現実的…
「現実」の対義語が三つある。一つは「理想」。一つは「夢」。一つは「虚構」である。「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」、どれも世の中では対立概念として把握されている。一方、「夢」という言葉は、「理想」の意味で使われる場合と、「虚構」の意味で使われる場合とがある。「あなたの夢は何ですか」というときの「夢」は「理想」の意味に近く、「これは夢か幻か」というときの「夢」は「虚構」の意味に近い。
教育の世界でも、教育を理想で語るのでなく、現実で語ることを是とする風潮が、80年代から流布し始めた。これが現実を動かす。これが現実を変える。そういう現実的対応策こそに価値がある。そういう風潮が教育界を席巻した。それから20年が過ぎ、こうした風潮が当然の世の中になった。その結果、小さな現実を変えられることが教師個人の価値を高め、小さな現実を変えられないことが教師個人の価値を貶める世の中が来た。「小さな現実」に対抗する「大きな理想」も、「大きな夢」も、そして「大きな虚構」さえ教師が持ち得ない、そんな世の中になってしまった。
大澤真幸によれば、見田宗介が戦後を三つに区分し、1945~1960年を「理想の時代」、1960~1975年を「夢の時代」、1975~1990年を「虚構の時代」と規定したそうである(『不可能性の時代』大澤真幸・岩波新書・2008年4月)。確かに、多くの左翼思想家たちがそれぞれの思想に基づいて「理想の社会」を追究した時代から、高度経済成長を経て個々人が将来の「夢」を追究した時代に移行し、おたくの登場とバブルを謳歌する世代の登場は「虚構」を自らの拠り所として生き方を追究する時代への到達を思わせたものである。
しかし、その後、時代は「引きこもり」の90年代、「データベース」の2000年代を経て、或いは「心理学的社会」追究の90年代、「社会学的社会」追究の2000年代を経て、いま、「独善的正義」追究の2010年へと向かおうとしている。「バトル・ロワイヤル」「リアル鬼ごっこ」「デス・ノート」といった、不条理世界に引きこもるのでもなく、社会学的に構造を捉えて打開策を講じるのでもなく、身の周りのただ小さな世界にのみ生き、そこで生き残ることを目指し、己の正義のみを拠り所として闘い続ける、そんな世界観が若者たちの間で大流行してきた。こうした世界観が若者たちに違和感なく受け入れられるのは、おそらくは土井隆義や森真一らが分析するような、「友だち地獄」や「本当はこわいやさしさ社会」に生きてきた若者たちの実感と合致したからである。
こうした時代状況の中で、学校教育が「現実的な対応」を迫られるとき、我々にはいったいどのような手立てがあるのだろうか。そもそも「現実」とは、「理想」や「夢」や「虚構」が「現実」に対置するものとしてリアリティをもって立ち上がっているときに、それに抗う相対的価値として立ち上がってくるものに過ぎないのではないか。「現実」が「現実」だけで「現実的」にある、そんなことはあり得ないのではないか。学校教育が、いや、学校教育を含み、「現実」を動かす代表とも目される政治が右往左往しているのも、「理想」や「夢」や「虚構」と対置されない、つかみどころのない「現実」だけを相手に闘おうとしているからではないのか。そしてそれこそ、「現実的でない」のではないか。
いま、「現実」と「現実」とが対置し始め、どの「現実」も「小さな現実」としての正当性を持ち始めている。そうなると、すべての「小さな現実」を包み込んだ最大公約数しか打つ手はなくなる。しかし、その最大公約数から漏れた「現実」も自らも「現実」であると正面から主張し始めたとき、最大公約数もまた、最大公約数であるにもかかわらず崩壊せざるを得ない。結果、すべての責任は個に帰すこととなり、「独善的な正義」を楯にして闘い、勝利し続けるしか道がなくなる。クレイマーもモンスターペアレンツも、給食費未払いも、みんなそうした状況の先駆者の意味合いをもっている。
小さな小さな世界の中で自らを基準に成立させた正義と、テレビから垂れ流される身近に成り下がった政治的正義と正義とを整合させようと、1億2千万人が躍起になっている。すべての人たちが「我こそは現実的だ」と信じて。
| 固定リンク
「書斎日記」カテゴリの記事
- なぜ、堀先生はそんなに本をたくさん書けるんですか?(2015.11.22)
- 出会い(2015.10.28)
- 神は細部に宿る(2015.08.20)
- スクールカースト(2015.05.05)
- リーダー生徒がいない(2015.05.04)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント