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2009年10月

自分に何ができるか

自分に何ができるだろうか。

多くの人はこう考えがちです。例えば、気の毒な境遇にある生徒がいたとき、多くの教師はこの子に何をしてあげられるだろうかと考えます。しかし、ぼくはこれを欺瞞だと思います。ほとんど何もしてあげられないのが現実なのですから。

仮にこの子の気の毒な境遇が経済的な苦境だとしましょう。多くの教師はこの子を経済的な苦境から救い出してあげることはできません。修学旅行の代金を保護者が出せなかったとして、その代金を支払ってあげようなどと、多くの教師はしません。せいぜい準用保護の対象となるかどうかを調べて、その手続きの仕方を教えてあげるのが関の山です。ぼくはかつて、担任している教え子の修学旅行代を支払ったことがあります。女の子でした。彼女は発ボーナスでそれを返しに来て、ぼくもずいぶんと嬉しく思ったものですが、こういう例はよほど珍しい例のようで、ぼく以外の教師からは聞いたことがありません。ぼく自身、その子以外に修学旅行代を支払ってあげたことはありません。

仮にこの子がリストカットの常習者だとして、親身になってこの子の家に家庭訪問をするとします。しかし、そういう子は多くの場合依存性が強いですから、次第に起用しに依存するようになってきます。真夜中に電話がかかってきたり、ひどいときには真夜中に呼び出されたり。一度や二度なら対応できますが、三度、四度となってくると、いやになってきます。家族に迷惑をかけますし、何より次の日の仕事に支障が出ます。そうして何回目かの呼び出しを断ることになります。そしてそのリストカットの生徒は、「先生に裏切られた」とよけいに孤独感を強めるのです。そういう事例を何度も見てきました。

ぼくは教師に限らず、人というものは、「自分に何ができるか」ではなく、「自分には何ができないか」を最初に考えるべきだと思っています。数万円の金を担任している生徒のために支払ってあげることはできません。何度も真夜中に呼び出しを受けるのも迷惑です。そんなことはできないのです。

できないことをやるうとしてそれがうまくいかないと、かえってやらなかったときよりも、他人を傷つけることがあります。できることはしてあげなければなりませんが、できないことには取り組み始めないことが重要です。

「挑戦」という言葉は、自分のために「挑戦すること」を言うのであって、他人のために「挑戦すること」などあり得ないのです。そういうことがわかったとき、生徒との〈距離感覚〉の大切さがわかってきます。

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長距離運転

乙部町立乙部中学校の公開研究会に招かれ、90分の講演。更に乙部小学校に行って、若い先生方の国語の授業の悩みに応える。これも90分ほど。

朝8:30に家を出て、中山峠経由で乙部町へ。道中、紅葉の美しさを堪能。道路工事の多さにイライラ。何度徐行させられ、片側通行を待たされたことか。岩崎宏美、渡辺真知子、八神純子の歌声でなんとかイライラを解消。そんな往路。

復路は高速。さすがに峠越えをする気にならなかった。道中、「動物注意!」の看板。100キロ以上のスピードで走っている高速で、どうしろというのだろう……? 白老から苫小牧にかけてものすごい霧。視界が20メートルといったところ。それでもスピードを出し続ける車に追い抜かれながら、「おいおい」と憤る。札幌南インターで料金所の職員が女性だった。これも初めての経験。

朝7:00に起きて夜23:00に寝る。起きていた時間は16時間。うち10時間近くが運転。なんと520キロ。やればできるものである。

でも、明日が休みだったらなあ……という思いだけは、やはり消せない。

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振り子

偏差値教育が批判されていた時代がありました。管理教育が批判されていた時代もありました。学力よりも情操をという時代もありました。関心意欲を高めればすべてが解決するような幻想が抱かれていた時代でした。そんななかで新学力観もゆとり教育も生まれてきました。

1998年のことです。学校完全週五日制、総合的な学習の時間の創設、選択履修枠の拡大、こんな大文字の言葉が氾濫して新しい教育の形が志向されました。

しかし、と同時に学級崩壊、学校崩壊、学力低下、指導力不足教員、不適格教員というネガティヴキャンペーンも目立ち始めました。酒鬼薔薇聖斗事件、黒磯女教師刺殺事件、佐賀バスジャック事件、長崎幼児殺害事件、佐世保小6女児刺殺事件といった事件も起こり、子どもたちの規範意識の希薄化や情報社会のデメリットが大きく叫ばれもしました。

そんななかで、社会は、2000年には既に、学力向上路線を選択していました。振り子は再び、大きく振れたのでした。日本国中みんなで唱えていた関心意欲、創造性重視の教育が、こんどはみんなで学力向上です。猫も杓子も。

ゆとりで失敗したからやはり学力向上だ、というのは、あまりにも短絡です。

関心意欲、ゆとり、創造性、それらをあまりにも追い求め過ぎたがために失ったものが目立ってしまった。それが、いわゆる「学力」だった。こんどは学力をあまりにも追い求めることによって、何が失われるのでしょうか。まだそれが顕在化していないだけで、それが顕在化され、更には世論向けに命名され、マスコミを賑わす日はそう遠くないはずです。

いま、教師も、子どもも、親も、だれもが学力が高くなったほうがいいと考えています。現場では是が非でも全国学力・学習状況調査の点数を上げろと教委に命じられている、そんな市町村がたくさんあります。そして、去年より何点上がったとか、全国平均よりも何点高かったとかいうことを単純に喜んでいる。しかし、全国学テの点数が上げる努力をしたことによって、何かが失われているのかもしれない。その可能性は顧みられもしません。

何かに夢中になることによって、そうした問題意識は見過ごされてしまうのです。いいえ、そういう問題について意識的な人も一部にはいるのですが、そもそも「失われている何か」について、その失われているものが何なのかについては調べようがないものですから、なかなか意味のある声として挙げることができません。これが失われているのだと思いついたとしても、その因果関係を証明することがこれまた難しい。世論が夢中になっているものについては調査が行われることがあっても、世論が鼻にもかけない「失われたかもしれない何か」ごときについては、調査がおこなわれるはずもない。予算もつくわけがない。そうやって、また、振り子が振れるのです。

例えば、力量のある教師がすばらしい学級経営としたとします。その教師は自らの力量に悦に入ることはあっても、また、自分は力量があるのに隣の担任の学級経営は何だと批判することはあっても、隣の教師が自分の学級と比較されることによって、必要以上に子どもや保護者から非難されている可能性があることになど、まったく考えが及ばない。それだけ力量のある教師なら、それを踏まえて両方の学級ともにうまくいかせる方法を考えつくはずなのです。

いつだって、劣勢に置かれている立場の人、流行に乗っていない事柄については、データがない。学力向上路線によって失われている何かがあったとして、それがどのように学力向上と反比例しているかというデータは絶対に測られない。力量のある教師の隣で相対的に必要以上に力量がないと揶揄されている教師がいたとして、その因果関係をはかるデータなどあり得ない。因果関係ばかりが大手を振って歩く世の中では、弱い者は泣き寝入りするしかない、それがこの都市型社会、情報化社会のからくりなのです。

「情報」とはよく言ったもので、「情報」は単なる「報」ではない。だれかの「情」がはいった「報」なのです。つまり、「情報社会」とは、世論に見向きもされない「報」は世論に見向きもされないがゆえに存在しないものとされ、世論の「情」を引く「報」のみが存在するものとみなされる、そういう社会です。臭いものには蓋、蓋をしているうちにみんなが忘れ去り、そのうちにないものにされてしまう。それが「情報化社会」なのです。

しかし、臭いものはやがて、本当に悪臭を放つようになり、ちょっとやそっとの蓋では隠しおおせなくなっていきます。いつの日かだれもが知るところとなります。そんなとき、世論の「情」は、「なんだこの悪臭は…」という議論一色に染まります。そして正反対の「情」が大手を振って闊歩し始め、正反対の「情報化社会」が生まれるのです。こうして教育の振り子は振れ続けます。

構造改革、郵政民営化も4年後には正反対に振れました。政治でさえこんなに大きく振れるのですから、文教政策のごときの振り子が振れるくらい、当然なのかもしれません。

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思い出は美しすぎて

今夜はこれを50回以上見た。

しびれた。

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政治への関心

年齢を重ねると、少しずつ政治に関心が向くようになる。それは自らの仕事や生活が政治とつながっているということが、少しずつ実感されてくるからだ。世界観が自分の周りだけで構成されている子供にとって、或いは学生生活と恋愛だけが世界観の中心となっている青年にとって、政治とのつながりが実感されないことは仕方のないことである。

ぼくは若い頃から、なんとなく新聞を読み、時の政治に関心をもっていた。中学生の頃は中学生なりに、高校生の頃は高校生なりに、大学生の頃は大学生になりに、そして学校現場に出てからは常に、時の政府が何をしようとしているのか、そしていま、どのような権力闘争がおこなわれていて、次の政局はどういう選択肢が想定されているのか、そんなことに漠然と興味を抱き続けてきた。

