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2009年4月

無常

新聞報道によると、真駒内、真駒内曙、真駒内緑、そして真駒内南の四つの小学校の統廃合案がまとまったらしい。四つの学校の校区を統合した上で、南北に二分割するということだ。校舎は四つの小学校のうちの二つをそのまま使うとのこと。普通に考えれば、真駒内緑と真駒内曙になるような気がするのだが、どうなることやら。

実はぼくは真駒内南小学校の出身である。

空澄みわたり風かおる 緑豊かな街並みの いつも明るい真駒内南

漢字か仮名か、書き方は定かではないが、校歌の歌詞はすべて覚えている。中央公園や泉町公園をちかくにもち、五分も歩くと真駒内川が流れる。オリンピック時期に売り出された住宅地の一軒家群、市営住宅群、そして道職員と道警の官舎群で校区が構成されていた。

小学校四年のとき十周年行事があって、グラウンドにタイムカプセルを埋めた記憶がある。

10歳のときに十周年ということは、つまりはこの学校がぼくらと同い年ということだ。今年、43年目を迎えているはずである。

ぼくらが43年目を生き、仕事にも脂がのりはじめたとき、真駒内南小学校は43年目を迎え、統廃合の話に地元が一喜一憂している。

なんとも言えぬ、何とも言いようのない「無常」を感じる。

ぼくらが卒業製作で彫った校歌の歌詞は、いまも校舎のどこかに飾られているのだろうか。

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失敗しない新任教師の「常識力」

「教職研修」の別冊『失敗しない新任教師の「常識力」』が届いた。2~3時間であっさりとあがった原稿で、それほど苦労もせずに書いたものだ。

届いてみて驚いた。

執筆者で平教員はぼくと埼玉の小学校教師の2人だけ。あとは大学教員が2人いる他は、みな校長なのである。ちなみに校長の執筆者は8人である。

この原稿依頼がなぜぼくに来たのだろう。

疑問だ。

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公務員気質

白石署の生活安全課から講師を招いての全校集会。

「少年非行」「出会い系サイト」「薬物の恐怖」の三つの柱を約40分で。

生活安全課の講演はもう何度も聞いているが、聞くたびに思うのは、もう少し話の仕方を勉強して欲しいなということである。エピソードがエピソードの体をなしていない。抽象的な、しかも簡単な事例の羅列。こんなもので生徒の興味を惹けるわけがない。

例えば、

私の元上司が経験した事例なのですが、女子高生が大人の男数人に覚醒剤を打たれてショック死したということがあったそうです。みなさんももうすぐ高校生でしょう。もうすぐなんですよ。こんなこともあるということで、覚醒剤の危険性というのがよくわかったと思います。

なんて調子である。

こんな話で「覚醒剤の危険性」なんてわかるわけがない。

こんな抽象的で簡単な説明がいくつもいくつも続いていくのである。しかも、文末は「~がよくわかったと思います」と「~を考えてください」の二種類しかない。

おまけに「警察だからこそ語れること」がひとつもない。ちょっと本を読んでデータをもっていれば、我々でも語れることばかりである。自信をもって言う。あの内容なら、ぼくのほうがうまく語れる。あの講師が来る意味がない。

生活安全課が中高生への啓蒙活動を一つの事業として展開するのであれば、事業として成り立つ程度には努力をすべきである。

あんな話を1時間かけて聞かされたのでは、学校現場としては、正直に言って迷惑である。

ここにも間違いなく、〈公務員気質〉がある。

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発信の契機

北海道新聞朝刊(2009.04.16・木)の「読者の声」欄に以下の投稿があった。便宜上、段落番号を振って引用する。

■引用開始

いじめ自殺根絶/心が通う学校に 無職・男性・苫小牧市・64歳

①昨年6月に千歳市内の女子中学生、今年3月に滝川市内の男子中学生が飛び降り自殺を図った事件で、原因となるいじめの事実を学校側が把握できていなかったことが問題になっている。

②滝川の場合では、男子生徒が部活動を休みがちになったという兆候があったにもかかわらず、教師全体の取り組みにつながらず、生徒を救えなかった。

③私たちはいま、1994年に愛知県西尾市で起きた当時中学2年の大河内清輝君のいじめ自殺事件のことを思い出してみるべきだ。

④事件はいじめグループに現金を脅し取られ暴行を受けたのが原因だった。当時の名倉庸一・市教育長は「教師の未熟さ、情熱がなかったということが、こういう事態につながった」と、学校側の手落ちを認めた。

⑤学校を「教師」対「生徒」という構図でとらえては問題は解決しない。生徒と教師が普段の交流を通して一体となり心の通い合った集団とならなければ、いじめ自殺を根絶することはできないと思う。

■引用終了

うーん……。言いたいことはわからないではない。しかし、この文章を読んで、私の中にはどうも言葉にならないむずがゆさが残る。この印象を抱くのは私だけなのだろうか。

実は私の中で、むずがゆさの原因ははっきりしている。

①~④の展開に即して述べた結論にしては、⑤があまりにも飛躍しているのである。つまり、①~④と⑤との間に、少々距離が感じられるのだ。

おそらく⑤は、あとでとってつけた段落なのではないか。

つまりこういうことである。

この投稿者は、最近の道内の中学生の自殺事件に関心をもった。その結果、愛知県西尾市の教育長の対応について想い出した。かつて、学校側の「手落ち」(この言葉を投稿からの引用としてこのまま用いるけれど、道新はこの語を使っていいのだろうか……)を認める発言をしたことがあるではないか、と。

おそらく、投稿者の〈投稿意欲〉を支え、〈発信の契機〉となったのは、かつてのこの事件の記憶である。簡単に言えば、この投稿者はこの事実があったのだよ、と言いたいのである。いや、もっと穿った見方をすれば、「私(だけ)はちゃんとこの発言を覚えていますよ」ということを自慢し、宣伝したかったのではないか。

実は投稿者しては、④まで文を連ねればそれで事足れりなのである。

しかし、①~④までの文だけでは、文章として尻切れの感がある。そこで、とってつけたような、抽象的で紋切り型の第五文を付け加えねばならなかったのである。

もう一度、⑤の文を引こう。

⑤学校を「教師」対「生徒」という構図でとらえては問題は解決しない。生徒と教師が普段の交流を通して一体となり心の通い合った集団とならなければ、いじめ自殺を根絶することはできないと思う。

さて、これはいったい、何を提案しているのだろうか。

「生徒と教師が普段の交流を通して一体となり心の通い合った集団とな」るとは、いったいどのような状態を指しているのか。

そもそもこの文は、だれに対して投げかけているのか。教師か。学校か。教育行政か。おそらく生徒に対してではないだろう。

教師にしても学校にしても教育行政にしても、いずれにしても学校関係者だとすれば、「生徒と教師が普段の交流を通して一体となり心の通い合った集団とな」るためには、いったい学校関係者に何をせよと言っているのか。

