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2009年8月

いい思いをさせてやる

衆議院選挙投票日。

民主党が300議席を確保するともっぱらの噂である。噂は噂、予測は予測なので、どうなるかはわからない。今日の21時頃には大勢が判明しているはずだ。

今回の自民党と民主党の違いは何だろうと考えたとき、それぞれの中心的な政治家が国民から見てどう見えるかということに尽きるだろうと思う。きれいかきたないかとか、嘘つきか正直かとか、そういうことではない。麻生さんや太田さんには焦りが見える。金切り声を上げ、厳しい闘いだと連呼し、その焦りが彼らが既に「終わった人間」であることを醸し出す。そういうことだ。彼らには未来を背負っているというオーラが感じられない。それは小泉さんが総理を辞して、数ヶ月でオーラを失ったときと同じ雰囲気がある。

別に自民党批判をしたいわけでもないし、民主党に「未来オーラ」が見えると主張したいわけでもない。

ぼくが言いたいのはこういうことだ。

「実は、教師も同じような目で生徒や保護者に見られているのではないか。」

これから札幌の中学校では、学校祭・合唱コンクールと大きな行事が続く。ぼくは今年、いまの勤務校に転勤したわけだが、教師と生徒のやりとりの雰囲気を見ているだけで、その教師が学校祭を得意としているか不得意としているか、合唱コンクールを得意としているか不得意としているかということが、手に取るようにわかる。特に見ようとしなくてもわかる。伝わってくる。そういうものなのだ。

これらの行事を得意としている教師は、生徒と会話していても笑顔である。それもつくり笑顔ではなく、心からの笑顔である。背筋も伸びている。アクションも大きい。声にも張りがある。生徒もそれがわかっているようで、無理難題を教師につきつける。それを教師が余裕を持って受け流す。或いは建設的な思いつきを披露する。生徒も笑顔になる。

自信を持っていない教師はどこか前のめりで、猫背である。そんなこと言ってもなあ…と、10メートル離れていても言い訳めいたことを言わんとしていることがわかる。生徒も無理難題は言わない。言っても無駄だし、学級のためにならない。それがわかっているから言わない。そんな雰囲気がある。

先日のセミナーでのことである。

参加費をいただいて開催しているセミナーなので、お客さんのことを批判するのは御法度なのだが、書いてみようと思う。

講座と講座の間、休憩時間の話。「学校祭の企画をどのように決めるのか。」という質問に対して、ぼくが「いざとなったら、オレが決める。」で押し通すと答えた折、その先生は「生徒が言うことを聞かなかったらどうするのか。」という質問を返してきた。ぼくは応えた。「ぼくならそのままごり押しします。」と。その先生は更に訊いてきた。「そんなことをしたら、学級が壊れてしまうのでは?」

セミナーの最終コマ、Q&Aでの話。こんな質問が出された。「合唱コンクールの練習で、女の子が2,3人、練習に参加せずに他の生徒の練習意欲をなくさせるような動きに出た場合に、どんな手立てがあるか。」

セミナーのアンケート。「学校祭ステージのBGMとして使えるアルバムを多数紹介してもらって、とても助かりました。紹介してもらった中から2,3枚、買ってみようと思います。」

うーん。

この三つの例、ぼくには同じ問題が横たわっているように思う。

第一の例。教師がごり押しすると学級が壊れる。これをこの先生は因果関係ととらえている。しかし、教師がごり押しした結果、なかなかいい企画ができ、結果的に生徒たちも他の先生に褒めてもらっていい思いをする。「先生のいうことを聞いてよかった」となる。こうした可能性は、この先生の中でまったく想定されていない。なぜ想定されないかと言えば、おそらくはそういう経験をしたことがないからである。

ぼくはだいたい生徒にごり押しする教師である。

「まあ取り敢えず、今回は先生のいうことを聞きなさい。そのかわり、おまえたちにいい思いをさせてあげるよ。」

こういうスタンスである。そして派手な演出で、実際にいい思いをさせる。生徒も保護者も楽しませる。「いい学校祭だったな…」と思わせる。その自信をもっていることが生徒たちに伝わり、その実績を生徒たちがそれなりに理解し、だからこそ、ぼくのごり押しはごり押しとして通るのである。

ところが、教師がごり押しすると学級が壊れると発想する先生は、おそらくは生徒にいい思いをさせられるという自信もなく、生徒がこの先生の言うとおりにすればきっといい思いができると思うような実績もない。だから、こういう発想になる。つまり、先生のいうことを生徒たちが聞かず、批判的になり、自分たちの主張をあくまで通そうとするのは、教師が信用されていないからなのである。教師の立ち方、教師の立ち位置、教師の姿勢、そういったものが影響しているのだ。

