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2009年2月

「格差」と「不平等」

苅谷剛彦が多くの社会学者や経済学者と「格差社会」を題材とした共同研究に取り組んだとき、「格差」を英訳するにあたって「inequality」と訳したそうだ。つまり、「不平等」である。

一方、一昨年、国会で「格差はあって当たり前」という発言があって話題になったことがあった。はてさて、この国会議員は「不平等はあって当たり前」と国会の場で言えるだろうか。

このことは、政治家が「格差」を努力の結果としてできあがった生活レベルの差異と捉えいているのに対して、マスコミや世論、そして「格差社会」を問題視する研究者は、「格差」を「不平等」の問題として捉えているという現状をよくあらわしているように思う。

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2月が終わった

2月が終わった。

多くの教師があまり意識していないが、中学校で最も指導が困難なのは2月である。1年生も2年生も大きく変わっていく。2月を制すると、或いは2月に起こった事件について生徒指導をきちんと行っていくと、次の年度の一学期くらいまでは、卒業式、年度末、新年度、旅行的行事で引っ張っていける。

2年生なら3年1学期までその状態が続けば、受験に向けてほぼ落ち着いた生活態度を維持していくことができるし、1年生なら次の山場は1学期末から夏休み明けへと移っていく。これを知らない教師は、2月・3月の評定事務や年度末事務、卒業式といった年度末特有の忙しさにかまけて、生徒指導に甘さが出てしまって少しずつ少しずつ崩れていく。新年度にはもうもとに戻せなくなってしまう。経験がものを言う時期である。

2月は生徒たちに成果をあげさせる必要がある。追試や練習問題に何度も取り組ませて、学年末テストでまずまずの点数をとらせるのも善し。生徒参加型・活動型の授業をしっかりしたフォーマットで仕掛け、楽しませるのも善し。学級や学年のイベントを企画して、それに生徒の目を向けさせるのも善し。そろそろ中体連に向けて「いまが勝負」だということを意識させて、練習メニューを厳しいものにしていくのも善し。いずれにしても、新年度並みの充実感をもたせるような活動を、しかもあらゆる場面で仕掛けていくことが必要なのだ。

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テロリズム

札幌の道立高校の1年生男子生徒が、36人の級友を爆弾で吹っ飛ばそうとしたらしい。まあ、考えるところまではある種の人たちはするのだろうが、材料まで買いそろえて実際に作り始めていたというから、これまでにない事件である。

地元の学校なので、テレビに校舎が映っているのを見ただけで、どこの高校かわかってしまった。そしてその高校に自分が去年卒業させた生徒が一人も進学していないことを思い出しひと安心。

それにしても、ここまで来ると、完全にテロリズムである。いやな世の中になったものだ。この事件に驚かない自分に驚いてしまった感がある。

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副担

ぼくが副担なら、そうだなあ、仮に3副なら、それも事務仕事なら、まあ、学校規模にもよりますが、通常の学校規模なら進路・学習・時間割・学籍・研修・道徳・学活・総合、これに教育課程検討委の長くらいは加わってもできるんじゃないかなあ。

嫌みですね(笑)。でも、副担ってそのくらいの仕事を抱える人間だけがやっていいポジションだとぼくは本気で思っています。

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贖罪の感傷

ぴーちくぱーちくと管理職が喧しい。管理職人事の内示が出たためである。おめでたい人、残念だった人、いろいろいるのは世の常である。それ自体はどうでもいいことである。自分たちの世界の中で嬉しがったり悔しがったりすればいい。

しかし、どうでもいいこととして放っておけないことがある。それはかつて、管理職を目指しながら努力をした時期をもち、結局は昇進することができずに「使い捨てにされた」とふてくされているタイプの教師が決して少なくないことである。

彼らは職員室で要職に就かないことを当然の権利ででもあるかのように主張する。もちろん表だって主張する者などいない。彼らはこの手の主張を学校長との校内人事面談で行う。つまり、陰で主張するのである。

おそらくそこでは、自分は成功した者として、或いはぎりぎりでなんとか引っかかった者としての現在をもつ校長達が、若干の贖罪意識と若干の心の痛みを抱いて、そのエゴイスティックな主張を認めざるを得ない。そして、40代の有望株になんでもかんでも役職を当てようとする。しかも、「君に期待している」「管理職試験を受けてみては」と、ニンジンをぶらさげてである。

まあ、ここまでは世の常であるから仕方ない。

問題は、そうして仕事を抱えた40代があまりの忙しさにつぶれてしまうことがあることだ。例えば、担任をもちながら学年主任を務め、学年の生徒指導に走り回りながらも、校務分掌上は教務あたりの中核を任され、教育課程の編制も実質的に司る、もちろん部活ももつ、こんな40代が各学校に二人程度いるのではないか。副担任はふてくされて仕事をしない50代と、楽な仕事しか与えられない期限付き採用ばかり。その結果、40代に30代をフォローする余力がなくなり、30代にも20代をフォローする余力がなくなる。いま、そんな現実があるように思う。