文脈に沿って④から類推すると、教師が「未熟さ」を克服し、「情熱」をもつということだろうか。どうもわからない。

第五文は「学校はかつての愛知県西尾市教育長のように、今回報道されている学校も自分たちの過失を認めよ」という結論で良かったのではないか。そう言えば、教育関係者も、あのいじめ自殺を代表する大事件でも、教育長が学校の過失を認めて謝罪していたのかと、少しは考えるような文章になったのではないか。

それを、とってつけたように「生徒と教師が普段の交流を通して一体となり心の通い合った集団とならなければ、いじめ自殺を根絶することはできないと思う。」などと書くから、登校のタイトルまで形だけの主張に引っ張られ、「いじめ自殺根絶/心が通う学校に」などと、自らの〈発信の契機〉からズレた紋切り型へと堕してしまうのである。

〈発信の契機〉はもっと大切にしなければならないものだと思う。

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特活屋

学年協議会メンバーの表情がやわらかくなってきた。

それなりに、学年協の仕事が理解できてきたのだろう。校歌を歌う声も先週と比べて格段の進歩である。PVの撮影も順調に進んでいる。カメラを向けると笑顔がはじける。話を聴くまなざしにも鋭さが出てきた。なによりである。

今年度は学年協議会担当として、また野外学習の総務係として、野外学習を側面から本気で盛り上げようと試みている。

この「側面から」というのがミソである。上篠路では学年主任だったため、どうしても盛り上げるという視点よりも、「安全を」とか「規範を」とか「学習を」とか「意義のある交流を」とか「見栄えのする掲示物を」とか「教育課程との整合性を」とか「若手教師に仕事を覚えさせることを」とか、かたいことばかりを考えざるを得なかった。

その意味で今年度は、ぼくの最も得意とする〈特活屋〉的な仕事の仕方に専念することができる。

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5・4・3・2・1・初

中学校・学級経営セミナーを始めて以来、参加者から講座内容に関するアンケートをとるようになった。各講座について5・4・3・2・1で評価をもらい、二行ほどのコメントをもらうという簡単なものだ。

このアンケートの最後に、今日一日をまとめて感想を、という記述欄がある。

この中に、たいへんおもしろいもの…といってはなんだが、やっぱり「おもしろい」という意外に形容できないものがあった。

ある登壇者の講座に対して、ある若い参加者から「○○先生の講座は初任研講師みたいだった」という感想があったのである。

おそらくこの登壇者の話が抽象的で固いと思われたのか、本からの引用が多かったためにそういう印象をもたれたのか、そんなところだろうと思う。

この登壇者がえらくショックを受けていた。「研究集団ことのは」というのは、初任研講師みたいな話をせず、本音で即実践につながる内容を、わかりやすく、かつおもしろく研究していこうというのが設立の趣旨である。もちろん、中学校・学級経営セミナーもその趣旨で開催している。

その講座に対して、「初任研講師みたい」とは(笑)。

まあ、初任研もいろいろ工夫するようになってきているのだろうし、ぼくらも年をとって内容が固い場合も出てきているしで、双方の要素に重なりが出てきたのだろう。

それにしても、「初任研講師みたい」とは(笑)。笑えた。

次回のセミナーから、講座の評価を「5・4・3・2・1」だけじゃなくて、「5・4・3・2・1・初」という選択肢にしてみては?というネタで、小宴はやたらと盛り上がった。「初」はもちろん、「初任研講師みたいだった」の意である。

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野外学習下見

滝野丘陵公園。6.5度。

Tシャツとジャージだけの馬鹿なぼく。

寒い。

しかし、今回の野外学習は炊事遠足。火をおこすと、とたんに寒さを感じなくなった。同僚たちは売店でソフトクリームを食べたほど。

かまどづくりから火おこしの仕方、洗い場の雰囲気、おいしそうに焼き肉をほおばる先生方、といった映像を次々にカメラにおさめる。生徒たちに炊事のイメージをもってもらうために、学年集会で流すのだ。

帰宅後、すぐに編集。約2時間。18時にはすべてが終わっていた。

ぼくはこういう映像がつくりだす〈空気〉の効果は、馬鹿にできないと感じている。教師が馬鹿をやっている姿を見たり、自分たちが馬鹿をやっている姿が受けたり、自分たちが妙にかっこよく映っていたり、いずれにしても生徒たちはそんな映像に感化され、カタルシスを感じることになる。

スポーツ同様、こうしたビデオにもストレスを昇華させる作用がある。

そして何より、学年全体に「人前で馬鹿になれる」雰囲気をつくっていく。ここでいう「学年」には、もちろん教師も含まれる。

学年全員がいっしょに笑い合える場をつくり出すこと。それも、ゼロから創り出したものによって、その場をつくり出すこと。ゼロから創り出したものに自分たちが参加していること。そんな要素が、学年に独特の〈空気〉と〈バランス〉とを創り出してくれる。

がみがみ言うこと、悪いことは悪いと伝えること、もちろんそれは中学校教育には大切なことだが、それと同じくらい楽しませてバランスをとらねばならないということを、長く中学校教育は忘れていたのではないか。そんな気がしてならない。

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見通し

相も変わらず、生徒のビデオをつくっている。

今回は野外学習の学年集会用に、PVを兼ねた学年協議会メンバーの紹介ビデオである。上篠路では学校祭時期に特化してつくっていたのだが、あまりに暇なので、またビデオ編集ソフトも買ったので、日常活動でもつくってみようと思ったわけである。

機能も書いたが、新しい編集ソフトは操作が簡単で、意外とスムーズに思い通りのビデオができていく。

実はもう一つ気づいたことがある。

これまでは学級数が少なくて、学年協議会メンバーのビデオをつくろうとしても、4学級8人の映像を撮れば良かった。今回は9学級18人の学級代表がいる。彼らの映像をひと通りカメラにおさめるだけでもひと苦労である。

今日撮影したのは、一人欠席生徒がいたので17人分だったのだが、17人も撮って編集していると、堂々とスピーチする子が意外と照れ屋の表情を見せていたり、おとなしい子が堂々と演技をしていたり、ふだん固い表情をしている子が意外にもノリノリの動きを見せたりと、生徒個々に関する気づきが多い。

今年の学年協議会は徹底した声出しと、徹底したNo原稿と、徹底したPVづくりと、三本立てで進めている。この学年を「歌声を響く学年」に、「人前で堂々とスピーチをする学年」に、そして「映像をいじれる学年」にしようという目的をもっているからである。そのために、学年協議会に毎日、大きな声で校歌を歌わせ、スピーチをさせ、ビデオ撮影を楽しませている。

こうした活動の中で、まずは学年協議会メンバーが、大きな声で歌を歌うことを当然と思うようになり、さりげなく自分の言葉でスピーチができるようになる。また、ドラムとは何か、プロジェクタとDVDはどうつなぐのか、撮影のときの光をどの程度意識しなければならないか、カメラアングルをどう設定するか、なんていうことを無意識的に学んでいくことになる。