第二の例。数人の女の子が合唱練習の邪魔をするという。ぼくはそれを聞いて思う。さて、それは合唱コンクールの問題なのだろうか、と。合唱コンクールの練習でたまたま顕在化しただけで、それは4月からの教師とその女子生徒たちとの関係づくり、学級とその女子生徒たちとの関係づくりの反映なのではないか。日常の学級経営において、その子たちを取り込む指導を怠ってきたからこそ、合唱コンクール練習という大一番でその子たちの不満が顕在化してきたのではないか。

日常の学校生活ならその子たちとの対峙から逃げられるのに、合唱コンクールの練習ではいよいよ逃げられない、関係のうまくいっている生徒たちからさえ信用を失いかねない、そういうプライドと現実的な問題の中で、この問題を合しようコンクールの問題としてのみ捉えようとしている。そういうことなのではないか。その子たちの姿は、ある意味、4月からの担任の学級経営に対する「評価」なのではないか。自信をもって「悪いことは悪い」と伝えてこなかった、対立を避け指導を逃げてきた、その結果なのではないか。

第三の例。自分の企画、自分の学校祭だというのに、他人の好きな曲をそのまま使おうとしていいのだろうか。この世の中にBGMとして絶対的にふさわしい曲とか、絶対的にふさわしくない曲などというものはない。自分が聴いてきた音楽の中から、或いは生徒が持ち込んだ曲の中から、みんなで選曲した方がそのステージづくり独自のリアリティが生まれるのではないか。こういう発想がない。

自分の聴いてきた音楽に自信がない。自分の音楽を聴いて感動した、その感性に自信がない。結局、自分に自信がない。自信のないまま生徒の前に立つから、或いは自信のない自分を隠そうとして、他人の技術をそのまま使ってみて、結局は偽物だとばれてしまうから、生徒たちは教師を見透かしてしまうのである。

オレはステージの演出にはちょっと自信があるんだぜ、オレはいろいろ考えて練習計画を立てているから、オレについてくればそれなりの結果が伴ってくるよ、そういうオーラを出すことができれば、実は学校祭指導も合唱コンクール指導も95%は成功なのである。このオーラを醸し出しさえすれば、活動に「いい回転」が生まれてくる。そしてその「いい回転」にさえ入ってしまえば、何から何までうまくいくようになるのである。ごり押しがごり押しではなくなり、ネカティヴな生徒たちも表立って逆らえなくなり、他学級・他学年からも生き生きとした活動として見え始め、教師たちもなんとなく注目するようになり、最終的には結果が伴ってくるのである。教師の仕事は「いい雰囲気」「いい空気」をつくるだけ、それだけに専念すればよくなる。

教師たる者、この感覚を身につけなければならない。

30代半ばまでに、この感覚を身につけた者だけが、自信をもって生徒の前に立つことができる。おそらくそういうことなのだ。

自分のかかわる生徒たちに「いい思い」をさせてやる。それは人の上に立ち、権力をもつ者の、基本中の基本であると思うのだが……。すべての教員は早く自覚すべきだ。学級経営が〈政治〉なのだということを。

学級解体がないのに担任が替わることがある。前の担任がダメであればあるほど、4月、生徒たちは新担任に大きく期待する。また、その期待が大きければ大きいほど、新担任は一つ一つに結果を出さなければ「前の担任と大差ないじゃないか」と批判されることになる。

国民の民主党への期待はこの生徒たちの期待と同質であり、民主党の政権交代後の困難は新担任の困難さと同質である。

はてさて、民主党は我々に、どれだけ「いい思い」をさせてくれるのやら……。

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日本の教師が100人だったら・その後

日本の教師が100人だったら…

24日の記事である。

この駄文にマスコミ関係の取材依頼が3件。すべて「取材には応じられません。単なるジョークです。」と返信。

現場教員からの感想・意見は一切なし(笑)。

おもしろいものである。

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距離感覚

酒井法子が起訴されました。

8月中旬に東京に行っていた際、1日だけ暇な日がありました。研究会と研究会の間に、一日だけオフという日があったわけです。この頃、関東には台風が来ていて、気温30度に湿度が高かったものですから、ぼくはほとんど外出することなく、一日中ホテルで過ごしました。確かドトールにアイスコーヒーを買いに行く以外は一歩も外に出ませんでした。8月10日(月)のことだったと思います。