こうした現状を黙って見過ごしていては、おそらく早晩、学校は壊れてしまうだろう。

いま、18歳人口の教員志望者は3.6%。1988年に5.4%だったことと比較すると、教員志望者は確実に減り続けている現状にある。なのに団塊世代の大量退職が進んでいる現在、新卒者の採用間口は大きくなる。つまり、今後、質のいい若者が学校教育の世界に入ってくる傾向にはないわけだ。

では、どうするか。質のいい若者が入ってくるようなナイスアイディアがあるか。

あるはずもない。では、どうするか。

どう考えても、「育てる」しかない。しかも、OJT(オン・ザ゜・ジョブ・トレーニング/現場での実践研修)でである。

そう。いまこそ、実は、中堅・ベテランに余力をもたせなければならないのだ。

世の中には優秀な、いい管理職がたくさんいる。しかし、その一方で、こんな簡単な道理も理解せずに、連絡調整に徹して毎日をやっとしのいでいるだけの、能力のない管理職もいっぱいいる。

ふてくされてる連中を、職務命令を出してでも働かせよ。

結局は、ここに行き着く。贖罪の感傷なんぞに浸っていては、学校がこわれるぞぉ……(笑)。まあ、終戦時の日本のように、一度壊してみるのもいいかもしれないけどね。生きよ墜ちよ、って時代もあったことだし。

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POP

90年代におおはやりだったPOPな心理学と、2000年代になっておおはやりのPOPな社会学との影響で、教育学もPOPになってきている。困ったもんだと思いながら、けっこう勉強にもなるから、なおさら困ったものである。

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エゴイスティックな提案

エゴイスティックな提案をエゴイスティックだと自覚する者が行う場合、そこにはできるだけエゴイスティックにならないようにとの配慮が働くものである。

やっかいなのは、エゴイスティックな提案をエゴイスティックだと自覚しないままに行う場合である。彼らは自らの主張を、自らの狭い正義をふりかざして行う。

こういう提案に対しては、力でねじ伏せるしかない。だって、理屈で説明しても、彼らは理解できる頭をもっていないから。

ただ、できるだけ力でねじ伏せるなどということはしたくないものである。

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孤独に耐える力

学級担任はリーダーであり、指導者である。

どんな小さな会社の社長でも、社長は社長。必ず孤独に耐えなければならない。大きな会社ならなおさらである。

私は小さな教育実践研究サークルの代表を、もう15年以上も務めているが、そんな小さなサークルでも、運営していると代表は孤独に耐えなければならない。そして組織の長は、その組織が大きければ大きいほど、それに見合った大きく深い孤独に耐えているはずなのである。

私はいま、勤務校で学年主任を務めているが、この仕事にも「孤独に耐える力」が必要である。もちろん、学年教師とうまくいっていないわけではない。それでも、自分だけが抱えなければならない問題というものがある。これが校長ならもっと大きいはずであり、教育長なら更に大きいはずだ。県知事や総理大臣の重圧など、私たちの想像を絶するものであるに違いない。

さて、学級担任に話を戻す。多くの学級担任は孤独に耐えることができない。子どもに嫌われるのに耐えられなくて甘くしてしまったり、保護者とうまくいかなくなるのを避けて事なかれ主義に陥ったり、同僚とうまくいかなくなるのを避けて結果的に自分の学級が損をする提案を受け入れたり、そんなことが多い。すべて「孤独に耐える力」の欠如が原因なのだ。

自分しか知らない、他人に言えない、他人に頼れない、それでも自分で正しいと信じたことを行うという判断をする。それを行動に移す。一人で静かに進んでいく。それがリーダーであり、指導者なのである。各界リーダーの書いた多くのエッセイがそれを証明している。

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〈問い〉をたてる力

多くの人は〈問い〉をたてることができないようだ。特に「なぜ」という〈問い〉をたてることを苦手にしているようだ。

授業中立ち歩きをする子をする子がいる。ここで「どのように」という〈問い〉をたてるか、「なぜ」という〈問い〉をたてるかによって、その後の展開は大きく変わる。

多くの人は「どのように」という〈問い〉をたてる。どのようにすればあの子が立ち歩かなくなるのか、どのようにあの子を授業に引き込むか、どのようにあの子をおとなしくさせるか、こういう〈問い〉である。

こういう〈問い〉をたてると、自分は安全圏にいられる。「どのように」という〈問い〉があくまで「あの子」を変えるための〈問い〉であるからだ。

しかし、ひとたび、「なぜ、あの子は立ち歩くのか」という〈問い〉をたててみる。すると、考える対象が「あの子の行動」ではなく、「あの子の心象」「あの子の認識」「あの子の立場」といったものに向かっていく。そしてそれが見えないとき、「自分の心象」「自分の認識」「自分の立場」そして「自分の子どもを見る目」「自分の教師としての力量」といったものに向かわざるを得ない。これが教師を成長させる。