今年は、何より合唱コンクールの成功を、また学年集会の堂々たるスピーチの連続を、そして学級PVコンクールという学年独自の取り組みを目指している。

見通しをもたなければ、いま何をしなければならないかなんてわかりっこないのだ。

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ビデオスタジオ12

昨日、ビデオスタジオ12を買った。

同僚にこれを使っている人がいる。新しいソフトを買うときには、身近にそれを使っている人がいるということが大前提だ。あんな読みにくいマニュアルは絶対に読みたくないから、何かわからないことがある場合にはいつでも訊けるという環境が必要なのだ。

と思って買ってみたのだが、その日常的に使っている同僚に訊く必要もないほどに操作が簡単である。

昨日撮影した学年協議会メンバーの映像が、今日の放課後、たった1時間で編集できてしまった。マニュアルを見ることもなく、だれかに尋ねることもなく、操作に迷うこともなく、である。もちろんフリーズなんてこともない。

新しいものは便利である。

いや、便利だから新しく発売する価値がある。結局、詳しくわからない人でも、簡単に操作できてしまうものこそが売れるのである。

市場原理とは、できない人にもできるようなもの以外は淘汰されていく仕組みのことを言う。

だから、報道機関とか教育機関とか研究機関とか、「知」にかかわる領域が市場原理にさらされると、売れるためには、購買層を広げるためには、「知的レベルの低い人」までを視野に入れなければならないということだ。

その結果、現在は、刻一刻と「知」に関わる領域のレベルが下がっている。

きっとこれは、少なくとも一面の真実に違いない。

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全国学テ

「国語B」の問題を見た。過去2回に比べて、いい問題になってきているように見えた。

しかし、それはあくまで、今年3回目を迎えた全国学テを、過去2回と比べてみたときの相対評価に過ぎない。

試験を受ける生徒たちを見ていても、試験を受けさせる教師たちを見ていても、試験をマニュアル通りに受けさせるよういろいろなことに配慮しながら教師を指導する管理職を見ていても、これが70億円もかけてやらねばならないことには思えない。

きっと数ヶ月後、これまでと同じように記述問題の採点基準がいいかげんで、これまでと同じように細かな分析のない結果報告が送られてきたとき、この思いがもっともっと強くなるのだろう。

もっといい方法がたくさんあるのに……。

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テープ時間割

職員会議でテープ時間割の全体像が提示された。

これまで、テープ時間割の経験のないぼくは、いまひとつその機能が飲み込めていなかったのだが、今日の係の説明で理解できた。よく練られた時間割である。

係のH先生に敬意を表する。

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スッキリ!

3ヶ月前に締め切りを迎えていた原稿の執筆がようやく終わった。年末から、後頭部に引っかかっていた妙な鈍痛がなくなったような気分である。

これで締め切りを過ぎた原稿依頼がすべてなくなった。

手帳を見ると、締め切りを過ぎた原稿がない状態というのは、実に1年4ヶ月ぶりである。

次の締め切りは月末の連載原稿。更に5月末に3本。あとは依頼されてから放っておいてある単著の原稿だけである。

取り敢えず、スッキリ!

わーい!わーい!

実は公務上も急ぎの仕事がない。研究会の講座が幾つかあるが、それほど準備に時間がかかるわけではない。

しばらくまったりと過ごそう。

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明日の教室

既にいろいろなブログで紹介されているが、私も執筆者の一人なので、宣伝を記しておこうと思う。「ぎょうせい」のHPからの転載である。

■以下、引用開始

シリーズ 明日の教室 全5巻セット(予約)
学級経営・基礎の基礎
編著者名 :「明日の教室」研究会/編集
判  型 :A5
体  裁 :単行本
定価(価格):9,450円(税込み)
本  体 :9,000円
ISBN   :978-4-324-08683-4
発行年月 :
分  野 : 分野別一覧教育・文化学校経営・学級経営(単行本)
2009年4月下旬から各巻発売予定。現在予約受付中です。

<代金ご請求に関してのお知らせ>
当セットのご予約注文では、書籍は発刊次第順次ご送付いたします。

お支払方法が「お振込」の場合、
書籍のご送付にあわせ、各巻ごとにご請求書をお送りいたします。

お支払方法が「クレジットカード」・「コンビニエンスストア」の場合、
未刊行分も併せて代金を全巻分一括でご請求しております。

お支払方法が「お振込」の場合でも、
備考欄に「一括支払を希望する」とご記入の場合は、
書籍の初回送付時に、全巻分のご請求書をお送りいたします。

本シリーズのご予約は、当HPでは「全5巻セット」でのみ承ります。
各巻ではご予約いただけません。
発刊次第、当HPでは各巻での販売を開始いたします。

ご不明な点や、各単号でのご予約は、
 TEL:0120-953-431(フリーコール)
 FAX:0120-953-495(同上)
にて承ります。

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団塊の世代の大量退職・若手教師の大量採用が続いています。
こうしたなかで、ベテラン教師の優れた力量が、
次世代にきちんと継承されないおそれが生じています。
一方では、「モンスターペアレンツ」と呼ばれる保護者の要求に応えるなど、
教師の置かれている状況は厳しさを増すばかりです。

このシリーズは、こうした状況に対処すべく、
ベテラン教師の力量を「明日の世代」につなげていくものとして刊行します。

子どもをひきつける学級経営をテーマとし、
学級づくりや授業づくりなどの具体的ノウハウをまとめ、
ベテラン教師のテクニックを伝える視点で執筆しました。
テーマの設定についても、「朝の会」、「席替え」、「チョークの使い方」など、
具体的なものとしています。
校内外研修のテキストとしてご活用いただきたいシリーズです。

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 巻構成
  第1巻 教師の一日・一年
  第2巻 学級をつくる
  第3巻 授業をつくる
  第4巻 子どもに接する・語る
  第5巻 担任一人で悩まない・抱えない



 代表編著者紹介(肩書は発刊当時、敬称略)
  池田修…いけだ・おさむ/京都橘大学准教授
  糸井登…いとい・すすむ/京都府宇治市立菟道第二小学校教諭

 シリーズ執筆者一覧
  青山新吾(岡山県教育庁指導主事)
  赤坂真二(上越教育大学准教授)
  阿部隆幸(福島県本宮市立糠沢小学校教諭)
  石川晋(北海道上士幌町立上士幌中学校教諭)
  岩瀬直樹(埼玉県狭山市立堀兼小学校教諭)
  梅本裕(京都橘大学教授)
  北川達夫(日本教育大学院大学客員教授)
  佐藤正寿(岩手県軽米町立笹渡小学校教頭)
  澤田清人(京都市教育委員会指導主事)
  杉浦元一(東京都杉並区立和田中学校教諭)
  仲里靖雄(京都・立命館小学校教諭)
  筑田周一(女子聖学院中学校教諭)
  土作彰(奈良県広陵町立広陵西小学校教諭)
  土居裕士(岡山県岡山市立芳泉小学校教諭)
  中村健一(山口県岩国市立通津小学校教諭)
  西川純(上越教育大学教授)
  野口芳宏(植草学園大学教授)
  野中信行(横浜市立中沢小学校教諭)
  平田オリザ(劇作家・演出家)
  藤田恵子(埼玉県所沢市立北小学校教諭)
  堀裕嗣(札幌市立北白石中学校教諭)
  松原弘(岡山県岡山市立高島小学校教諭)
  山川晃史(三重県教育委員会指導主事)
  山口裕也(東京都杉並区済美教育センター教育研究員)
  山田雅彦(東京学芸大学准教授)
  横藤雅人(札幌市立北郷小学校教頭)

