〈安心感〉を伴った成長の場
最近、学校行事があるたびにビデオをつくっている。行事にカメラを持ち込んで撮影し、BGMにあわせて編集するのである。生徒には学年集会で見せ、保護者には保護者集会で見せる。生徒にはもちろん、保護者にも同僚にも概ね好評である。
一学期末、学年団の宴会で盛り上がっていた折、ある同僚が私の編集したビデオを評して言った。
「ほんとうに堀さん、いいセンスしてるよねえ」
しみじみと実感を込めて、私を褒めてくれたわけだ。しかし、わたしはこの言葉にある違和感を抱いた。
あれ? 何かおかしい……。
酔っていたこともあって、私はこの違和感の質をつかみきれないままにその日は帰宅したのだった。
夏休みに入り、私は一学期の疲れを癒すべく休暇をとって、ボーッと過ごしていたのだが、どこかにこの違和感が引っかかっていた。数日後、合点がいった。あの同僚の言葉には、自分自身がビデオ編集をやってみようという可能性が捨象されている。私の編集したビデオに効果を認めながらも、それは「いいセンス」をもった人間の名人芸であり、自分にはできるものではない、という認識がある。この言葉には、こうした認識が無意識的に潜在している。
私に言わせれば、私のつくったビデオは「センス」でできているのではない。①ここ十年程度のメディアリテラシーへの興味関心、②その結果としてのビデオづくりがもたらす効果に対する確信、③ビデオ編集ソフトを使いこなすスキルの獲得、こうした目的的な研修の成果として私のビデオはあるのである。かかった時間は①が六年程度、②の実験的実践が二年程度(ビデオ編集を得意とする同僚につくってもらっていた)、③が三ヶ月といったところだろうか。 私のビデオ編集は、決して私にセンスがあったからできた産物なのではなく、私の目的的な研修の成果、勉強の成果なのである。その意味で、多少の努力をすればだれにでもできる、という思いが私にはある。事実、私が私的に開いているセミナーに集う人たちは、私のビデオを見て「自分も…」と決意して取り組み始め、一年もたたないうちに成果を上げ始めている。
教職に就いて最も大きく違和感を抱いたのは、公開研究会において公開授業だけを参観して、研究協議に参加することなく帰って行く教員が少なくないということだった。公開授業の参観者は三十人いたのに、研究協議には八人しか残らない……そんな公開研究会を幾度となく経験してきた。公開授業を見ることよりも、むしろ研究協議において他の教師のものの見方を学ぶことの方がずっと勉強になる、そう感じていた私にはなんとも不思議に感じられたものである。
研究協議ではその日の公開授業が意味づけられ、意義づけられる。そのために、様々な意見が交わされ、ときには論争が起きる。司会者や研究担当者が議論を整理し、成果と課題が提示される。もちろんそうした整理は、必ずしも私にとって納得できるものでない場合も多いが、それでも一般論としてかくかくということが言え、私の実践はしかじかという理由で特殊なのだ……といった自実践を相対化する視点が得られる。こうした経験の積み重ねは、間違いなく私を成長させてくれた。
公開授業だけを参観し、研究協議には参加しない。この態度が、私には教員生活二十年に近づいているいまなお、不思議でならない。そんななかでも、私なりに彼らの心象を解釈してみると次のようになる。
彼らは自分に変化を強いられることを怖れている。だから、意見を求められ、時には対立を余儀なくされるような場である研究協議には参加しない。しかし、授業のネタ収集にはなるから、公開授業だけは参観したい。無意識的にこうした思考過程を経て、公開授業参加・研究協議不参加という参加様態がとられるのである。
私のビデオを評した同僚と、研究協議不参加の教員との間には共通項がある。
それは、まず第一に、①変化をかたくなに拒否するという態度である。新たなことを学んだり対立の中に身を置くことを極端に怖れ、避ける。自らの殻を破ること、破られることを極端に怖れ、避ける。その結果、②批判されることを拒否する態度を示す。また、自らが批判されないために、③他人を批判することを忌避する。一般的に、教員にはこの三つの共通項がある。こうした共通項が、ある種独特の教員文化をつくっている。
「変化からの逃避」は、実は「成長からの逃避」を意味している。変化のないところに成長などあり得ないからである。
では、そうした教師たちが「成長」を拒否しているかといえば、決してそうではない。彼らもできれば成長したいと考えている。もしも、ある種の安心感とともに「成長の場」が設定されるならば、できれば参加したいと考えている。二十年近く、身近に「教員」という人種を見てきて、私にはその確信がある。
校内研修会を「安心感」を伴った成長の場にすること、これが、いま私の考える校内研修改革論である。おそらく、校内研修会の成否は、学校の職員にどれだけ「安心感」をもってもらえたかで、その機能度が決まる。内容は学校教育にかかわることでさえあれば領域は問わない。授業にこだわることはない。道徳でもいいし特別活動でもいい。「行事ビデオの編集の仕方」などというミニマムなテーマでもかまわない。問題は教職員一人一人の機能度を高めることにこそある。
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