先日、同僚とそんなことを話していて、なぜ、自分がそんなことを考え始めたのだろうかと記憶をたどってみた。なかなか思い浮かばなかったが、ふとそのきっかけを想い出した。1978年に阿部敏郎という歌手がヒットさせた「あせるぜ」という曲だ。コミックソングなのだが、ぼくには衝撃的だった。

いや、最初はただおもしろいと思って聴いていただけなのだが、そこに出てくる「佐藤さんちのお坊ちゃん」「田中さんちのお坊ちゃん」「三木さんちのお坊ちゃん」「福田さんちのお坊ちゃん」「大平さんちのおぼっちゃん」が、歴代の総理の名だとわかったとき、しかも、この馬鹿げたレコードを買って、親父に歌詞を見せたときの親父のひと言が衝撃だったのである。

「ほう…5番の歌詞が大平さんになっているところがミソだな」

親父はただにやにやしていただけだったが、小学校5年生だった当時のぼくにはまったく理解できなかった。

そこで、次の日、そのレコードを学校に持って行って、担任の高橋先生に見せた。当時は20代の先生である。

「なんで5番が大平さんちのお坊ちゃんであるところがミソなんですか」

「ああ、それはね。まだ、大平さんは総理大臣になってないからだよ。でも、次の総理は間違いなく大平さんなんだ。」

ぼくには衝撃だった。

「次の総理大臣が決まってる?」

ぼくが政治に、というよりも政局に、少しだけ関心をもち始めたのは、きっとこの経験が最初だな、と思う。

では、阿部敏郎の「あせるぜ」を知らず、しかもちょっとだけその曲に興味をもったという方は、阿部敏郎の「あせるぜ」をお聴きください。ちなみにこの曲は当時、吉幾三の「俺は絶対プレスリー」、平野雅昭の「演歌チャンチャカチャン」と同時期にヒットして、三大コミックソングなんて言われていた曲です。

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すべての〈授業行為〉には〈意図〉がある

すべての〈授業行為〉には〈意図〉がある。

時間が足りなくて、まだまだある具体例を端折らざるを得なかったが、言いたいことは伝わったのではないか、そう評価している。

なぜ、その発問が選ばれたのか。なぜ、このレベルの説明がなされたのか。なぜ、ここであくまでこの指示なのか。すべて理由があるのだ。逆に言えば、理由のない、或いは授業者がその理由を語れない授業行為ならば、それは授業者が自らの授業行為に無自覚だということだ。無自覚な授業行為は偶然成功することがあったとしても、その授業行為は授業者の力量形成にはつながらない。再び「偶然の当たり」が出るまで、待つしかない。そんな山師的な授業をしていてはいけない。そういうことだ。

例えば、今日のぼくの授業。

考えていたことは、次のようなことだ。

1.今日の最初の授業なので、参加者に抵抗感を抱かれないような教材であること。難しすぎず、むしろ簡単な題材に思えながらも本質的な問題をはらんでいる、そんな教材であること。

2.道徳を題材とした1日の最初の授業なので、一般的な道徳授業イメージを逸脱しないこと。つまり、飛び道具的な授業構成を採らず、道徳然とした授業であること。

3.最初の授業なので、参加者にとってアイスブレイキングの機能をもつこと。つまり、小グループ交流等を入れて、近くに座っている知らない人たちと意見交換をすることへの抵抗感をなくすこと。

4.道徳然とした授業、一般的な道徳的な授業形態を採りながらも、他人事として考えるのではなく、いかに〈当事者意識〉をもたせるかという視点をもつ必要があるという、道徳授業の基本中の基本を模擬授業の中で体験的に実感させること。

クリアしなければならない必須の事項として、この4つは絶対にはずせない。それが研究会のトップで提案する人間の責任なのである。2本目以降とはその意義と責任が異なる。1本目でフォーマットが決まれば、あとは多少の飛び道具が出ても、多少の失敗授業が出ても、それなりに意図をくんでもらえるようになる。

〈授業行為〉にも〈意図〉があるが、〈研究会行為〉にも一つ一つに〈意図〉がある。

その後、飛び道具的な授業、直球勝負ではない変化球授業も多々あったのだが、ちゃんと受け入れられていた。責任を果たせたな…と、割と満足感の大きい1日だった。

このことは、授業における〈導入〉で意識しなければならないことと、ほぼ同じ原理である。要するに授業技術とは、その時々、その場面場面に求められる役割を意識し、それを機能させることなのだといえる。そして、そうした機能の連続でできあがった授業のことを、我々はよい授業というのである。

久し振りに、というかほとんど初めて、自分が主役から退き、完全に脇役に徹した1日。こういうことができるのも、メンバーに力がつき、主役をはれる人間が出てきているからである。かなり演劇的な考え方だが、これが、「研究集団ことのは」の一つの現実である。

とにかく楽しい1日だった。

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「第10回中学校・学級経営セミナーin札幌」のご案内

第10回中学校学級経営セミナーin札幌
先輩教師が本音で語る教師力・担任力
模擬授業で考える〈授業技術〉の重要性
~道徳授業を題材に~

昨年度から設立された中学校・学級経営セミナーの10回目。今回は、中学校教師の多くが普段ほとんど意識することのない、〈授業技術〉がテーマです。それも、8人の中学校教師が道徳の〈模擬授業〉の形で、つまり、みなさんを学習者に見立てて、実際に発問したり指示したりと授業の形で提案します。それも8本のすべてが自主教材・指導案つきです。最後に、この8本の〈模擬授業〉を踏まえて、〈授業技術〉の効果についてその勘所を解説します。要するに、〈道徳の授業ネタ〉を8本+〈授業技術〉の効果・効用が得られる1日というわけです。どうぞ、お誘い合わせのうえご参加ください。

日時:2009年10月24日(土)/場所:札幌市生涯学習センター「ちえりあ」
定員:30人/参加費:3000円/講師:中学校・学級経営研究ネットワーク

9:15~9:25 受付/9:25~9:30 開会セレモニー

9:30~10:30
講座1 自然や崇高なものとのかかわり/堀 裕嗣・山下 幸(30分×2)

10:45~11:45
講座2 自分自身に関すること/森  寛・齋藤克英(30分×2)

11:45~12:45 昼食休憩

12:45~13:45
講座3 他の人とのかかわりに関すること/對馬義幸・小木恵子(30分×2)

14:00~15:00
講座4 社会や集団とのかかわり/石川 晋・山下 幸(30分×2)

15:15~16:45
講座5 集団をコントロールする~授業技術の重要性
森  寛/石川 晋/堀 裕嗣
いまひとつ生徒がノらない。予想していた反応と違った意見が出る。一部の生徒だけで授業が進んでいる。こういう状況に陥るのは、すべて〈授業技術〉を心得ていないからなのです。ちょっとしたコツを会得すれば、生徒たちの反応は見違えるほどに変わります。

16:45~16:50 閉会セレモニー

16:50~17:00 個人的な質問のコーナー
全体の場で訊くほどのことではない。でも訊いてみたい。
講師の先生をつかまえて、どうどん質問しちゃいましょう。

□お申し込み方法は以下のとおりです□

以下の7点をお書きの上,葉書かFAXがEメールにて下記まで御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/5.電話番号/6.FAX番号(ない場
合には「なし」と明記)
/7.メールアドレス(なし場合には「なし」と明記)

對馬義幸(つしま・よしゆき)

E-mail: yontsussy34@K3.dion.ne.jp

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タイミング

学校は合唱練習の真っ盛りである。今年のぼくは副担なので、特にどの学級を指導するというのでもなく、すべての学年のすべての学級の練習を眺めて歩いている。

練習が始まって1週間。そろそろ歌声に差がつき始めている。

見ていると、大きな声で鼓舞するタイプの担任の学級において、練習が充実しているように見える。それに比べて、生徒の主体性をとか、生徒たちに話し合いをさせてとかいった動きを示している担任の学級は、いまのところ、まだまだ軌道にのっていない印象。そもそも声量が圧倒的に足りなくて、廊下でパート練習をやっていても、隣の学級に押されてしまう始末。隣があんなにうるさくては練習にならない……などとブツブツやっている。

合唱コンクール指導の初期練習は、ぼくの経験から言っても、あれこれ迷わすのではなく、学級担任が自信を示しながら、不安や迷いを払拭してやるところから始めるのがいい。大人だって「とにかくやってみよう」と方向性が見えている方が取り組めるものである。生徒たちも同じなのだ。

やる気のなさそうな子にやる気を出させるにはどうしたら良いか。

そんなことをあれこれ考えて、時間と労力を費やすのはもったいない。もともとやる気のある生徒たちにとにかく歌わせ、楽しく、前向きな雰囲気をつくり、やる気のない生徒たちを少しずつその空気に巻き込んでいく。それが合唱に限らず、行事への取り組みの正しい在り方である。

