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仲良く、楽しそうにしている大人が身近にいること

野中さんが今日のブログで次のように述べている。

「教師としての力量をつけるとは、授業の力量も学級経営の力量も必要だが、最も必要なのは、このような小さなことに眼を向けることができる視線だ、と思ってしまうのである。/神は、いつも細部に宿り給う。」

これは野中さんが小学校1年生の学級を訪問した折、先生の指示を待たずに子ども達が体操着に着替えていたというのに、担任がそれを褒めなかった、小さな、細かなことを見つけて褒めてあげれば1年生は集団として育つのに……、教師には小さな、細かなことを見つける眼が何よりも必要だ、概ねこうした論理によって導き出された結論である。

なるほどその通りである。

ただ同じ文章の中に、次のようにあったことがぼくの中で引っかかった。

「今、集団としてきちんと成立してくるのは、実は、高学年ではなく、3年生までの低、中学年であると思っている。」

言いたいことはわかる。しかし、中学校教員であるぼくは、これを認めるわけにはいかない(笑)。「今、集団としてきちんと成立してくるの」が3年生までだということは、高学年はなかなか「集団としてきちんと成立して」こないということである。そこからもっと広げれていけば、中学生は絶望的ということになってしまうではないか(笑)。

中学校の側から野中さんの意見に補足するなら、こういうことになる。中学校の教師にとっても「最も必要な」ものは「授業の力量」でも「学級経営の力量」でもない。それは小学校教師と同じである。しかし、中学校教師にとって「最も必要な」ものは、実は「小さなことに眼を向けることができる視線」でもないのである。

中学校では、授業が特別にうまいわけでもなく、学級経営について特に勉強しているわけでもない、そんな教師がなぜか「いい集団」をつくっている場合がある。例えば、部活動を全国大会に連れて行くような教師は、学級経営で特別何かをしなくても、いや、むしろほったらかしにしているのに、なぜかいい学級をつくり、いい集団をつくっていることが多い。

では、この教師は部活を強くしたという実績が生徒達に認められているから、いい学級がつくれるのだろうか。

決してそうではない。こうした教師は「自信にあふれた態度」で生徒達の前に立つ。朝も昼も夕方も、自信に満ちあふれた表情で生徒の前に立つ。それも、毎日毎日、その表情を崩すことなく生徒の前に立ち続ける。背筋を伸ばし、胸を張り、生徒にその姿を示し続ける。これが思春期の子ども達に無意識的に「モデル」として機能する。「誇り」の何たるかを子ども達に無意識裡に学ばせる。自信にあふれ、人生を楽しみ、他人に影響されない、簡単に言えば「ぶれない」、そういう姿勢である。

いま部活教師の例を挙げたが、そんな豪快なタイプの教師でなくてかまわない。「ぶれない自信を糧に自らの人生を楽しむ」、その姿さえもっていれば、老若男女、そういう教師が「いい学級」をつくり、「いい集団」をつくる。叱ったり、怒鳴ったり、そんなことさえほとんどいらない。それが中学校である。

この傾向は中1も中3も変わらない。中学生は「あの子が褒められている。じゃあ、私も…」となるほど単純ではない。そんな精神的調教のようなものには乗ってこない。おそらく、小学校高学年においても事情は似ていて、野中さんの言うような「神は細部に宿り給う」をストレートに展開した学級経営では「集団としてきちんと成立して」こないのである。

野中さんの言う低学年的手立てと、私のいう中学校的手立ての分岐点といおうか、結節点といおうか、そういう重層的な時期が高学年のどこかにあるのではないか。おそらくそういうことなのだ。

私の印象を言おう。小学校高学年の担任教師達は、①きれい事を並べ、②精神的に余裕がなく、③細かいことにまでいちいち口を出し、④時にヒステリックに説教し、⑤遊び心をもたない、こうした要素を二つから三つ程度具えている、そういう人が多い。子ども達の毒舌的ジョークに眉をひそめ、きれい事をいわない子どもを嫌い、自分のいうことを聞く子どもを「リーダー性がある」と勘違いする、そういう人が集団に隙間風を吹かせる。私が勝手に言っているのではない。すべて子ども達が言っていることである。もちろん子ども達のいうことだから、誇張もあるだろう。しかし、こういうふうに捉えている子がいるということは意識した方がいい。

「ぶれない自信を糧に自らの人生を楽しむ」

この姿勢をもたない教師が、いくら子どもを褒めてみても、それは空中を浮遊するだけなのだ。反対にこの姿勢をもっている教師のちょっとした褒め言葉は、本人が何も期待していないときでさえ、言葉が勝手に機能していく。細かな配慮さえ「自信に満ちた、楽しむ教師」にしか機能させ得ない、そうでない教師の配慮は「偽善」と解される、それが中学校なのである。

私は20年近い中学校教師生活において、担任の仕事は「ぶれない自信を糧に自らの人生を楽しむこと」、学年主任の仕事は「学年教師がいつも笑い合っている姿を生徒達に見せ続けること」、学校長の仕事は「学校の全職員がいつも笑い合っている姿を生徒達に見せ続けること」、こう考えるに至った。私がここ数年、「チーム力」を力説するのもこの意味においてである。決して細かく役割分担を決めて機能させようなどということを言いたいわけではない。

