他者意識
かつて勤務していた学校の栄養士が、年度末反省で、給食の早出しは年度当初の計画で出してくれと提案したことがあった。要するに、職員会議で来月の行事予定を確定するということの否定である。それでないと間に合わない、急に変更しろと言われても対応できない、というわけだ。
かつて勤務していた学校のテニス部顧問が、年度末反省で、昼休みに一般生徒がテニスコートを使ってテニスをすると、コートが荒れて困るので禁止しろと提案したことがあった。要するに、テニスコートは毎日テニス部が整備しているのだから、一般生徒なんぞに使われては困る、テニス部の活動が毎日コート整備から始まるのでは時間がとられてしまう、というわけだ。
ぼくはこの双方の提案に声を荒げて反対した。
この二つは、「学校とは何か」という根幹のところをはずしている。給食やテニス部という自分の領域のことだけを考えて、なぜ学校に給食があるのか、なぜ学校にテニスコートがあるのかということを考えることを放棄している。
申し訳ないが、こういった発想は看過できない。
この栄養士さんはおそらく、1ヶ月前の職員会議で急に給食の早出しをお願いされることで、予定していた計画が狂ってしまうことに腹を立てていたのだろう。それはわからないでもない。
その意味では、愚痴ったって構わないし、ご苦労をかけているとも思う。
しかし、年度末反省にこんなことを提案して、学校全体のシステムを給食にあわせて変更できないかと考えるのはおこがましさが過ぎる。給食の早出しを年度当初に決めるということは、1年間のすべての教育活動を年度当初に決めてしまえ、その後、不都合が生じても変更はままならぬ、と言っているのに等しい。
この栄養士さんに対して、ぼくは言った。
「ここは学校です。学校とは給食を中心にまわるところですか。」と。
そんなに計画通りに進めたいならば、或いは自らの能力が低くて変更に対応できないのならば、市役所の食堂にでも行けばいい。献立は固定、せいぜい日替わり定食のメニューが変わる程度、その時々に市役所がどんな仕事をしている時期かにかかわらず、予定通り、計画通りの献立を立てることができる。そういう職場に行けばいい。
ここは学校である。学校は子供たちに対する教育活動を中心にまわっている。その学校において、栄養士が楽をするために、子供たちの動きに不都合があっても変更がきかないというようなシステムを敷くわけにはいかない。
はっきり言って馬鹿げた提案である。
テニス部顧問の提案も同様である。
学校にテニスコートはなぜあるのか。テニス部が活動するためにあるのか。つまり、テニスコートはテニス部のための施設なのか。テニス部だけのものであり、テニス部の専用物なのか。こういうことである。
例えば、野球部の顧問が「野球部員はみな、毎日、内野にトンボをかけて帰ります。ついては、昼休みにグラウンドの内野部分で生徒が遊ぶのを禁止してください。」と提案したらどうだろうか。こんなことが許されるだろうか。
クラウンドなら許されないことが、テニスコートだと許されるのか。このテニス部顧問は、テニスコートがグラウンドに比べて相対的に閉鎖的な空間であり、昼休みにテニスをして遊ぶ生徒も少ないことにかこつけて、少々根幹のところを踏み外してしまったのではないか。
これまた、はっきり言って馬鹿げた提案なのである。
新しい勤務校の栄養士さんが、今月、3回の給食早出しに文句も言わず、たった8人の調理員さんとともに1000食をつくっているのを見て、また、宴会の席でテニス部の顧問がもっと生徒のテニス人口が増えてくれればいいのにと話しているのを聞いて、こんな昔話を想い出した。
しかしぼくは、かつて同僚だった栄養士さんやテニス部顧問の悪口を言いたくてこれを書いているわけではないつもりだ。この二人の構図は、この世の中の様々な場面で見られる、もはや普遍的とさえ言っていい構造のような気がしているのである。
栄養士さんも、テニス部顧問も、二人とも自らの仕事に一生懸命な人たちだった。ぼくは二人が決して嫌いではなかったし、その懸命さに敬服してもいた。しかし、先の年度末反省の二例だけは、当時、ぼくにいろいろなことを考えさせた事例として、忘れることができないでいるのである。
思えば、この二人は自分の領域に懸命になりすぎたゆえに、職員室の中に給食の苦労なんかよりも優先順位の高いものがある考える人たちや、学校の施設を一部の組織が特選するのはよくないと考える人たちがいること、つまり、職員室の中に「他者」がいることを忘れてしまっていた。それが彼らの中に、職員会議で猛反対に遭う可能性があることを想定させなかった。
もちろんこの程度のことなら、笑い話に過ぎない。言ってみれば、だからこそぼくも、ここに書けるのである。
しかし、一般に、職員室の中では、或いは教育行政の内部では、ここに書けないようないろいろなことが行われているはずだ。自殺した生徒について記者会見で「いじめは確認できていない」と突っぱねていた校長や教育長が、「他者」の圧力に屈するなり涙を流しながら土下座する。管理下の職員の不祥事に対して過度のストレスに起因するものという論陣を張り、校長会で全職員に対して日常的に心のケアを行うことを指示する。次に不祥事が起きたときには、職員の心のケアマニュアルを発行する。不祥事を起こした職員の処分をどんどん厳しくしていく。ただただモグラ叩きが際限なく続くだけとなる。「裏金」だって「預け」だって「空出張」だって、かつては学校にもあったに決まっているのである。どれもこれも職員室も教育行政も「他者」をもたなかったことに起因している。
おそらくは、いま、ぼくらが内部規範として何の疑問ももたずに当然のようにやっていることも、ある日突然、「他者」によって問題視され、とてつもなく大きな問題になっていくことがあるに違いない。「他者」をもたず、「内部」の眼だけをよりどころに動いていると、そういうことが何度も起こることになる。
霞ヶ関ばかりがこうした批判に晒されているけれど、この国は全国津々浦々、霞ヶ関的な発想で動いてきたのであり、いまなお動き続けているのである。
せめて、職員会議で大きな提案がなされたときには、特に自分たちにとって心地よい提案がなされたときには、この提案が外部の「他者」にはどう見えるだろうか、と考えるくらいの「他者意識」は持ちたいものである。
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