ただし、ただ鼓舞するだけのやり方は、一本調子であるだけに、ぼくの経験上2週間までは続かない。その停滞が1週間で来るのか、10日で来るのか、2週間で来るのか、それは学級によって様々だが、いずれにしても2週間その雰囲気が継続することだけはない。これは確信がある。

その停滞の3日目、生徒たちも自分たちは停滞している…と自覚し始めた日、そこが大きな指導のタイミングである。その見極めができれば、学級の合唱への取り組みはうまくいく。このタイミングをはずすと、指導はかなり難しくなる。

ぼくの学校も今週はこのまま行くのだろうが、来週からタイミングを逸する教師、タイミングをうまくつかまえて、或いは偶然にもたまたまつかまえて軌道にのる教師とがあらわれるはずである。来週が待ち遠しい。

これだから、合唱コンクール時期はおもしろい。

とはいえ、所詮、今年のぼくは「外野」にすぎない。

当日、審査をがんばろう…っと。

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事実の確認

生徒指導上の事案が起こる。

例えば、ある女子生徒Aが「BちゃんとCちゃんにいじめられている」などと訴えてきたような場合である。

もちろん教師はAに事情を聴く。なるほどAから話を聴いていると、B・Cのやり方には行き過ぎがみられるようだ。そこで教師は、B・Cを呼び出して指導する。Aが二人の言葉に傷ついていること、他人を傷つけるような言動はいけないということ、これからはそういう言動を慎まなければならないこと、こうした内容について指導する。B・CはAにだって責任があると訴えるが、教師は切り返す。「どういう理由があるにせよ、いじめはいけない。」と。「現に、Aは深く傷ついているのだ。」と。

結果、教師はB・Cの信頼を失う。いや、それだけではない。B・CはAに対する恨みをも抱く。そしてAもそれに気づく。「先生はやばい指導の仕方をしたな。」と。それが教師に対するAの信頼をも失わせる。Aは「先生を頼ると、状況が悪くなる。」ということを、経験を通じて学んだのである。それが、今後の生徒指導に大きな悪影響を与える。

教師だけがそのことに気づかない。中には、「うまく解決できたな。」などと、お気楽なことを考えている者さえいる。その裏には、「悪いことは悪いとしっかりと指導しなければならない。それが規範意識を育てるということだ。」という、短絡的な思想がある。いや、〈思想もどき〉というべきか。

多くの生徒指導がこのようになってしまうのには、実は理由がある。それも単純な理由だ。それは教師が指導にあたって、〈起こった事実〉を確認しないからである。

生徒指導上の事案には、必ず〈起こった事実〉がある。B・CがAを攻撃し始めたのはいつからか。どんな言葉をAに浴びせたのか。いつ、どこで、どんな状況で、何回程度浴びせたのか。それを見ていた第三者はいるのか。B・Cがそのような態度に出るようになったきっかけは何なのか。それ以前のA・B・Cの関係はどうだったのか。AとB・Cの関係がこじれる至る過程において、AはB・Cにどのような態度をとったのか。このようなことを確認しなくてはならない。

どんなに面倒でも、教師はこれらの経緯を逐一確認しなければならない。これを怠ると、教師は生徒達の信頼を失ってしまう。教師がうまく対応できなかったという噂が学級中、学年中にあっという間に広がっていく。教師と生徒との関係が少しずつ少しずつ、しかしそれ以上ない確かさをもってくずれていく。そういう学級・学年のなんと多いことか。

では、どのように〈起こった事実〉を確認するのか。

まず【図1】をご覧いただきたい。

1生徒Aと生徒Bがトラブルを起こしたとする。それを訴えてきたのが生徒Aである場合、教師は無意識のうちに生徒Aの側に立ちがちである。〈起こった事実〉をAの立場からのみ聴いて、それを前提に生徒指導をしがちである。つまり、無意識のうちにAの味方をしながら、生徒指導にあたりがちなのである。まずはこれを避けねばならない。避ける方法は簡単である。生徒Bからも同じように〈起こった事実〉を確認すれば良いのだ。すると、Aとはまったく正反対の〈起こった事実〉が出てくる。ここで、教師はAの言い分とBの言い分とをフィフティ・フィフティの信用度と捉えなければならない。

すると、この事情を知る者、つまり、A・Bのトラブルに直接的・間接的にかかわよったすべての人間に事情聴取しなくてはならなくになる(図2)。

2CやDはA・Bとはまた違った角度で〈起こった事実〉を認識しているかもしれない。中には、終始ひねくれた目で見る者(E)、最初は何が起こったのかを理解していなかったのに事情聴取の中で理解してくる者(F)、A・Bどちらにも気を遣う日和見的態度の者(G)、最初から最後まで事を理解できておらず話のコロコロ変わる者(H)など、様々な角度の事情が明らかになる。

しかし、このくらいの人数に対して事情聴取を重ねれば、教師の側にもおぼろげながら〈起こった事実〉の全貌が見えてくる。これをそれぞれの生徒に突きつけていく。生徒も忘れていた細かな事実を思い出す。

様々な人間が様々に「事実」を解釈していることを知った生徒達は、自らのものの見方を「メタ認知」せざるを得なくなる。つまり、こんな単純なトラブル(=起こった事実)でさえ、自分の見方は絶対ではないのだということを、同級生・仲間内の証言から実感していくことになる。教師から教えられるのではなく、自ら発見するようになる。規範意識は、こうした営みの繰り返しの中で身についていくのである。

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気楽さ、いいかげんさ、そして柔軟性

今週末、「授業技術」に観点をしぼった中学校・学級経営セミナーを予定している。

「授業技術」がテーマならいつもは国語科である。なんといっても「ことのは」は国語教師のサークルですから……。

ところが、今回の参加者は国語教師ばかりではない。学級経営セミナーであるから、様々な教科の先生が集まる。そこで、授業を道徳にした。しかも絶対に自主教材で提案せよ、という縛りをかけてである。学級経営セミナーとして「授業技術」について考える……といういだけでなく、ついでだから「ことのは」メンバーに道徳のネタを開発させてしまえ……という遊び心だ。

予想通り、直前になって、メンバーがみな苦しんでいる(笑)。MLは最近、細かな問い合わせや愚痴ばかり。なにか新しい試みをすると必ずこうなる。みんなプライドがあるから、それなりの提案性を担保しようとする。それがディテールへのこだわりや愚痴になるわけだ。これまで、共著をつくるときにこの雰囲気になったことが何度もある。久し振りに、新しいものを生み出す空気ができていることに、なんだかワクワクする。

もう一つわかったことは、それは「ことのは」メンバーが、現場では道徳をいいかげんにやっているに違いない…ということ(笑)。本番はそういう日常が細かいところに出るはずだ。それもまた、ワクワクする。参加費をいただいて開催する研究会とは思えないこの気楽さ、いいかげんさ、そして柔軟性。言葉は違えども、どれもたった一つのメンタリティである。長続きの秘訣…といえばいえるかもしれない。

「研究集団ことのは」も、かれこれ20年になろうとしている。

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死刑でいいです…

「死刑でいいです 孤立が生んだ二つの殺人」(共同通信社)を読んでいる。共同通信の二人の記者が上梓した、今年の7月に死刑が執行された山地悠紀夫のノンフィクションである。新聞記者っぽい乾いた文体ではあるが、まずまず人間の深淵をえぐろうとの志が見える。読んでいて、その志が心地よい。

山地はアスペルガーであったようだ。アスペルガー傾向を指摘される殺人犯があらわれるたびに、マスコミは一応の配慮は見せながらも、その他者の心情を理解できないことを危険視する報道を繰り返す。しかし、このノンフィクションの著者はこの件について次のように語る。

「はっきり書くと、障害が事件につながる『リスク要因』の一つだと考える専門家は多い。私たちの見方を示すと、障害は孤立につながる要因だと考えている。」(11頁)

こういう見方をするマスコミ関係者は少ない。また、教育関係者にはこの見方をする者が多い。正しいか正しくないかはわからない。少なくとも、わからない以上はこういう見方もあるという解釈の多様性だけは担保すべきだろう。つまりは、判断を留保し、場合分けで考えねばならない事象であるくらいは言わなければならないはずである。その点で、著者のいう「私たちの見方」は、教育関係者である私には心地よかった……というわけである。

さて、心地よさの対象はあくまで著者であって、記述の対象ではない。

17歳で母親を金属バットで撲殺し、22歳で面識のない姉妹を刺殺した山地。自らのプライドを維持するためか、「反省はしない。控訴もしない。死刑でいいです。」とうそぶいた山地。死刑確定から数年で執行された山地。

遺族には申し訳ないが、もう少し彼の精神の経過を見てみたかった思いに駆られる。宅間守、小林薫、金川真大、山地悠紀夫、そして加藤智大……。死刑が確定すればすぐに死刑が執行される、おそらく今後もそうであるだろう人たち。彼らを心象を分析することは、おそらくこの国に起こっている「若者たちの闇」を私たちが理解するために必要なことだと思うのだが……。死刑の執行はそれからでも遅くはないと思うのだが……。

