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国語を語る。人とかかわる。

日文協のN先生からお手紙をいただいた。私が「日本文学」(2008年8月号)に書いたN先生への批判に対する反批判である。お手紙によれば、「日本文学」(いつ掲載されるのかを私は知らない)への投稿という形をとるらしい。

一読、「やはり…」と思った。

私は文章による〈生産的な論争〉というものを見たことがない。国語教育界に絞ってみても、「言語教育・文学教育論争」「主観・客観論争」「冬景色論争」「出口論争」「西郷・大森論争」などなど、私が参考にしてきた論争は多々あるけれど、それを追って読んでいくと、結局はお互いに罵詈雑言の嵐・雨霰となって雲散霧消していく。読後は後味の悪さだけが残る。そういうものばかりだった。結果、「論争とは不毛の代名詞である」とさえ考えるに至っている。

これが面と向かって、研究会でやりとりされるのならば少々違ってくる。それも「ことのは」が好んで行うような一日中とか二泊三日でというような研究会の場ならばである。このくらい時間があれば、双方のやりとりも何度も往復させることができ、しかも相手の顔を見ながら気を遣いながら語ることができ、更にはコンテクストを共有しながら語り合うことができる。こういう場ならば、ある程度、生産性のあるものになる可能性がある。事実、昨日までの「研究集団ことのは」合宿において私はずいぶんと田中実先生とやり合ったけれども、たいへん気持ちよく自らの課題を自覚することができ、ゆずれるところとゆずれないところを明確に分けて考えることができた。

ところが、文章での論争ということになるとそうはいかない。よく論争において「人間を批判してはいけない。論を批判せよ。」と言われる。しかしこれは、私には論理矛盾に聞こえる。論争というものは、批判対象のよって立つところ、つまりは論争相手の立つステージを覆さないことには成立し得ない。論文に書かれたことだけを対象に批判しても、それは言葉の細部の揚げ足取りに陥りやすい。そしてそれが相手に腹を立たせ、罵詈雑言の嵐へと向かっていくことになる。しかもものすごい時間と労力をかけてそういうことが行われるようになっていく。しまいにはその生産性のなさに反批判を書くことが面倒になって雲散霧消していく。そういう構造である。

N先生の私への反批判を読んでも同じことを感じた。前半は、私の批判したご自身の実践を擁護するために森有正の言説を持ち出して言い訳をする。後半は、私が論文にもしていない一発表資料に対して「検証」という用語を用いて批判を始める。既に噛み合っていない。

例えば、「しかし、こうした理念を学校教育において、しかも国語科の授業において実現させるとなると、それは至難の業であると言わねばならない。大まかに類推して、最低でも次の10段階が必要である。」という私の言を引用して、「堀は、近代小説の〈読み〉で生徒に『自己倒壊』をおこすために『10段階の技術』を最低習得させねばならないと提案している。」と書く始末である。そして「ここに堀の『〈読み〉のメカニズム』を読み取ることができる」と断罪する。私はN先生に「正気か」と問いたい。私の文章のどこに「技術」と書いてあるのか。私がこの10段階を「技術」であるといつどこで言ったのか。

ちなみに10段階とは以下である。

1)文学作品における「語り手」の存在を認識すること
2)文学作品における登場人物の行動・心象を含めたすべての物語を「語り手」が統括し自己表出している主体であるという認識をもつこと
3)文学作品における「語り手」が具体的登場人物ではなく,物語を統括している機能概念であるという感覚に慣れるとともに体感すること
4)文学作品における「語り手」の機能性において,「語り手」が〈わたしのなかの他者〉と「了解不能の《他者》」とを識別している作品にこそ価値を認めるという感覚に慣れるとともに体感すること
5)文学作品における「語り手」の機能性について,自己の環境に対する適応性に還元して思考することに慣れるとともに体感すること
6)文学作品における「語り手」の機能性を自己に還元して思考し,その体験を触媒として自己倒壊すること
7)文学作品における「語り手」の機能性を触媒として自己倒壊する体験を複数回経ることによって,文学作品の機能性を実感し体感すること
8)文学作品の機能性を実感し体感することによって,自らの「共同性」を倒壊させ「公共性」を目指す人生観を形成すること
9)文学作品の機能性を他者と交流し,「夢の読者共同体」を形成すること
10)「夢の読者共同体」の形成によって,「公共性」を目指す一人格として自らをメタ認知する主体として行動すること

読者諸氏に問いたい。この10段階は「技術」だろうか。すべて「認識」と「機能」ではないだろうか。しかも私は論文ではなく発表資料に「大まかに類推して、最低でも次の10段階が必要である。」と書いたのである。こんな田中理論の具現化の難しさを強調するために10分程度でいい加減につくったものを批判されても困る。私はいいかげんにつくったものであるからこそ、今後更なる検討を必要とするからこそ、論文としてまとめていないのである。更にN先生は私がこの発表の題材とした「オツベルと象」について自分の読みを披瀝され、その発表資料の私の「オツベルと象」授業の批判へと進む。そして最後に、「堀との論点は何か」と題して、N先生なりに整理したつもりになっている。こういう構成である。

この反批判は11頁からなるが、ここには私のフルネームが注も含めておそらく9回(馬鹿馬鹿しくてちゃんと数えていないので自信がない)出てくるが、このすべてが「堀祐嗣」と書かれている。私と直接的な付き合いのある読者はよくご存知のように、私は自他共に認める「小人」である。それくらいは自覚している。しかし、いくら相手が小人でも、批判しようという相手の氏名くらいは正しく表記すべきではないか。私は「堀裕嗣」であって「堀祐嗣」ではない。堀禎祐と堀栄美子の長男として生まれ、両親の愛情を一身に受けて育った「堀裕嗣」である。親父が何日も考え、心身ともにゆたか(裕)なあとつぎ(嗣)になって欲しいと願いを込めた、「堀裕嗣」である。

N先生。あなたには国語を語る資格も、人とかかわる資格もない。

おそらくこの文章を読んで気をお遣いになった日文協の先生のうちのどなたかがN先生にこの文章を見せることでありましよう。しかし、N先生。あなたには私への謝罪の手紙を送ろうなどとはお考えにならないようお願い申し上げます。はっきり言って、お互いに時間の浪費。私に腹を立てさせ、私にストレスを与えるだけです。縁がなかったとお思いください。

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