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他者意識

かつて勤務していた学校の栄養士が、年度末反省で、給食の早出しは年度当初の計画で出してくれと提案したことがあった。要するに、職員会議で来月の行事予定を確定するということの否定である。それでないと間に合わない、急に変更しろと言われても対応できない、というわけだ。

かつて勤務していた学校のテニス部顧問が、年度末反省で、昼休みに一般生徒がテニスコートを使ってテニスをすると、コートが荒れて困るので禁止しろと提案したことがあった。要するに、テニスコートは毎日テニス部が整備しているのだから、一般生徒なんぞに使われては困る、テニス部の活動が毎日コート整備から始まるのでは時間がとられてしまう、というわけだ。

ぼくはこの双方の提案に声を荒げて反対した。

この二つは、「学校とは何か」という根幹のところをはずしている。給食やテニス部という自分の領域のことだけを考えて、なぜ学校に給食があるのか、なぜ学校にテニスコートがあるのかということを考えることを放棄している。

申し訳ないが、こういった発想は看過できない。

この栄養士さんはおそらく、1ヶ月前の職員会議で急に給食の早出しをお願いされることで、予定していた計画が狂ってしまうことに腹を立てていたのだろう。それはわからないでもない。

その意味では、愚痴ったって構わないし、ご苦労をかけているとも思う。

しかし、年度末反省にこんなことを提案して、学校全体のシステムを給食にあわせて変更できないかと考えるのはおこがましさが過ぎる。給食の早出しを年度当初に決めるということは、1年間のすべての教育活動を年度当初に決めてしまえ、その後、不都合が生じても変更はままならぬ、と言っているのに等しい。

この栄養士さんに対して、ぼくは言った。

「ここは学校です。学校とは給食を中心にまわるところですか。」と。

そんなに計画通りに進めたいならば、或いは自らの能力が低くて変更に対応できないのならば、市役所の食堂にでも行けばいい。献立は固定、せいぜい日替わり定食のメニューが変わる程度、その時々に市役所がどんな仕事をしている時期かにかかわらず、予定通り、計画通りの献立を立てることができる。そういう職場に行けばいい。

ここは学校である。学校は子供たちに対する教育活動を中心にまわっている。その学校において、栄養士が楽をするために、子供たちの動きに不都合があっても変更がきかないというようなシステムを敷くわけにはいかない。

はっきり言って馬鹿げた提案である。

テニス部顧問の提案も同様である。

学校にテニスコートはなぜあるのか。テニス部が活動するためにあるのか。つまり、テニスコートはテニス部のための施設なのか。テニス部だけのものであり、テニス部の専用物なのか。こういうことである。

例えば、野球部の顧問が「野球部員はみな、毎日、内野にトンボをかけて帰ります。ついては、昼休みにグラウンドの内野部分で生徒が遊ぶのを禁止してください。」と提案したらどうだろうか。こんなことが許されるだろうか。

クラウンドなら許されないことが、テニスコートだと許されるのか。このテニス部顧問は、テニスコートがグラウンドに比べて相対的に閉鎖的な空間であり、昼休みにテニスをして遊ぶ生徒も少ないことにかこつけて、少々根幹のところを踏み外してしまったのではないか。

これまた、はっきり言って馬鹿げた提案なのである。

新しい勤務校の栄養士さんが、今月、3回の給食早出しに文句も言わず、たった8人の調理員さんとともに1000食をつくっているのを見て、また、宴会の席でテニス部の顧問がもっと生徒のテニス人口が増えてくれればいいのにと話しているのを聞いて、こんな昔話を想い出した。

しかしぼくは、かつて同僚だった栄養士さんやテニス部顧問の悪口を言いたくてこれを書いているわけではないつもりだ。この二人の構図は、この世の中の様々な場面で見られる、もはや普遍的とさえ言っていい構造のような気がしているのである。

栄養士さんも、テニス部顧問も、二人とも自らの仕事に一生懸命な人たちだった。ぼくは二人が決して嫌いではなかったし、その懸命さに敬服してもいた。しかし、先の年度末反省の二例だけは、当時、ぼくにいろいろなことを考えさせた事例として、忘れることができないでいるのである。

思えば、この二人は自分の領域に懸命になりすぎたゆえに、職員室の中に給食の苦労なんかよりも優先順位の高いものがある考える人たちや、学校の施設を一部の組織が特選するのはよくないと考える人たちがいること、つまり、職員室の中に「他者」がいることを忘れてしまっていた。それが彼らの中に、職員会議で猛反対に遭う可能性があることを想定させなかった。

もちろんこの程度のことなら、笑い話に過ぎない。言ってみれば、だからこそぼくも、ここに書けるのである。

しかし、一般に、職員室の中では、或いは教育行政の内部では、ここに書けないようないろいろなことが行われているはずだ。自殺した生徒について記者会見で「いじめは確認できていない」と突っぱねていた校長や教育長が、「他者」の圧力に屈するなり涙を流しながら土下座する。管理下の職員の不祥事に対して過度のストレスに起因するものという論陣を張り、校長会で全職員に対して日常的に心のケアを行うことを指示する。次に不祥事が起きたときには、職員の心のケアマニュアルを発行する。不祥事を起こした職員の処分をどんどん厳しくしていく。ただただモグラ叩きが際限なく続くだけとなる。「裏金」だって「預け」だって「空出張」だって、かつては学校にもあったに決まっているのである。どれもこれも職員室も教育行政も「他者」をもたなかったことに起因している。

おそらくは、いま、ぼくらが内部規範として何の疑問ももたずに当然のようにやっていることも、ある日突然、「他者」によって問題視され、とてつもなく大きな問題になっていくことがあるに違いない。「他者」をもたず、「内部」の眼だけをよりどころに動いていると、そういうことが何度も起こることになる。

霞ヶ関ばかりがこうした批判に晒されているけれど、この国は全国津々浦々、霞ヶ関的な発想で動いてきたのであり、いまなお動き続けているのである。

せめて、職員会議で大きな提案がなされたときには、特に自分たちにとって心地よい提案がなされたときには、この提案が外部の「他者」にはどう見えるだろうか、と考えるくらいの「他者意識」は持ちたいものである。

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歓迎会スピーチ

みなさま、お晩でございます。

しおりに書こうかどうしようか迷った本音を二つ。

私はご覧のとおりこういう見かけですから、見かけで生徒を威圧することには割と自信をもっているんですが、北白に赴任しまして、N先生には負けたなあ、と思いました。

もう一つ。生徒会部に配属されまして、Y先生といっしょに仕事をしているわけですが、Y先生を見ていて、ぼくよりもせいぜい三つ、四つ下かなあと思っていたわけですが、ちょうどY先生のクラスに授業に行ってるもんで生徒に訊いてみると、なんとまだ20代ということがわかりまして、思わず「ええーっ!」と漏らしてしまいました。それであわてて担任には言うな、と言ったんですけど、まあ、きっともう話はばれてしまったんだろうなあ、と感じております。

