いい思いをさせてやる
衆議院選挙投票日。
民主党が300議席を確保するともっぱらの噂である。噂は噂、予測は予測なので、どうなるかはわからない。今日の21時頃には大勢が判明しているはずだ。
今回の自民党と民主党の違いは何だろうと考えたとき、それぞれの中心的な政治家が国民から見てどう見えるかということに尽きるだろうと思う。きれいかきたないかとか、嘘つきか正直かとか、そういうことではない。麻生さんや太田さんには焦りが見える。金切り声を上げ、厳しい闘いだと連呼し、その焦りが彼らが既に「終わった人間」であることを醸し出す。そういうことだ。彼らには未来を背負っているというオーラが感じられない。それは小泉さんが総理を辞して、数ヶ月でオーラを失ったときと同じ雰囲気がある。
別に自民党批判をしたいわけでもないし、民主党に「未来オーラ」が見えると主張したいわけでもない。
ぼくが言いたいのはこういうことだ。
「実は、教師も同じような目で生徒や保護者に見られているのではないか。」
これから札幌の中学校では、学校祭・合唱コンクールと大きな行事が続く。ぼくは今年、いまの勤務校に転勤したわけだが、教師と生徒のやりとりの雰囲気を見ているだけで、その教師が学校祭を得意としているか不得意としているか、合唱コンクールを得意としているか不得意としているかということが、手に取るようにわかる。特に見ようとしなくてもわかる。伝わってくる。そういうものなのだ。
これらの行事を得意としている教師は、生徒と会話していても笑顔である。それもつくり笑顔ではなく、心からの笑顔である。背筋も伸びている。アクションも大きい。声にも張りがある。生徒もそれがわかっているようで、無理難題を教師につきつける。それを教師が余裕を持って受け流す。或いは建設的な思いつきを披露する。生徒も笑顔になる。
自信を持っていない教師はどこか前のめりで、猫背である。そんなこと言ってもなあ…と、10メートル離れていても言い訳めいたことを言わんとしていることがわかる。生徒も無理難題は言わない。言っても無駄だし、学級のためにならない。それがわかっているから言わない。そんな雰囲気がある。
先日のセミナーでのことである。
参加費をいただいて開催しているセミナーなので、お客さんのことを批判するのは御法度なのだが、書いてみようと思う。
講座と講座の間、休憩時間の話。「学校祭の企画をどのように決めるのか。」という質問に対して、ぼくが「いざとなったら、オレが決める。」で押し通すと答えた折、その先生は「生徒が言うことを聞かなかったらどうするのか。」という質問を返してきた。ぼくは応えた。「ぼくならそのままごり押しします。」と。その先生は更に訊いてきた。「そんなことをしたら、学級が壊れてしまうのでは?」
セミナーの最終コマ、Q&Aでの話。こんな質問が出された。「合唱コンクールの練習で、女の子が2,3人、練習に参加せずに他の生徒の練習意欲をなくさせるような動きに出た場合に、どんな手立てがあるか。」
セミナーのアンケート。「学校祭ステージのBGMとして使えるアルバムを多数紹介してもらって、とても助かりました。紹介してもらった中から2,3枚、買ってみようと思います。」
うーん。
この三つの例、ぼくには同じ問題が横たわっているように思う。
第一の例。教師がごり押しすると学級が壊れる。これをこの先生は因果関係ととらえている。しかし、教師がごり押しした結果、なかなかいい企画ができ、結果的に生徒たちも他の先生に褒めてもらっていい思いをする。「先生のいうことを聞いてよかった」となる。こうした可能性は、この先生の中でまったく想定されていない。なぜ想定されないかと言えば、おそらくはそういう経験をしたことがないからである。
ぼくはだいたい生徒にごり押しする教師である。
「まあ取り敢えず、今回は先生のいうことを聞きなさい。そのかわり、おまえたちにいい思いをさせてあげるよ。」
こういうスタンスである。そして派手な演出で、実際にいい思いをさせる。生徒も保護者も楽しませる。「いい学校祭だったな…」と思わせる。その自信をもっていることが生徒たちに伝わり、その実績を生徒たちがそれなりに理解し、だからこそ、ぼくのごり押しはごり押しとして通るのである。