「なぜ」という〈問い〉をたてる力が必要である。

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校内研修会

校内研修会。

1回目が音楽教師とぼくによる合唱コンクール指導、学校祭ステージ発表指導の講座。昨年度のビデオを見ながら、どういう意図でどういう指導をしたか、これ以上に成果を高めるにはどうすればいいか、そんなことが議論となった研修会だった。

2回目が1学年教師2名による同一指導案の道徳授業。隣り合った学級で同時進行していく同じ指導案による授業。指導者が異なり、生徒が異なると、同じ指導案はどう変わるのか。他の教師がそれを見る。そんな研修会だった。

今日は第3回。理科実験の研究授業。議論のテーマは基礎基本と作業指示。生徒たちも楽しそうによく動いていて、とてもよい授業。研究協議の議論も活発。全員発言。理科を専門としている、今年度いっぱいで退職の校長も楽しそう。

校内研修の中身としてはまずまずだったかな、と自己評価している。

世の中には、愚にもつかない、つまらない研修、まったく役に立たない、教員に思考さえさせない、時間の無駄という校内研が多すぎる。そんな校内研修だけはしたくないものである。

まあ、だからと言って、これでいいわけでもない。まだまだ上がある。それを知っていることも大切なことである。

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遊び感覚

学年末テストが終わった。

今回の学年末テストは学級編制の資料にするので、5教科については、①バランスの良いテストをつくること、②平均点を60点前後にすること、という二つの縛りがかかっていた。

悪ノリして、だれが最も平均点を60点に近づけられるかという賭けもしていた。不謹慎ではあるが、負けた人間は学級編制データをPCに全学級分打ち込むという罰ゲームである。

ぼくのテストの平均は62.4点。2位だ。

ぼくのテストも含めて、60点前後に4教科が集まった。たいしたもんだな、と思う。

賛否両論あると思うが、こんな遊び感覚がすべての職場に欲しいものである。平均点を60点にするために、5人の教科担任が考えたことは、そのへんの研修会で学ぶことよりもずっと広く、ずっと深く、従ってずっと価値がある。遊びながらそんなことを考えられる機会というのは、そうあるものではない。

職員室から「遊び感覚」がなくなって、十数年がたつ。

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誤変換

今日、雑誌原稿を書いていた。題材は学級開きである。

「楽しい自己紹介ネタ」と打ったら、「楽しい事故死妖怪寝た」と出た。

うぅ…。

原稿を書く気が失せた。

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お坊ちゃん

ぼくは帯広柏葉高校の出身。中川一郎が亡くなったのはぼくが高校1年のときだった。まだ、中川昭一も鈴木宗男も議員ではなかった頃である。

昭和58年の衆議院選挙で中川一郎の秘書だった鈴木宗男と、中川一郎長男の中川昭一とが後継争い、同じ北海道五区での分裂選挙となった。共倒れの予測さえ出る中、双方ともに当選。まずは鈴木宗男が田中真紀子外相時代にヒールのレッテルを貼られて、マスコミ・外務省と敵にまわし、結局逮捕。そして今回は中川昭一が馬鹿げたお坊ちゃん的甘えで財務相を辞任。

平成に入って、北海道選出議員から永田町のプレ実力者が何人か出始めていた。鈴木宗男、中川昭一、町村信孝、武部勤、鳩山由紀夫。だれか総理大臣にならないものか、北海道からも一人くらい総理大臣を、と思っていたのだが、一番可能性としては大きいかなと感じていた中川昭一の可能性がゼロになってしまった。

政治生命はつながるにしても、総理候補となることはもう無理である。自民党総裁選であろうと、政界再編後の新党の総裁選であろうと、総理候補が並んだときに今回の映像が繰り返し映し出されるのでは、もう無理である。

飲酒が原因なのか薬が原因なのか、そんなことはどうでもいい。あの状態で記者会見に臨んでいいと思ってしまうほど、鼻高々、天狗になってしまっていたのだろう。馬鹿げたお坊ちゃん的甘えとしか考えようがない。

北海のヒグマも天国で嗤っているだろう。あのくしゃくしゃの笑顔で。

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現実的…

「現実」の対義語が三つある。一つは「理想」。一つは「夢」。一つは「虚構」である。「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」、どれも世の中では対立概念として把握されている。一方、「夢」という言葉は、「理想」の意味で使われる場合と、「虚構」の意味で使われる場合とがある。「あなたの夢は何ですか」というときの「夢」は「理想」の意味に近く、「これは夢か幻か」というときの「夢」は「虚構」の意味に近い。

教育の世界でも、教育を理想で語るのでなく、現実で語ることを是とする風潮が、80年代から流布し始めた。これが現実を動かす。これが現実を変える。そういう現実的対応策こそに価値がある。そういう風潮が教育界を席巻した。それから20年が過ぎ、こうした風潮が当然の世の中になった。その結果、小さな現実を変えられることが教師個人の価値を高め、小さな現実を変えられないことが教師個人の価値を貶める世の中が来た。「小さな現実」に対抗する「大きな理想」も、「大きな夢」も、そして「大きな虚構」さえ教師が持ち得ない、そんな世の中になってしまった。