3月まで6時45分に家を出ておりましたが、4月からは家を出るのがなんと8時10分になりました。まあ、家が近いもんですから、私が帰ったあとでも電話1本いただければ、生徒の引き取りでもなんでも行きますので、電話をいただれければと思います。

私は電話をいただいてから10分で学校に現れることができます。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

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自殺防止パンフ

全職員に「生徒の自殺防止パンフ」なるものが配られた。発行元は文部科学省である。全国に教職員は100万人程度いるから、少なく見積もっても120万部はつくったはずだ。

なのに、どこを見ても、印刷所が書かれていない。このパンフの内容を構成した特殊法人名も書かれていない。

これは文科省がどの機関に委託して、どの印刷所に頼んだものなのか、そしてどれだけの税金を投入してつくったものなのか、一切の情報がない。

これでいいのか。

しかも内容はお粗末。こんなことを教職員が知ったところで、自殺防止になどならない。まったくアリバイづくりとしか思えない。

これでいいのか、文科省。

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PTA総会

みなさん、こんにちは。

いまご紹介にあずかりました国語科の堀でございます。

熊のような風貌に、羊のようなハートをもった男といわれております。

年齢は、みなさん私をご覧になって、○歳くらいかなあと思われた年齢から、5から8くらい引いていただきますと、正しい年齢になります。

少年隊の東と同い年の堀でございました。

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副担任と学年主任

夕方、副担任をしている学級の担任が家庭訪問に行くという。1年生担任。初めての保護者なので一人では不安だろうと、いっしょに行くことにした。

家庭訪問の中身はここには書けない。ただ、家庭訪問のあと、その担任は私に「ありがとうございました」「助かりました」「ほんとうにありがとうございました」と、何度も何度も礼を言っていた。表情と口調を見れば、それが心からのものであることは一目瞭然である。

合点がいった。

副担任の仕事は、学年主任と同じなのだ。

あなたは一人じゃないよ、ちゃんとぼくもいるんだよ、そういうメッセージをしっかりと行動で伝えて、学級担任に「孤独じゃない」「一人で抱える必要はない」という安心感を与えることだ。

今日の「副担道」の学びはこれである。

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教育を〈消費〉してはならない

先生がえらくなってきている。

こう言うと大袈裟だろうか。しかし、学校教育の内部にいて、この数年、なんとなくこういう印象を受けるのだ。

たぶん90年代半ば頃から始まったことだと思うが、先生の地位が坂道を転げ落ちる以上のに早さで転げ落ちた。先生は吊し上げていい存在、先生はどんなに批判してもいい存在、先生は何を言ったって反論してこない存在、我が子がいやだと言えば親は先生をやっつけちゃえ、そんな風潮がどんどん大きくなっていった。

ぼくは91年に教員になった。ぼくの教員生活は毎年毎年、どんどん肩身の狭くなっていく教師という職業に、あらら…と思いながら風当たりを体感する教員生活だった。

しかし、どうも風向きが変わってきた。

少なくともそう簡単に叩いていい存在、吊し上げていい存在ではなくなってきている。

統計的なデータは何もないけれど、なんとなくそんな気がする。いや、実は決して「なんとなく」などではない。ここ数年、我々教師が感じる、プレッシャーの体感温度が明らかに下がってきているのである。年々下がってきている。しかも急激に。おそらくこう感じているのは私だけではないはずだ。

なぜだ。

いったいどこから風向きが変わったのだ。

教育ルネサンスか? 大手メディアによる一昨年の教育記事ブームか? それともモンスターペアレンツ問題か? いずれにしても、ここ数年でメディアの一方的な学校叩きの論調が沈静化したことだけは確かだろう。

実はこの現象を見ていて、私には感じるところがある。

かつて宮崎勤がセンセーショナルに報道されたとき、あの、所狭しとビデオと漫画雑誌の積まれた部屋の映像から、人々は身近な「おたく」達を危険視し始めた。

酒鬼薔薇聖斗事件のときには、「子供が変わった」「子供がわからない」と世間は喧噪に包まれた。中には、不登校生徒は危ないという意見まで現れた。中学生を見れば、この子にも何か心の闇があるのかもしれない、などと言う者さえいた。

黒磯の女教師刺殺事件に至っては、「普通の子」がキレる、もはや、どの子にも犯罪を犯す可能性がある、とさえ言われた。

佐賀のバスジャック事件や「人を殺してみたかった」と言った少年の事件では、世間は「17歳問題」としふて取り上げ、子供と大人の狭間にある17歳の少年たちを一括りに論じる論調がはびこった。

この間、オウム真理教事件や大阪教育大学附属池田小学校事件、佐世保の小六女児刺殺事件なども起こり、世論はこの国にはびこる心の闇を一般化するようになった。

その結果、昨年の秋葉原通り魔事件にいたっては、加藤智大被告に社会の犠牲者として、この国の労働システムに救う諸問題の犠牲者として、同情の声さえ集まるようになった。

まったく右に触れたり左に触れたり、この20年間、いずれにしても「世間の空気」がその事件の評価を大きく左右したのである。もしも秋葉原通り魔事件が1989年に起きていたら、果たして加藤智大は同情を集めたか。もしも宮崎勤の連続殺人が2008年に起きていたなら、彼が生まれながらに背負っていた手の障害がもう少し同情を集めたのではなかったか。

何を言いたいかというと、事件の評価は、おそらくその事件における〈起こった事実〉によるのではなく、あくまでもその事件が起こった年の〈世間の空気〉で決まるのではないか、私はそう言いたいのである。

話を冒頭の話題に戻そう。

おそらく、現象としての学校、事実としての学校は、数年前も現在もそれほど変わってはいない。教師の力量が急に上がったり、教師がクレームのつくようなことを一切やらなくなったり、教師の仕事がシステム化してクレームの対象となるような事案が減ったり、そんなことはおそらくはあり得ない。

変わったのは〈世間の空気〉のほうである。

この数年、メディアは、息子が学校の窓ガラスに石を投げて割ってしまった保護者が、「グラウンドに石があるのが悪い」と言ったとか言わないとか、「割れないような強化ガラスを使うべきだ」と言ったとか言わないとか、この議論に象徴されるような、大半の教師が経験することはもちろん、聞いたこともないような事例をセンセーショナルに取り上げ続けた。「モンスター・チルドレン」「モンスター・ペアレント」「モンスター・ペイシェント」と、日本人の品格が下がり、民度が落ちているかのような言説を垂れ流し続けた。ドラマ化までされる始末である。その結果、教師の言動に対してちょっとくらい疑問をもった程度では何も言えない、尋ねることさえはばかられる、そんな空気がこの国に形成されてしまったのではないか。

