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HOWからWHYへ

2ヶ月くらい前のことだったと思う。あるセミナーで登壇した折。全員に音読させるのは時間の無駄だとある先生に言われたのだが、自分は音読が大切だと思っている。全員音読に時間をかけるのを堀先生は無駄だと思うか。こんな質問を受けた。

つい先日、ある小学校で若い先生方に国語の授業に関する質問に応えていた折。一次感想を子どもたちが書けない。「おもしろかった」とか「つまんなかった」とさえ書けない。「別に…」とか「書くことがない」などと言われてしまう。どのように書かせたらいいのだろうか。こんな質問を受けた。

どちらの質問に対しても、同じ応え方をした。

「目的によります。」

最近、「HOWからWHYへ」なんていうちょっと洒落た、そして耳障りのいい言い方で言っているのだが、要は「方法から目的へ」という意味である。最近、よくなされる質問の答えは、少なくとも授業に関する質問の答えは、ほとんどがこれにつきると言っていい。

要は、多くの質問が骨格だけ見れば、「どうすればいいか」「この方法を堀先生はどう思うか」で構成されている。つまり、「方法は何か」「方法Aは適切か」という質問である。

しかし、「方法」だけを取り上げてそれが良いか悪いか、適切か不適かと問われても、応える側としては応えようがない。何のためにその方法を採っているのかがわからないからだ。その結果、「○○という場合なら適切ですが、△△という場合なら適切ではありません。また、××という場合も考えられますが、この場合なら□□をいっしょにやるといいでしょう。しかし、これらはあくまで原則的なことであって、そのときそのときの条件によって変わります。Aという条件ならば……、Bという条件ならば……」と説明が長くなる。

そもそも、「方法」というものは「目的」が最初にあって、その「目的」を達成するために様々な「方法」の中からある「方法」が選ばれる、という質のものである。ある「方法」が常に適切であったり、ある「方法」が常に不適切であったりするわけではない。

従って、「この方法は適切か」という問いは、実は問いとして成立していないのである。

ほとんどの生徒に定着している事柄を全員に音読させる必要はない。しかし、定着度が低く、重要度の高い事柄ならば全員に音読させなければならないだろう。どんなに時間がかかろうが、次の時間も、その次の時間も音読させて定着させるべきである。しかし、何時間もそればかりに費やすわけにもいかない。従って、2時間目からは授業の冒頭の2~3分を使って、10時間くらい一斉音読させるという手立てをとる。10時間も授業冒頭でやり続ければ、ほとんどの生徒たちに定着するはずである。ところが、それをやり始めて5時間目に小テストを行う予定がある。そのときには冒頭の2~3分がとれない。そのときは仕方がないと考える。小テストの次の時間には、1時間あいたので、いつもなら2~3分のところを5~8分ほどかけて、じっくり復習をする。ところが……

と考えていけばきりがない。場合分けで応えるとはこういうことなのだ。こんな答え方をしていたのでは、時間がいくらあっても足りなくなってしまう。

第一次感想はどう書かせるかという問いも同じである。それは第一次感想を何のために書かせるのか。第一次感想をその後の授業でどう使うのか。そうした目的によるに決まっているのだ。例えば、その後の授業に一切使わず、ただ書かせるだけなら、やめてしまったほうがいい。学習課題をつくるため、或いはレディネスを把握するための第一次感想なら疑問点・問題点を書かせればいい。主題論争をしたいのなら主題を書かせなければならないし、表現技法の勉強なら「うまいなあと思った表現」について書かせなければならない。第一次感想が独立してあるのではない。それは常に、その後の展開(つまりは目的)とセットであるのである。

何を目的にどういう学習活動を組めばいいだろうか。

いまやろうとしていることは、目的と合っているか。

すべての教師がこういう発想をもち、こういう考え方をするというだけで、日本の学校教育は劇的に変わるのになあ……と、いつも思う。

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