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「上司につける薬!マネジメント入門」(高城幸司/講談社現代新書/2006.09)を読んだ。これといって特徴のない本だが、ぼくらが学校現場を生きていく上で、大切と思われる一節があった。

マネジメントをする際には、プレイヤー時代の自分がそれをできたかではできなかったかは、「棚に上げ」ねばならない。そして、その人がミスを修正するためにどうすべきか、を自分の立場から毅然と導くこと。「ボクができなかったのに、無理言っちゃってごめんね」といった態度は、誰にも益をもたらさない。自分の心苦しさを回避しているだけだ。

当然と言えば当然のことなのだが、人はこの原理を忘れがちである。プレイヤーとしての成功者がマネージャーとしての成功者になれるわけではないことは、長嶋監督が、王監督が、そして釜本監督が、監督として第二の人生を歩み出した途端に伏せ目がちの姿ばかりをぼくらに見せ続けたことでもわかる。それに比して、広岡監督や仰木監督の堂々たる采配をぼくらはいまだに瞼に浮かべることができる。名選手、必ずしも名監督ならず。耳にたこができるくらいに聞いたフレーズである。

しかし、ぼくらが校長を見るとき、或いは指導主事を見るとき、彼らがかつてどんなプレイヤーであったかが必ずといってよいほどに話題となる。しかも、どのような授業プレイヤーであったかはほとんど問題とされることなく、どのような生徒指導プレイヤーであったかばかりが問題とされる。あるいは学級経営プレイヤーと言い換えてもいい。結果、かつて生徒指導ができなかったとの評判のある校長や指導主事は軽視され、蔑視され、疎んじられる。

ぼくらの誰もがこのメンタリティを少なからず抱いている。どんなに理知的な判断をする者もこのメンタリティから自由ではない。そしておそらく、生涯、解放されることはない。教員世界とはそういうものである。

しかし実は、生徒指導が得意、学級経営が得意という人ばかりがいても、学校は成り立たない。

学習指導要領とにらめっこしながら教育課程をつくる人。

緻密な事務仕事を得意として一つもミスをせずに進路事務ができる人。

お金のやりくりをしながら効率的に会計を司る人。

写真を撮ったりビデオを編集したりすることを趣味としている人。

卒業アルバムや生徒会誌をバランスを考えながら編集できる人。

こんな人たちが必ず学校には必要なのである。

しかし、こういう人たちは職員室での評価が低い。それも、著しく低い。ぼくはこの慣習をなんとか打破しなければならないと思っている。

この構図を打破する手立ては実は二つしかない。

一つは、こうした人たちが、生徒指導や学級経営ができなければ認められないのだ、教職とはそういう世界なのだと一念発起して、生徒指導や学級経営のスキルアップを図ること。これができたら一番いい。

小沢一郎が民主党代表を辞職したが、彼が辞職せざるを得なかったのも、「政治家とは○○である」という政治家テーゼに触れたからにほかならない。政治家テーゼとは「国民に何か陰で悪いことをしているのではないかと疑われないこと」である。実際に悪いことをしたかどうかで責任を問われるのではない。疑いをもたれたか否かで責任を問われるのである。

教師も「生徒指導ができないと判断された時点で失格なのだ」という教員テーゼに従って、みんながスキルアップを図れば、これほど良いこともなかろう。

しかし、だれがどう考えてもこれは現実的ではない。政治家テーゼなら意識して、気をつけて生活することができる。陰でいかなる悪事を行っていようと隠すこともできる。だが教員はそういうわけにはいかない。生徒指導も学級経営も相手がいる。生徒指導も学級経営も常に、少なくとも子どもと保護者には公開されている。いくら意識して気をつけても、いくら隠そうとしても、力量のない教師が責任を問われずに済むことはほとんどあり得ない。隠せるのはせいぜい、政治家と同じように、私生活のいいかげんさくらいだろう。