この日、ぼくは一日中ワイドショーを見ていました。どのワイドショーものりピー、のりピー、そしてのりピー。台風もあり、地震もあり、土砂崩れで死者も出ているというのに、とにかくのりピー。このワイドショーの異常さを不思議に思いながら、土砂崩れによる死者も、のりピーも、どこか自分からは遠いところにあるなあ…、マスコミの話題ってのは自分からは遠いところにあるのだなあ…、そう思いながら、寂しくホテルでじぃーっとしていたのでした。

思えば、酒井法子というアイドルは、ぼくの世代にとっては少々「遅れてきたアイドル」で、岡田有希子・中山美穂・浅香唯(字、あってますか?)と並んで、どうも実感のないアイドルなのです。「星の金貨」も見ていませんし、「青いうさぎ」も聞いたことはある…という程度の曲に過ぎません。そもそもぼくが最後に見た連続ドラマは「男女7人秋物語」なのですから……。たぶん、87年のことですね。あとは「東京ラブストーリー」を半分くらいは見たかなぁ……。

これが、中森明菜が覚醒剤…とか、早見優・堀ちえみ・石川秀美・河合奈保子・柏原よしえといったぼく世代のアイドルが覚醒剤…とかという話なら、ぼくもテレビに夢中になり、週刊誌の1冊も買ったかもしれません。しかし、酒井法子じゃなあ……。

何を言いたいのかというと、ワイドショーのコメンテーターの多くが、ぼくよりも年上であるにもかかわらず、酒井法子のことをリアルタイムで見ながら、清純派だったあののりぴーが…というトーンで、いかにも「残念です…」という実感をもっているように語っているのを見て、「こいつら嘘つきやなあ…」と感じた、ということを言いたいわけです。なんでこんな語り方ができるんだ? ぼくはその日、一日中そう感じていたのを覚えています。

これが普通なのかなあ…。異常なのはオレの方なのかなあ…。人間ってそんなに、関係ない世代の不祥事について、青少年への影響を考えて…なんていう理由で、真剣になれるものなのかなあ……そんな感じです。どうもぼくには、目の前にいる生徒たちがのりピーに影響を受けて覚醒剤に走り、警察につかまりそうになったときに覚醒剤が抜けるまで逃走するようになる…という感覚を抱くことができません。生徒たちはみな、この事件を、ぼく以上の距離感をもって眺めている、そんな感じがするのです。

それに比べれば、今日、ニュースになった札幌市立常磐中学校の理科教師が夜中の1時頃に、21歳の女性の体にさわって現行犯逮捕されたっていうニュースの方がずーっと近しいですなあ。この教諭、43歳。ちょうどぼくと同い年です。

2学期が始まって最初の週末。みんなで飲みに行って、愉しくて、ちょっと深酒をして、気が大きくなってしまって、そこにいた女性にちょっとちょっかいをかけてしまった……、本人としてはそんなとこなんでしょうが、ちゃんと懲戒免職にして、厳正に処分しますよという態度を示したほうがいいでしょうねえ。この事件を受けて、また、しょーもない通達がはいって、朝打ちで校長が言いたくもない指導言を発するのかと思うと、溜息が出ます。まあ、事件を起こしたのがぼくの知らない人で良かったな、という感じです。

報道に対する距離感覚ってものが、今日は、ぼーっとしながらもなんとなく頭からはなれない、そんな一日でした。

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スピード

スピード…と言っても、覚醒剤のことではない。ましてや、4人組のアイドルグループのことであるはずもない。

ちなみにぼくは、あの「ひとえちゃん」がお気に入りだった。別に特別、ファンというのでもなかったのだが、あの黒い顔に分厚い唇、ダンスのキレの良さ、ああ、この子はちゃんと取り組んでいるのだなあ…と感じたものである。

そういえば、小学生の頃から、キャンディーズはミキちゃん、ピンクレディはケイちゃん、ウインクはサチコと、ぼくは周りから「堀はおかしい」と言い続けられていた。「ひとえちゃんがいいよね」というぼくのことばには、当時も、ぼくの周りにいる人たちはだれも賛同してくれなかったっけ。どうもぼくは相対的に人気のない女の子にシンパシーを感じるタイプであるらしい。

小学校5年生のとき、ピンクレディではケイちゃんがいいと思ったとき、ミキちゃんとケイちゃんの共通点は何だろう、と真剣に考えたことがある。その結果、思いついた共通点は二つ。一つはガリガリであったこと、もう一つはグループ内で相対的に人気がなかったこと、それも圧倒的に人気がなかったことだった。それ以来、ぼくは自分が人気のない女の子にシンパシーを感じるタイプであるということを自覚している。教員となったいまも、学級で目立たない、おとなしい女の子が妙に気になる。どうにも気になるので話しかける頻度が高くなる。その結果、割とぼくの教員生活はおとなしめの女の子に苦労しない教員生活になっている。まあ、どうでもいい話なのだが……。

