意気
お兄さんも昔はペテン師みたいで とってもシゲキ的だった だけど今ではすっかり丸くなって いつでも笑うだけ(「お兄さんの歌」忌野清志郎&2・3’s)
昔から割と好きなフレーズだった。清志郎が40を好きでつくった歌である。先日、清志郎を聴いていて、改めて感じ入るものがあった。月並みだけど、本質だ。
ぼくもご多分に漏れず、40歳を過ぎて丸くなったとよく言われる。自分でも可笑しいくらいに、ちょっとやそっとのことでは腹を立てることがなくなった。意識的に腹を立てないようにと注意しているわけではない。腹が立たなくなったのだ。
そんなぼくがいまでもどうしても腹を立てることがある。「ことがある」というよりも、「腹を立てる領域がある」といった方がいいかもしれない。
今日、職員室で、ある若手教師との間で、こんなやりとりがあった。
若手:堀先生、お忙しいところ、すいません。ちょっとお願いがあるのですが……。
堀:な~に?
若手:実は先日の野外学習の下見で撮ってきたビデオで、「かまどづくり」のビデオをつくろうと思うんですが、ビデオ編集の仕方を教えてくれないでしょうか。
堀:いいけど。8000円かかるよ。ビデオ編集ソフトを買わなくちゃならないから。
若手:ええっ!8000円ですかぁ……。
堀:その程度の投資ができないんならやめた方がいい。どうせモノにならないから。
この若手教師はそそくさと自分の席に戻って行った。
かわいそうだと思いながらも、今後の自分とこの若手教師との関係を考えたとき、ぼくはこういう対応をせざるを得なかった。この若者に彼の意図通りにぼくのソフトをインストールさせ、使い方を丁寧に教えたとしたら、彼から今後ずーっと頼られることになる。彼の中に「堀さんに頼めば教えてもらえる」という甘えが形成されてしまう。それが今後、ぼくの時間をどれだけ奪うことになるか。咄嗟にそういう論理が頭の中で展開した。
「申し訳ないが、8000円をかけられない者に費やす時間はない」と。
おそらく彼に編集の仕方を教えるのに、少なく見積もって5時間はかかるだろう。まず基礎的な使い方を教えるのに2~3時間程度。一度彼がつくってみたものをぼくが見て、手直しすべきところを指摘するのに1時間程度。そこからは彼に付きっきりで2時間程度はかかるはずだ。たぶん足かけ3日の作業になる。共通の空き時間なんてそうそうないから、すべてが放課後、しかも生徒会や学年協、部活の生徒が帰ったあと、19時頃からの作業になるだろう。
この若者は、自分の言っていることが、ぼくの私的な時間を5時間以上奪うだろうことを意識しているだろうか。
答えは明らか。していない。
彼がもし、「そうですか。それじゃあ、今日買ってきます。ぜひビデオ編集を覚えたいんで……。」と言えば、ぼくは喜んで自分の時間を5時間でも10時間でも割いただろう。しかし彼はそう言わなかった。それでぼくの気持ちも一気にしぼんだ。
上のやりとりはそういうことだ。
最近、ぼくに「意気」に感じさせてくれる若者が姿を消してきたような気がする。妙に金を惜しむ。それでいて他人の時間を奪うことには無頓着である。そのくせ「お忙しいところ、すいません」といった心のこもっていない社交辞令は使う。
たった8000円出せば、そしてこの人の技術の基本を学ぶことができれば、今後、少なくとも10年は自分の仕事に潤いを加えることができる……そういう頭の使い方をしない。
もっと意地悪くいえば、ぼくが現在の編集技術を身につけるのに、どれだけの金と時間と労力を費やしたかなんていうことは思いも寄らない。だから、簡単に頼める。
もう一つ思うところがある。
上篠路時代、ぼくが可愛がっている若者が二人いた。彼らの心象も、実は今日の若者とそれほど変わりはしない。仕事のツールには金を惜しむ。それでいて遊ぶことに金をかけるのはいとわない。まあ、そういう感じだ。それでも、ぼくは彼らには教えた。なぜか。それはぼくが彼らを育てる責任をもつ立場にあったからだ。学校長がぼくにそれを期待して、彼らをぼくの下につけたからだ。だから、ぼくは、さきほどとは少々違った意味で、その人事を「意気」に感じていた。
しかし、いま、ぼくは今日の若者を育てる責任をもつ立場にはない。正直に言えば、だから断れるのである。
つくづく、人間とは現金なものだと思う(笑)。
これまで、若者に教えるか否かということのみで語ってきたが、実はこの「意気」の構造は、若者を育てる場合のみならず、仕事全般に対して言えることである。最近、「意気」に感じる仕事が減ってきた。給与格差や免許更新や昇進だけが、経済効率的に仕事の代償として語られる世の中になってきた。それが教師の世界まで浸食してきた。
おそらく今日の若者が8000円をしぶるのにも、無意識的にこの経済効率が働いている。彼にとって、今回自分の仕事として与えられているビデオをつくる仕事も、ぼくに教えてもらおうとした編集の仕方も、彼の中では8000円の値がないのである。
そしてそれを瞬時に感じたからこそ、ぼくはネガティヴな反応をするのである。
おそらくぼくが「意気」に感じるのは、「値踏みできない価値を堀さんに教えてもらうことに見出していますよ」という姿勢が見えたときなのである。それが見られない場合には、ぼくの時間はぼくのものだというエゴイスティックの中に閉じこもるのである。
おそらく古くから、こうした「あなたにお願いしたいのです」という姿勢を示すことが、実は「世渡り」の中核だった。
ぼくらが開催する研究会なんかは、それだけで動いている。ぼくらは「あなたが一番ふさわしい」とか「あくまであなたの提案を聞きたい」とか「この危機を救えるのはあなたしかいない」とか「あなただからこれを頼めるのだ」とか、こういった論理だけで登壇者が決まっていく。だから、二度連続で断られると、もう二度と頼まなくなる。
結局、どんな組織も、おそらくは最先端に洗練された組織でさえ、日本人が仕切る組織はいまだに浪花節で動いているに違いない。最近、いろいろなところで摩擦が起きるのを見ていると、Aさんの浪花節とBさんの浪花節がズレているということに起因しているのを感じる。
ぼくもここ数年、昇進を前提とした浪花節世界観をもっている管理職と、専門職を前提とした浪花節世界観をもっている自分との間に、大きな齟齬を感じている。
ある管理職は、ぼくとの初対面でこう言い放った。
「私に仕えると昇進が早いよ。」
ぼくはこのひと言で、この人のための仕事はするまいと決意したのだった。彼もまた、そんなふうに思う人間がいることを想像できないのである。おもしろいものだ。
ついでに言えば、この校長はその数週間後、「来年は堀さんにふさわしいポストを用意するからね。ふさわしいポストを。」とおっしゃってくださった(笑)。あまりにありがたくて涙が出そうになった(笑)。
ぼくにとっては、校長も若者も同じなのに……。
とにかく、「意気」に感じるような仕事をしたいものである。
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