« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

国語科授業塾・読解編

「国語科授業塾・読解編」と題して、1年半振りの国語科授業改革セミナー。

読解の授業技術、教材研究法に特化した企画で、内容的にはかなり難しい内容だった。

それでも、28人が参加。当初、10人も集まるだろうかと思われていたマニアック企画のつもりだったので、予想の3倍の人数が集まってちょっと驚いた。

参加者は「ことのは関係」のイベントに初参加という方が7割を占めた。しかも一般参加者は女性が7割を占めた。どうも、いま、実は多くの先生方の問題意識は、ぼくらが80年代~90年代に通り過ぎてきた「授業の王道」の方にあるのかもしれない、そう感じた。少なくとも、一定の割合の人たちがそこに問題意識をもっているのは確かなようだ。

参加者の顔つき、表情、そして何より眼差しが真剣だった。ぼくらもジョークとか、笑いとか、一切なしで、まじめに誠実に語り続けた。

感想も概ね好評で、このブログに対する田崎くんのコメントも嬉しいものだった。

まあ、とは言っても、同じような企画をもう一度やってみて、どの程度集まるかを見てみないことには、本当のところはわからない。いずれにしても、2学期にこの手の企画をもう一度やってみようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

シンプルに捉えるということ

最近、研究会講座用にPPTをつくっていて、そのスムーズさに自分自身で驚くことがある。

PCに慣れたとか、PPTを使い慣れたとかいうことではない。語るべき内容がスラスラと出てくるのである。自分の語りたいことというか、自分の教育観というか、実践観というか、それらが知らない間に整理されていたのだと思い知らされる。

しかもそれらは、自分でも驚くほどにシンプルな言葉で綴られる。言葉をこねくりまわしたり、裏返したりということがない。かつての苦労が嘘のようだ。

そういえば、来年、教師生活も20年目を迎える。最初の10年間の実践がいくつかの著作になって、10年やり続けると大きな展開があるのだなあと思ったものだが、それと同じ期間がもう一周過ぎようとしている。他人の評価もあまり気にならなくなってきた。自分は自分の道を進む、と。

「ああ、新しい境地なのだなあ」

そう感じる今日この頃である。

シンプルに捉えるということ。こねくりまわす必要も、裏返す必要もない。新しい境地とは、たったそれだけのことである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

中学校副校長、覚醒剤所持

おいおい。

かつて、東北地方だったか、関東北部だったか、二十代の女性教諭が覚醒剤所持で逮捕されたっていうニュースがあった。90年代半ばくらいだったかなあ。

逮捕されたのが若い教師だったんで、「馬鹿なヤツもいたもんだ」と笑った覚えがある。

今回はまったく笑えない。

「勤務態度に問題はなかった」っていうことが、なおさら笑えなくさせている。オレの周りにもいるんじゃねえだろうな……っていう気になってくる。

一昨年の札幌の猥褻教頭といい、教頭とか副校長とかがストレスフルな立場だってことを差し引いても、ちょっと考えにくい事件である。モラルの低下とか、綱紀粛正をとか、そういう言葉とは無縁の何かが、ぼくらを包み込んでいるような気がしてくる。

【以下引用】

53歳の中学副校長、覚せい剤所持で逮捕/7月21日12時25分配信

神奈川県警高津署は21日、東京都練馬区立光が丘第二中学校副校長の高橋三郎容疑者(53)(中野区南台)を、覚せい剤取締法違反(所持)容疑で現行犯逮捕した。

発表によると、高橋容疑者は同日午前7時15分頃、自宅マンションでビニール袋入り覚せい剤1袋(約0・6グラム)を所持した疑い。調べに対し、「知人から預かっていた。3年前くらいから使っていた」と供述している。

同校の坂井晃校長は「勤務態度に問題はなかっただけに驚いている。事実関係を確かめて対応したい」と話している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サイモン&ガーファンクル