もちろん、明確に保護者がそのように意識するようになったということではない。しかし、この空気は保護者の、いや国民全体の無意識レベルの行動原理を規制するようになってしまったのではないか。

「この程度のことで電話をかけてはなあ。モンスター・ペアレントかと思われてしまうかも。」

こんなことを思ったことのある保護者は多いのではないか。いまそうした現象が矛者の中に起こっているのではないか。そう思えてならないのである。

「先生がえらくなってきている」と冒頭に書いた。もちろん、本当にえらくなったわけではない。昔、私が教職に就き、そのお盆に母親の実家を尋ねた折、遠い親戚のおばあちゃんに「あらあ、ヒロは先生様になったのかい!」と拝まれたことがあったが、本当に先生をえらいと感じているのはあの世代である。

いま、「先生がえらくなってきている」というのは、あくまでも表層的なことに過ぎない。現象的なことに過ぎない。相対的なことに過ぎない。この10年間で教師の中にやっと形成されてきた、「自分たちは税金で喰っている」とか「自分たちは一方的に管理し好き手はいけない」とか「子どもや保護者の話をちゃんと聞かなければならない」とか「子どもや保護者の願いは公共の福祉に反しない限り叶えてあげるのが筋である」とか、こういった風潮を雲散霧消させるべきではない。全国100万の教師がそういう勘違いに陥らないことを願うのみである。

思えば、宮崎勤も、酒鬼薔薇聖斗も、オウム真理教も、キレる少年も、危険な17歳も、宅間守も、御手洗怜実ちゃんでさえ、あたかも芸能人や政治家のスキャンダルのごとく世間に〈消費〉されたという側面がある。ある時期、教師が同じように〈消費〉され、いま、児童虐待やネグレクトの問題に伴って、保護者が〈消費〉されようとしているのである。

しかし、宮崎勤の親が自殺したり、淳くんの両親が苦しみ続けていたり、地下鉄サリンの被害者が後遺症に苦しみ続けていたり、というように、現実はまったく別の次元で動いているのである。

学校教育も同じである。

一つ一つの事案は、あくまで現実として当事者を悩ませ、苦しませ続ける。それらは、教師一般をスキャンダラスに〈消費〉したり、保護者一般をセンセーショナルに〈消費〉したりすることとは、まったく無縁に動いている。

教師も、保護者も、メディアも、そして政治も、このことを肝に銘ずるべきである。教育再生会議の議論が、現実から遊離して、勢いだけで走っていた現実を見るとき、メディアのみならず政治がセンセーショナリズムに陥っている危険を感じたのは、おそらく私だけではあるまい。

2000年以降、保護者の学校教育に対する満足度は、年々、少しずつではあるが上昇してきている。現在、「満足」「どちらかといえば満足」を合わせると、実に75%を数える。これが、一つ一つの具体的な学校の、一つ一つの具体的な努力が集まって得られた成果だということを、忘れてはなるまい。

教育を〈消費〉してはならない。

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あたりまえのこと

世の中には、あたりまえのことがあたりまえのこととして認知されていない事例がたくさんある。ご多分に漏れず、教育界もそういうことだらけである。大学時代の刷り込みがいまだに影響を与え続けているなんていう例もあれば、あまりに思い入れが強すぎるために他の可能性に考えが及ばないなんていう例もある。いずれにしても、ちょっと考えればド素人でもわかるようなことに、なかなか気がつかない。いや、むしろド素人だからこそ気がつくということさえ、世の中には多いものだ。

授業の名人、教育の名人、最近は教育の鉄人などと自称している者もいるが、こうした著名な実践家が言っていることが意外に単純な、シンプルなことである、という場合も多い。「セミプロ」、もっといえば「えせプロ」が思い込みや思い入れ故に気がつかないことに、彼らは本質だけを見極めようとしているが故に気がつくことができるだろう。ド素人でも気づく「あたりまえのこと」に気がつくにも、ある才能が必要なのかもしれない。

今日、ある若手教師として話をしていて、こんな思いを強くした。

その若手教師が私の授業を参観したあとに言うには、「堀先生はどうしてあんな発問が思いつけるんですか?」とのこと。

おいおい。

私は今日の1時間で、ただ一つの発問も子どもたちに投げかけていない。ただの一つもである。それなのに、この若手教師(仮にAさんとしよう)は、私の発問に感銘を受けたというのである。Aさん、私は発問なんて一つもしてないよ。今日の私の授業は、「説明」と「指示」だけで構成されていたじゃないか……と言いかけて、合点がいった。

ははあ、Aさんの中では「発問」と「指示」と「説明」が未分化なのだ……。

言うまでもないことだが、教師の指導言には三種類ある。「発問」と「指示」と「説明」である。

戦後、授業研究は良質な発問をつくることに心血を注いできた。良質な発問が良質な授業をつくる、と。大学の教育専門科目の先生方は、みんなが口をそろえてそう言い続けてきた。その結果、「教師の指導言=発問」という暗黙の了解といおうか、暗黙の慣習と言おうか、教師百万人の共同幻想的勘違いとでも言おうか、そんな状況が生まれた。

しかし、この状況はよくない。まったくもって良くない。

教師の指導言には「発問」「指示」「説明」の三種類が厳として存在するのである。この三つは分けて捉えた方がいい。その方が教師の力量形成にとって、圧倒的に便利である。

教師の指導言には「発問」と「指示」と「説明」がある。この三つの中で最も重要なのはどれか。こう問えば、きっとAさんは「発問」と応えるに違いない。しかし、それは違う。全く違う。この世の中に「発問」のない授業はごまんとある。たとえば、今日の私の授業のように。

授業にとって絶対に必要なもの、必要不可欠なもの、それは「説明」である。

「発問」のない授業はごまんとある。「指示」のない授業も少なくない。しかし、「説明」のない授業はこの世の中にはあり得ない。だって、子どもたちに伝えようとする内容を説明することなく、授業することが可能だろうか。教えない教育と銘打って、子どもたちに話し合わせ、学び合わせる授業を展開したとしても、その話し合いの仕方、学び合いの仕方を説明しなくてはならない。子どもたちに伝えたい内容が「意味」であろうと「方法」であろうと、子どもたちに伝えようとする限りにおいて、そこに絶対的に必要なのは「説明」なのである。

では、残りの「発問」と「指示」とでは、どちらが重要か。

これはもう、圧倒的に指示である。「発問」を投げかけずに、「説明」して「指示」する授業はあり得る。しかし、一切の「指示」をせずに、「説明」して「発問」を投げかけるだけの授業はあり得ない。必ず、その発問に対して、どのように活動し、どのように思考し、どのように解決するかという「説明」と「指示」とが不可欠なのである。

ここまでをまとめてみよう。

①「説明」だけの授業はあり得るが、「指示」だけの授業とか、「発問」だけの授業はあり得ない。

②「説明」と「指示」だけの授業もあり得るが、「説明」と「発問」だけの授業はあり得ない。

③「発問」を中核に構成する授業は、必ず「説明」と「指示」とを伴う。

何も授業のことなど考えなくてもよい。人間の日常的なコミュニケーションを考えてみれば、明らかなことである。1対多の相互コミュニケーションにおいて、「指示」だけとか「質問」だけとかでコミュニケーションが成立するだろうか。こんな単純でシンプルなことに、「セミプロ」や「えせプロ」はなかなか気がつかない。私が「ド素人の方がわかる」というのは、こういう例である。