さて、スピードである。

スピードと言っても、今日、考えたスピードは授業のスピード、つまり、授業の震度のことだ。2学期にはいって、1年生では「河童と蛙」を2時間で終わらせた。3年生では「近代の俳句」を3時間で終わらせる予定である。予定は未定とはいえ、どうもこのペースだと本当に終わりそうである。

当然、授業のテンポは早まる。中学校の国語教師にしか、しかも教育出版の教科書を使っている地域の教師にしかわからないことだが、「河童と蛙」のイメージ画を一連につき2分で描かせ、それをもとに解説していく、というようなペースである。ちなみに今日の1年3組は、「河童と蛙」の「るんるん…」が「河童の唄」であることを確認し、難意語句をすべて解説し、2・4・6・8・9連のイメージ画を描かせて解説し、詩に使われているすべての表現技法を確認し、更に詩の形式を確認し、1・3・5・7連の「るんるん…」の読み方においてどのように音量に差をつけるべきかを確認した。これを1時間で終わらせた。最初の10分間は夏休み明けテストの返却にあてたので、実質40分である。

生徒たち特に早すぎると不平を言うこともなく、にこにこしながら、ちゃんと授業についてきていた。変に活動中心にするよりも、実はこういうテンポのいい、しかも曖昧さを残さない授業を140時間やったほうが、きっと学力はあがるのだろうなあ、と思う。まあ、これに意見を述べるタイプの短作文でもくわわればなおいい。

折しも全国学テの結果がマスコミに流れたこの日、同じ140時間の密度について、そして密度を高くすることによって必然的に早まる授業のスピードについて、ちょっとだけ関心を向け、実験を試みた一日だった。

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驚いた

驚いた。

今日、本当に久し振りにTSUTAYAに行ったのだが、新書部門の売り上げのランキングの1位が『悩む力』、5位に『人を見抜く技術』がはいっている。どちらもぼくがHPの書籍紹介コーナーで★を一つにして「ダメ」とランクづけた本である。しかも前者は50万部、後者は10万部を突破したという。いやはや、ぼくの見る目がないということか、それとも世の読者がおかしいのか、ぼくにはまったく納得できなかった。あ~あ……。

今日の22時台。なぜかこのBLOGのアクセス数が、たった1時間で111。なんなのだ?これは……。なんだか、いや~な感じがした。だれかが一人で90頁くらい見たということだ。しかも、初めての人が。これまでこのBLOGの存在を知らなかった教え子かなんかだろうなあ……。

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日本の教師が100人だったら

日本の教師が100人だったら、55人が男性で45人が女性です。

日本の教師が100人だったら、100人が大卒です。

日本の教師が100人だったら、70人が結婚していて、30人が独身です。

日本の教師が100人だったら、70人が運動好きで、30人が運動嫌いです。

日本の教師が100人だったら、90人が残業を厭わず、10人が残業をしません。

日本の教師が100人だったら、今回の選挙で80人が民主党に投票し、5人が自民党に投票し、5人が「社民党」に投票し、3人が共産党に投票し、1人が公明党か幸福実現党に投票し、1人が「みんなの党」に投票し、5人が投票に行きません。

日本の教師が100人だったら、10人が管理職を目指し、20人が管理職にならないと決意し、20人が管理職になるかならないかを迷っていて、50人がそんなことを考えたこともない世代か、女性の自分には関係のないことだと感じています。

日本の教師が100人だったら、1人が日本の教育を考え、6人が地域の教育を考え、13人が勤務校の教育を考え、60人が自分のことだけを考え、20人が何も考えていません。

日本の教師が100人だったら、3人が保護者や生徒の気持ちと学校の状況や行政の方針とのバランスを考えながら動き、7人が保護者や生徒の気持ちを理解しながら動いて現実を動かそうとし、10人が同僚の気持ちを理解しながら動いて現実を動かそうとし、20人が校長の意向を想像しながら動き、20人が自分の価値観だけで動き、40人がまわりに流されるままに動きます。

日本の教師が100人だったら、生徒の問題行動があった場合に、5人が自分のせいだと考え、5人が校長や行政のせいだと考え、15人が同僚のせいだと考え、32人が生徒のせいだと考え、42人が保護者のせいだと考え、1人が時代のせいだと考えます。

日本の教師が100人だったら、1人が日本の教育のために仕事をし、1人が地域の教育のために仕事をし、5人が部活で勝ち上がってプライドを維持するために仕事をし、8人が目の前の子供のために仕事をし、85人が食うために仕事をしています。

