夏が来る
最近、自分史ということをよく考える。別に自分史を書こうなどと年寄りくさいことを考えているわけではないので、誤解のないように。
ただ、自分がいま依って立っている教育論、文学論、教育実践手法、そして言語観、人生観、人間観、社会観、世界観に至るまで、どうも自分の「世代」ということからまったく解放されていないのだということを、腹の底から納得させられる論述にちょくちょく出逢うようになったのだ。これはつまり、自分の世代の書き手が世に出回り始めていることを意味する。そういう年になったのだ、ということでもある。
今日、平松愛理の「Erhythm」と大黒摩季の「BACK BEATs ♯1」を続けて聴いた。この二枚のアルバムを聴いていて思うことは、ここに描かれているのが、かつて自分が青春期に理想とした女性像である、ということである。ほぼ同世代の女性ソングライター二人が、本質的に共通する女性像を描いていることに、しばし思いを馳せた。
まずは、「Erhythm」から「もう笑うしかない」の、「BACK BEATs ♯1」から「夏が来る」の歌詞を引いておこう。
この二曲に共通して描かれているのは、能力の高い女性がその内面にもつ「純愛志向」である。おそらく、女性が男性と対等に仕事をすることが国是とされ時代是とされるとともに、70年代以降の「なかよし」「マーガレット」に代表される純愛路線少女漫画的「乙女ちっく」が精神の奥底にまで浸透した世代の、どうしようもない二面性が描き出された世界観であろう。
90年代初頭、平松愛理と大黒摩季は、こうした世代、つまりは当時の二十代女性に圧倒的に支持された。そして、当時の二十代男性、特にキャリア志向をもち、生活レベル向上志向をもつ当時の二十代男性たちの理想の女性像と、平松愛理や大黒摩季の描く女性像とは重なり合っていたように思えるのである。
さしずめ、現在なら、オタクの理想のひとつとして数えられる「ツンデレ」になろうか。
しかし、ぼくの印象では、平松愛理・大黒摩季の描いた女性像と、いわゆる「ツンデレ」とでは、その本質が大きく異なる。
ちなみに、「ツンデレ」は「ツンツンデレデレ」の略語で、ウィキペディアによれば次のような定義があるようだ。
1.日常ではツンとしているものの、思いを寄せた人と二人きりになると、デレっとすること(『イミダス2006』2005年11月発売、集英社)
2.普段はツンツン、二人っきりの時は急にしおらしくなってデレデレといちゃついてくるようなタイプのヒロイン、あるいは、そのさまを指した言葉(『現代用語の基礎知識2007』2006年11月発売、自由国民社)
3.オタク用語から一般に浸透しつつある言葉で、普段はツンツンとしているが、ある条件下になるとデレデレといちゃつく状態や人物を指す(『知恵蔵2007』2006年11月発売、朝日新聞社)
4.もともと好きな異性の前でデレッとしてしまいがちな女性がそうならないように自分を律してツンツンしているというように、一つの性格の中で移行するのが、ツンデレ(『ダ・ヴィンチ』2007年2月号、2007年1月発売、メディアファクトリー)
この四つの定義に見られるように、「ツンデレ」が想定しているのはあくまで「日常ではツンツン」「異性の前ではデレデレ」という二面性的態度に特化されている。わかりやすく言えば、甘えん坊の本質を自分だけにしか見せないということにこそ重要性がある。オタクたちにとって、自分とのつながりこそが重要度が高いということであろう。
しかし、ぼくらが80年代から90年代初等にかけて理想像とした女性には、キャリア、或いは仕事上の能力が高いということが、二人きりで女性らしさが見えるということと同等に大切なのであった。家柄のいい高嶺の花とか、可愛いだけのお嬢様とか、そういう身分や容貌といった決定論的な属性ではなく、志をもち努力をともなった成長願望をもって社会と対峙し、時にその社会に疲れを見せてその癒しを自分に求めてくる、そういう女性像なのである。その意味で、キャリアやスキルアップの要素をもたない、現代の「ツンデレ」幻想は、女性像を現象的なもののみに矮小化したものに過ぎないようにぼくには感じられる。
こうした要素は、女性同僚や学生時代の女友達の話を聞いているとよくわかる。
例えば、現在、35歳~45歳くらいの女性同僚を見ていると、かなり仕事に対してプライドをもって当たっているのを見て取ることができる。自分が「違う」と思えば上司にもモノを言い、自分の主張をはっきりと示す。すぐに根を上げず、ヘルプをなかなか出さない。自分の領域はあくまでも自分の力でやろうとする。そういう意気が感じられる。つまり彼女たちは仕事において、ほとんど「女」を武器にしない。
ところが、30歳以下あたりから、多くの女性同僚に、自分は「教えられる権利がある」「スキルアップというものは周りに支えられながら図るものである」という意識がはっきりと見て取れる。自分は若いのだからちゃんどできなくて当たり前、上司の皆さん、わたしが困ったときには助けてください、という態度である。そして、一つ一つ、教えられたことに関してはちゃんとやらなければならない、もう手助けは求められない、と思うようになる、こうした態度である。大きな分岐点が32、3歳にあるようにぼくには感じられる。
誤解しないで欲しいのだが、ぼくは後者を批判しているのではない。ぼくから見れば、ヘルプを出してくれず、手遅れになってから後始末に奔走しなければならない同僚よりも、さっさとヘルプを出してくれて致命的になる前に対処できるほうがいい、という側面があるからだ。
しかし、その精神性においては、ぼくは後者よりも前者のほうが圧倒的に尊いと思う。そして、ぼくには後者よりも前者のほうが圧倒的に好ましく映る。そして前者は、80年代から90年代初頭に青春期を過ごした世代なのであり、平松愛理や大黒摩季が「もう笑うしかない」や「夏が来る」で描いた精神性を確かにもっている世代にぼくには映るのである。
こんな女性像は、ぼくらよりも上の世代から見れば、お笑いかもしれない。ぼくにはまだ分析ができていないが、ひと世代上とぼくらの世代の間にも、大きな感覚の違いがあるようだ。
例えば、「純愛志向「純愛信仰」を象徴する季節は、ぼくらより上の世代にとっては、間違いなく「春」である。いや、ぼくらの世代にとっても、一般的には「春」であろう。ちょっと思いつくだけでも、松任谷由実は「春よ、来い」と歌い、中島みゆきは「春なのに」、岩崎宏美は「春おぼろ」と歌った。
しかし、大黒摩季は「夏が来る」と歌ったのだった。「わたしの夏はきっと来る!」とシャウトしたのだった。この「純愛志向」に対する熱さ、激しさをぼくらの世代は理解することができる。身体感覚として、この「夏」で象徴される「純愛志向」を受け止めることができる。
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