ついでなので、中学校教師として力量形成を図りたいと思う、若い教師たちに伝えたい。

若手教師は、自分が国語なら先輩教師の国語の授業を参観しようとする。自分が数学なら数学の授業を参観しようとする。自分が美術なら美術の授業を参観しようとする。

もちろん、これは悪いことではない。自分の教科の授業は確かにたくさん見た方がいい。

しかし、「発問」「指示」「説明」を分けて考えてみると、見るべきものが変わってくるのだ。

まずは「説明」。「説明力」を見るなら、数学のベテラン教師と社会のベテラン教師の授業を参観することをお勧めする。数学は抽象的なことを抽象的なままに子どもたちに落とすということを学べる。図示したり、既習事項と同一の原理を導き出したり、こういったことをしながら数学の授業は進んでいく。具体例をいくつも挙げながら、それらの共通点を導き出して「ほ~ら、こういうことでしょう?」という説明をするのは社会科教師である。一つの社会事象、社会原理を説明する上で、彼らはいくつも具体例を挙げて説明する。それも、子どもたちにも理解できるような具体例を次々に出す。社会科とはそういう教科なのだ。何も、研究をしっかりとやっている、いわゆる「研究屋」の授業である必要などまったくない。何十年も数学教師や社会科教師をやっていれば、子どもたちを惹きつけながら授業を進めていく、血肉となった「授業の知恵」レベルのものを見るほうが勉強になる。彼らにとって「授業の知恵」は、もはや「生活の知恵」レベルにまで血肉化している。その呼吸をこそ見るのである。

「指示」の勉強なら、何を措いても音楽教師である。特に合唱指導だ。彼女たちは「○○を目的とする場合には□□といえばよい」ということを知っている。あの手この手、手を替え品を替えた「指示」の連続によって、音楽の授業は進んでいく。しかも彼女たちのすごいところは、言葉巧みに音楽室の空気を支配し、子どもたちをノセていく技術が身についていることだ。20年以上も音楽教師を続けているという者は、まず例外なくこの呼吸を身につけている。だってこれを会得しないことには、音楽の授業自体が成立しないのだから。更には、いつ、どこで、どんなふうに短時間の休憩をもって集中力を持続させるか、そんなタイミングまで心得ている。これを学ばない手はない。

「作業指示」なら技術・家庭や美術である。彼らは危険を回避し安全性を確保するということに最大限の配慮をしている。つまり、まずは安全確保、その上で型はめ、更に欲張れば創意工夫、彼らの「指示」にはこうした優先順位の思想がしっかりと根付いている。ただし、技術・家庭、美術の教師は、ベテランならだれでもいいというわけにはいかない。だれにも下手な「指示」を指摘されることなく、なんとなく創造力の高い生徒に助けられていつのまにかベテランと呼ばれる年齢になってしまった、そういう教師が少なからず存在する。子どもたちに人気があって、職員室でも信用がある、そういう教師を選ぶ必要があるのがこの2教科である。

理科の実験にも同じような「作業指示」があるが、理科教師は技術・家庭や美術に比べて「作業指示」の経験が少ない(つまり、実験の授業が少ない)ため、技術・家庭や美術の教師ほどにはこなれていない場合が多い。体育教師も同様である。「指示」が明確でなくても子どもたちが喜んで活動するため、ちゃんと考えて授業をしている教師と考えずに授業をしている教師とで、真っ二つに分かれるのが体育教師だ。国語も同様である。考えている者と考えていない者との差がものすごく大きいのが国語である。ただし、「発問」づくりを勉強しようと思えば、やはり一に国語、二に社会である。

英語にも「作業指示」や「活動指示」が多いが、現在、英語教育は文法中心の英語教育からコミュニケーション中心の英語教育へという過渡期にあるため、なかなか良質な「指示」を与える英語教師には出会えない、という現実がある。

教師の指導言には「発問」「指示」「説明」がある。この「あたりまえのこと」に気がつけば、職員室がこんなふうにさえ見えてくる。「ド素人でさえ気がつく」ような「あたりまえのこと」に、我々も意識して気づきたいものである。

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副担任と効率主義

初めての副担任は、いろいろと学ぶことが多い。

まず第一に、放課後の委員会が面倒なことではなく、楽しみになっている。生徒と接しながら、試行錯誤する場がここしかないのだから、当然と言えば当然である。

第二に、授業が楽しくなった。内容も充実している。特別練って授業をつくっているわけでもないが、無駄のない、一人一人を見る指導ができている。心の余裕の賜物か。

第三に、他人の学級経営を見比べながら分析できる点である。最初は「俺だったらこんなことはしないな」とか、「俺だったらこうするな」とか、否定的なことばかり考えていたのだが、これまた心の余裕の賜物か、「なぜ、この担任はこの手立てをとるのか」「他の手法をとっているあっちの担任とは裏にどのような思想の違いがあるのか」「この手法をとるこの担任にはどのような歴史的経緯があるのか」「この手法のプラス面とマイナス面はかくかくしかじかである。マイナス面を最小限にするために、自分に何ができるか」といったことを考えるようになってきている。

それでも時間が余っている。

効率主義者のぼくは、効率第一主義である故に、時間をもてあましている。どうも副担任という仕事と効率主義とは相性が悪いようだ。

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驚いた。

驚いた。

3年生。「おくのほそ道」の一斉音読。

月日は百代の過客にして…、サンハイ!

月日は百代の過客にして!

行きかふ年もまた旅人なり…、

行きかふ年もまた旅人なり!

19年の教師生活において、3年生の4月に、なんの指導もすることなく、こんなにも張りのある大きな声を出す生徒たちを見たことがない。

1年生ならわからないでもない。

いや、私が受け持ったどの1年生よりも、今日の3年生の方が声が出ている。声が喉からではなく、腹から出ているのである。

なぜだ……。

厚別・向陵・上篠路と経験してきたが、こんな生徒たちを見たことがない。

今日の最初の授業は3年7組。まずこのクラスの声に驚かされた。このクラスが特別なのかと思って、次の2組へ。2組の声は更に大きい。次に8組へ。2・7組よりはちょっとだけ落ちるが、これまで持った1年生以上であることは確かだ。