大澤真幸によれば、見田宗介が戦後を三つに区分し、1945~1960年を「理想の時代」、1960~1975年を「夢の時代」、1975~1990年を「虚構の時代」と規定したそうである(『不可能性の時代』大澤真幸・岩波新書・2008年4月)。確かに、多くの左翼思想家たちがそれぞれの思想に基づいて「理想の社会」を追究した時代から、高度経済成長を経て個々人が将来の「夢」を追究した時代に移行し、おたくの登場とバブルを謳歌する世代の登場は「虚構」を自らの拠り所として生き方を追究する時代への到達を思わせたものである。

しかし、その後、時代は「引きこもり」の90年代、「データベース」の2000年代を経て、或いは「心理学的社会」追究の90年代、「社会学的社会」追究の2000年代を経て、いま、「独善的正義」追究の2010年へと向かおうとしている。「バトル・ロワイヤル」「リアル鬼ごっこ」「デス・ノート」といった、不条理世界に引きこもるのでもなく、社会学的に構造を捉えて打開策を講じるのでもなく、身の周りのただ小さな世界にのみ生き、そこで生き残ることを目指し、己の正義のみを拠り所として闘い続ける、そんな世界観が若者たちの間で大流行してきた。こうした世界観が若者たちに違和感なく受け入れられるのは、おそらくは土井隆義や森真一らが分析するような、「友だち地獄」や「本当はこわいやさしさ社会」に生きてきた若者たちの実感と合致したからである。

こうした時代状況の中で、学校教育が「現実的な対応」を迫られるとき、我々にはいったいどのような手立てがあるのだろうか。そもそも「現実」とは、「理想」や「夢」や「虚構」が「現実」に対置するものとしてリアリティをもって立ち上がっているときに、それに抗う相対的価値として立ち上がってくるものに過ぎないのではないか。「現実」が「現実」だけで「現実的」にある、そんなことはあり得ないのではないか。学校教育が、いや、学校教育を含み、「現実」を動かす代表とも目される政治が右往左往しているのも、「理想」や「夢」や「虚構」と対置されない、つかみどころのない「現実」だけを相手に闘おうとしているからではないのか。そしてそれこそ、「現実的でない」のではないか。

いま、「現実」と「現実」とが対置し始め、どの「現実」も「小さな現実」としての正当性を持ち始めている。そうなると、すべての「小さな現実」を包み込んだ最大公約数しか打つ手はなくなる。しかし、その最大公約数から漏れた「現実」も自らも「現実」であると正面から主張し始めたとき、最大公約数もまた、最大公約数であるにもかかわらず崩壊せざるを得ない。結果、すべての責任は個に帰すこととなり、「独善的な正義」を楯にして闘い、勝利し続けるしか道がなくなる。クレイマーもモンスターペアレンツも、給食費未払いも、みんなそうした状況の先駆者の意味合いをもっている。

小さな小さな世界の中で自らを基準に成立させた正義と、テレビから垂れ流される身近に成り下がった政治的正義と正義とを整合させようと、1億2千万人が躍起になっている。すべての人たちが「我こそは現実的だ」と信じて。

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第22回累積国研in札幌

コメンテーターとして参加。準備のいらない研究会なので、前日からお気楽。ただし、当日、授業を見るうえでは集中力が必要。そういう一日。

テーマは〈道内実践家模擬授業12連発!新指導要領キーワード「PISA型読解力」「言語活動例」「特別支援」/「活用力」を高める国語科授業モデル〉というもの。累積国研の模擬授業12連発企画の6回目である。そのうえで、新指導要領のもととなる「PISA型読解力」や「言語活動例の具体化」、更には今後の学級経営・生徒指導のキーワードともなっていくであろう「特別支援教育」の視点をも盛り込んだ、盛りだくさんの内容となった。

まずは、「活用力を高める〈話し合いを重視した〉授業モデル」という3本。高橋正一先生、加藤恭子先生、山下幸先生の3人の模擬授業を25分ずつ、それに南山潤司先生、大野睦仁先生、私の3人が解説を加えるというもの。

①高橋正一先生の授業は物語文を用いて行う後の話し合いに向かって、話し合いのテーマに関連する必要最低限の視点を発問の形で簡単に確認していき、後の話し合いの糧にしようとするもの。現行指導要領の「詳細な読解」批判の延長上にある、ゆるやかな読解+話し合いの授業だった。参加者の一部にはこのことが見えなかったようで、何をやっているのかわからないとの声も聞かれたが、私には「授業モデル」としてはよくできているように思えた。こういう単発1時間のゆるやかな授業が繰り返されることによって、子どもたちには間違いなく力がついていく。