山地は強姦・強盗・殺人と三つの罪を犯しているが、これら三つの犯行が普通ではない。順番が違うのだ。強盗目的や強姦目的で押し入り、口封じのために殺したのではない。まず刺したのだ。そして刺されて苦しむ女性達に興奮して暴行。更にベランダに出て煙草を一服して悦に入り、逃走資金として財布から金を抜く。こういう順番なのである。

わからない。まったくわからない。私にはまったく、この男の心象が想像できない。だから、知りたい。この順番と、「死刑でいいです」という言葉は、おそらく通底しているはずだから。

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たぶん芝居なんだろう

たぶん芝居なんだろう…。

そうは思っていた。だって、「音楽でもうやることがなくなった…」だなんて、あまりにもできすぎた台詞ではないか。

でも、彼の古くからの友人の声は、すべてが彼の芝居を見抜いたうえでの悲しみの声ばかりだった。なんとなく安心した。彼も周りに対しては、ちゃんと人間だったのだな、と。

加藤和彦。安らかにお眠りください。

最後に生で歌声を聞けてよかったな…と、心から思っています。

それにしても、三島以来、この国には「自死の芝居」という系譜ができつつある。死までが演出されつつある。時代なのだろうか。それとも、ここには日本人的なるものがあるのだろうか。

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コミュニケーション能力

学級集団を構成する子ども達が、時代とともに変容してきている。現代の子ども達は、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力としての「コミュニケーション能力」の高低を互いに評価し合いながら、自らの「スクール・カースト」の調整に腐心していると見て良い(『いじめの構造』森口朗・新潮新書/『友だち地獄』土井隆義・ちくま新書)。「スクール・カースト」は別名「学級内ステイタス」とも呼ばれ、学級への影響力・いじめ被害者リスクを決定し、子ども達を無意識の格闘に追い込んでいる、重要な概念である。

21世紀に入って、教育界から政財界に至るまで、これからの人間に必要なのは「コミュニケーション能力」であると声高に主張している。しかし、この「コミュニケーション能力」の具体が何であるのかという説得力ある論述はなかなか見られない。森口朗は、これを子ども達が〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉の総合力と捉えていると分析した。〈自己主張力〉とは自分の意見を強く主張する力、〈共感力〉とは他人を思いやる力、〈同調力〉とは周りのノリに合わせる力である。更に詳しく言うなら、次のようになる。

自己主張力:自分の意見をしっかりと主張することができ、他人のネガティヴな言動、ネガティヴな態度に対してしっかりと戒めることのできる力。80年代以降の世論によって大切だと喧伝されてきた能力。

共感力:他人に対して思いやりをもち、他人の立場や状況に応じて考えることのできる力。従来から学校教育で大切と考えられ、リーダー性にとって絶対的に必要とされ重要視されてきた能力。

同調力:バラエティ番組に代表されるような「場の空気」に応じてボケたりツッコミを入れて盛り上げたりしながら、常に明るい雰囲気を形成する能力。子ども達によって現代的なリーダーシップには不可欠と考えられている、現実的には最も人間関係を調整し得る能力。

※この三つの総合力を「コミュニケーション能力」と呼び、毒舌タイプの級友にツッコミを入れて逆にオトしたり、大人しい子やボケ役の子をいじって盛り上げたりして、「場の空気」によって人間関係を調整していく。

この三つの力の総合力を子ども達が「スクール・カースト」(=学級内ステイタス)を測る基準としている、というのである。森口はこれをマトリクスとしてまとめ(『いじめの構造』森口朗・新潮新書・45頁)、三つの力といじめ被害者リスクとの関係を示した。そこで分析されているのは、現代の学級が以下の8つのキャラクターによって構成されている、ということである。

①スーパーリーダー(自己主張力・共感力 ・同調力のすべてをもっている)
②残虐なリーダー(自己主張力・同調力をもつ)
③栄光ある孤立(自己主張力・共感力をもつ)
④人望あるサブリーダー(共感力・同調力をもつ)
⑤お調子者・いじられキャラ(同調力をもつ)
⑥いい奴(共感力をもつ)
⑦自己中心(自己主張力をもつ)
⑧何を考えているかわかにない(自己主張力・共感力・同調力のどれももたない)

この①~⑧の順で「スクール・カースト」の高低が決まる。しかも、ここで言う「スーパーリーダー」は、現在の学級にはほとんどいない。それに対して、「お調子者」「いい奴」「自己中心」はかなりの数がいる。また、「残虐なリーダー」も一定程度いる。この集団構成が現在の学級集団の統率を著しく難しくしている。

さて、ここで教師の立場として考えておかなければならないことは、実はこの「スクール・カースト」が、決して子ども達だけが対象になっているわけではない、ということである。実はこの視線は、担任教師にも向けられているのである。もしも、担任教師が「自己主張力」と「共感力」しかもたず、「同調力」をもっていないとすれば、それは「スーパーリーダー」以下、「残虐なリーダー」と同等程度のカーストと見なされる。「共感力」「同調力」はあるが、「自己主張力」が弱いという場合には、「残虐なリーダー」以下の「人望あるサブリーダー的な教師」と見なされている。「自己主張力」だけなら「自己チュー教師」、「共感力」だけなら「いい奴だけど、いじめのターゲットになり得る教師」とさえなるのである。

おそらく最近の小学校高学年から中学校において頻出している学級崩壊は、担任教師のカーストが低く、それ以上のカーストとして認められている子ども達の影響力の大きさによって引き起こされている。こうした現状に鑑みると、現在、学級担任が「残虐なリーダー」タイプや「お調子者」タイプと対立しながら学級を統率していくことは至難の業である。その意味でも、子ども達のノリ、時代的なノリに対する、教師の「同調力」が重要になる。他人を思いやりましょう、規律を守ることが大事だ、といった真面目一辺倒の路線では立ちゆかないのが現代的学級の特徴なのである。

教師はいま、〈自己主張力〉〈共感力〉〈同調力〉という三つの力の総合力としての「コミュニケーション能力」をもたねばならない立場に置かれている。ベテラン教師、お母さん教師、優しいお兄さん・お姉さん教師が、学級を統率することができずに崩壊させる要因はここにある。

とは言っても、こうした三つの能力を須くもつことは、教師にとっても困難である。その打開策として、私は学年団がキャラクターに基づいた「チーム力」を発揮することを提案している。それが私が何度も紹介している「教師力ピラミッド」の思想である。

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レジと客

資料をコピーしようと思い、コンビニに行った。ついでに缶コーヒーを買った。ボトルの形をした缶コーヒーである。具体的にいうと、JTの「ROOTS AROMA BLACK」である。ぼくはこれをよく買う。よく買う程度ではない。毎朝買う。たった6分間の通勤で、この275ccを飲み干す。ぼくの日課である。

さて、今日のコンビニ。22時近くの買い物である。当然、レジはバイトのお兄ちゃんである。行き慣れたコンビニなのだが、見慣れない顔の店員だった。

缶コーヒーの値段は137円。ぼくは財布から142円を出して渡した。すぐに「142円お預かりします」と言った彼は、即座に5円玉一枚をレジから出して、ぼくのほうに向き直り、釣り銭を渡した。このテンポが非常に良かった。

何を言いたいかというと、こういうことだ。

137円の缶コーヒーを買うために142円を渡すことが、ぼくには週に2~3度ある。バイトの兄ちゃんや姉ちゃんの場合、5円の釣り銭がなかなか戻ってこないことが多い。こんな当たり前の計算を即座にせず、レジに142円と打ち込んだあと、釣りが5円と出る画面をじっと見て確認している。それから5円玉を取り出して私に手渡す。たぶん今日のお兄ちゃんとの時間的な差異は3秒と言ったところなのだが、その3秒が朝の出勤途中ということもあって、どうにも我慢ならない。「馬鹿か、こいつは…」と思ってしまう。

最初の頃は、どこのコンビニでも、釣り銭に間違いがないように、必ずレジを確認してから動くこと……という指示がなされているのかとも思ったが、おそらくそうではない。店主クラスのおじさんおばさん、おじいちゃんおばあちゃんはテンポが速いからである。

どうも最近のバイトの兄ちゃん姉ちゃんは、意識が客にではなく、レジに向かっている。サービス業の端くれなんだから、あんなやつらはちゃんと教育すべきではないだろうか。

そういえば、最近の、お釣りが落ちないようにとこちらの手を包むように釣り銭を渡してくるのも気持ち悪い。コンビニ業界はあのマニュアルもなんとかしてほしい。

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学級経営セミナー/道徳

第10回を迎える中学校・学級経営セミナー。ネタは道徳と授業技術である。開催日が24日(土)だから、今日がちょうど1週間前ということになる。

ネタが道徳だから、ほとんど新規の申し込みはないだろうと予想していたのだが、それが意外や意外。断続的にぱらぱらと申し込みが続いている。参加予定人数は現在、24名。定員近くまで伸びそうな勢いである。道徳に興味をもっている人って意外と多いのだな、と認識を新たにした。