考えられる理由は、「部活動が盛んであること」以外にない。

「腹から声を出すこと」が無意識レベルにまで溶けているのである。おそらく理由はこれである。

いやあ、驚いた。

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指圧

週に一度の指圧がやめられなくなってきた。

運動をしていた頃は、「指圧で疲れをいやすようになったら終わり…」と言われたものだが、背に腹は代えられない。これだけ楽になるのだから、もうやめられない(笑)。

結局、睡眠をしっかりとり、週に一度、指圧に通う。

そんな1年になりそうだ。

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4月例会

17時過ぎから、ぱらぱらと人が集まってくる。

もう18年も続けている、「研究集団ことのは」の月例会である。

今日は毎年恒例の学級開き、授業開きの資料。友利くんのプリントの作り方のまずさばかりが議論になる。それ以外は「へえ~」で終わり。

思えば、「研究集団ことのは」に入会した人はみな、まず、プリントの作り方のまずさを徹底して批判される。書かれている内容のレベル訳がなされていない、異なったレベルの指示が並列になっている、漢数字で書くべきものが算用数字で書かれている、ナンバリングに規則性がない、字間と行間のバランスが悪い、といった指摘である。

「ことのは」には中学校の国語教師しか入会してこない。つまり、国語教師にしてこのレベルである。他教科の先生方のほとんどはこういったことに配慮がなされておらず、非常に見づらいプリントをつくっている。罫線や文字の飾りで、見ていてうるさいプリントをつくって悦に入っている。

生徒の中にさえそのアンバランスに気づく者がいるはずなのだが、そんなことには思いも及ばない。

ぼくは自信をもっていえる。プリント一枚見れば、その人の実力はすぐにわかる。少なくとも、何をどの程度まで想定し、配慮しながら教育活動をおこなっているか、それはプリント一枚で手に取るようにわかる。

そんなこと考えたこともない、という考えたことのなさまでわかる。

そういう人は、授業でも生徒指導でも、「そんなこと考えたこともない」という世界観でやっているはずだ。このプリントはなぜこういう項目立てなのか、なぜナンバリングはこういうレベル分けなのか、なぜ「1、2、3…」のあとに「(1)、(2)、(3)…」で、その後が「①、②、③…」なのか、それを考えたこともない人は、「なぜここでこういう指示を出すべきなのか」「なぜ事情聴取でここをこういうふうに詰めなければならないのか」なんてことも考えたことのない人である。

「なぜ」という問いを持つ人と持たない人との違いがこんな小さなところにも出る。

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1年生の授業開き

これまた「授業開き」らしいことは何もせず、「ふしぎ」の視写・一斉音読。その中で、ノートの使い方を確認していく。

きらきらした瞳。

ちょうど1年前にも見た「瞳」である。

1年たつとこのきらきらに鋭さが加味される。「瞳」と「頭」とが回路でつながり、連動してくるとそういう鋭さが出てくる。

1年後、この子たちのそういう「眼光」を見ることができるだろうか。いやいや、そういう「眼光」をつくるのが我々の仕事である。

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3年生の授業開き

いわゆる「授業開き」らしいことは何もせず、いきなり「おくのほそ道」の視写からはいる。

歴史的仮名遣いの確認をしようとしたら、定着していない。3時間計画を瞬時に切り替えて、5時間計画へ。2時間かけてじっくりと歴史的仮名遣いの8法則を確認することにした。

生徒たちの真剣なまなざし。次々にノートに写される板書。私語のない教室。ここにも学びたがっている子どもたち、できることならちゃんと知りたいと思っている子どもたちがいた。

それなら鍛えてあげよう。

追試を5回もやれば、簡単に定着することに過ぎないのだから。

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学年集会

「趣味は生徒にプロレス技をかけることです。」

学年集会での自己紹介である。

去年もほぼ同じことを言ったが、去年と今年とではまったく意味合いが異なる。去年は学年主任として、学年に「生徒をいじる」学年教師団であることを伝え、学年集団の「空気」を高める意味合い。今年は単にぼく自身が「生徒をいじる」主体であることを伝えるだけの意味合いである。生徒をいじるにしても、学年の空気とバランスをとりながらやらなければならないのであって、ぼく自身が空気づくりの主体者ではない。学年主任を喰ってはいけないし、9人の担任以上の影響力を与えてもいけない。

どうせ1年間、副担をやるのなら、今年は「副担道」というものを編み出してみたい。

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入学式

午後から入学式。

1年生だけ。2・3年生の参加しない入学式である。2・3年生が新入生や保護者に見せられない状態……昔よくあった、そんな理由からではない。在校生を入れるには体育館が狭くて、新入生と保護者、そして吹奏楽部がはいると、もう既に隙間がないのだ。それでも保護者席が足りなくて、壁際に立ち見の保護者が出るほどである。

この学校には、行事における全校合唱という文化がない。全校合唱は保護者が入る場では不可能なのである。全校生徒が集まるか、ひとつの学年とその保護者が集まるか、二つに一つの選択。

ぼくの知らない入学式の形がそこにあった。

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着任式

おはようございます。(生徒「おはようございます」)

堀裕嗣といいます。

教科は国語です。

見かけはむさ苦しいですが、中身はむさ苦しくないつもりです。(生徒クスクス)

実は…(間)…明日、誕生日です。(生徒拍手)

ありがとう。

明日、このひげ面とすれ違ったら、「堀先生、誕生日おめでとうございます」と声をかけてくれたら嬉しいです。

では、よろしくお願いします。

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風邪

転勤の緊張感から気が抜けたせいか、はたまた金曜日の飲み会のせいか、それとも土曜日のBRUSHのせいか、風邪をひいてしまった。

しかも、起きてさえいられないほどひどい。

土曜日の夜から日曜日にかけて、22時間寝て、少しだけ回復。

最近、こういうことがあるたびに年齢を感じる。年齢を感じているから、よけいに体が弱くなる。無理をしないから、余計に運動不足になる。

それにしても土日で良かった。

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教師力BRUSH-UPセミナー

今年度最初のBRUSH-UPセミナーが終わった。

札幌近郊にいる者のみが登壇する、いつもよりは小さな企画である。それでも45人の参加者があり、盛会だった。

山本くんとか平山くんとか、出逢った頃はまだ若く、力量もなかった人たちが、いまでは説得力のある講座を展開している。時はたっているのだなあと、改めて実感した。

思えば、BRUSH-UPセミナーをはじめて5年になる。

教師の力量形成の段階、いわゆる上達論を明らかにできればとの思いを、個人的には抱いていたのだが、BRUSHがそうしたスキルアップの段階を構築するのもそう遠くないのかもしれない。

今年もまた、教え子がひとり、教職に就いた。試行錯誤しながら、一段一段、階段を昇って欲しいと願っている。

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人間万事塞翁が馬

新年度初日。転勤初日。副担任初日。

19年目にして初めての副担任である。学級づくりを客観的に見てみることで、何かをつかめればと思っている。

幸い、学年主任と学年副主任の先生は人柄が良さそう。更に力量も高そう。力量のある先生の学級づくりを外から見られる機会は、そうあるものではない。楽しみである。

どこの学校でもそれほど代わり映えのしない年度当初の何気ない一日の中で、ぼくの目を引いたのはこの二人の先生だった。あとは若手が多く、活気があるといったところか。

とにかく、この学校がどういう力学で動いているのか、それを細かく見極めることだ。ディテールはどうでもいいことだ。後回しでいい。転勤というものは、常にそこから始まる。

このたびの転勤が吉と出るか凶と出るか、そんなことはまだまだわからない。「人間万事塞翁が馬」である。

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