②二つ目の授業は加藤恭子先生。彼女のプログを読むと、ずいぶんと緊張したようなことが書かれているが、そうした素振りは参加者には見えず、堂々としたものだった。授業もうまい。しかも教材づくりも授業を進める語りも実に丁寧で、子ども達にとっても、わかりやすい授業になっているである。授業段階としては、話し合いの条件(=指導事項)を精選してしっかりと確認し、4人グループによるスピーチ・質問・感想を言い合う場を設定して実際に活用させよう、という授業。専門的には「活用の授業」というよりは「習得の授業」に近い印象を受けたが、指導事項と学習活動がしっかりと合致しており、活動中の指導言にも説得力があって、たいへん好感のもてる授業だった。小学校2年生を想定しているにしては、やや指導事項が多かったか。しかし、それはこの1時間で定着させるものではなく、全体像を示したのであろう。教材に目玉親父が出てきたり、パックマンが出てきたりというところに、彼女の世代を感じさせる(笑)。

③山下幸先生の授業は、参加者に総理大臣の資質を考えさせ、それをまとめさせた後、島田紳助・北野武・太田光・東国原英夫の4人を提示して総理にふさわしい人物順に順位付けをさせ、4人で話し合うという授業。だれが一番ふさわしいかということを楽しく話し合いながらも、総理の資質について始めに自分で考えていたことが深まっていく、それを参加者が自覚していく、そういう構成をねらった授業である。ただ、総理の資質について話し合いで深まっていく過程を自己評価させる手法が少々甘く、ねらいが伝わらなかった面がある。そこが反省点である。

次に、「活用力を高める〈自主教材を導入し生活と結びつけた〉授業モデル」という3本。山口淳一先生、齋藤佳太先生、小木恵子先生の3人の模擬授業、解説は高橋裕章先生、田中幹也先生、石川晋先生の3人である。

①山口淳一先生の授業は紙飛行機の作り方の解説書において、写真の説明を簡単な一文でつくらせるというもの。アンケートの結果を読むと、参加者の評価は真っ二つ。しかし、実生活と結びつけるという要求にはよく応えた授業だったと感心した。特に、作文指導というと長々と説明させる、データを用いて説明させる、できるだけ具体的に説明させる、といった方向に行きがちだが、敢えて短く、わかりやすく、解説書の表現と読み手側とのコンテクストに意識を向かわせ、どう表現すれば短い言葉で間違わせずに伝えることができるかという、現実的な視点に注目したのは見事である。こういう視点は現代社会にとって、きわめて重要な視点だと思われる。

②齋藤佳太先生の授業はたいへんよく練られた、よくできた授業だと思われた。環境に配慮しつつも、自動車の良さを失わない、そんな新型自動車を開発しようという授業だったが、車に乗ったことがないという架空人物を想定した導入、その教材文の創作、現実の環境破壊や自動車の危険性を示したデータ、等々、最大限の配慮がなされていた。ただし、最後の作文のフォーマットが具体的に示されなかった点、配慮が豊富すぎてそれぞれが学習者の中でぶつかり合ってしまった向きがある点など、授業構成には改善の余地がある。しかし、6~7年の経験でここまでの配慮ができれば、今後、ぐんぐん伸びていくことは間違いない。他人の意見に惑わされず、自分で納得のいく授業をつくり続けて欲しいと思った次第である。

③小木恵子先生の授業は、フライドポテトの農薬や遺伝子操作の危険性を指摘する文章を三種類読ませ、そこから想定される社会の動向、変化について考えさせようとする授業。商品を批判するときに何に配慮しなければならないかということを考えることによって、かえって批判読みの仕方について体感させようという授業だった。教材がおもしろいだけに、もう少し批判読みの指導事項を整理して臨むと良かったかもしれない。ただ、私にも経験があるが、重箱の隅に目を向けさせるのではない、真正面から批判読みをさせるという授業はなかなか難しいものである。小木先生の更なる教材開発を糧に、批判読みのモデルを「ことのは」でつくっていきたい。

昼休みをまたいで、午後は「活用力を高める〈特別支援教育を意識した〉授業モデル」という3本。三浦将大先生、北嶋公博先生、平山雅一先生の3人の提案、大野睦仁先生、石川晋先生の解説というコマである。

①三浦先生の授業は、普通学級で特別支援を意識しなければならない現状にある教師にとっては、かなり参考になった授業ではなかったか。細かな授業技術が必要だとはよく言われるが、あそこまで徹底して丁寧に行う意識をもった授業はなかなか見ることができない。しかも、三浦先生のすごいところは指導事項のレベルを一切落としていないこと、である。これにはもちろん、賛否両論があると思うが、現実的な対応を考えたとき、あの授業はかなり提案性があると見た。もちろん、国語的には解答の抜き出し方に難があったり、論拠の抽出が甘かったりといった問題点はあった。しかし、それらはすべて、最後まで授業を受けてみると、そういう細かなところにこだわるよりも先に進めることを選んだ授業者の意図が伝わってくるものだった。こういう優先順位の感覚をもっと前面に出すと説得力を増したかもしれない。

