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醜女信仰と純粋信仰

井上章一『美人論』(朝日文芸文庫/1995.12)によれば、修身教育は醜女賞賛・美人排斥の論理を抱いていたという。例えば、「中等教科・明治女大学」(1906)には「美人は往往、気驕り心緩みて、却って、人間高尚の徳を失ふに至るものなきにあらず……之に反して、醜女には、従順・謙遜・勤勉等、種種の才徳生じ易き傾あり。」とあり、「新定教科・女子修身書」(1911)には「容貌の美なるは幸なり。されど、其の美は、往々にして虚栄心を挑発し、彼の牛乳の樋を頭上より取落したる、イソップ童話中の少女に類する者なきを保し難し。容貌の醜なるも生来なり。されどそれは償ひ得て余あるべきものなり。」とあったという(以上10頁)。

井上はこれを受けて、「美人はダメだ。だけど、不美人には脈がある。こんな話を、教師が道徳と称して、生徒たちにおしえるわけがない」と、現代の学校ならあり得ない話と驚いてみせるが、実はこれに類する話なら現在の学校にもいくらでもある。さすがに美人・不美人、美男・醜男によって分け隔てるということはないかもしれないが、例えば、「いい大学を出たやつは勉強ばかりして青春期を過ごしたので、性格がひん曲がっている」などという悪口はその代表格である。いまだって、政治家や官僚に対する批判の根にはこの発想があるはずだし、つい最近まで「勉強ばかりできたって仕方ない。勉強ばかりしていると性格が悪くなるぞ。」と言葉にしていた教師がわんさといたではないか。いや、現実を言えば、いまだってかなりの率でいる。

美人は性格が悪く、醜女の性格には脈がある。成績のいい者は性格が悪く、成績の悪い者の性格には脈がある。言うまでもなく、この二つは同じ論理だ。当時の美人にしても、現在の秀才にしても、それを「もたぬ者」からのねたみ、そねみから社会にそのような空気が形成されたのである。当時は教科書に載り、現在は教科書に載らないのは、メディアのマス度の違いである。現在は、おそらくは当時の修身教科書よりも大きな影響力をもつであろうテレビが、毎日のようにこの発想でものを言い続けているではないか。こういうのをぼくは「ルサンチマン・ネットワーク」と呼んでいる。

さて、ぼくは1966年生まれであるが、「頭のいいやつは性格が悪い」という言説はまったく信じていない。しかし、美人・不美人の修身の言説には少々思うところがある。ぼくが子どもの頃、子どもの頃といっても高校時代くらいだったと思うが、妹の少女漫画をよく読んでいた。ぼくは子どもの頃からあまり漫画を買わない質だったので、せいぜい自分で買った漫画は江口寿史くらい。ぼくの読む漫画の9割は「なかよしコミックス」とか「マーガレットコミックス」とかで、そこに描かれているのはみな、クラスいちモテる男の子や学校いちモテる先輩に憧れる、平凡で目立たぬ女の子のシンデレラストーリーだった。そこには美人だが性格の悪いライバルの女の子が描かれ、必ず最後は憧れの王子様が人知れず主人公の平凡で目立たぬ女の子に想いを寄せていたことがわかり、主人公の女の子が涙を流しながらハッピー・エンド。そんなストーリーばかりだった。おそらく修身教育の美人排斥・醜女賞賛の空気は、80年代の半ば頃までは生きていたのではなかったか。

いまでもぼくの中には、醜女の純粋さを信ずる心持ちがどこかにある。そしてこの心持ちは、1980年頃までの日本人の共通感覚であったように思うのだ。

例えば、ぼくは子どもの頃から研ナオコが好きだった。しかし、この研ナオコという歌手、かなり特殊な芸能人である。顔がETだとかなんだとかよく言われるが、悪いのは顔だけではない。ボーカリストとしても、研ナオコは最低である。まず、音域が著しく狭い。ちょっと高音を伸ばそうとするとすぐに苦しい声になる。ファルセットもない。「夏をあきらめて」の苦しさを想い出せばすぐに理解できるはずだ。つまり、和田アキコがものすごい音域とパンチのあるボーカルで聴衆を納得させるのとは大違い。歌手としてもダメなのである。そんな研ナオコがなぜ売れたのか。おそらくそれが、美人排斥・醜女賞賛の空気ではなかったかと思うのだ。

研ナオコといえば、まず一番に思い浮かぶのが「LA-LA-LA」である。「遠い昔はこんなあたしでもあいつの話は信じ込んだ。そのお返しにあいつは愛を信じるなと教え込んだ。」というフレーズ。例えば「あばよ」。「何もあの人だけが世界中でいちばんやさしい人だとかぎるわけじゃあるまいし、たとえば隣の町ならば隣なりにやさしい男はいくらでもいるもんさ。」とか「明日も今日も留守なんて見えすく手口使われるほど嫌われたならしょうがない。笑ってあばよと気取ってみるさ。泣かないで泣かないで私の恋心。あの人はあの人はお前に似合わない」とかいうフレーズ。更には「かもめはかもめ」の「かもめはかもめ 孔雀や鳩や ましてや女にはなれない あなたの望む素直な女にははじめからなれない」とか「かもめはかもめ ひとりで空をゆくのがお似合い」とかいったフレーズ。「窓ガラス」の「あの人の友達がすまなそうに話す。あいつから見せられた彼女というのがつまらない女でとつらそうに話す。知ってるよとあたしは笑ってみせる。それよりも雨雲が気にかかるふりで、あたしは窓のガラスで涙とめる。ふられてもふられても仕方ないけれど、そんなに嫌わなくていいじゃないの。」というフレーズ。すべて醜女と純粋とをマッチングさせたフレーズである。

言うまでもなく、これらの曲はすべて中島みゆきの曲である。研ナオコのルックスと中島みゆきの感性のコラボレイトが当時の時代の空気に合致していたのだと思われてならない。研ナオコはいまなら、きっと売れない。

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