴き入っている。どうにもこうにもその繰り返しである。とにかく、木曜日までに提案物のすべてを完成させなければならないということである。

まったく落ち着かない。

5日の伊達に映像系コンテンツ提案がなくてよかった。5日の準備は絶対にすぐに終わらせてやる。決意!

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クラス会

2003~2004年度に担任した学級からクラス会のお誘いをいただいた。来年の1月、成人式を迎える。早いものである。

ところが、その日は「ことのは」合宿と真正面からかぶった日程。残念ながらお断りすることになった。思えば、今年度は教え子のクラス会を断ること4回目。どうも間が悪い。結局、今年度、教え子と飲んだのはかつての演劇部の教え子たちの同期会一度だけ。

そういえば、2001年の1月だったか、「札幌・冬の陣ファイナル」と銘打ったイベントをおこなったときにも、日程がクラス会と重なっていたっけ。一日目の飲み会のあと、1時間ほどぬけてクラス会の二次会に参加してとんぼ返りした覚えがある。2000年8月に千歳で2泊3日の合宿をおこなったときにも、クラス会と重なっていた。

クラス会をやろうという日程と、泊を伴う研究会を開こうという日程は重なるものなのだなあ、と改めて感じる。そりゃそうだ。どちらも集まりやすい日程を選ぶのだから。

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落ち着いた

2週間ほど忙しい日々が続いていた。

校務が忙しいというのではなく、ちょっと大きな提案…というか、これまでの資料の使い回しができない研究会が2週連続で続いたのである。この2週間は、退勤後は常にPPTづくりに明け暮れていた。「絶対評価」と「メディアリテラシー」である。どちらもまずまずまとめられて、やった甲斐があった、という感じ。ぼくはこういう満足感が何よりも好きである。

来週再来週と、またまた2週連続で、札幌と伊達でBRUSH-UPセミナーが続くのだが、こちらのほうは既にまとまっているコンテンツなので、それほどの準備はいらない。研究会準備もちょっと落ち着いたな、という感じ。

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第9回中学校・国語科授業づくりセミナーin札幌

絶対評価導入から8年!
~中学校国語科の評価・評定・現実的な対応~

絶対評価導入から8年が経過しました。当初は評価規準・評価基準が取り沙汰され、高校入試はどうなるのか、生徒・保護者は納得するのかと、様々なことが懸念された絶対評価(目標に準拠した評価)ですが、この8年でそれなりに形になり、現場教師の危機感も薄れてきているように感じます。
ただ、膨大なノート・ワーク点検、作文点検、小テストの実施・採点などなど、評定時期の忙しさが相対評価時代と比べて圧倒的に増えているという感は否めません。今回の「中学校・国語科授業づくりセミナー」は、「絶対評価(目標に準拠した評価)」の理念を改めて確認するとともに、生徒たちの学力を向上させ、生徒たちの学習意欲を喚起しつつ、それでいて我々教師が多忙感につぶされない、そんな現実的な対応について、「研究集団ことのは」が生の資料・生の現実を用いて提案します。こうすれば評価・評定が苦にならない、しかも「絶対評価」理念の勘所ははずさない、そんな提案の連続です。
ぜひ、お誘い合わせのうえご参加下さい。

講師 堀 裕嗣・森  寛・山下 幸・田中幹也

日 時:2009年11月14日(土) 9:10~16:50

会 場:札幌市白石区民センター1F多目的室

参会費:3,000円

定員:30人(登壇者・事務局を含みます/定員になり次第、締め切らせていただきます)

【 日 程 】

9:00~ 9:10 受 付
9:10~ 9:15 開会セレモニー

9:15~10:00
講座1/堀 裕嗣
「絶対評価」の現実~やるべきこと・やってはいけないこと

多くの教師、多くの学校の評価の手法にはまだまだ相対評価時代の手法が紛れ込んでいます。やるべきことをせず、やってはいけないことをやっている、そんな現実があります。こうした現実を打破するための勘所をお伝えします。

10:15~11:45
講座2/森  寛
国語科テスト問題のつくり方/出すべき問題・出してはいけない問題

各領域の配点は? 漢字って何点分出すの? 記述問題はどのくらい出題する? 関心・意欲・態度や話すこと・聞くことの出題って可能なの? 平均点は何点に設定するの? こうした具体的な問題についてわかりやすく提案します。

11:45~12:45 昼食休憩

12:45~15:00
講座3/山下 幸・田中幹也(13:45~14:00休憩)
私の評価・評定の実際~その思想と技術

午前中の講座を踏まえて、二人のベテラン教師が実際にどのように評定を出しているのか、授業でどんな評価を重ね、どんな評定資料を集めているのか、その実際とその裏にある思想について提案します。

