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取り得る手立て

札幌市営の地下鉄で中学2年生の少女が自殺した。南区の中学校だと言う。どこの学校なのか、どんな事情があったのか、ぼくは何も知らない。報道によれば、一年ほど前に転入してきた生徒だと言う。

痛ましい事件だ。あまりにも痛ましい事件だ。札幌市の中学校教育に携わる者の一人として、こんな事件が自分の学校であったら、もう自分は教員を続けていけないだろうな、と思う。おそらく当該担任も、学年主任も、教頭も、校長も、同様の思いを抱いているに違いない。「なぜ、こんなことになってしまったのか」と。この一年間の、この女子生徒と自分とのかかわりを振り返りながら、何がいけなかったのか、どのようにすればこんなことにならなかったのか、それを一秒の間もあけることなく考え続けているに違いない。

親御さんも切ないだろう。哀しみのぶつけどころがない。そのぶつけどころのなさに次第に怒りがわき、学校や市教委にその怒りをぶつけるしかない。しかし、ぶつけてみたところで、何も変わらない。切なさと、虚しさとが増幅していくだけ。いくら説明を聞いたところで、娘を失った哀しみに「納得」などあり得ない。細かな情報が入ってくればくるほど、「なぜ」という問いは細分化され、増殖し、様々な可能性に分化され、それらの可能性ごとに新たなぶつけどころのない怒りがわきあがる。

その学校の生徒たちも、特に級友たちは、もうどうしていいかわからなくなっているはずだ。一年間、その女子生徒とどんなかかわりがあっか、まさか自分のせいだろうか、自分にまったく責任がないなんていうことがあるだろうか、そんな思いの中で、みんなで肩を落とすしかない。冗談を言うのは罪、家でテレビを見て笑うのも罪、そんな贖罪意識をもちながら、「死」というものと向き合っているに違いない。「死」とは何なのか、と。しかし、いくら考えても答えの出ようはずもない。

ただ一つだけ確かなことは、教職員も、保護者の方も、そして級友たちも、これまでの人生で経験したことのない「精神の危機」に直面しているだろう、ということである。しかも、これからの人生をも規定してしまう、忘れることのない危機に。

実はまだまだいる。地下鉄の運転手さんは? その地下鉄に乗っていた乗客たちは? いったいこの事件をどう思うだろうか。そして、どのように自分の中で整理をつけるのだろうか。彼女が一年前まで在籍していた学校の生徒たちは? その学校の教師たちは? もう数え上げたらきりがない。

人生にはいろいろな危機が訪れるものだが、その多くは時がたてば「笑い話」と化していく。そんな経験を幾度となく経験しながら、人は一つ一つ、世界観を広げていく。一歩一歩、成長していく。しかし、今回の経験だけは、どれだけ時がたっても、決して「笑い話」にはならない。懐かしく想い出すこともない。自分の中で整理がつけられることもない。しかも決して消えない。ただただ、一つの、強烈な痛みとして残っていくはずの経験である。

おそらく、この事件には、再発防止策などない。

どのように教育すればいいのか。

子どもたちに何を教えればいいのか。

「命を大切にする」教育を……? わかる。そう言いたいのはよくわかる。ぼくももちろん、「命の教育」をする。自分がかかわっている生徒たちに訴える。しかし、この少女の親だって、「自分の命を大切にしろ」とか「私より先に死んだら承知しないよ」とか、きっと言っていたはずである。担任教師だって、小さなトラブルがあるたびにその指導を施してきたはずである。教頭だって校長だって、全校集会で、始業式・終業式で、常に「命を大切にする」ことについては触れてきたはずである。ぼくだって、夏休みや冬休み前の集会のたびに、「死ぬな。命のほど大切なものはない。君が死ねば何人の人が悲しむか、考えてみろ。」という話をする。

どのように教育すればいいのか。

子どもたちに何を教えればいいのか。

おそらくそういうレベルの話ではないのだ。

そんなことを考えても、あまり効果はない。そんなことを語っても、きっと言葉が浮遊するだけだ。「どのように」教えるかとか「何を」教えるかとかのレベルではないのだ。そんなレベルの話で済むなら、この死に方は選択されない。今回の「死」には、ぼくらの想像を絶する、深い、あまりに深い絶望がある。彼女には、何か存在論的な問いがあって、その問いに絶望したのだ。まだ中学生とか、未熟であるとか、そういう問題ではない。どんな発達段階であろうと、いかに思考力が未熟であろうと、存在論的な問いは存在論的な問いであり、その密度に変わりはない。その濃度に変わりはない。ぼくにはそう思えてならない。

ためしに考えてみるといい。この少女が死を選ぶ一時間前に、自分がこの少女と対面しているとしたら、いったいなんと語りかけてあげられるだろうか……と。ぼくらは言葉をもたないのだ。まさに絶句するしかない。道具としての言葉は、この場において須くその機能を失ってしまう。そういうものなのだ。

なぜ死んだのか。

なぜこの事件は起こったのか。

なぜこの死に方が選ばれたのか。

必要なのはこういう問いである。しかし、こう問うたところで、それは深淵に迷い込むだけである。無理に一応の答えを出してみても、その所以は複雑きわまりないものになるはずである。そして、その一応の答えが出たところで、それにあった教育改革・学校改革を施し、その成果が出るまでには30年かかるだろう。

去年の保護者による監禁事件のような、対症療法(と言っては申し訳ないが)のような対策では埒があかない。システムを変えればなんとかなるというタイプの事例ではなく、教育観を転換するほどの大改革を求めるような事例であるからだ。

千歳の中学校の飛び降り自殺未遂といい、北区の保護者による監禁事件といい、そして今回の自殺事件といい、北海道の学校教育が、少なくとも石狩地方の都市型教育(都市型にあわせたつもりの教育)がそろそろシステム疲労を露呈し始めているようにも思える。

しかし、と同時に、それは、我々学校教育に携わる者の思考の限界、想像力の限界を露呈しているようにも思えるのだ。ぼくはこの少女が自分の学級にいたとして、正直に言って、取り得る手立てが思いつかない。この少女に対して、誠実な教師であろうとすればするほど、袋小路に陥ってしまう。それが多くの教師の心象であるように思えてならない。

このたびの少女のご冥福を、ただひたすらに祈りたい。

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