札幌公演に行ってきた。

コネを使って、いい席を確保した。一番前のブロック、しかもど真ん中。手を伸ばせば届きそうな、ほんの10メートルの距離。そこにポール・サイモンとアート・ガーファンクルがいた。オペラグラスなんかいらない。大画面に目を向ける必要もない。アート・ガーファンクルの目の動きも、ポール・サイモンのギターをつま弾く指の動きも、はっきりと見えた。

アリーナ席はもちろん、スタンド席までびっちり。アリーナ席はすべて同じ13,000円。年配者が夫婦できている客が多かった。おそらく、10倍の値段を払ってでも、ぼくの席を確保したいと思う人が何十人も、いや、何百人もいたに違いない。コネとはすごいものだと改めて感じた。コネの対象よ、ありがとう(笑)。

大画面に映るかつての二人。次第に年輪を刻んでいく姿が次々と映し出されていく。札幌ドームが映し出され、ステージにスポットが当たったとき、彼らはいた。

額と目尻に年齢を感じさせるアート・ガーファンクル。

かつてと異なり、どこかまっすぐに立てていない趣のポール・サイモン。

静かに「Old Friend」の前奏が流れた。

泣けた。40年前、ブックエンドのように旧友が並んで座っていると歌った彼らが、まさしく「Old Friend」となって、そこに立っている。そして「Old Friend」は、お決まりの「Bookends」へ。かつてぼくらが聴いたとおり、憧れたとおりの展開がそこにあった。

「Hazy Shade of Winter」「I Am A Rock」「Amarica」「A Heart In New York」「Slip Slidin' Away」などなど、耳慣れた名曲たちが次々に流れてくる。

「Mrs. Robinson」「Scarborough Fair」「Bridge Over Troubled Water」「El Condor Pasa(If I Could)」「Sound of Silence」「The Boxer」といった、日本でも世代を超えてお馴染みの曲では会場全体が興奮状態。ラストの「Cecilia」まで、大満足の2時間だった。

更にぼくを満足させたのは、ライヴ半ばにアート・ポールそれぞれのソロの名曲3曲ずつのパフォーマンスである。ポールの名盤「Graceland」の名曲「The Boy In The Bubble」「That Was Your Mother」「Diamonds On The Soles Of Her Shoes」は大満足だった。ぼくがリアルタイムで聴いた大ヒット作。いったい何度聴いたことか。それがいま、まさに目の前でパフォーマンスされている。たまらなかった。

曲の途中で咳き込んだり、カポがちゃんとセットされていなくて演奏し直したり、アートとポールのアドリヴ的な掛け合いから「Be Bop A Lula」を歌い始めたり。愉しく、ほのぼのした雰囲気も盛りだくさんのライヴだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ぶれないこと

かつての教え子の女の子と一杯やった。

いまは千葉の郵便局で働いている。急に連絡をよこして食事でも…というので、自宅近くの居酒屋まで足を運んでもらい、3時間ほど四方山話に花を咲かせたわけである。

ぼくとかかわった経験が仕事に活きている、そう彼女は繰り返した。

職種が違うのに何が活きているのかと尋ねるぼくに、彼女はひと言で応えた。

「仕事をするうえでぶれないこと」

ああ。

そういうことなら、ぼくという存在がいまなお活きているということもあるかもしれない。

彼女は「堀先生はなんでも具体的に教えてくれた」とも言った。

それで、ぼくのなにを、どんな姿を覚えているのかと訊くと、煙草を吸いながらトランプのPCゲームをやっている姿なのだそうだ(笑)。

ありがたく、愉しい3時間あまりだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バランス

「発つ鳥跡を濁さず」という。ましてや、発ってしまった鳥に何もいう資格はない。それはよくわかっているのだが、いわずにいられない思いを抱いてしまった。

失礼にあたるし、不遜なことでもあるのだが、書いてみようと思う。

実は今日、3月まで勤務していた上篠路中学校のバドミントン部の中体連大会を見に行った。昨夜、生徒から見に来いと電話があったので、少々気が引けたが見に行ったというわけである。