②北嶋先生の講座は、参加者にかなり衝撃を与えたようである。一人一人に対応するとか、現実的な教師の立ち位置とか、それでいて核心的な特別支援の思想をはずさない構えが必要であることとか、北嶋先生の言わんとしていることはすべて参加者に伝わったことと思う。それにしても、やはり特別支援を専門にしている方が持ってくる具体例には圧倒される。今回は8例を挙げてのプレゼンだったのだが、その8例がともに普通学級にも置き換えられる子がいて、おそらくはそれを見越しての提案内容であり提案準備だったのだろうと思うとき、改めて北嶋さんの眼力に恐れ入る。今後、彼は北海道の宝の一人になっていくだろう。前線で実践していく人間も大いに必要だが、そうした一つ一つに価値づけ、広めていく人間はものすごく希少価値である。

③平山先生の授業は「弁護士になろう」ということで、喧嘩の一場面から事実を抽出、被告側の弁護を通じて、認識力と表現力に培おうという授業。全体の見通しを最初にもたせたり、ビデオを通じて視覚に訴えることで興味関心を喚起したりと、様々な工夫を凝らしてはいたが、「特別支援教育」の提案と言えば小学校教師のそればかりを見てきた自分には、明確な意図が読み取れなかったというのが正直なところ。僕が「特別支援」を意識しながら授業をするときには、発問・指示の的確性と一時一事の細分化ばかりを意識しているので、三浦先生の授業に比べて荒いという印象を受けた。どういった意図があってあのような授業になるのか、次回、尋いてみようと思う。

最後は、「活用力を高める〈非連続型テキスト(図表など)を効果的に扱った〉授業モデル」の3本。大野睦仁先生、太田充紀先生、森寛先生の模擬授業3本に、南山潤司先生、高橋裕章先生、田中幹也先生の解説。

①大野先生の授業は、ハワイの旅行パンフから情報を読み取り、参加者をうまくノセながら非連続型テキストの構成の仕方を学んでいくもの。楽しく授業を進めていったが、その楽しさがかえってハンフを読み取る〈目的意識〉の曖昧さを生じさせてしまった感がある。個人的には、学習者をノセていく授業こそ、実はフレームをかなりきつくしなければ思考が散逸してしまうのだなあということを学ばせてもらった授業だった。ただし、それはこういう場で提案するときの話で、実際の子ども相手の授業だったら、適宜、修正的指導言を施しながら進めていくことにして、最初は自由にというほうが機能する場合も多い。いずれにしても、大野先生の力量を感じさせる授業だった。

②太田先生の授業は、小学1年生の「はたらくじどう車」。バスの説明からフォーマットだけを取り出して、ショベルカーの説明を自分で実際に書いてみようという流れ。バスの説明から情報を取り出すとき、ショベルカーの要素と機能を把握させるうえで、写真資料が効果的に用いられていた。再度、本文に戻って、検討することができたらなお良かったが、それは25分の模擬授業では無理だろう。話術も巧みで、条件の中では最高のものを提示した。それにしても、太田先生のこの2年くらいの成長ぶりには驚かされる。教材研究や授業づくりの力が伸びたことはもちろんだが、プレゼンに安定感が出てきた。子どもができて、彼の中で、もしかしたら無意識のうちに、何か世界観の変容のようなものが起こっているのではないか。旦那の安定感を奥さんにも早く見せてあげたい。

③森先生の授業は、新聞記事を題材に本文読解とグラフの読解とを関連させながら、連続型テキストと非連続型テキストの読解力の伸張をともにねらったもの。授業に安定感はあったものの、あの授業は突き詰めていけば連続型テキストと非連続型テキストの相互作用にこそ本質があるはずで、そこまでの意識が残念ながら見られなかった。非連続型テキストの読解は、〈PISA調査〉が話題になって以来、重要案件の一つになっているのは事実だが、非連続型テキストの読み方を独立的に習得させることは、初期段階の指導である。あくまでも連続・非連続の関連性をこそ授業する、そういう授業の在り方を追究していく必要性を感じた。これは森授業批判としてではなく、自分の課題として、である。

以上、長々と述べてきたが、累積国研も20回を超えて、中身の濃さと楽しさとが両立するようになってきた。そろそろ、次の段階をどうしようかと意識しなければならないということを、自覚した一日となった。終了後は、森くん、山下くん、佳太くんといっしょに、次の回の企画を立てた。模擬授業12連発とは異なった形で、しかも今日的なテーマを広く深く扱える、そんな企画を構想したい。ただし、模擬授業12連発という企画も捨てられない。この企画は年に一回はやりたい、そんな企画の形である。

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次の世代

石川が疲れてきている。ぼくも疲れてきている。山田も疲れてきているのだろう。「ことのは」の森・山下・小木・田中といったこれまでを支えてきたメンバーも疲れてきている。そして、民間研究でも校内の位置づけでも、新たな課題に押しつぶされそうになってきている。