ところが、教師がごり押しすると学級が壊れると発想する先生は、おそらくは生徒にいい思いをさせられるという自信もなく、生徒がこの先生の言うとおりにすればきっといい思いができると思うような実績もない。だから、こういう発想になる。つまり、先生のいうことを生徒たちが聞かず、批判的になり、自分たちの主張をあくまで通そうとするのは、教師が信用されていないからなのである。教師の立ち方、教師の立ち位置、教師の姿勢、そういったものが影響しているのだ。
第二の例。数人の女の子が合唱練習の邪魔をするという。ぼくはそれを聞いて思う。さて、それは合唱コンクールの問題なのだろうか、と。合唱コンクールの練習でたまたま顕在化しただけで、それは4月からの教師とその女子生徒たちとの関係づくり、学級とその女子生徒たちとの関係づくりの反映なのではないか。日常の学級経営において、その子たちを取り込む指導を怠ってきたからこそ、合唱コンクール練習という大一番でその子たちの不満が顕在化してきたのではないか。
日常の学校生活ならその子たちとの対峙から逃げられるのに、合唱コンクールの練習ではいよいよ逃げられない、関係のうまくいっている生徒たちからさえ信用を失いかねない、そういうプライドと現実的な問題の中で、この問題を合しようコンクールの問題としてのみ捉えようとしている。そういうことなのではないか。その子たちの姿は、ある意味、4月からの担任の学級経営に対する「評価」なのではないか。自信をもって「悪いことは悪い」と伝えてこなかった、対立を避け指導を逃げてきた、その結果なのではないか。
第三の例。自分の企画、自分の学校祭だというのに、他人の好きな曲をそのまま使おうとしていいのだろうか。この世の中にBGMとして絶対的にふさわしい曲とか、絶対的にふさわしくない曲などというものはない。自分が聴いてきた音楽の中から、或いは生徒が持ち込んだ曲の中から、みんなで選曲した方がそのステージづくり独自のリアリティが生まれるのではないか。こういう発想がない。
自分の聴いてきた音楽に自信がない。自分の音楽を聴いて感動した、その感性に自信がない。結局、自分に自信がない。自信のないまま生徒の前に立つから、或いは自信のない自分を隠そうとして、他人の技術をそのまま使ってみて、結局は偽物だとばれてしまうから、生徒たちは教師を見透かしてしまうのである。
オレはステージの演出にはちょっと自信があるんだぜ、オレはいろいろ考えて練習計画を立てているから、オレについてくればそれなりの結果が伴ってくるよ、そういうオーラを出すことができれば、実は学校祭指導も合唱コンクール指導も95%は成功なのである。このオーラを醸し出しさえすれば、活動に「いい回転」が生まれてくる。そしてその「いい回転」にさえ入ってしまえば、何から何までうまくいくようになるのである。ごり押しがごり押しではなくなり、ネカティヴな生徒たちも表立って逆らえなくなり、他学級・他学年からも生き生きとした活動として見え始め、教師たちもなんとなく注目するようになり、最終的には結果が伴ってくるのである。教師の仕事は「いい雰囲気」「いい空気」をつくるだけ、それだけに専念すればよくなる。
教師たる者、この感覚を身につけなければならない。
30代半ばまでに、この感覚を身につけた者だけが、自信をもって生徒の前に立つことができる。おそらくそういうことなのだ。
自分のかかわる生徒たちに「いい思い」をさせてやる。それは人の上に立ち、権力をもつ者の、基本中の基本であると思うのだが……。すべての教員は早く自覚すべきだ。学級経営が〈政治〉なのだということを。
学級解体がないのに担任が替わることがある。前の担任がダメであればあるほど、4月、生徒たちは新担任に大きく期待する。また、その期待が大きければ大きいほど、新担任は一つ一つに結果を出さなければ「前の担任と大差ないじゃないか」と批判されることになる。
国民の民主党への期待はこの生徒たちの期待と同質であり、民主党の政権交代後の困難は新担任の困難さと同質である。
はてさて、民主党は我々に、どれだけ「いい思い」をさせてくれるのやら……。
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