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どこへ行くのだろう…

【引用開始】YAHOO JAPAN ニユース

14歳の男子中学生が児童買春/神奈川県警

出会い系サイトで知り合った女子中学生を買春したとして、県警少年捜査課と麻生署は1日、児童買春・ポルノ禁止法違反と出会い系サイト規制法違反(禁止誘引)の疑いで、横浜市青葉区の私立中学3年の男子生徒(14)を書類送検した。

送検容疑は2月20日、自宅のパソコンで出会い系サイトに「かなり金あるから来て」などと書き込み、3月1日に相模原市内の公衆トイレで、同市立中学1年の女子生徒(13)に現金6万円を渡してわいせつな行為をした、としている。

県警によると、男子生徒は容疑を認め、「女の子に興味があった。出会い系サイトなら知り合いやすいと思った。金はお年玉や月々の小遣いをためて出した」などと説明。別の16歳の少女にも現金を渡してみだらな行為をしたと話しているという。

【引用終了】

ネット上では「末恐ろしい子供がいるね」などというコメントが寄せられているようだが、この中学生は別に末恐ろしいというタイプの生徒ではない。中学生の中には、同級生の女子中学生を脅して売春させ、あがりをとっていた、或いは大がかりな売春組織さえつくっていた、なんていう事例まであったわけで、「末恐ろしい子供」というのはそういう子のことだろうと思う。

むしろ、ぼくがこのニュースに感じたことは、「消費社会はここまで中学生に浸透してしまったか」という驚きだった。現代の子供たちが生まれながらにして「消費者」として、意識的・無意識的に育てられ、すべてのことに経済効果を考えながら対応すると言われて久しいが、とうとう性を消費する事件までおこったか……、そんな感慨である。

3000円とか5000円とか、何か中学生なりに価値あるものとか、そういうものではない。対価が60000円なのである。この金額は新卒の平均的な手取りの3~4割を占める金額なのではないか。成人男性の児童買春という報道を目にしたときに、20000円~50000円くらいはよく聞く金額だが、60000円という金額はなかなか見るものではない。しかも、警察の事情聴取に対して、「可愛い子だったから、これからも会おうと思って少し多めに払っておいた」と供述しているとも聞く。

この、性に対して、これだけ経済効率をもちこんで発想する中学3年生とは、いったい何なのか。完全なる消費主体として性を買おうとしているではないか。

これまで教員とか、警察官とか、裁判官とか、公的な職業に就く者の児童買春の報道を見るたび、職業倫理の問題はあるにしても、ぼくはそれほど驚きはしなかった。いかなる職業人であってもそれは社会の縮図であり、いかなる組織にもイレギュラーはあるものだからである。札幌市の教頭の児童買春も記憶に新しいが、誤解を怖れずに言えば、全国に数十万人いる学校管理職の中にそういう人間が一人いたとしても、さほど驚くには値しないだろう。

そもそもこうした問題は、あくまでも「性の問題」に閉じられた問題として考えることができた。その意味で、頭の中で、単なるイレギュラーとして理解し処理することができたのである。

しかし、今回の事件は違う。中学生が「性」を、経済効率の発想をもちこんで当然のように消費するメンタリティをもっていることを示したのである。それも、女子中・高生が金のために援助交際をするという「供給者側の消費視点」ではなく、中学1年生の女子生徒を買春し、今後も幾度か会おうと思えば、60000円という金額に相当する……というような「需要者側の消費視点」としてである。

この子は、60000円あったら、他に何ができるかと考えただろうか。いろいろ想定した中で、この消費が選択されたのだろうか。おそらく、きっとそんなことは考えられもせず、比較対象は一切想定されなかったのではないか。そんな気がする。

こんな中学生がいるのだから、学校の教育サービスのごときは、費用対効果の等価交換性を基準に考えられるのはあたりまえではないか。

「勉強を強制されたり生活規範を守らされたり、私がこれだけ嫌な思いを我慢するからには、学校は、或いは先生はそれに見合うだけの目に見える教育サービスを提供すべきである。」

この感覚は、現在の子供たちに、もう理屈として考えるものとしてではなく無意識的に、骨の髄までしみこんだものになっているのだ。おそらくは打開することなどできない、戻ることなどできない、不可逆な、前提的な感覚として。

それに比して「不純異性交遊」などという言葉がいまだに使われている学校現場。この開きはなんなのだ。「不純異性交遊」などと言うな、俺たちは先生たちがなんと言おうと純愛なんだ。こんな台詞がドラマになって、視聴率を稼いでいた時代が懐かしい。

「不純異性交遊」という言葉に対して、子供たちからこういう反論が返ってくるということは、逆に言えば「不純異性交遊」という言葉はその言葉の意味自体として、その子供にも矛盾なく受け止められていたことを意味している。しかし、中学一年生の女子生徒の肉体に対して、今後幾度か会うべく可能性をも含めて60000円と値踏みするような男子中学生のメンタリティを呼ぶべき言葉を、教育現場も、教育行政も、生活安全課も、児童相談所も、マスコミ各社も、もってはいないはずである。

この国は、この国の民は、数十年後、いったいどこに行くのだろうか。ぼくらの想像のつかない、どんな世界に行ってしまうのだろうか。

先日、民主党の子供手当てが中・長期的な少子化対策だと書いたばかりだが、子供手当てを支給したり、保育所を増設したりといった程度では、出生率など上がりようがないところまでこの国は進んできてしまったのかもしれない。

単なる印象でしかないけれど、しかも単なる愚痴でしかないけれど、1989年、あの宮崎勤事件が起こったとき、この国は本気になって何らかの対策を講じなければならなかったのだなあ……、と、こうした事件が起こるたびに思う。どんな対策が打てたのか、ぼくにはまったく、想像だにできないけれど……。

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コメント

確かに宮崎勤事件以来、児童ポルノ規制が設けられましたが、こうした記事を見ると、今となっては、あまりにも手ぬるい対応だと感じてしまいます。
当時僕は、エロ本をよく立ち読みしていて、今だから話せますが、学校にエロ漫画を持参していた前科がある手前、あまり人のことは言えませんが、この事件は「ませているのも程がある」という印象です。そりゃあ、何事にも興味津々な年頃なのはわかりますが、限度があります。
本気で叱る親がいない時代だなあと改めて感じる反面、なんだか悲しくなりました。

投稿: 厚別中学校卒業元3-6平井 壱武(かず) | 2009年9月 3日 (木) 22時53分

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