15:15~16:45
講座4/堀 裕嗣
残業しない、空き時間を浸食しない、それでいて効果が上がる

評価・評定の効率化~その思想と技術
評定時期になると、机の周りに生徒のノート・ワークを何百冊も重ね、一冊一冊見ていく、しかもその評価基準はいいかげん……そんな教師がよく見られます。90%・70%・40%・20%、この達成率は本当に妥当なのでしょうか。その根拠は? もっと理念をしっかりと理解して効率化をはかってはどうでしようか。評価・評定の実際を紹介しながら、余裕を持って仕事をしていく。そんな手法を提案します。

16:45~16:50 閉会セレモニー
                                                
□お申し込み方法は以下のとおりです□
以下の7点をお書きの上,葉書かFAXがEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)
〒005-0005 札幌市南区澄川5条5丁目14-12
FAX (011)812-4563
E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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買いかぶり

特に悩んでいるというわけでもないのだが、最近、よく思うことをひとつ。

今日、校内研究の教科内授業交流において、若手教師が「ウミガメと少年」の授業を公開した。ぼくから見ると、教材は読めていないし、授業構成はなっていないし、発問・指示も一つ一つがつながっていない。

しかし、この若手教師がこうなってしまうのはなぜかと考えたとき、それは兎にも角にも、教材が読めていないことに尽きる。教材が読めていないから、何をやっていいのかわからない。何をやっていいのかわからないから、生徒の素朴な疑問に頼ってそれを学習課題にする。その学習課題に対する答えが自分でも明快でないから、生徒の意見に対する教師の受けに逃避が見える。教師に逃げの姿勢が見えるから、参観者がいらつく。

うーん……。悪循環である。

そこでぼくが言いたいことは単純である。

この特に能力が高いとも言えない若手教師。しかし、ごく普通に学級経営をし、ごく普通に教科経営をしている教師である。その普通の国語教師が、しかも中学校の国語教師が、つまりは曲がりなりにも国語科を専門としている教師が、その主題を読み取れない小説が、果たして義務教育の教科書教材たり得るのだろうか。こういう素朴にして単純な疑問をぼくはもつ。

いま、土曜日のセミナーの準備をしている。テーマは絶対評価だ。

今回のみならず、いつもセミナー準備をしていて思うのは、難しくなりすぎると参加者に引かれ、自分ではこんなに簡単でいいのかと思うような、シンプルにして、提案性のない(とぼくには思われる)講座をおこなったときには評判がいいという事実である。

人は自分の理解を超えるものに出会ったとき、近寄りがたさを感じる。そして、その場から引いてしまうか、劣等感を抱くか、どちらかの態度を示す。

人は、一般的には、明快なものに惹かれる。しかし、人は明快すぎるものには物足りなさをも感じる。わがままといえばわがままなのだが、それは自分を省みても仕方のないことである。

結局、人というものは、自分よりちょっとだけ上のレベルのものを求め、自分よりもちょっとだけ上のもののみを理解しようとし、自分よりちょっとだけ上のものを理解したときにだけ満足感を覚える。そういう生き物である。

とすれば、これを生徒に当て嵌めたとき、やはり「ウミガメと少年」は、そして「言葉の力」は、難しすぎるのではないか。そういう思いが浮かんでくる。

教科書会社、そして教科書編集者の志の高さはわかる。こういう教材を授業し、カリキュラムを自主編制せよとの思いもわかる。しかし、そこには、「中学校国語教師」というものへの買いかぶりがないか。

この志を捨てるか、この志への道筋を丁寧にマニュアル化してサルでもわかる指導書をつくるか、道はどちらかしかない。

ちなみに、ぼくのこのブログへの検索ワードを見ると、「言葉の力 指導案」とか「言葉の力 発問」とか「言葉の力 教材研究」とかいったものが、この1ヶ月で70件以上ある。みんなほとほと困っているということだろう(笑)。

さらにいえば、今日だけで「言葉の力 池田晶子 指導案」の類が4件である。

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無理は禁物のお年頃

一昨日から動きが鈍くなるほどに腰に来ている。

最近ずっとPCに向かいっ放しだったのに加えて、先週木曜日の乙部町への往復運転、更に背中の張りを押しての土日のPC作業、さすがに体が悲鳴をあげたようで。月曜日に学校でなんとなく腰に違和感を感じ始め、夕方からの飲み会でおかしくなってきた。それでも、昨日の休日に一日中休んだことで、今日はちょっと楽だった。このまま快方に向かっていきそうな感じである。

しかし、こうしてブログを更新するためにPCに向かっていても、腰が痛いわけではないのだが、いつどうなるかとなんとなくこわい。

このへんでやめておこう。

ここで直しておかないと、土日にセミナー準備ができなくなってしまう。それが一番まずい。まあ、セミナー準備をちゃんとやろうと思っているくらいだから、それほど重傷ではないということだろう。痛みさえとれれば、2~3日指圧に通うことで完全回復するはずである。