どうやら、ちょっと真剣に準備をしないといけないな、という気になってきた。手を抜けないな、と。

もちろん手を抜こうと考えていたわけではないのだが、やはり定員にはるかに届かないというセミナーに力が入らないのは人情である。ましてや、ぼくの研究の中心は道徳ではない。確かに文科省の指定研究をちょっとだけ囓ったことがあるが、その程度である。指導要領の理念とある程度の先行研究くらいは頭に入れておかないと……という気分になった。

あ~あ、また昨日、編集者から原稿の催促が来たし……。この土日も結局、遊べない。「相棒」なんか見ている場合じゃないんだな、きっと。

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相棒8「カナリアの娘」

「相棒SEASON8」第一話「カナリアの娘」を見ました。

脚本家は輿水泰弘。この脚本家のつくる話では、大がかりな事件が起こる割には、事件関係者の心象が深く描かれないことが多く、また、どんでん返しっぽいトリックもない、そういう印象を抱いていて、いま一つ期待感をもてずに見始めました。

しかし、今回は布石の打ち方もうまく、伏線があちらこちらに張り巡らされていて、なかなか完成度の高いドラマになっていたなあ、と感心しました。素人が「感心しました」などという言い方をするのは不遜なのかもしれません。「感心しました」が悪ければ「感動しました」と言い換えます。

ラストの落ちは、内山理名の演技力もあって、かなり説得力がありました。最後、右京に背を向けながら唇を噛む内山理名の長いカットはかなりのものでした。嫌われ松子のときも感じましたが、この女優の演技力はすごいです。目はもちろん、鼻にも、唇にも、頬にも、すべての表情に演技が行き届いています。喜怒哀楽の表情をアップで、しかも長いカットにもたえうる、そういう数少ない女優だと思います。顔の造形は十人並みなのに、ものすごい美人女優に思えてきます。こういうのを「女優」というのだなあ、と改めて思います。

留置場に一人、髪の毛から空を見つめる表情のアップへと移行する、古谷一行の数秒のカットにも、説得力がありました。メリーゴーラウンドに乗る母親と子役の存在感もなかなかのもので、このドラマの完成度を高めているのは、もちろん脚本だけでなく、カメラワークや俳優陣の力が大きいなあ……とも実感させられました。

そうそう。長いカット言えば、水谷豊と及川光博が警視庁に戻ってきた折、山西惇との長いやりとり、途中に特命係の部屋でコーヒーをいれている岸部一徳に焦点をあわせ、再び3人のやりとりへ、という非常に長いカットがありました。ちょっとユーモラスに描くシーンですが、こういう味のあるカメラワークにぼくは感動を覚えます。すごいシーンだなあ、と感じました。

映像では、長いカットは要所に織り込むと計り知れない効果が生まれることがあります。もちろん監督は意図的にやっているのでしょうが、かつて「あぶない刑事」で打ち合わせをしているシーンでものすごいロングがあって感動を覚えたことがありました。また、映画「それから」で松田優作と藤谷美和子のとてつもないロングカットにも感動を覚えましたし、最近では、行定勲監督がずいぶんと長いカットを効果的に使っています。特に、「それから」のロングは素晴らしかった。借りてきたVHSを何度も繰り返し見て、感動に浸ったのを覚えています。

脚本家と監督との関係も、俳優陣と監督との関係も、文学で言えば「物語」と「語り手」の関係に近いものがあるわけで、文学も映像ドラマも、読者や視聴者に可能な限り意識させずに物語性を鮮明に意識づけることが求められるわけで、その点で、今回の「カナリアの娘」は何度でも見て、演出やモンタージュの技法について、いろいろな意図を発見してみたいという衝動に駆られました。まあ、そんな時間はないので、思い切ってハードディスクの録画を削除しましたが……。メディアリテラシーの授業に使うには長すぎますし。

それにしても、文学的な形象性を見事に具現化した作品でした。

次回は太田愛さんの脚本のようです。たぶん「相棒シリーズ」ははじめてじゃないでしょうか。人間同士のあまいタイプの「絆」を描く脚本家なので、「相棒」には向いているのかもしれないなあとも思います。

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色つきの女

1982年の春のことだったと思う。

THE TIGERSが復活して、「色つきの女でいてくれよ」を大ヒットさせた。沢田研二・加橋かつみ・岸部一徳・森本太郎・岸部シローでの復活だった。それ以前から沢田研二が大好きで、リアルタイムで聴いたことのなかったTHE TIGERSのベスト盤なんかも買っていたぼくにとって、この復活劇は胸をときめかせるのに充分だった。沢田研二が中央にいない。常に右から二番目で、岸部一徳と対称の位置。中央にはトッポ(加橋)が陣取る。この曲のこの立ち位置も新鮮だった。

この曲を聴きながら、中学3年生のぼくは大きな疑問を感じていた。

「色つきの女」って何だ?

同じ年の暮れ、かの「THE BEST HIT USA」で、ある1本のプロモーション・ビデオを見て、その謎が解けた。

「色つきの女」ってのは、こんな女に違いない……と。

それはSTEVIE NICKSの「IF ANYONE FALLS…」のPVだった。このビデオである。

ぼくはこの1本のビデオで、完全にSTEVIE NICKSにに惚れた。ルックスはもちろん、ヘアスタイル、ファッション、そしてハスキーボイス。すべてがまさに、「色つき」だった。

次の日、この「IF ANYONE FALLS…」の収録された「THE WILD HEART」というアルバムを買った。全曲、素晴らしかった。中でも、TOM PETTYとのコラボ曲「I WILL RUN TO YOU」にはしびれた。

更に次の日、ぼくはもう一度レコード店に行って、ファーストアルバム「BELLA DONNA」を買った。これまたしびれた。特に、このアルバムにも入っていたTOM PETTYとのコラボ曲「STOP DRAGGIN' MY HEART AROUND」には衝撃を受けた。

もう我慢できなかった。お年玉が手に入るやいなや、ぼくはTOM PETTY、FLEETWOOD MAC、そしてMACメンバーのソロアルバムを次々に買った。83年の1月2日、ぼくは十数枚のレコードを一度に買ったはずだ。あのときのワクワク感はぼくの中で、いまでも忠実に形象化されている。あの帯広の街、サウンドコーナーというレコード店を出て、黄色い車体の十勝バスに乗って帰るときのワクワク感を。

そうして、ぼくはブルースを聴くようになった。いまでもよく聴くのは、JOHNNY WINTERとSTEVIE RAY VAUGHANだ。

ときは過ぎた。あの頃、30代半ばだったSTEVIE NICKSも既に60を越えた。しかし、高校1年の冬に感じた、あの世界観が変わるようなときめきを、以来、ぼくは、少なくとも音楽に対しては一度も感じていない。

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班組織は一人一役を基本とする

私は昨日、班づくりと係組織づくりとは、別々に組織されることもあれば一致させて組織されることもある、と述べました。私は中学校においては両者を一致させるのではなく、別々に組織した方がいいと考えています。

両者を別々に組織することには、次の3つの利点があります。

(1)一人一役を機能させることができる

「一人一役」を徹底させることは、生徒達に将来の社会生活に対する心構えを抱かせるうえで大変重要な教育活動です。大衆消費が社会の末端まで浸透し、生徒達も消費主体として生きている現代社会においては、ともすると生徒達までが労働には経済効率的な観点が必要であると考えている場合が多いという現実あります。つまり、「働く以上は何か利益がもたらせれて当然である」という発想です。社会をスムーズに機能させるためにこの意識を打開し、協調・協働・共創といった「チームによる達成感」を若いうちに味わわせる機会は、現在、学校しかないというのが現実ではないでしょうか。

例えば、平成20年度の私の学級の場合、各班は総務係・生活係・文化係・環境係・学習係2名の計6人で構成しました(後に詳述)。男女比は半々です。学年4学級だったのですが、すべての学級でこの構成をとり、1年間この構成を崩しませんでした。旅行的行事では各係が係の仕事については班員に対して責任をもつことになり、班員に傍観者が出ない構成にすることができます。

(2) 二つの組織に所属し二重に動く場を保障できる

日常の学校生活を送る班は、安心して楽しく過ごすことを第一目的としています。いっしょに授業を受けたり、学校行事や学級のイベントに班単位で動くことによって、協力性や協調性を学ぶということが第一義です。しかし、係活動は日常生活を送る班とはまったく趣を異にしています。係活動は学級全体がより向上するために、生徒会組織との連動がよりスムーズに行われるように、本来、そうした巨視的な視点で運営されるべきものです。班と係を別々に組織することは、すべての生徒にこうした二つの視点をもつ機会を与えます。生活の場と学級向上に資する場とを同時にもち、常に二つの視点で動くことになるわけです。これはちょうど、私たち教師が「所属学年」と「校務分掌各部」との双方に所属しながら仕事をしているのと同じ構造です。どちらも蔑ろにするわけにはいかず、それでいて両者のバランスを常に考えなくてはならない、そうした視座です。