とすれば、別の道を探すしかない。どんな道か。それが二つめである。それは、こうした生徒指導や学級経営を不得手とする教師たちを、生徒指導や学級経営を得手とする教師たちがフォローすることである。そしてフォローと同時に、自分たちが、実は、彼らの得意とするような研究や、緻密な事務仕事や、緻密な会計や、おたく的なこだわり仕事を不得手としていることを自覚することである。

これを自覚すれば、彼らの存在を、価値を認められるようになっていく。職員室が役割分担によって機能していることを理解できるようになる。学校の職員室には、この「役割分担」という意識が皆無と言っていいほどにない。それが現状である。

生徒指導力や学級経営力を相対化すべきである。

生徒指導屋には生徒指導屋の役割があり、担任屋には担任屋の役割がある。研究屋には研究屋の、教務屋には教務屋の、そして行事屋には行事屋の役割がある。もちろん、管理職にも管理職の役割がある。

これらを有機的に結びつけること。教員再生の道も学校再生の道も、このこと以外にはない。ぼくにはそう思える。そしておそらく、この結びつける力のことを、一般に「マネジメント」と呼ぶのだ。

生徒指導や学級経営ばかりでなく、研究も教務も会計も行事も編集も、そして管理職でさえ、みな役割分担に従ったプレイヤーとしてプレイしているのである。それらを有機的につなげていくフォーメーションを考えようではないか。

できれば、PTAも巻き込んで……。

これがぼくの理想の職員室だなあ。

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コメント

そうそう、これを私も校長に話していました。教師の仕事をだいたい10個ぐらいに分けて、その中から3つ希望を出すという感じで実際は5つぐらいやるというものです。

授業職、クラブ職、生活指導職、教務職、研究職、学級事務職、担任職、環境保健職、特別活動職、管理職・・・これらの中から選んで行うという感じです。

上手く回っている学年とか学校というのは、それが自然と出来ているという感じがしていました。

投稿: 池田修 | 2009年5月12日 (火) 23時57分

おお。同志がいたね。
でもこれ、中学校的な発想みたいね。小学校の先生に話したら、鼻で嗤われたことがある。

投稿: 堀裕嗣 | 2009年5月13日 (水) 00時14分

そうそう。小学校の先生はこういう感覚はないようですねえ。

ちなみに、「勤務時間が終わったら学校の電話を留守番電話に切り替えて、命に関わるようなものは教頭の携帯電話へどうぞ」というのを提案したこともあります。

これどう?

投稿: 池田修 | 2009年5月13日 (水) 09時33分

うーん……発想には賛成ですけどね。勤務時間終了ってのはちょっと現実的には無理がありますね。19時くらいが落としどころかな。

投稿: 堀裕嗣 | 2009年5月13日 (水) 22時04分

あるとき校長に話したら、
「それはいい!」
と言って、校長会の議題にしたとのことでした。校長さんたちは全員、それは良い!と言ったのですが、実現しませんでした。

私立の学校では実現しているんですけどね。

投稿: 池田修 | 2009年5月14日 (木) 09時15分

だ~れ?提案したの。藤原和博さん?
しかも校長連が賛成した?
にわかには信じられない話ですなあ。校長連ってのはもっと保守的なんでないの? これ、けっこう学校評議員とか地域の人とか、反対しそうな提案ですよね。学校評価にも書かれそうだし。「教頭の携帯になんてかけづらい」とか……。

投稿: 堀裕嗣 | 2009年5月14日 (木) 23時15分

いや、そうではなくてこの前の学校f(^^;。
私のであった中では三本指に入る今でも敬愛している校長さんです。

とっても過激でとっても職員に優しい校長さんでした。

投稿: 池田修 | 2009年5月18日 (月) 01時07分

なるほど。ぼくは「これは!」という校長さんには出逢ったことがないなあ。なんか保身ばかりが見え透いていて……。おもしろい教頭さんになら、何人か出逢ったことがあるけど。
それにしても、お互い、夜中の1時過ぎに起きている生活はよくないですなあ……。

投稿: 堀裕嗣 | 2009年5月18日 (月) 01時27分

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