驚いた。

生徒たちのメンタル面が目に見えて弱くなっている。

3点リードされた程度で、表情に、明らかな不安と焦りが浮かんでいる。逆に、3点リードした程度で「勝てるかもしれない…」というゆるみが表情に出てしまっている。3点なんてワンチャンスに過ぎないということをいやというほど知っている生徒たちが、その誘惑と焦燥に勝てなくなっている。

技術に頼り、相手を押し込むことを忘れている。クリアに甘さが出て、シャトルを叩いて相手をばたつかせる場面が見られない。スマッシュの優先順位が慎重に打つことになってしまっている。前後で戦わずに、左右に振ることで闘っている。

3月までの2年間、バドミントンなどやったこともない顧問4人が、体力づくりと精神論だけで指導してきたバドミントン部だった。それでもそれなりの成果を挙げていた。ぼくが転勤するにあたって、バドミントンの専門家が転勤してくるということで、ぼくは安心していた。

ぼくたちができなかった技術指導。

顧問4人が雁首そろえて技術指導ができない。そこに常に限界を感じていたバドミントン部。それが払拭されることを、ぼくも、他の顧問も、みんなが単純に喜んでいた。技術指導のできる顧問が来ることは、ぼくら顧問にとっての、そして生徒たちにとっての、つまりは上篠路中バドミントン部にとっての、「夢」だった。

あのバドミントン部は、明らかに技術指導に飢えていた。それがあの生徒たちを技術に頼る生徒たちに変えてしまったのだと思う。

こう書いてきたが、新しい顧問のせいではない。かといって、ぼくら素人顧問軍団のせいというのでもない。そうではないのだ。

精神論指導を受けた2年間と、技術指導を受けた3年目との間で、生徒たちのバランスが崩れてしまったのだ。新たなバランスがまだできあがっていない、そういう時期に大会があたってしまったのだ。あと数ヶ月がたって、新しい顧問の指導方針が骨の髄まで染みわたっていれば、もっともっと彼らは躍動できたはずなのだ。

何試合かを見ていて、それを感じずにはいられなかった。

いまの2年生を中心とした新しいチームが、新しい顧問のもとで早く「チーム」となり、新しい顧問の指導方針が血肉化していくことを強く望む。

とにかく今日は、ここ数年でもっとも勉強になった。そんな一日だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

静かな声

「研究集団ことのは」の例会。たぶん3ヶ月ぶり。

学期末の忙しい時期なので、準備がいらないように期末テスト問題と模範解答、1学期の生徒ノートのコピーで、各々が授業観・評価観を提案。資料を見て、話を聞いていると、オリジナルメンバーというか古参メンバーが急激に、そしてダイナミックに成長しているのが感じられる。

変ないい方だが、自分も含めて、森くんや山下くん、小木さん、對馬くんあたりによどみがない。期末テスト問題を見ただけで、或いは生徒のノートを見ただけで、その人が何を目標として何をしようとしているのかが伝わってくる。もちろん細かなことを言い出せばきりがないのだが、それでもブレのない、一貫性のある4ヶ月を過ごしていることよくわかる。

しかし、手前味噌にこういう認識をもったときが、もってしまうときが、実はいちばん危険であるということをぼくは知っている。こういう認識をもつのを抑制できないとき、組織ってのはどうしようもなく「破壊すべきとき」が近づいていることを物語っているのだ。

活動を休止しようとか、解散しようとか、そういうことではない。

組織をぶっこわすべきだということではないのだ。「ことのは実践」の質をぶっこわさなくてはならない時期が近づいているのであり、「ことのは理論」をぶっこわさなくてはならない時期が近づいているのだ、という意味である。そういう新たな段階を視野に入れ始めなくてはいけないよ、ということである。

そういう静かな声が聞こえてきた、そんな例会だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »