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振り子

偏差値教育が批判されていた時代がありました。管理教育が批判されていた時代もありました。学力よりも情操をという時代もありました。関心意欲を高めればすべてが解決するような幻想が抱かれていた時代でした。そんななかで新学力観もゆとり教育も生まれてきました。

1998年のことです。学校完全週五日制、総合的な学習の時間の創設、選択履修枠の拡大、こんな大文字の言葉が氾濫して新しい教育の形が志向されました。

しかし、と同時に学級崩壊、学校崩壊、学力低下、指導力不足教員、不適格教員というネガティヴキャンペーンも目立ち始めました。酒鬼薔薇聖斗事件、黒磯女教師刺殺事件、佐賀バスジャック事件、長崎幼児殺害事件、佐世保小6女児刺殺事件といった事件も起こり、子どもたちの規範意識の希薄化や情報社会のデメリットが大きく叫ばれもしました。

そんななかで、社会は、2000年には既に、学力向上路線を選択していました。振り子は再び、大きく振れたのでした。日本国中みんなで唱えていた関心意欲、創造性重視の教育が、こんどはみんなで学力向上です。猫も杓子も。

ゆとりで失敗したからやはり学力向上だ、というのは、あまりにも短絡です。

関心意欲、ゆとり、創造性、それらをあまりにも追い求め過ぎたがために失ったものが目立ってしまった。それが、いわゆる「学力」だった。こんどは学力をあまりにも追い求めることによって、何が失われるのでしょうか。まだそれが顕在化していないだけで、それが顕在化され、更には世論向けに命名され、マスコミを賑わす日はそう遠くないはずです。

いま、教師も、子どもも、親も、だれもが学力が高くなったほうがいいと考えています。現場では是が非でも全国学力・学習状況調査の点数を上げろと教委に命じられている、そんな市町村がたくさんあります。そして、去年より何点上がったとか、全国平均よりも何点高かったとかいうことを単純に喜んでいる。しかし、全国学テの点数が上げる努力をしたことによって、何かが失われているのかもしれない。その可能性は顧みられもしません。

何かに夢中になることによって、そうした問題意識は見過ごされてしまうのです。いいえ、そういう問題について意識的な人も一部にはいるのですが、そもそも「失われている何か」について、その失われているものが何なのかについては調べようがないものですから、なかなか意味のある声として挙げることができません。これが失われているのだと思いついたとしても、その因果関係を証明することがこれまた難しい。世論が夢中になっているものについては調査が行われることがあっても、世論が鼻にもかけない「失われたかもしれない何か」ごときについては、調査がおこなわれるはずもない。予算もつくわけがない。そうやって、また、振り子が振れるのです。

例えば、力量のある教師がすばらしい学級経営としたとします。その教師は自らの力量に悦に入ることはあっても、また、自分は力量があるのに隣の担任の学級経営は何だと批判することはあっても、隣の教師が自分の学級と比較されることによって、必要以上に子どもや保護者から非難されている可能性があることになど、まったく考えが及ばない。それだけ力量のある教師なら、それを踏まえて両方の学級ともにうまくいかせる方法を考えつくはずなのです。

いつだって、劣勢に置かれている立場の人、流行に乗っていない事柄については、データがない。学力向上路線によって失われている何かがあったとして、それがどのように学力向上と反比例しているかというデータは絶対に測られない。力量のある教師の隣で相対的に必要以上に力量がないと揶揄されている教師がいたとして、その因果関係をはかるデータなどあり得ない。因果関係ばかりが大手を振って歩く世の中では、弱い者は泣き寝入りするしかない、それがこの都市型社会、情報化社会のからくりなのです。

「情報」とはよく言ったもので、「情報」は単なる「報」ではない。だれかの「情」がはいった「報」なのです。つまり、「情報社会」とは、世論に見向きもされない「報」は世論に見向きもされないがゆえに存在しないものとされ、世論の「情」を引く「報」のみが存在するものとみなされる、そういう社会です。臭いものには蓋、蓋をしているうちにみんなが忘れ去り、そのうちにないものにされてしまう。それが「情報化社会」なのです。

しかし、臭いものはやがて、本当に悪臭を放つようになり、ちょっとやそっとの蓋では隠しおおせなくなっていきます。いつの日かだれもが知るところとなります。そんなとき、世論の「情」は、「なんだこの悪臭は…」という議論一色に染まります。そして正反対の「情」が大手を振って闊歩し始め、正反対の「情報化社会」が生まれるのです。こうして教育の振り子は振れ続けます。

構造改革、郵政民営化も4年後には正反対に振れました。政治でさえこんなに大きく振れるのですから、文教政策のごときの振り子が振れるくらい、当然なのかもしれません。

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