日本の教師が100人だったら、20人が朝日新聞を読んでいて、10人が読売新聞を読んでいて、3人が毎日新聞を読んでいて、40人が地方新聞を読んでいて、27人が新聞を読んでいません。

日本の教師が100人だったら、10人が優秀な教師で、20人がそれなりの教師で、40人が普通のおじさん・おばさんで、20人が指導力不足教員で、10人がいろいろな意味での不適格教員です。

日本の教師が100人だったら、70人が子供好きで、25人が子供好きかどうかは仕事に関係ないと考え、5人が子供嫌いです。

日本の教師が100人だったら、97人が自分は良心で行動していると考え、3人が自分は偽善者だよなあ…と感じています。

日本の教師が100人だったら、20人は良心的で、75人が偽善者で、5人が悪人です。

日本の教師が100人だったら、10人が部活指導を楽しみ、90人が学校教育から部活指導をはずしてほしいと考えています。

日本の教師が100人だったら、70人が教育の本質は人格形成だという印象をもち、20人が教育の本質を学力向上だという印象をもち、10人が教育の本質なんてどうでもいいという印象をもっています。

日本の教師が100人だったら、7人が教育の本質を人格形成だと考え、2人が教育の本質を学力向上だと考え、91人が実は何も考えていません。

日本の教師が100人だったら、15人が授業がうまく、60人が授業が下手で、25人が教壇に立つ資格がないほど授業が下手くそです。

日本の校長が100人だったら、かつては、1人が授業がうまく、96人が授業が下手で、3人が教壇に立つ資格がないほどに授業が下手くそでした。

日本の教師が100人だったら、90人が自分の給料を安いと感じており、9人が自分の給料は自分の働き相応の金額だと感じており、1人が自分の給料は高いと感じています。

日本の教師が100人だったら、50人が自分は価値のある教師だと思い、48人が自分はまずまず価値のある教師だと思い、2人が自分は価値のない教師だと思っています。

日本の教師が100人だったら、10人がまわりの状況に関係なく自分は力を発揮できると考えており、20人が自分はまわりの環境に恵まれていると感じており、68人が周りの人や環境・条件に恵まれれば自分はもっともっと力が発揮できると幻想を抱いており、2人が自分は駄目だと感じています。

日本の教師が100人だったら、2人が生徒や保護者のために仕事をしており、8人が保身のために仕事をしており、90人が生徒や保護者のためと感じながら、実は保身を基準に自分が行動していることに気づいていません。

日本の教師が100人だったら、1人が夢をもっていて、99人が夢をもっていません。

以上、何の根拠もない、ぼくの印象でした。多分にジョークが入っているのであしからず……。

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セミナーとイベント

夏休み最後を締めくくる二つのセミナーが終了。

昨日が中学校・学級経営セミナー。今日が中学校・国語科授業づくりセミナー。両日とも想定していた以上の参加者があって盛会。

それより何より、堀の演劇型ステージ発表の演出論と指導論、石川晋の合唱コンクール指導論、森寛の説明文の言語技術体系、堀の物語・小説教材の言語技術体系、山下幸の韻文教材の言語技術体系と、これまでいろいろ発言しながらもおっくうがって整理してこなかった、そういったコンテンツが整理されたことが大きい。もちろん、細かなところは訂正し修正していく余地があるが、この第一段階の整理というのがなかなかできないものなのである。この二つのセミナーを夏休みの最後に設定しておいた意図が、成功した感じである。

参加者の方々には申し訳ない話になるが、ぼくらの開くセミナーはお客さんに何かを伝えようということ以上に、こういう機会をつくってぼくらが自分自身で自分自身を追い込み、理論や実践を整理することを自らに課すという趣が強い。これがぼくらの中で、実は明確に自覚されている。だったら自分たちのサークル定例会でやればいいじゃないかと普通の人は発想するかもしれないが、ぼくらは自分たちの怠惰な性格をよく知っている。サークルでやっているとどうしても甘えが出て手を抜く。忙しかったんだ、ごめんね、で許されてしまう。しかし、一般のお客さんが一人でもいて、しかもその方々からお金をとっているということになると、この甘えをかなり大きく払拭することができる。ぼくらの目的の一番は、実はこれなのである。

こういうふうに開発した実践研究が、お客さんにとって少しでも役立つのならば、どうぞ使ってください。こういうスタンスなのである。

だからぼくらは、研究会に50人とか100人とかを集めようとはしない。顔を見て目線を合わせて提案が伝えられ、質問されても答えることができ、しかもぼくらがいわゆる「登壇している遠い人」にならないような距離感覚で提案できる、そういう人数である30人以内という規模を好むのである。ペイラインはほぼ20人。会場費と宣伝費で毎回約60000円がかかる。21人以上集まったときには、登壇者と事務局の昼食としてお弁当とお茶(約600演相当)を買う。ああ、今回は多くの方に来ていただいたなあ…とお弁当をいただく。そんな感じである。