小学校では班組織と係組織とを一致させる実践が多いようです。これまで担当してきた生徒達に訊いてみると、どちらかというと「一致していた」と応える生徒が多いように思います。それなら尚更、中学校ではもう一段高い次元の組織づくりをおこなって、生徒達に「小学校とは違うんだよ」という自覚を促すうえでも、班組織と係組織とは別々に組織することがよいように思えます。

(3)一人一人の責任感の醸成に培う

読者のみなさんはプリントをどのように配付しているでしょうか。自分が一列ずつまわり、一番前の生徒にその列の人数分を渡してまわしてもらう、というのが一般的でしょう。しかし、わたしは生徒に取りに来させることにしています。中学校では、一度に5~8種類のプリントを配付しなければならないことが多く、そのすべてを担任が配付していたのでは時間がかかってしまうからです。この場合、私は班単位で配ることにしています。例えば、学習関係のプリントを配付する場合には教卓に学習係を呼び、保健便りなら環境係を呼んで班員に配付させるというように、日常生活でも一人一役を徹底的に意識させて運営していきます。

生徒達はこの班に自分しかその係がいないとわかつていますから、当然のようにそれを自分の責任だと思うようになります。それが自分の班への貢献であるとも意識するようになります。もちろん小さな小さな貢献に過ぎないのですが、それでもこうした小さな責任感を毎日持ち続けることが、実はいざというときの大きな責任感の醸成へとつながるのです。

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古書店事故

札幌市東区の古書店で本棚が倒れた。小学生の姉妹が下敷きになり、10歳の妹は意識不明の重体だという。「報道ステーション」では、これがトップニュースだった。

この古書店は、ぼくがこの3月まで上篠路中学校に通っていたときの通勤路にある。

ぼくの書斎も大きな地震がきたら、PCに向かうぼくの後頭部に大量の書籍が落ちてくる構造になっている。

自分の境遇に二重に重なる、なんとも言えぬ、後味の悪い事故である。

ぼくにもわかる。本が増えると、本棚を買い足すしかない。買い足した本棚は背中合わせに配置して、通路を狭めるしかない。それでも余った本は積み上げるしか手立てがない。本とはそういうものなのだ。しかし、確かに本とはそういうものだが、これが商売として陳列していたとなれば、やはり話は違ってくる。この古書店は責任追求を免れまい。

この子が助かればいいのだが……。

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生活班と奉仕班とはベクトルが異なる

学級組織は多くの場合、生活班と奉仕班で構成されます。生活班とは日常的に学校生活を送る班。奉仕班はいわゆる「係活動」を指します。生活班と奉仕班を別々に組織することもありますし、生活班と奉仕班とを一致させて組織することもあります。本章ではわかりやすくするために、便宜上、生活班組織づくりを「班づくり」、奉仕班組織づくりを「係組織づくり」と呼びましょう。

班づくりは席替え・係活動と連動し、修学旅行や宿泊学習、遠足、現地学習などの校外学習の動きとも連動するのが一般的です。また、生徒会組織とも連動しますから、学校行事では委員会や外局ともつながりをもっていると機能的です。更に、日常の学校生活では授業中の生徒も同士の交流の単位として機能させたり、給食・清掃・日直といった当番活動の単位として機能させたりと、学習・生活双方において、学級づくりの要素として非常に大きな意味をもちます。

こうした重要な意味をもつ「学級組織づくり」において最も根幹となるのは、「偶然性を排除する」ということです。つまり、くじで決めたり、ジャンケンで決めたりしない、ということです。しかし、だからと言って、教師が一方的に決めるというわけにもいきません。教師がアドヴァイスをしながら、或いはその時々によって教師がその意図を説明しながら、学級リーダーに考えさせていくというのが現実的ではないでしょうか。

一方、係活動組織の構成は一般的に、学級代表や議長団で構成される「総務系」、日常の学校生活を安全かつ規律ある状態に保つことを目的とする「生活・環境系」、学級の学力向上、学校・学年行事や総合的な学習の時間の学習活動の効果を高めることを目的とする「文化・学習系」の三つに分かれます。

生徒達が系統の異なる二重の仕事に四苦八苦することを避けるため、生徒会活動と連動させ、学校の生徒会組織(委員会)に倣った係組織をつくるとよいでしょう。例えば、生活委員は生活係に、文化委員は文化係に、編集委員は編集係に、というようにです。また、生徒達に余裕があれば、係活動組織には学級の雑務を分担させるだけでなく、独自の活動をさせると学級集団に潤いが出ます。

班組織づくりは生徒達に楽しく安心して学校生活を送ってもらおうとの思想に支えられ、係活動組織づくりは必要な仕事をみんなで分担することによって学校生活に自治的な風土をつくろうとの思想に支えられています。その意味で、新組織づくりと係活動組織づくりとは向いている方向が異なる、といえるでしょう。

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インフルエンザの流行と授業時数確保

ここに書きたいのは、インフルエンザの流行で学級閉鎖や学校閉鎖になって減ってしまった授業時数を、どうやって確保するかという話ではない。そんなことは、6時間授業を増やしたり、冬休みに登校日を設けたりすればいいだけの話だ。まあ、多くの学校ではそういう方策はとらないだろうが。

そういう話ではなく、今回のインフルエンザの流行が、市教委にとってはある意味でチャンスになるということだ。

つまり、こういうことである。

現在、中学校の授業時数は980時間である。979時間ではいけない。980時間は絶対に確保せよという最低保障時数である。少なくとも学習指導要領はそう言っている。

しかし、普通に行事を行い、普通に学校の行事計画を組んでいると、この980時間という時数の確保はなかなか難しい。1・2年は確保できるのだが、3年生が難しいのだ。札幌市では何十年にもわたって、卒業式を3月15日におこなっている。そうすると、授業日数が1・2年よりも6~7日分少なくなる。2月に4日間、3月に2日間、入試もある。修学旅行の回復日も2~3日ある。簡単に言えば、これらに手をつけなければ、980時間の確保は難しいわけである。

しかも、980時間は最低確保時数である。インフルエンザの流行による学級閉鎖や学校閉鎖、数年前に何度かあった台風による休校、こういった予測できない非常時に備えて、まあ、980時間+50時間、つまり1030時間くらいは計画上確保しておく必要がある、ということである。こうなると、これを満たした計画をたてている学校はほとんどないといって過言ではない。噂によると、現場があまりに授業確保が難しいと叫ぶものだから、市教委は計画段階で981になっていれば、黙認しているという。まあ、現実的といえば現実的だろう。

しかし、である。

計画段階で981時間だった学校は、今年度、一度学校閉鎖になれば950時間前後ということになる。学校閉鎖は原則5日間。ということは28時間が吹っ飛んでしまうからだ。

この秋、学校閉鎖、学年閉鎖の措置をとった中学校はかなり多い。札幌市の中学校の何割かの学校が950時間前後しか授業時数を確保できなかったとなると、これは市教委にとって重大な問題となる。本当は市教委だけでなく、現場にとっても重大な問題なのだが、現場にはあまり危機感はないのが現実である。現場は授業時数の確保よりも行事その他で生徒たちの人間性を高めようという方向に賛成するのが一般的だからだ。たとえ学校閉鎖があったとしても、授業はカットしても行事はカットしない。これが一般的な現場のコンセンサスである。

市教委の981を黙認する姿勢も、この現場の声との妥協点という趣が強い。少なくとも、私にはそう見える。

とすれば、今回の学校閉鎖による授業時数不足が、市教委にとって大チャンスとなるのは当然である。「そら見たことか。おまえたちの計画はこういうことがあると、とたんにこんなにも授業時数が不足してしまう計画だったのだよ」と……。次年度は計画段階で1000とか1020とか1030とか、こういった数値をクリアすることが至上命題として設定されるはずである。すべての管理職、すべての教務主任はこう予測して、次年度計画を立てるべきである。行事の削減の検討、総合と行事内容との検討、授業時数のカウントの仕方の検討、すぐにでもこれらに取り組み始めるべきである。3月、4月になってばたばたしないために。

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駐車場

勤務校の校舎が平成24年度から新しくなるらしい。

いまの校舎は傾いているので、新しくなるのはよいことである。ここでいう「傾いている」は比喩ではない。地盤のゆるい地域に立つ勤務校は、文字通り「傾いている」のである。この校舎が建てられて39年目を迎える。この間、玄関前の階段が十段近く増やされているという。基礎をかためた校舎はあまり沈まず、まわりの地盤はどんどん沈む。その結果、玄関と地盤との段差がどんどん広がった、というわけだ。ほんとにほんとに「傾いている」のである(笑)。

ここ数年、新しい校舎が建った学校には駐車場スペースがつくられない。市の保有する土地である学校の敷地内に、職員の駐車場スペースがあるのはおかしい、との理由からである。道庁も市役所も、職員の駐車スペースなどない。学校だけが当然のように職員の駐車場スペースを確保しているのはおかしい、というわけだ。確かに一理ある。

