教育を〈消費〉してはならない
先生がえらくなってきている。
こう言うと大袈裟だろうか。しかし、学校教育の内部にいて、この数年、なんとなくこういう印象を受けるのだ。
たぶん90年代半ば頃から始まったことだと思うが、先生の地位が坂道を転げ落ちる以上のに早さで転げ落ちた。先生は吊し上げていい存在、先生はどんなに批判してもいい存在、先生は何を言ったって反論してこない存在、我が子がいやだと言えば親は先生をやっつけちゃえ、そんな風潮がどんどん大きくなっていった。
ぼくは91年に教員になった。ぼくの教員生活は毎年毎年、どんどん肩身の狭くなっていく教師という職業に、あらら…と思いながら風当たりを体感する教員生活だった。
しかし、どうも風向きが変わってきた。
少なくともそう簡単に叩いていい存在、吊し上げていい存在ではなくなってきている。
統計的なデータは何もないけれど、なんとなくそんな気がする。いや、実は決して「なんとなく」などではない。ここ数年、我々教師が感じる、プレッシャーの体感温度が明らかに下がってきているのである。年々下がってきている。しかも急激に。おそらくこう感じているのは私だけではないはずだ。
なぜだ。
いったいどこから風向きが変わったのだ。
教育ルネサンスか? 大手メディアによる一昨年の教育記事ブームか? それともモンスターペアレンツ問題か? いずれにしても、ここ数年でメディアの一方的な学校叩きの論調が沈静化したことだけは確かだろう。
実はこの現象を見ていて、私には感じるところがある。
かつて宮崎勤がセンセーショナルに報道されたとき、あの、所狭しとビデオと漫画雑誌の積まれた部屋の映像から、人々は身近な「おたく」達を危険視し始めた。
酒鬼薔薇聖斗事件のときには、「子供が変わった」「子供がわからない」と世間は喧噪に包まれた。中には、不登校生徒は危ないという意見まで現れた。中学生を見れば、この子にも何か心の闇があるのかもしれない、などと言う者さえいた。
黒磯の女教師刺殺事件に至っては、「普通の子」がキレる、もはや、どの子にも犯罪を犯す可能性がある、とさえ言われた。
佐賀のバスジャック事件や「人を殺してみたかった」と言った少年の事件では、世間は「17歳問題」としふて取り上げ、子供と大人の狭間にある17歳の少年たちを一括りに論じる論調がはびこった。
この間、オウム真理教事件や大阪教育大学附属池田小学校事件、佐世保の小六女児刺殺事件なども起こり、世論はこの国にはびこる心の闇を一般化するようになった。
その結果、昨年の秋葉原通り魔事件にいたっては、加藤智大被告に社会の犠牲者として、この国の労働システムに救う諸問題の犠牲者として、同情の声さえ集まるようになった。
まったく右に触れたり左に触れたり、この20年間、いずれにしても「世間の空気」がその事件の評価を大きく左右したのである。もしも秋葉原通り魔事件が1989年に起きていたら、果たして加藤智大は同情を集めたか。もしも宮崎勤の連続殺人が2008年に起きていたなら、彼が生まれながらに背負っていた手の障害がもう少し同情を集めたのではなかったか。
何を言いたいかというと、事件の評価は、おそらくその事件における〈起こった事実〉によるのではなく、あくまでもその事件が起こった年の〈世間の空気〉で決まるのではないか、私はそう言いたいのである。
話を冒頭の話題に戻そう。
おそらく、現象としての学校、事実としての学校は、数年前も現在もそれほど変わってはいない。教師の力量が急に上がったり、教師がクレームのつくようなことを一切やらなくなったり、教師の仕事がシステム化してクレームの対象となるような事案が減ったり、そんなことはおそらくはあり得ない。
変わったのは〈世間の空気〉のほうである。
この数年、メディアは、息子が学校の窓ガラスに石を投げて割ってしまった保護者が、「グラウンドに石があるのが悪い」と言ったとか言わないとか、「割れないような強化ガラスを使うべきだ」と言ったとか言わないとか、この議論に象徴されるような、大半の教師が経験することはもちろん、聞いたこともないような事例をセンセーショナルに取り上げ続けた。「モンスター・チルドレン」「モンスター・ペアレント」「モンスター・ペイシェント」と、日本人の品格が下がり、民度が落ちているかのような言説を垂れ流し続けた。ドラマ化までされる始末である。その結果、教師の言動に対してちょっとくらい疑問をもった程度では何も言えない、尋ねることさえはばかられる、そんな空気がこの国に形成されてしまったのではないか。
もちろん、明確に保護者がそのように意識するようになったということではない。しかし、この空気は保護者の、いや国民全体の無意識レベルの行動原理を規制するようになってしまったのではないか。
「この程度のことで電話をかけてはなあ。モンスター・ペアレントかと思われてしまうかも。」
こんなことを思ったことのある保護者は多いのではないか。いまそうした現象が矛者の中に起こっているのではないか。そう思えてならないのである。
「先生がえらくなってきている」と冒頭に書いた。もちろん、本当にえらくなったわけではない。昔、私が教職に就き、そのお盆に母親の実家を尋ねた折、遠い親戚のおばあちゃんに「あらあ、ヒロは先生様になったのかい!」と拝まれたことがあったが、本当に先生をえらいと感じているのはあの世代である。
いま、「先生がえらくなってきている」というのは、あくまでも表層的なことに過ぎない。現象的なことに過ぎない。相対的なことに過ぎない。この10年間で教師の中にやっと形成されてきた、「自分たちは税金で喰っている」とか「自分たちは一方的に管理し好き手はいけない」とか「子どもや保護者の話をちゃんと聞かなければならない」とか「子どもや保護者の願いは公共の福祉に反しない限り叶えてあげるのが筋である」とか、こういった風潮を雲散霧消させるべきではない。全国100万の教師がそういう勘違いに陥らないことを願うのみである。
思えば、宮崎勤も、酒鬼薔薇聖斗も、オウム真理教も、キレる少年も、危険な17歳も、宅間守も、御手洗怜実ちゃんでさえ、あたかも芸能人や政治家のスキャンダルのごとく世間に〈消費〉されたという側面がある。ある時期、教師が同じように〈消費〉され、いま、児童虐待やネグレクトの問題に伴って、保護者が〈消費〉されようとしているのである。
しかし、宮崎勤の親が自殺したり、淳くんの両親が苦しみ続けていたり、地下鉄サリンの被害者が後遺症に苦しみ続けていたり、というように、現実はまったく別の次元で動いているのである。
学校教育も同じである。
一つ一つの事案は、あくまで現実として当事者を悩ませ、苦しませ続ける。それらは、教師一般をスキャンダラスに〈消費〉したり、保護者一般をセンセーショナルに〈消費〉したりすることとは、まったく無縁に動いている。
教師も、保護者も、メディアも、そして政治も、このことを肝に銘ずるべきである。教育再生会議の議論が、現実から遊離して、勢いだけで走っていた現実を見るとき、メディアのみならず政治がセンセーショナリズムに陥っている危険を感じたのは、おそらく私だけではあるまい。
2000年以降、保護者の学校教育に対する満足度は、年々、少しずつではあるが上昇してきている。現在、「満足」「どちらかといえば満足」を合わせると、実に75%を数える。これが、一つ一つの具体的な学校の、一つ一つの具体的な努力が集まって得られた成果だということを、忘れてはなるまい。
教育を〈消費〉してはならない。
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