しかし、最近の道内の民間研究会に参加していると、新たな世代の台頭が目立ち始めてもいる。北海道に新たな世界が胎動し始めている。あと一歩のところまで来ているように見える。それはぼくや石川や山田や、90年代から2000年代にかけて頑張った者たちが夢にまで見た、次の世代が作り出す世界の胎動であるような気がする。

そしていま、ぼくらの世代が躰に鞭打って頑張ることが、その胎動を生まれさせるか否かの分岐点になっているような気がする。ぼくらの十年下の世代が、ぼくらの十年前よりも力をつけ始めている。彼らが新たなものを生み出すか否かに、ぼくらの存在価値もかかっている。そんな夢にまで見た未来が動き始めているように見える。

いまが頑張りどころなのだ。あと数年、長くて3年が頑張りどころなのだ。そう思う。

ぼくが夢にまで見た、真の「GIVE&TAKE」の時代がやって来る。やって来つつある。

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研究会が楽しい

研究会が楽しい。

特に自分で主催し、目的を持って内容を決め、その目的に従って提案して欲しい人に提案してもらう、そういう研究会はことのほか楽しい。

今日の累積国研には45人が集う。キャンセル待ちまで出た盛会。定員40名のところに45名入れたので、ぼくには一日中座席がなかった。それでも楽しい。

新学習指導要領の理念の実現を考えるうえで必要なことは何か、今日的な子どもたちの状況を考えたときにどういった視座が必要か、この二つを「活用力」や「PISA型読解力」、そして「特別支援教育」の視点から考えようという企画である。

「活用力」や「PISA型読解力」をテーマにした研究会は多々ある。「特別支援教育」をテーマにした研究会も多々ある。しかし、両者をいっぺんに考えようという企画、両者の関連性をまじめに考えようという企画は、全国にほとんどない。両者を独立させていてはいけない。最近の僕の問題意識を色濃く反映したつくりにしたつもりだ。

例えば、国語教育連盟や社会科教育連盟の大会、例えば、通常の札教研の研究授業、例えば、通じようの校内研修会の研究授業、こういったものに「特別支援教育」の視点がさりげなく、しかし確実に入っている、或いは各教科の研究大会の分科会提案に普通に「特別支援教育分科会」が位置づけられている、そういう構成になるべき時代がもうそこまで来ている。そろそろ各研究団体の総務がそのことに気がつくべきだ。そして、教委も協力にそれを推進すべきだ。

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他教科の授業検討

今日は、次週金曜日に行われる校内研修会の理科のプレ授業を参観、放課後、その授業検討を行う。授業者、もう一人の理科教師、そして校長が理科なので校長、さらに教務の山下くん、研修のぼくが加わって5人で。

他教科の授業を検討していていつも思うのは、中学校教師がよく言う「教科性」というものが、あくまでも指導内容の問題に過ぎなくて、授業づくりの面ではほとんど違いがないということ。実は、他教科の授業検討を校内研究にがっちりと位置づけることは、学校運営の核心にもなり得る重要事項なのではないか。そんな気がする。

問題は、他教科の授業検討に参加するモチベーションを、どうやって向上させるかということだろう。少し考えてみようと思う。真剣に考える価値がある。

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外野

小泉さんの麻生批判で、政局が久し振りにおもしろくなってきた。長く続いてきた権力が混乱していくのを見るのは、なぜだかおもしろい。自分が外野であると感じているときにはおもしろい。そして、こういうおもしろがり方が人間を駄目にしていく。

日本人の本質は「ウチとソト」にある。少なくとも明治以降は絶対的にそうだ。

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国民の象徴

今回の麻生さんの揺れはあまりにもひどい。小泉内閣総務大臣時代の麻生さんが郵政民営化の担当だったか否かという例のやつである。

ただ、去年の秋の総裁選の時期と現在とでは、国民の、あるいはマスコミの郵政民営化への評価も麻生さん同様に揺れているように見える。ある意味では、風見鶏的政治家が世論を代表し、象徴しているだけなのかもしれない。

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180度

情報がないと、私たちは他人に対して、自らの経験則のみからエゴイスティックな断罪をしてしまう。ちょっとした情報が入ってくると、その評価が180度変わってしまうことさえある。

少なくとも、情報を集める努力くらいはしなくてはいけない。

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いなかのつしまくん

いなかのつしまくんは誠実だが、空気が読めない。

いなかのつしまくんは思いやりにあふれているが、自信がもてない。

いなかのつしまくんはやっていいこととやっていけないことの判断がつかない。

いなかのつしまくんに何より必要なことは、誠実であることと誠実すぎることとの間にある、どうしようもないギャップを知ることである。

ああ、いなかのつしまくん。

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無駄を削ぎ落とす

家でずーっと「学級経営セミナー」のプレゼンをつくっている。今晩、やっと1本が完成した。しかし、60分で提案するには、いつもの語りのテンポでは内容が多すぎる。いつもの語り方にこだわって内容をばっさり切るか、または早口でまくしたてるか、道は二つに一つ。たぶん今回は後者を選ぶだろうと思う。情報量を確保しようと思う。