当然、勤務校の新校舎建設予定の図面を見ても、当然、駐車場スペースはない。私も基本的にそれが正しいだろうと思う。

しかし、正しいことに悪影響がないとは限らない。

駐車場スペースがなくなるということは、職員に公の交通機関で通えということである。職員が交通機関で通うということは、これまで当然のように行われていたことが行えなくなるということだ。

例えば、家庭訪問。結論から言えば、これは廃止するしかないだろう。学級担任が車で移動できないということは、これまでの日数では家庭訪問週間が終わらないということである。家庭訪問による午後カットの日数をこれ以上増やすということは、授業時数確保の観点から考えてできない話である。しかし、広い校区を歩いて3日や4日でまわるのは不可能である。廃止するしかないだろう。

地域から苦情の電話がかかってくる。或いは生徒の非行目撃といった情報が寄せられてくる。これまでならば、すぐに教職員が何台かの車に便乗して数分で駆けつけていた。これもできなくなるだろう。歩いていく、走っていくとなると、もう既に苦情の対象はどこかに散逸しているにちがいない。

隣の学校の生徒が勤務校にやってくる。こうした場合、すぐにその学校に電話をかけて引き取りにきてもらう。隣の学校には駐車場スペースがあるから、隣の学校の先生方は車で来る。電話をしてから数分で引き取りにくる。逆のことが起こった場合、つまり、勤務校の生徒が隣の学校にいき、隣の学校から引き取りに来てくれと電話が入った場合、我々は歩いていくことになる。おそらくこの程度のことでタクシーを使うことは許されないだろうから、きっと歩いていくことになる。隣の学校からは数分で来るのに、こちらの学校からは30分かかる。でも仕方がない。足がないのだから。

体育的行事があると、その運営をつかさどっている教師は、朝5時台に来て雨天中止にするかどうかを決定している。これもできなくなる。公の交通機関はこの時間には動いていないからだ。どうするのだろう……。一人や二人なら、タクシーを使わせるだろうか。

おそらく、機動力を必要とする生徒指導畑の教師、部活動を一生懸命やっている教師、遠くから通っている教師、こういった人たちはきっと勤務校から逃げていくだろう。札幌市のすべての学校から駐車場がなくなるのなら、勤務校を出る理由はない。しかし、隣の学校に転勤すればこれまでどおりの動きができるのである。だれが好き好んで勤務校に残るだろうか。生徒指導をするにしても、部活指導をするにしても、研究活動をするにしても、車があるとないとでは大違いである。きっと人材が逃げていく。いい人材ほど、機動力を必要とするからだ。

この裏返しとして、いい人材がはいってこない、ということも起こるだろう。勤務校は決して、交通便のいいところにあるわけではない。そんな学校への通勤に自家用車が使えないとなると、その学校に勤めることは避けたいと思うのが人情である。

まだまだデメリットがあるが、このくらいにしておこう。

一番の問題は、学校というものがもともと交通便のいいところには建たない運命をもっている、ということだ。子供を遠くに通わせるのを避けたいと思う地域住民が、地方公共団体に陳情に陳情を重ねて建ててもらう。それが学校である。道庁や市役所、警察署や税務署とは、そもそも設立される条件が異なるのである。

もう一つ、こうした駐車場を不必要とする最近の学校構想が、実は東京をモデルにしているということである。あの狭い地域にあれだけの交通網のある東京都なら、確かに私も車通勤などしない。しかし、札幌は地下鉄が南北線と東西線のみ、JRは札幌を北西から南東に走るのみ。バスは頻度の高い路線で1時間に3本である。東京なら、バスは5分に1本来る。この違いが想定されていない。

しかし、まあ、こんな愚痴を言ったところで、計画が変わるわけもない。転勤を考えるしか手はなさそうである(笑)。せっかく気に入っていた学校だったのだが、まあ仕方がない。まったく住みにくい世の中になったものだ。

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レベルアップ

国語科授業改革セミナーの8回目が終了。久し振りの北区民センターである。登壇が3回、しめて210分。少々疲れたけれども、アンケートを見ると、ぼくの言いたいことはほぼ伝わったようで、よかったなと思う。

今回は「話すこと・聞くこと」「書くこと」の言語技術と学習活動の組織化がテーマ。ぼくらが10年くらい前に盛んに研究していたこと、そしてここ5~6年はほとんど顧みることのなかったこと、更にはぼくらにとっては既に当然のことで技術としては無意識にやっている段階にはいっていること、そんな内容だった。ぼくらとしては、説明が雑にならないように配慮して話すこと、更にはもう一度これらの内容を整理し直すこと、この二つを目的として開いたセミナーである。たいして集まらないだろうと思って開催したセミナーだったのだが、集客もまずまず。仙台から、函館から、洞爺から、旭川からと、いろいろな地域の方々がこのセミナーのためにいらしてくれたことも嬉しかった。

ぼくの提案は3つ。

一つ目に、「聴衆分析」のワークショップ+「話すこと・聞くこと」の40の言語技術の提示(90分)

二つ目に、「全国学力・学習状況調査」のワークショップ+「見たこと作文」のワークショップ+「書くこと」の20の言語技術の提示(60分)

三つ目に、「看図作文のワークショップ」+「PCSのワークショップ」(60分)

「話すこと・聞くこと」も「書くこと」も、ワークショップ型で体験から学んでもらうのと同時に、ぼくが考えている全体像はこうですよという体系も提示するという構成である。かなり講座のつくり方がかたまってきたな、という自己評価である。

山下くん、森くんの講座の評判もよく、「研究集団ことのは」のセミナーが一段レベルアップしたな、という自信を深めた一日だった。特に、山下くんが自立してきたな、という印象である。

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講座準備完了!

明後日の講座の準備が完了。あとは印刷するだけとなった。

なにせ今回は講座が3本もある。90分+60分+60分。締めて210分。3時間半である。

しかも、90分講座と60分講座1本は、言語技術を列挙して紹介するというもの。さらに、この二つが両方とも表現(スピーチと作文)なもんだから、前回の文学教材の言語技術と違って具体例を自主教材で編み出す必要がある。これがきつい。結局、ワークショップ型で体験してもらう中から抽出していくことにした。この方が参加者にも伝わりやすいだろう。

もう一本の60分講座は学習活動の具体化。こちらは模擬授業を2本くらいやれば60分なんてすぐにたってしまうから楽。過去の実践をひもとけば、提案に足る作文の実践なんていくらでもある。参加者は小学校の先生が多いから、小学校でも使えそうなネタだけで構成することにした。

3本の講座は、どれも自信作…というほどではないが、まあ、まずまずの出来だろう。明日の印刷・帳合はめんどうくさいが、明後日の研究会当日は少し楽しみでもある。こういう気分になれるということ自体が、まあ、ちょっとした自信…ということにもなる。

申し込みはまだ間に合いますので、これを読んだお近くの方は是非。申込先はここにあります。

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「教師力BRUSH-UPセミナーin伊達」のご案内

仲間内のブログを巡っていたら、なぜか一斉に「教師力BRUSH-UPセミナーin伊達」の案内が掲載されている。「……?」と思ってメールを確認してみたら、「教師力BRUSH-UPセミナー」のMLに、全員が案内を掲載するように指示が出ていた。みんな「組織人だなあ…」と感心させられた。ぼくもこの組織の代表なので、この指示を見たからには掲載せねばなるまい。

第22回教師力BRUSH-UPセミナーin伊達のお知らせ

     主 催:教師力BRUSH-UPセミナー

    後 援:北海道教育委員会

「明日の学級、授業をつくるヒントを学ぼう」

How toに終わらない真の教師力UP↑を目指して~

 12月5日、伊達で第22回BRUSUUPセミナーが開催さ

れます。 教師力BRUSH-UPセミナーは、全道一円で学

ぶ先生方のお手伝いをするべく活動を続けているグループで

す。特定の考え方や立場に依ることなく、「よいものからは何

でも学ぶ」という姿勢を貫き、初めての方にこそ参加しやすい

研修会づくりを大切にしています。

  今回は、初の胆振管内での開催ということで、小・中・特別

支援学校から計7名の豪華講師陣による授業づくりと学級経

営の提案をお届けします。

 単なるHow toに終わらない、真の教師力Upのヒントを一緒

に考えましょう。たくさんのご参加をお待ちしております。

*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

【受 付】9:20~

【第1講座】9:40~10:10

  「先輩教師からのアドバイス!教師力アップのポイント3×5」

   講師:山寺潤氏(今金町立今金小学校)

      藤原友和氏(函館市立戸井西小学校)

      大野睦仁氏(札幌市立厚別通小学校)

      石川 晋氏(上士幌町立上士幌中学校)

      堀裕 嗣氏(札幌市立北白石中学校)

【第2講座】10:30~11:30

「感じて、動いて!音楽ムーブメント~子どもと音を楽しもう~」

講師:青野由香利氏(北海道今金高等養護学校)