20人をペイラインに設定しておくと、10人集まれば赤字は30000円、15人集まれば赤字は15000円、25人集まっても黒字は15000円、30人の定員を満たしても黒字は30000円である。このくらいだと、黒字のイベントと赤字のイベントとがトントンになる。最近は20人を超えることが多いので、お弁当をいただけることが多くなった。宣伝も広くまけるようになった。赤字の心配をしながらストレスを感じることもなくなった。そして何より、30000円たまると、ちょっと人が集まらなくてもいいから、マニアックな企画をたてて実践を整理してみようか…というような冒険ができるようになる。だって、30000円もっていると、10人集まればいいよっていうような、すごい狭い問題意識をテーマにかかげて、みんなが興味を持っていないけど実は大事…というタイプの研究会企画をたてられるわけですから。これまでにも、池田晶子の説明文「言葉の力」の教材研究だけにしぼった研究会とか、絶対評価を実際にはどんなふうにみんなやってるの?っていう現実的な対応の研究会とか、そんなものを何度もやっては、それまでの黒字を吐き出してきたのである。

こういうスタンスが、実に心地いい。

そしてそれは、心地いいだけではなく、ぼくらが割と細かいところまで考え込んで提案をつくることができる原動力にもなっているわけである。だってマニアックな研究会を開いて、真剣に提案を考える経験を何度もやっているわけだから。

もうひとつ。よく研究会のアンケートの希望欄に、「あのときにやったあの話をもう一度聞きたい」とか、「あのとき用事があって参加できなかったので、来年の同じ時期に同じような研究会を開いてもらえないか」というようなことを書かれることがある。でも、ぼくらは同じような研究会は二度と開かない。それは、研究会の主たる目的が自分たちの実践の整理にあり、その整理をやらざるを得ないように自分自身を追い込むことだからである。一度自分が整理してしまったことをもう一度…という必要はないのだ。つまりそれは、ぼくらにとって必要がないのだ。だからやらない。そういうことである。そんな時間があったら、ぼくらは次の一歩を進もうとする。それが現実的でない挑戦であっても、普通の先生には理解されないマニアックな視点であっても。このスタンスを壊してしまったら、「研究」ではなくなる。「金儲け」とか「売名」になっていく。ぼくらはそれだけはしないという決意を抱いている。

ぼくらのその時々の問題意識だけをテーマにして研究会を開く。そんなぼくらの問題意識にちょっとだけ興味を抱いてくれた方々が足を運んでくれる。ちゃんと顔を見て語ることができ、休憩時間には質問に答える余裕があり、ぼくらが「遠い人」にならない人数で。それが定員30人なのだ。

教師ならわかるはずだ。学級経営をしていても、教科経営をしていても、30人を超えたときから、一気に一人一人との関係がうすまってしまう。

15人しか集まらない時もあった。20人のときもあった。25人のときもあった。かつては7人なんてこともあったっけ。

もちろん、反対に、定員の30人がすぐに埋まることもある。

でも、ぼくらは、31人目を決して受け付けない。それがぼくらの小セミナー哲学だ。

ぼくらがたくさんの人を集めようとするときは、ぼくらが外に、つまり北海道以外に学びたいと思う人ができ、その人を呼んで直接学ぼうとするときだけである。そういうときには、その講師の先生の旅費と宿泊費と接待費と講師料が150000~300000円かかる。申し訳ないが、こういうときにはイベント運営をちゃんとやって、お客さんをちゃんと集めて、講師に渡すお金をつくる。こういうことなのだ。これをぼくらは「セミナー」ではなく、「イベント」と呼んでいる。かつては年に1回は必ず、多いときは年に2~3回の「イベント」をやっていた。でも、もう4年間も「イベント」はおこなっていない。

最近、ぼくらの視野が広がってきて、道外に学びたい人が出てきた。また、最近、ぼくらの新コンテンツがたまってきて、かなりの整理も加えられ、専門家に評価してもらわなければならない段階にはいってきている。

そろそろ、「研究集団ことのは」が「イベント」を開き始める時期が近づいてきている。

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客観的…

金曜の夜である。

明日の土日が開けたら2学期である。

始業式初日から、学校祭の会議である。しかもぼくは生徒会部長である。準備は1学期の終業式にすべて終えている。でも、それから1ヶ月たって何も覚えていない。1ヶ月後のこういう自分を見越して、準備を終えて安心したという記憶だけが残っている。さっきから「なんだったかなあ…」と考えているのだが、まったく思い出せない。それでも始業式の会議で元気に提案・発言している自分がいるであろうことを確信できる。この自信はいったいどこから来るのだろう? 我ながら不思議である。

