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あたりまえのこと

世の中には、あたりまえのことがあたりまえのこととして認知されていない事例がたくさんある。ご多分に漏れず、教育界もそういうことだらけである。大学時代の刷り込みがいまだに影響を与え続けているなんていう例もあれば、あまりに思い入れが強すぎるために他の可能性に考えが及ばないなんていう例もある。いずれにしても、ちょっと考えればド素人でもわかるようなことに、なかなか気がつかない。いや、むしろド素人だからこそ気がつくということさえ、世の中には多いものだ。

授業の名人、教育の名人、最近は教育の鉄人などと自称している者もいるが、こうした著名な実践家が言っていることが意外に単純な、シンプルなことである、という場合も多い。「セミプロ」、もっといえば「えせプロ」が思い込みや思い入れ故に気がつかないことに、彼らは本質だけを見極めようとしているが故に気がつくことができるだろう。ド素人でも気づく「あたりまえのこと」に気がつくにも、ある才能が必要なのかもしれない。

今日、ある若手教師として話をしていて、こんな思いを強くした。

その若手教師が私の授業を参観したあとに言うには、「堀先生はどうしてあんな発問が思いつけるんですか?」とのこと。

おいおい。

私は今日の1時間で、ただ一つの発問も子どもたちに投げかけていない。ただの一つもである。それなのに、この若手教師(仮にAさんとしよう)は、私の発問に感銘を受けたというのである。Aさん、私は発問なんて一つもしてないよ。今日の私の授業は、「説明」と「指示」だけで構成されていたじゃないか……と言いかけて、合点がいった。

ははあ、Aさんの中では「発問」と「指示」と「説明」が未分化なのだ……。

言うまでもないことだが、教師の指導言には三種類ある。「発問」と「指示」と「説明」である。

戦後、授業研究は良質な発問をつくることに心血を注いできた。良質な発問が良質な授業をつくる、と。大学の教育専門科目の先生方は、みんなが口をそろえてそう言い続けてきた。その結果、「教師の指導言=発問」という暗黙の了解といおうか、暗黙の慣習と言おうか、教師百万人の共同幻想的勘違いとでも言おうか、そんな状況が生まれた。

しかし、この状況はよくない。まったくもって良くない。

教師の指導言には「発問」「指示」「説明」の三種類が厳として存在するのである。この三つは分けて捉えた方がいい。その方が教師の力量形成にとって、圧倒的に便利である。

教師の指導言には「発問」と「指示」と「説明」がある。この三つの中で最も重要なのはどれか。こう問えば、きっとAさんは「発問」と応えるに違いない。しかし、それは違う。全く違う。この世の中に「発問」のない授業はごまんとある。たとえば、今日の私の授業のように。

授業にとって絶対に必要なもの、必要不可欠なもの、それは「説明」である。

「発問」のない授業はごまんとある。「指示」のない授業も少なくない。しかし、「説明」のない授業はこの世の中にはあり得ない。だって、子どもたちに伝えようとする内容を説明することなく、授業することが可能だろうか。教えない教育と銘打って、子どもたちに話し合わせ、学び合わせる授業を展開したとしても、その話し合いの仕方、学び合いの仕方を説明しなくてはならない。子どもたちに伝えたい内容が「意味」であろうと「方法」であろうと、子どもたちに伝えようとする限りにおいて、そこに絶対的に必要なのは「説明」なのである。

では、残りの「発問」と「指示」とでは、どちらが重要か。

これはもう、圧倒的に指示である。「発問」を投げかけずに、「説明」して「指示」する授業はあり得る。しかし、一切の「指示」をせずに、「説明」して「発問」を投げかけるだけの授業はあり得ない。必ず、その発問に対して、どのように活動し、どのように思考し、どのように解決するかという「説明」と「指示」とが不可欠なのである。

ここまでをまとめてみよう。

①「説明」だけの授業はあり得るが、「指示」だけの授業とか、「発問」だけの授業はあり得ない。

②「説明」と「指示」だけの授業もあり得るが、「説明」と「発問」だけの授業はあり得ない。

③「発問」を中核に構成する授業は、必ず「説明」と「指示」とを伴う。

何も授業のことなど考えなくてもよい。人間の日常的なコミュニケーションを考えてみれば、明らかなことである。1対多の相互コミュニケーションにおいて、「指示」だけとか「質問」だけとかでコミュニケーションが成立するだろうか。こんな単純でシンプルなことに、「セミプロ」や「えせプロ」はなかなか気がつかない。私が「ド素人の方がわかる」というのは、こういう例である。