【第3講座】12:40~13:25

「提言!学級経営の基礎・基本~今、3学期に向けて何をする?~」

      <小学校>藤原友和氏           <中学校>堀 裕嗣氏

【第4講座】13:35~15:10

「提案!これからの授業づくり~新学習指導要領のキーワード~」

  <国語>PISA型読解力を育てる授業(授業者:山寺 潤氏)

  <外国語>コミュケーションの素地を養う授業

                      (授業者:三浦将大氏、福島町立福島小学校)

  <社会>言語活動を重視する授業(授業者:大野睦仁氏)

  <道徳>自己の生き方を見つめさせる授業(授業者:石川 晋氏)

【第5講座】15:20~15:55

「解決!もう悩まない通知表所見の書き方」

<小学校>「私の通知表所見記入術」講師:三浦将大氏

<中学校>「通知表所見の10箇条」 講師:堀 裕嗣氏

【第6講座】16:00~16:40

「質問!もっと聞きたいQA

全講師が登壇します。講座に関する質問、実践上の悩み相談何でも受け付けます。

◇日 時:2009年12月5日(土)9:20~16:50

◇場 所:だて歴史の杜カルチャーセンター2F視聴覚室

              (伊達市松ヶ枝町34番地1)

◇資料代、会場費など必要経費として:3000円

              (学生、1講座のみの参加は1000円)

◇申し込み、問い合わせ:Eメールでご連絡ください。

     katokyongmail.com 加藤恭子(伊達市立東小学校)

         ★を@に代えてお送りください。

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危機管理

勤務校がインフルエンザの猛威で壊滅状態…といえば大袈裟だが、二桁以上の欠席者のいる学級がいくつもあるほど。詳しく書くと管理職批判や市教委批判になってしまうので書かないが、方針が二転三転して、結局、学校閉鎖にはならなかった。今朝登校していた10学級が新たに学級閉鎖ということになったわけだ。つまり、閉鎖の始まった日時の異なる三種類の学級閉鎖がさみだれ式にとられることによって、結果として学校から生徒がいなくなった……という状態である。当然、閉鎖明けの登校日も学級によって異なる、というわけだ。

当然のことながら、危機管理上の判断というものは難しいものである。

これから中学校は、いよいよ合唱コンクールの季節。合唱練習なんてもは、見方を変えれば、感染を促進する活動という面がある。練習すればするほど、一時的に喉が弱くなる。果たして、多くの学校が合唱コンクールを予定通りに行うことができるだろうか。うちの学校はどうか。

二度目の学級閉鎖……という学級が出ないことを、ただただ願っている。

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肩の力

3週連続セミナーの1回目と2回目が終わる。9/26の中学校・学級経営と10/3の累積国研だ。どちらも肩の力を抜いた提案、運営で、気持ちも軽く臨んだ。おかげで、アンケートの結果を見る限り、評判は上々。最近、提案の要諦は肩の力を抜くことにあり、と心得ている。おそらくこれは正しいことだ。若者の失敗提案を見ていると、また、かつての自分の失敗提案を想い出すと、必要以上に肩に力を入れ過ぎて、聞き手との距離感覚の作り方に失敗していることが大きいように思う。

26日の学級経営セミナーは、12日の例会でずいぶんと事前の打ち合わせをした。こう書くと、提案内容を打ち合わせたように思えるが、そうではない。テーマに対して、現場でどのような実態があるかということをブレイン・ストーミングで洗いざらい出したのである。考える題材はこれだけあるよ、あとは各人で処理して提案をつくりな、こんなスタンスである。

これが本番で、適度の提案性と適度の臨場感とを醸すことになった。メンバーにある程度実力がついてきたら、こういうやり方もあるな、と思った次第である。おまけにぼくの75分ほどの講演の評判が良くて、ちょっと嬉しかった。今年の1月に「授業づくりネットワーク函館」でおこなって、評判の良かった講演の焼き直しなのだが、最近の教師のニーズの一つにこういうのがあるのかもしれないな、と思う。同じ内容の講演を乙部中学校の公開研究会(10/29)でもおこなう予定なので、お近くの方は是非。

3日の累積国研は累積恒例の模擬授業12連発。それも授業技術が主要テーマ。若手からベテランまでが同じ土俵で提案する。どの提案者も25分間という同じ時間、教科書教材という制約、やった模擬授業は二人の解説者に斬られ反論はできない、参加者に5段階で評定される、こういうルールである。

眉をひそめるはずれ授業なし。納得できない解説なし。更には参加者の評定も高い。参加している我々も楽しむことができるとともに、新たな発見もある。まったく不満のない研究会だった。全体的にベテラン陣の評価が高く、若手に対する評価が若干低い。これも、若手が肩に力がはいりすぎていたせいだと思う。

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蛮族

ネットワーク東京大会の事務局から、感想用紙が送られてきた。ぼくの講座に対する感想と質問が数十枚である。

ぱらぱらとめくっていたら、次のような感想があった。

「私は○○の中学校教員です。修学旅行でよく京都・奈良方面に行きますが、旅館の方々が口々に言うには『北海道の中学生は一番悪い』。だから先生の学校の映像を見たときには驚きました。子どもたちが実にいい顔をしていたし本当に可愛い。(後略)」

うーん…。これを読んで、はたと考え込んでしまった。もしも旅館の人たちが本当にこう言っているのだとしたら、けっこうな問題だな、と。どう考えても嘘だからだ。北海道の中学生は、京都・奈良には行かない。せいぜい東北止まりである。行かない生徒たちに、良いも悪いもないはずではないか。

この虚言は差別意識ではないか。

京都・奈良と北海道は対極にある。いにしえから文化・政治の中心として栄えた京都・奈良、そして伝統・文化をもたぬ新しい開墾地蝦夷地。二次大戦で沖縄が皇国からはずされ、国土防衛線からはずされたのは、沖縄が日本人の無意識に異国として捉えられていたからだといわれるが、北海道もまた日本人にとってそういう土地なのである。

北海道はだれがどう見ても、学級崩壊率は低い。関東の大都市や大阪にくらべたら、多くの学校が安定している。そういう地域である。保護者のクレームも少なく、学校が顧問弁護士をもとうなどという話ともまだまだ無縁である。良くも悪くも、古い学校風土がまだまだ残っている。それが北海道である。全国学テの成績が良くないのは、子どもたちの頭の出来や学校教育の不備不足というよりは、土地柄の影響である。一次・二次産業の遺る北海道は、他県に比べて学歴によって生きていくという意識がまだまだ低い。学力を高めて欲しいとの生徒や保護者の期待も他県に比べてまだまだ低い。

北海道の高校生が悪い…というなら、まだわからなくもない。北海道の高校生は多くが京都・奈良に行く。北海道には国の文化財を大事にしようという意識は希薄である。そもそもそういう文化財のない土地柄であるから。それが大事なものであることを頭では理解できても、心では理解できない。流れている空気が違うから。だから、おそらくは北海道の高校生は京都・奈良の深みを理解しようとはしないだろうし、それを教えたところで理解できないだろう。そういう運命なのだ。

その代わり、北海道には、江戸時代以来の身分制度による差別はない。従って、同和教育なんて概念もない。アイヌ民族に対する差別もぼくらが子供の頃に比べたら、ずいぶんと見られなくなってきている。そういう土地柄である。

京都・奈良と北海道。

京都・奈良から見れば、北海道民がまだまだ蛮族であるということを思い知らされる出来事だった。

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学年閉鎖

勤務校でも新型インフルエンザが猛威をふるい始めている。

1学年が学年閉鎖。1割以上の欠席。半分近い罹患率。2年生も2学級が閉鎖。

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5年振りの9月の学校祭。

前任校では10月末だった学校祭が現任校では9月末。札幌では前任校が特殊だったのであって、現任校の日程はいわば「普通の日程」。それでも、夏休み明けから1ヶ月で学校祭というのは、まわりの先生方を見ていて、ずいぶんとドタバタするものだなあ、と感じた。夏休みボケを即座に解消するには良い日程であるともいえるのだが……。

今年は、様々な学校で学校祭の中止が検討されるほどにインフルエンザの流行が影響を与えている。ぼくの勤務校でも学校祭直前に2学級が閉鎖となり、ものすごく短い日程で学校祭の発表物をつくらざるを得ない状況に追い込まれた。しかも、うち1学級は学校祭一日目が学級閉鎖。2日目からなんとか参加できたという状況である。この学級が1年生で、初めての学校祭だったということもあり、2日目に登校した彼らはなんとも楽しそう。

今年のぼくの担当は閉会式。ここ3年ほど続けている映像づくりを中心に、1秒の間もつくらない進行を実践した。

間には必要な間と必要のない間とがある。必要のない間が多ければ多いほど、見ている側はだれる。ステージ発表の進行というものは、いかに不必要な間を削れるかによって完成度が大きく異なる。そのためには「無駄な間を1秒たりともつくらない」という構えが必要だ。

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