明日、もう1本つくらねばならない。しかし、こちらはすぐにできるだろう。これまでのコピペで済むからだ。

ちょっと大袈裟にいえば、2009年の1年間は勝負の年になる。今年、どれだけコンテンツをためられるかで、そしてそこから今後の方向性を見極められるかどうかで、おそらく、これからの10年が決まる。今年は無駄を削ぎ落とす年にしなければならない。

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学級づくり

土曜日の「学級経営セミナー」に向けて、資料をつくっている。今回は今年度の学級システムの作り方をすべて具体的に入れた資料をつくっている。

この手の資料をつくっていると、自分が無意識にやっていることの意味が見えてきて、つくっている自分自身が一番勉強になる。

この資料は今回の「中学校・学級経営セミナーin札幌」と、21日の「教師力BRUSH-UPセミナーin函館」で使う予定だ。お近くの方は是非。

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おやすみなさい。

「疲れを知らない子供のように時が二人を追い越してゆく/呼び戻すことができるなら僕は何を惜しむだろう」(「シクラメンのかほり」)

布施明の歌うこのフレーズが好きだった。

「過ぎた日を売っているバザールはどこですか。想い出のつづれ織り糸のとぎれたまま」(「幻想旅行)

久保田早紀の歌うこのフレーズも好きだった。

最近、「過去」にこだわらなくなった。だからといって「未来」にこだわっているわけではない。では、「現在」にこだわっているのかといえば、そんなこともない。

風邪気味である。こういう日は早く寝たほうがいい。おやすみなさい。

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尾車親方の降格

涙目の琴風。「こんなふうに弟子を処分するとは夢にも思わなかった」との言葉。なつかしいがぶり寄りとのギャップ。

なんと言われようと、何が起ころうと、世間をもたぬ北の湖。いつまでも成熟しない朝潮。妙にやつれた若乃花。解説に復帰した輪島。正論を吐く三重ノ海。

あの、ぼくらを沸かせたお相撲さんたちはどこに行ってしまったのか……。

これから千代の富士にも隆の里にも保志にも大乃国にも傷がつくのだろうか。

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カフェイン抜きのコーヒー

危険や害悪を排除して、快楽だけを残そうとするメンテリティ。

いまこの国はそういう発想にあふれている。カフェイン抜きのコーヒーは、果たしてコーヒーといえるのか。ノンアルコールのビールはどうか。脂肪抜きのミルクは? コレステロール抜きのマヨネーズは? なぜ刺身につける量を減らさずに、醤油自体を減塩にするのか。

この発想を少し広げてみれば、様々な思考ができるはずだ。信仰のない宗教は宗教といえるか。避妊具を用いた性行為は果たして性行為なのか。幻覚を生じない覚醒剤なら使っても許されるか。危険性のない大麻なら若麒麟は許されたのか。

摩擦のない人間関係は人間関係といえるか。喧嘩のない学級はどうか。いじめのない学校は果たして本当に人を育てるのか。

指導力不足教員は本当に学校から廃絶した方が良いのか。指導力不足とは相対的なものではないのか。指導力不足教員を100人排除したら、101番目から200番目までが新たな「指導力不足教員」にならないか。

はっきり言おう。「指導力不足教員」を100人排除したら、次はあなたの番だ。そしてぼくの番だ。

物理の問題じゃあるまいし、「摩擦抵抗はないものとする」なんていう理想論で現実を語ってはいけない。そんな理想を求めてはいけない。そんな馬鹿げた理想を追ってはいけない。 

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アナグラム

バモイドオキ神=バイオモドキの神=バイオ(生命)+もどき(似て非なるもの)+神=「透明な存在」を司る神

よく練られたネーミングである。こういう発想はぼくからは出てこない。お見事!

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つながった

今日、大澤真幸の「現実への逃避」と宇野常寛の「決断主義のゼロ年代」がぼくの中でつながった。「バトルロワイヤル」も「デス・ノート」も「リアル鬼ごっこ」も、すべて「現実への逃避」の兆候だったのだ。

「引きこもり」や「心理主義化社会」に代表される90年代な心理学的なものから、「友だち地獄」や「データベース社会」に代表される2000年前後の社会学的なものへと移行してきたぼくの思考。でもそれはあくまで過去のものだった。それがわかっていながらもしがみついていた。でも、いよいよ、近未来の教育像がおぼろげながら見えてきそうだ。

もう少し熟成させる必要があるけれど、あと数歩である。そんな予感がする。あと数歩で霧が晴れる。視界が開ける。もう一つだ。もう一つだけきっかけがあれば一気に跳べる。彼岸にわたれる。

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