それにしても、10時間くらいの運転でこんなんなってしまうってことは、体にガタがきている証拠。無理は禁物のお年頃である。

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学年別系統案

8月に「読むこと」、10月に「話すこと・聞くこと」「書くこと」について、指導事項の全体像と称して言語技術一覧を提案したら、アンケートに「学年別系統が出ると思っていたら期待はずれだった」と書かれた(笑)。そんなもん、子どもの実態によるじゃん…というのが本音なのだが、まあ、考えてみる価値はあるかなと思って、来年の累積で継続的に取り上げてみることにした。まずは一番つくりやすいであろう「話すこと・聞くこと」領域から始めることにした。

30代~40代の実践家数名にご提案いただいて、その妥当性を中学校の国語の専門家と50代の小学校教師で検討してみようという試みである。きっと「子どもの実態によるじゃん…」になることは目に見えているのだが、少なくとも学年別系統を考えるうえで、どんな視点が必要なのか、ヒントは得られるだろうと思う。

昨日、人選を進めて、登壇依頼のメールを送った。昨晩から今日にかけて、快い返事が次々と返ってくる。けっこう本格的な議論が展開されるとともに、何かが生まれそうな予感もある。なんてったって、メンバーがいいからねえ。

こういう思いつきを企画にすることで、いい回転が生まれることを知っている。思いつきほど尊いものはないとさえいえる。いまから、なんとなく2月13日が楽しみになっている。

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HOWからWHYへ

2ヶ月くらい前のことだったと思う。あるセミナーで登壇した折。全員に音読させるのは時間の無駄だとある先生に言われたのだが、自分は音読が大切だと思っている。全員音読に時間をかけるのを堀先生は無駄だと思うか。こんな質問を受けた。

つい先日、ある小学校で若い先生方に国語の授業に関する質問に応えていた折。一次感想を子どもたちが書けない。「おもしろかった」とか「つまんなかった」とさえ書けない。「別に…」とか「書くことがない」などと言われてしまう。どのように書かせたらいいのだろうか。こんな質問を受けた。

どちらの質問に対しても、同じ応え方をした。

「目的によります。」

最近、「HOWからWHYへ」なんていうちょっと洒落た、そして耳障りのいい言い方で言っているのだが、要は「方法から目的へ」という意味である。最近、よくなされる質問の答えは、少なくとも授業に関する質問の答えは、ほとんどがこれにつきると言っていい。

要は、多くの質問が骨格だけ見れば、「どうすればいいか」「この方法を堀先生はどう思うか」で構成されている。つまり、「方法は何か」「方法Aは適切か」という質問である。

しかし、「方法」だけを取り上げてそれが良いか悪いか、適切か不適かと問われても、応える側としては応えようがない。何のためにその方法を採っているのかがわからないからだ。その結果、「○○という場合なら適切ですが、△△という場合なら適切ではありません。また、××という場合も考えられますが、この場合なら□□をいっしょにやるといいでしょう。しかし、これらはあくまで原則的なことであって、そのときそのときの条件によって変わります。Aという条件ならば……、Bという条件ならば……」と説明が長くなる。

そもそも、「方法」というものは「目的」が最初にあって、その「目的」を達成するために様々な「方法」の中からある「方法」が選ばれる、という質のものである。ある「方法」が常に適切であったり、ある「方法」が常に不適切であったりするわけではない。

従って、「この方法は適切か」という問いは、実は問いとして成立していないのである。

ほとんどの生徒に定着している事柄を全員に音読させる必要はない。しかし、定着度が低く、重要度の高い事柄ならば全員に音読させなければならないだろう。どんなに時間がかかろうが、次の時間も、その次の時間も音読させて定着させるべきである。しかし、何時間もそればかりに費やすわけにもいかない。従って、2時間目からは授業の冒頭の2~3分を使って、10時間くらい一斉音読させるという手立てをとる。10時間も授業冒頭でやり続ければ、ほとんどの生徒たちに定着するはずである。ところが、それをやり始めて5時間目に小テストを行う予定がある。そのときには冒頭の2~3分がとれない。そのときは仕方がないと考える。小テストの次の時間には、1時間あいたので、いつもなら2~3分のところを5~8分ほどかけて、じっくり復習をする。ところが……

と考えていけばきりがない。場合分けで応えるとはこういうことなのだ。こんな答え方をしていたのでは、時間がいくらあっても足りなくなってしまう。

第一次感想はどう書かせるかという問いも同じである。それは第一次感想を何のために書かせるのか。第一次感想をその後の授業でどう使うのか。そうした目的によるに決まっているのだ。例えば、その後の授業に一切使わず、ただ書かせるだけなら、やめてしまったほうがいい。学習課題をつくるため、或いはレディネスを把握するための第一次感想なら疑問点・問題点を書かせればいい。主題論争をしたいのなら主題を書かせなければならないし、表現技法の勉強なら「うまいなあと思った表現」について書かせなければならない。第一次感想が独立してあるのではない。それは常に、その後の展開(つまりは目的)とセットであるのである。

何を目的にどういう学習活動を組めばいいだろうか。

いまやろうとしていることは、目的と合っているか。

すべての教師がこういう発想をもち、こういう考え方をするというだけで、日本の学校教育は劇的に変わるのになあ……と、いつも思う。

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