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不毛な構造

ある教育メルマガが届いた。

ふだんなら開くこともなく削除…なのだが、気が向いて開いてみた。山口の附属小学校の先生が「わらぐつの中の神様」の実践を報告している。

基本的に課題解決学習の実践である。初発の感想から子どもたちの疑問を抽出し、話し合いで「課題」をつくった、そう書いてあった。しかもそれを考えていく中で、題材の主題に迫るような課題が子どもたちの話し合いからできてきて、それを解決していく授業がなされた。簡単に言えば、こういう展開である。

「こういう実践報告を久し振りに読んだなあ。」

率直なところ、そう思った。

これは「課題解決学習」が、或いは「学習課題論」が隆盛の頃、実に多くの報告が世に出まわった、それらと同じタイプの実践報告である。1970年代から90年代半ば頃まで続いただろうか。そこから一歩も進んでいない報告だった。

はじめに言っておくが、ぼくはこの先生を批判したいのではない。

課題解決学習(この先生は「読みのめあて」という語を用いていた。このことばも懐かしい。)は授業を「システム」にすることができる。その意味で、授業をする側の教師としては、ある種の安心感を抱くことができる。ぼくもかつて、ずいぶんとやった。

しかし、課題解決学習の一番の根幹である「子どもたちの話し合いの中から新たな課題が止揚される」というところがどうしてもうまくいかない。教師の強引な手腕によって形にすることはできる。だが、それで納得できないと思うとき、課題解決学習は破綻する。

この先生も「教師が強引にまとめないように」ということを気をつけなければならない旨を書いていた。実践の結果、おそらくはこの先生もそこのところに違和感をもったのであろう。40年前の議論とも、30年前の議論とも、そして20年前の議論とも、まったく同じである。

結局、「授業をシステム化することの安心感」と、「子ども主体による課題の止揚という理想」とが、なかなか結節点を紡いでくれないのである。おそらく、後者を重視すれば、もっと大胆にワークショップ型の展開を導入せねばならないし、前者を重視するなら、もっと「行動主義的な授業形態」、言うなれば、「課題設定訓練のようなプログラム学習」的なもの事前準備としてかなりの量が必要となる。結局、課題解決学習は「二兎を追う者、一兎を得ず」の代表的な指導形態となっている感がある。

おそらく、このたびの実践を報告している先生は、その書きぶりから見ると若い先生なのだろうと思う。20代か30代前半か。

この実践を追い続ければ、これから反吐の出るような課題が山積している。教師が予定調和的に用意した課題ではなく、真に「子どもがつくった課題」と胸を張って言えるような授業にするには、子どもたちにどのような「レディネス」が必要なのか、教師が裏で用意してある理想的な課題にどの程度まで収斂して良いのか、初発の感想はどのようにとるべきか、理想の課題に近づけていくために教師はどの程度かかわって良いのか、そのための指導言はどのように展開されるべきか、子どもたちの話し合いが右往左往・試行錯誤したときに予定外の時間延長をどこまで認めて良いのか、子どもたちの話し合いが予想外の展開を示したときに教師はそれで良しと腹をくくるべきなのか否か、……こんなことを考えながら、思考は課題づくりのハタ゜ーンは何種類くらい想定されるのかとか、話し合いの仕方に「型」(=システム)があった方が便利ではないかとか、一次感想と二次感想の間に中間感想をとって子どもたち一人一人の変容を見るシステムを開発しなければとか、゛とんどんと蟻地獄に陥っていく。

そしてみな、若い頃の課題解決学習への思いを捨て、自分なりの授業システムへと移行していく。若い先生はそんな先人の経緯を知ることなく、また課題解決学習を追い始める。先人の試行錯誤は試行錯誤止まりであったために、記録としては残されていない。だから、また、1から始めようとする。

今回の先生の実践報告が40年前の報告や30年前の報告と代わり映えしないのは、決してこの先生のせいではなく、教育界にこのような「不毛な構造」があるからである。

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