いやないやな金曜の夜。

夏休みのカウントダウンさえなければ、金曜の夜ほど開放感に包まれた時間はないというのに……。

人間とは我が儘な生き物である。物事を客観的に見るなんてことはできるはずがない。しかし、物事を客観的に見てみたいという果てしない夢を見るのもまた、人間である。

明日と明後日は研究会。

しっかりと自分の言葉で語ってこよう。

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ぼくに戻る

人がなすべきことには三つあるように思う。一つ目に「やりたいこと」、二つ目に「やらなければならないこと」、三つ目に「自分を必要としてくれている人のためになること」である。

だれしも自分がやりたいと思ったことはやるものだ。しかし、それができない状況に悩む者も多い。いや、「悩む」と言うよりは「焦る」とか「憤る」とか言ったほうがいいかもしれない。「やりたいこと」が「やらなければならないこと」や「自分を必要としてくれている人のためになること」に押しつぶされ、どうしても自分の「やりたいこと」の優先順位が下がって、後回しになってしまうのである。

しかし、一度、立ち止まって考えてみたほうがいい。

その「やらなければならないこと」は本当に「やらなければならないこと」なのか。人に後ろ指さされないためにとか、不義理と思われたくないとか、対して重要ではないしがらみに仕方なくとか、そんな程度のものが多いのではないか。

「自分を必要としてくれている人のためになること」と思って腰を上げるとき、その人がほんとうに自分を必要としているのだろうかと考えたことがあるか。家族とごく少数の旧友を除けば、それはほとんどその人が自分を必要としていると言うよりも、その人と自分とを包み込んでいる、ある種の社会性が自分を必要としているに過ぎないのである。それは立場であったり名前であったり業績であったりするが、それらは決して自分自身が必要とされているわけではなく、自分の虚像が必要とされているだけなのである。

ぼくはこれから、自分の「やりたいこと」を最優先にすることに決めた。「やらなければならないこと」は、自分自身が自分の使命として自覚できることのみをそう呼ぶことにしようと思う。「自分を必要としてくれている人のためになること」は、真にその人が「自分を必要としてくれている」と実感できる場合にのみ行動に移そう。そんなものは企画を見ればわかるし、依頼内容を見ればわかる。ぼくを必要としてくれる人は、具体的に「これについて語ってくれ」という言い方をするからだ。

そして、「やりたいこと」も「やらなければならないこと」も「自分を必要としてくれている人のためになること」も、全力で、かっちりしたものをつくっていこうと思う。

あと10年、不特定多数のために身を削るような、薄っぺらい、安売り的な提案はしない。他人のために人生を送るには、ぼくはまだ若い。狭いけれど深い、10年振りに、再び、そういう研究スタイルに戻そうと思う。そういう40代を送ろうと思う。

ぼくはぼくに戻ろうと思う。

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書写

夏休みも終わりに近づき、久し振りに出勤した。

ぼくの机上に「貴校職員派遣のお願い」という文書が載っている。見ると札幌で行われる書写の研究大会の案内である。確か全国大会ではなかったか…。どうやら人が集まっていないらしい。市場原理から言えば、答えはただ一つである。世の中から必要とされていないということだ。

しかし、世の中から必要とされていないことと、世の中に必要でないこととの間には距離がある。このあたりは本当に微妙である。

ぼくは自分の主催する研究会で動員をかけたり、知人に電話をしたり、個人メールを送ったりということをしたことがない。机上の文書を見て、このことが、実はありがたいことなのかもしれない、と感じた。

「世の中から必要とされない研究会」が本当に「世の中に必要ではない研究会」なのかどうか、この書写の研究会に参加して見てみようかな、という気になった。

国語の全道大会にさえもう4年も参加していないのだが、書写の研究会に参加するというのは裏切りだろうか(笑)。いやいや、書写だって国語の先生がやっているのだから、そんなことはあるまい。

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濃厚な夏休み

真夜中の3時半。歩いて1分ほどのコンビニに煙草を買いに行った。通り道に公明党の太田代表が2人いて、選挙が近づいていることを物語っている。空には雲が蛙の形をしてはねていた。コンビニで飲み物の棚を眺めていると、200ccの牛乳パックが目にはいる。給食を想い出して、哀しくなった。