ついでなので、中学校教師として力量形成を図りたいと思う、若い教師たちに伝えたい。

若手教師は、自分が国語なら先輩教師の国語の授業を参観しようとする。自分が数学なら数学の授業を参観しようとする。自分が美術なら美術の授業を参観しようとする。

もちろん、これは悪いことではない。自分の教科の授業は確かにたくさん見た方がいい。

しかし、「発問」「指示」「説明」を分けて考えてみると、見るべきものが変わってくるのだ。

まずは「説明」。「説明力」を見るなら、数学のベテラン教師と社会のベテラン教師の授業を参観することをお勧めする。数学は抽象的なことを抽象的なままに子どもたちに落とすということを学べる。図示したり、既習事項と同一の原理を導き出したり、こういったことをしながら数学の授業は進んでいく。具体例をいくつも挙げながら、それらの共通点を導き出して「ほ~ら、こういうことでしょう?」という説明をするのは社会科教師である。一つの社会事象、社会原理を説明する上で、彼らはいくつも具体例を挙げて説明する。それも、子どもたちにも理解できるような具体例を次々に出す。社会科とはそういう教科なのだ。何も、研究をしっかりとやっている、いわゆる「研究屋」の授業である必要などまったくない。何十年も数学教師や社会科教師をやっていれば、子どもたちを惹きつけながら授業を進めていく、血肉となった「授業の知恵」レベルのものを見るほうが勉強になる。彼らにとって「授業の知恵」は、もはや「生活の知恵」レベルにまで血肉化している。その呼吸をこそ見るのである。

「指示」の勉強なら、何を措いても音楽教師である。特に合唱指導だ。彼女たちは「○○を目的とする場合には□□といえばよい」ということを知っている。あの手この手、手を替え品を替えた「指示」の連続によって、音楽の授業は進んでいく。しかも彼女たちのすごいところは、言葉巧みに音楽室の空気を支配し、子どもたちをノセていく技術が身についていることだ。20年以上も音楽教師を続けているという者は、まず例外なくこの呼吸を身につけている。だってこれを会得しないことには、音楽の授業自体が成立しないのだから。更には、いつ、どこで、どんなふうに短時間の休憩をもって集中力を持続させるか、そんなタイミングまで心得ている。これを学ばない手はない。

「作業指示」なら技術・家庭や美術である。彼らは危険を回避し安全性を確保するということに最大限の配慮をしている。つまり、まずは安全確保、その上で型はめ、更に欲張れば創意工夫、彼らの「指示」にはこうした優先順位の思想がしっかりと根付いている。ただし、技術・家庭、美術の教師は、ベテランならだれでもいいというわけにはいかない。だれにも下手な「指示」を指摘されることなく、なんとなく創造力の高い生徒に助けられていつのまにかベテランと呼ばれる年齢になってしまった、そういう教師が少なからず存在する。子どもたちに人気があって、職員室でも信用がある、そういう教師を選ぶ必要があるのがこの2教科である。

理科の実験にも同じような「作業指示」があるが、理科教師は技術・家庭や美術に比べて「作業指示」の経験が少ない(つまり、実験の授業が少ない)ため、技術・家庭や美術の教師ほどにはこなれていない場合が多い。体育教師も同様である。「指示」が明確でなくても子どもたちが喜んで活動するため、ちゃんと考えて授業をしている教師と考えずに授業をしている教師とで、真っ二つに分かれるのが体育教師だ。国語も同様である。考えている者と考えていない者との差がものすごく大きいのが国語である。ただし、「発問」づくりを勉強しようと思えば、やはり一に国語、二に社会である。

英語にも「作業指示」や「活動指示」が多いが、現在、英語教育は文法中心の英語教育からコミュニケーション中心の英語教育へという過渡期にあるため、なかなか良質な「指示」を与える英語教師には出会えない、という現実がある。

教師の指導言には「発問」「指示」「説明」がある。この「あたりまえのこと」に気がつけば、職員室がこんなふうにさえ見えてくる。「ド素人でさえ気がつく」ような「あたりまえのこと」に、我々も意識して気づきたいものである。

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コメント

卓見です!
実は、勤務校の校内研修について、研修主任から、職員会議で提案がありました。昨年までやっていた「教科を問わず各学年1名の3人組」で授業を見せ合い学び合う研修を、今年は教科ごとにしたいという提案でした。おまけに「新採1,2年目の教師の研究授業をする」というだけの提案です。新採の先生に授業させてお茶を濁しちゃえ!っていう意図が見え見えでした。
もちろん、合田は反対!再提案となりました。
だって、他教科からの学びは本当に大きかったのです。同教科だと「馴れ合い」になるのは目に見えています。
さて、堀先生のご意見を本校の若手教員に読ませても良いですか?

投稿: 合田淳郎 | 2009年4月15日 (水) 22時14分

その研修提案はよくないですね。中学校はいろんな教科の専門家がいることこそが、研修を行う上での一番の武器なのですから。
こんな文章で良ければ、いくらでも使ってください。

投稿: 堀 | 2009年4月15日 (水) 23時24分

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