「仲良く、楽しそうにしている大人が身近にいること」

これにまさる高い教育効果はない。

これを親が示し続けられたら最もいいわけだが、このご時世では少々難しいようだ。離婚が増えているとか、母子・父子家庭が多いといったような話ではない。現代社会の構図に家庭で疲れを見せずに楽しげな表情で過ごすことが難しくなってきている、という意味である。

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コメント

>>「仲良く、楽しそうにしている大人が身近にいること」

私もこの部分に同意します。
ですが、この問題は結構根が深いと思っています。というのは、

1)仲良く、楽しそうにしている
2)大人が
3)身近にいる

という要素に分けた時、2)が決定的に厳しいと思われるのです。ここが私の最大の関心事です。

投稿: 池田修 | 2009年1月31日 (土) 12時42分

ぼくはこれをそんなに難しいことだと捉えていないんですね。少なくとも中学校の学校現場では。学年団が仲が悪い、チームが機能しない、そういう学年にぼくは所属したことがない。常に生徒をいじり、生徒にいじられながら、教師が互いにいじり合いながら、10分休みや昼休みを巡視を兼ねて過ごす、そういう学年集団にしか所属したことがない。ただ、最近、中学校学級経営セミナーを始めて、いろいろな中学校教師と接するようになり、こういう学年団自体が希少価値のようだということがわかってきました。でも、ぼくに言わせれば、教師団がお互いの長所・短所を理解し認め合って、自分の得意技で補い合えば、お互いに頼り合い信頼し合い、自然に笑顔のあふれる学年団になっていくということに過ぎなくて、そんなに難しいことではないんですけどね。

投稿: 堀裕嗣 | 2009年1月31日 (土) 13時00分

そうですか。

私は学年団の重要性は十分理解しているつもりですが、ここが厳しいなあと思ったことは、半分とまでは言わないですがイメージとしてはそんな感じですね。

さらに、若い教師が大人の自覚があるか、また教師ではない人で大人が少なくなっているんじゃないかなあと思う訳です。

投稿: 池田修 | 2009年1月31日 (土) 17時28分

学年団はねえ、学年主任がいつも笑っていることが必要ですね。力量なんてなくてもいい。ただ笑っていて、のんべえで、自分の学年の若手を居酒屋に連れて行ってかわいがる。ぼくが新卒のときの学年主任がそんな人でしたねえ。学年所属の力量の高い先生方が、あの人いい人だからがんばるか…となってましたね。
学校外の大人については、実は、保護者も含めて、ぼくの話では想定されていません。あくまでも教師が「身近な大人として」という意味で書いた文章です。社会の大人や保護者を変えることは、自分の仕事ではないとぼくは思っています。だから、保護者にも厳しいことを言ったことはありません。「いいんですよ、できる範囲でやってください。学校のことは学校でやりますから。」っていうスタンスですね。だって無理ですもん。みんなそれぞれに事情もあり、歴史もあるんですから。

投稿: 堀裕嗣 | 2009年1月31日 (土) 21時29分

中学2年の頃、いつもオロオロする年配の先生が担任でした。授業のジャマをする生徒の対応で毎時間の授業が終わり常にどうなるかと不安がありました。それを考えると、やはりピシャッ!とした先生の授業のときはそういうことがありませんでした。先生もやはり人間、悩んだり、困ったりはあるはず。というのは今になって分かりますが、中学生の頃は、そんなこと思いもしませんでしたね。もっと昔の中学生なら先生に対する生徒の考えも違ったでしょうね。(人にもよりますが…)今の子どもたちは、先生に対してどういうイメージを持って学校生活を送っているのでしょう。数十年前の中学時代を思い出しながら、考えています。

投稿: 編集部.K | 2009年2月 5日 (木) 08時56分

はじめまして。
突然失礼します。
友達のブログのリンクからお邪魔しました。

私は小学校教員です。
担任は高学年が多い(今年度は6年生)ですが、

小学校高学年の担任教師たちの特徴…を読んで
おっしゃる通り…と反省しています(笑)。

ただ、
「ぶれない自信を糧に自らの人生を楽しむ」
は、まさに共感する部分です。

まず大人が(教師が)人生を楽しんでいなければ、子どもたちは将来大人になることに希望を持てない、とも思っています。

非常に興味深く読ませていただきました。
ありがとうございました。

投稿: 地理屋 | 2009年2月16日 (月) 23時33分

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2月1日 今日は、私が担任する子どもたちの多くが自分に挑戦する日。 「がんばれー」と、一人ひとりの名前を言って、久しぶりに顔を出した太陽に向かって祈りました。 実務的な淡々としたできごとに追われる週末。そしてそれに命を吹き込むのは子どもたちです。どんな息を吹き込んでくれるのかを楽しみに、そしてきちんとサポートできるように考えたていました。 今日読んだブログ「雄弁は銀・沈黙は金」にこんな言葉がありました。やや、長いのですが引用させて頂きます。 ******************** 「今、集団... [続きを読む]

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