帰宅してPCに向かうと、明日は出勤だというのに、4時になっても眠れない自分に更に哀しくなった。

後悔のない、濃厚な夏休みが終わろうとしている。この夏休みの収穫は、肩の力が抜けたことだ。

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20の技術に整理せよ

夏休みが終わろうとしている。

前にも書いたことだが、この夏休みは、7月25日(土)の「国語科授業改革セミナー」に始まり、「教師力BRUSH-UPセミナー」「日本文学協会・国語教育部会」「授業づくりネットワーク09東京」を通って、8月22日(土)・23日(日)に最後の「中学校・学級経営セミナー」「国語科授業づくりセミナー」と研究会で終わる、という日程だった。

ただ、これまでの研究会提案はすべて、これまでの「溜め」を発表するだけの研究会であり、研究会準備をしていても新しいものを生み出すという作業はほとんどなかったと言ってよい。特に東京での二つの提案はその趣が強かった。東京での一週間は「人に会う」という点ではとても有益だったが、研究的にはほとんど何も生み出すことはなかった。せいぜい、自分の提案がどのように受け取られるかということを知ることができる、それだけだった。

今週にはいって、「中学校・学級経営セミナー」と「国語科授業づくりセミナー」の準備に取り組んだ。両方とも「ステージ発表を構成する20の技術」「物語・小説で習熟させるべき20の技術」という、「20の技術もの」である。

実は、この二つが有益だった。

「ステージ発表」の方は、これまで、自分が無意識にやっていたことについて、過去の映像をチェックして、一つ一つ顕在化しながら20の観点にまとめるという作業である。自分がこれまでなんとなく、当然のようにやってきたことを一枚一枚剥ぎ取って行き、それを分類して整理し直す。常に使っている技術と、ステージ発表の質に応じて使ったり使わなかったりしている技術との違いも自分で捉えることができた。過去に自分がやってきたことが、いまの自分にとっての〈教材〉になっている。そんな感じである。

「物語・小説の言語技術」の方は、ほぼ10年前にまとめたものを大幅改訂し、バージョンアップさせるという作業である。これは今後、ぼくがライフワークとしている「言語技術教育」と「文学教育」の融合について詰めて考えていくうえで、かなり大きな意味をもつ「中間整理」になった。これをまとめるのに三日三晩かかったが、この内容をそのまま一冊にすることができそうなくらいに、整理することができた。

この二つのセミナーには、ぼくといっしょに演劇活動や研究活動をしてきた人たちに聴かせたい、そんな内容になった自負がある。もしもお時間があったら、どうぞご参加ください。

夏休みの最終週に、自分自身がある程度満足することのできる仕事ができて、「本当によかったな」と思う。

これというのも、数ヶ月前に、自分に対して、自分自身で「20の技術」という企画を課しておいたことが幸いしている。「夏休みには20の技術を整理せよ」という課題を未来の自分に与えておいた、数ヶ月前の自分に感謝である。

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とりあえず、終わる

夏休みに入って、ほとんど学校に行くこともなく自宅研修。

7月が25日、30日、31日。8月が8~9日、11~12日、22日、23日と研究会があり、その準備のためである。7月24日が終業式で、8月24日が始業式だから、文字通り夏休みは研究会で始まり研究会で終わる。清涼剤は7月26日のフォークジャンボリーと8月18~19日のキャンプのみ。

中でも8日の日文協でのシンポジウム提案と11日の授業づくりネットワークでの講座は、連続で東京での研究会。この二つの提案準備がなんとか終わった。あとは明日、学校に行って資料を印刷するだけである。東京に資料をもっていくことを思えば、枚数を増やすわけにもいかない。資料を郵送することもできたわけだが、期日までに送れるはずもなく、結局持参。まあ、最初から送る気なんかなかったけどね。

なにはともあれ、とりあえず、終わった。

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申し込み状況

對馬くんから、「ことのは」関係イベントの申し込み状況が送られてきた。

8月と9月の学級経営セミナー。そして8月の国語科授業づくりセミナー。この3つのセミナーの申し込み状況である。

先月から、なぜだか、国語関係の研究会の申し込み状況がいい。もちろん実数では学級経営セミナーの方が上を行っているのだが、その差は一桁。学級経営セミナーが全教科の教師対象、国語科授業づくりセミナーが国語教師のみを対象にしていることを思えば、この差には驚きである。

なんとなく、久し振りに、国語の授業づくりの在り方が求められてはじめているのかもしれない、と感じた。

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ヘルニア

坊の首のヘルニアが悪化。

痛みが激しいらしい。ズキンと来るたびに悲しげな声をあげる。見ているのもつらい。

麻痺がこなければいいのだが…。

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